第一章 『ガマンしよう』
とある夏の日。俺は一人放心状態で空を見上げていた。
そこに広がるのは無数の星々――ではなく、今にも雨が降りそうな曇天模様だった。そもそも今は夜ではない。真昼間である。
そんな真昼間から堂々と縁側でゴロゴロする十八歳。絵面的にどうでしょうか。
「どうだも何も、良くはないよなあ……よっこらせっと」
気だるい身体を無理やり起こし、されど何か行動を起こすわけでもなくボーっとする。
最近はこうやって時間の浪費ばかりしている。気づけばいつでもどこでもボーっとして、これぞまさに駄目人間の模範と呼ばれるような、そんな生活。
俺はそれが悪いことだとは思わない。……いや、世間からすれば悪いことなんだっていうのは理解している。
だが世間と俺とでは考え方が違うわけで。……単なる自分擁護ですけれど。
不登校児歴二年と少し。つまり高校入学後すぐに学校に行かなくなった。それに関しては。多少の反省はあるが後悔はしていない。この選択で良かったと思っている。
それを認めない世間のことを悪く言うつもりもない。
人の考え方なんて、それこそ人の数だけ存在する。それらを一つ一つ否定すればキリがない。
要するに何が言いたいかと言うと、
「……アイツが俺をフろうが、アイツは悪くないってこと」
悪いのは全部俺。
度々見せる無防備さから、タツコも俺のことが好きなんじゃね? とか痛々しい勘違いをしたのが事の発端である。
不登校児という社会不適合者のレッテルを背負っているくせに、一丁前に彼女が欲しいだなんて願った結果がこれだ。惨敗。ハッ、鼻で笑えよ。
タツコが無防備なのは昔からだろうに。というかむしろ、昔馴染みだからこそ無防備なのだ。俺を男として見ていないから。
だから、そう。俺の告白を拒否したアイツは何も悪くない。悪くないのだ。
だというのに、
「ああぁぁぁぁ……なんでだよなんでだよ……」
俺は女々しくも、なぜ彼女がフったのかを考え続けていた。挙句の果てには彼女が悪いなどという結論にまで至りかけたため、こんな思考はさっさと捨てるべきだとわかってはいるのだが……。
いや、でもね。あの子も悪いところはあると思うの。いえ、フったことではなくて。
だってさ、普通さ……。
「――よぉーっす、ミキ! 今日は曇ってるねえ!」
ダダダダと足音を鳴らして庭から現れたのは、今しがた頭に浮かんでいた彼女だった。
……ほら、この人ね、俺をフってから毎日遊びに来るんですよ。これちょっとひどくないですかね?
すでに俺の心は折れかけていた。
もしかしたら、今までどおりの関係を保とうという彼女の配慮なのかもしれないが、完全に逆効果である。もう少し距離を置いて、それからゆっくり詰め直したかった。
そんなことでさえ、俺の勝手な都合でしかないのだが。
「にひぃ、今日は何してもらおうかねえ」
「また毎度の如く頼み事ですか? 勘弁して……」
「大丈夫大丈夫。今日のは比較的楽だと思うのよねえ」
「はい?」
人が歩くさまは蟻とは似ても似つかない。
蟻は列を成し、規則正しく移動する。しかし人間はどうだろうか。
列を成しても割り込むことでその列を乱す。そもそも列を成さないことがほとんどで、そのため度々人同士がぶつかる。
そう、たとえば今この瞬間のように。
「……おう、コラ。兄ちゃん何余所見してんだ? コラ」
余所見していたのは完璧にそちらでしょう。何度も『コラ』とか言ってるとダサいぞ。そしてどう見ても兄ちゃんなのはあなたですよね。年上の威厳とか何もあったもんじゃねえ。
そんな文句が次々に浮かんでくるが、もちろん口にすることはない。というかできない。
不登校を重ねて、対人間スキルが著しく低下しているのだ。タツコのような変人相手ならなんとか話せるかもしれないが、こんないかにも恐そうなお兄さん相手に何をどうして話せばいいの?
「ああ? だんまり決め込んでりゃ許されると思ってんじゃねえぞ」
何か喋ったって許してもらえないじゃないですか。
強面アニキの視線は、俺の背後で萎縮するフリをしているタツコへと向けられている。ああ、なるほど。女連れってところが気に食わないのね……。
まあ、タツコ、黙っていればそれなりに良い容姿してるもんなあ。
「いいかげん何か言ったらどうだ? コラ」
この人、『コラ』が口癖なんだろうか。
(……ねえ、ミキ)
(……?)
ふと、背後から小さな声が聞こえた。それに応答するわけにも行かず、俺はただ静かに耳を傾け、
(この人、ぶっ倒しちゃってよねえ!)
「断る!」
あ、思わず大声で答えてしまった。
「……ああ? 断る?」
「あ、いえ、ちが……」
あなたに言ったわけじゃないんですよ?
背中越しに伝わるタツコの震え。コイツ絶対笑っていやがる。
いやまあ、大声出したのは俺なんですけど? タツコは九〇パーセントくらいしか悪くないんですけど?
「ちく、しょう……!」
涙目になりつつ、タツコの手を引いて逃げ出した。
その時の速度はきっと、過去で一番の速さではなかろうか――。
どうにか厳ついお兄さんを撒くことに成功し、気づけば家近くまで退散していたことに気づく。
ようやく我が家だ、と安心し、普段動かさない身体を無理やり動かしたことによる疲労を回復させようと呼吸を荒くさせる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
「あーあ、ミキってばみっともねえ」
誰のせいだこのやろう。
こんなことになったのも、元はといえばタツコの変なお願いのせいではないか。
俺が傷心(笑)なときにいきなり押しかけてきて、『買い物付き合って?』とか言い出すから。だから俺が街に出ることになって、あんな恐いお兄さんに因縁を吹っかけられたのだ。
……別にタツコが悪いわけじゃなかったな、うん。
「でも助かった、かな? 最近あの人、私が街に出ると結構な確率で出くわすからねえ。今回ミキを連れてきて正解だった」
「訂正、お前こうなることわかってて連れて行きやがったのかよぉおおおゲホッ、ガフッ」
「ほーら、疲れてるのにいきなり大声出すから。……大声といえば、あの場面でいきなり大声出すなんて何考えてるの? タイミングが秀逸すぎて笑っちゃったよねえ」
カラカラと笑って、彼女は「じゃあまた明日ー」と去って行きやがった。つまりまた明日、何かしらのお願いをされるわけだ。
そのお願いを断れば良いだけの話……なのだが、断れば、この暑い季節にべたべたと引っ付いてくるのだ。好きな女の子にそういうことをされるというのも非常に心臓に悪い。そんなわけで、俺は成すがまま、彼女の言うことに従うのである。……ああ、なんと情けねえ。
でもまあ、こんな関係も悪くないかもしれない。だなんて、思ってしまうのである。
彼女からのお願い自体は随分と前からされることが多々あった。ただ、最近になって……具体的に言えば、俺が彼女に告白してからは毎日だ。
正直、辛くもある。泣きたくもなる。彼女からすれば、俺はパシリ程度の存在なのかと。
しかし、だからといって彼女と距離を置けるはずがなかったのである。ずっと一緒にいたんだし。やはり、どんな理由であれ彼女と共に時間を過ごしたい。
そう思うからこそ、告白なんぞに踏み切ったわけで。
……小難しいことを考えるのは苦手でござる。シャワー浴びて寝よう。
「……あれ?」
ふと思い出した。
そういえば、
「…………」
気になり、タツコの家に向かう。簡素な呼び鈴を鳴らし、中から出てきたタツコの母親と面会。
「あら、どうしたのみーちゃ……凄い汗。運動でもしたの? シャワー使う?」
「いや、シャワーは俺ん家にもありますって……そうじゃない。あの、タツコっています?」
「え? タツなら、なんか『結局忘れた』って言ってまた出かけたけれど……」
「ありがとうございます!」
今でも群集というものは苦手だ。規則性の無い乱雑な動きで人の視界を掻き乱す人間とは、かくも有害な生き物である。
そんなことを言いつつ、自分もその人間の一人なのだと嘆息する。
茹だるような暑さを受け、思考すらも茹だっているのかもしれない。なにせ、ついつい頼もしくて、もとい楽しくて本来の目的を忘れていたのだから。
「…………」
元々体力はない。できればさっさと涼しい店内に入って、身体に悪いエアコンの風を浴びおじさんっぽく『ふぃ~』とか言いたい。
しかしまだ駄目だ。懲りずにあの存在が付きまとっているから。
今でも群集というものは苦手だ。しかし、今この場においてはかなり役立っていることを認めざるを得ない。有象無象の人間は、姿を隠すのに適している。
それでも苦手なものは苦手。今も呼吸が浅くなっていき、段々と意識が朦朧としてきている。それは日射のせいか、人間が吐く二酸化炭素のせいか。はたまた、――あの日を思い出すからか。
いっそのことここで倒れてしまおうか。そうすれば誰かが助けてくれなくとも、野次馬はできるだろう。それによって、近づけなくするか……いや、これでは『自分が保護者です』などと名乗り出て連れられてしまうのではないだろうか。
あは、何が聡明。これしきのことでぱぱっと解を導き出せない矮小な存在の分際で。
なんたって今日はこんなに暑いのか。……そうか、朝は曇っていたし、湿度が高いことが原因なのだろう。
本当に、何もかもあの日と同じ。
ああ、もう駄目――。
パタリと、人ごみの中で一人倒れた。
タツコは今日、洋服を買いに行くつもりでいた。最初はその荷物持ちでもやらされるのかと思っていたが、どうやら俺は人除けに使われたらしい。
いや、そんなことはどうでもいい。過ぎたことだ。
だが、唯一つ、過ぎたことではないものがある。
つまり、本来の目的である洋服の購入。
それが目的だったのに、それが果たされていない。タツコはもう一度洋服を買いに街へと繰り出すのではないだろうか。それを確かめるためにタツコの家に行ったら案の定、再度出かけたと言う。
普段なら「あ、やっぱりそうか」で済む。しかしさっきの今だ。あの男がタツコに付きまとっている可能性を考えれば、次も出くわす可能性が高いのでは?
というかそもそもあの男はいったいなんなのだ。ストーカーか。であればタツコの家周辺も危ない。早く、タツコの元へ――。
と、急ぎ飛び出して、すでにタツコが利用するであろう洋服店の近くにまで来てしまった。今日はよく走る日である。
「くそ、どこにいやがんだ……」
タツコは元々人ごみが苦手だ。案外、疲れたとか言って洋服も買わずに帰っているのかもしれない。
なんて考えていたら、やけに人が集まっている箇所を見つけた。
……はは、まさか。
嫌な予感がして、野次馬に割り込んで騒ぎの中心に出ると、そこには見知った顔が倒れていた。
――嫌な予感、的中。
「タツコ!」
どうにかして中心に躍り出ようとするが、どうにも人が邪魔だ。そうこうしているうちに、なんと、あの強面の男が「保護者です」だなんて名乗り出やがって「なに、してんだ、てめえ!」と届かない声を張り上げる。
アイツ、保護者を偽ってタツコを連れて行く気か!?
男は野次馬を何食わぬ顔で割っていく。結局中心に出ることが叶わなかった俺は、できうる限り早く野次馬を抜け、タツコを担いでいく男を追う。
「おい、待て……てめ、コラぁ!」
「……ああ?」
街中であるにも関わらず、本日二度目の大声。とはいえ、すでに肺は死んでいるに等しい。大した声量ではない。
届くか心配だったが、その心配はいらなかったらしい。
「はぁ、はぁ……アンタ、ソイツをどうするつもりだよ」
「……テメエ、さっきのか。いったいテメエはこの子の何なんだ? 返答次第では病院に行ってもらうぞ」
「それはこっちの台詞だ、変態オヤジ。……これ以上タツコに手ぇ出すってんなら、殴る」
周囲は俺たちを気に留めることもなく、見て見ぬフリをし去っていく。人間のこういうところが苦手で嫌いだと常々思うが、俺だってこんな場面、見て見ぬフリをするし、何より今は助かる。
思わず頭に血が上って啖呵を切ってしまったが、どう考えたって不利なのは俺の方。相手もそれほどガタイがいいわけではないが、雰囲気がすでにヤバい。何この人、ヤクザなの?
――ポタリ。
自然、暑さが原因ではない汗が流れ落ちる。
これは一つの後悔の選択。
これは一つの分岐点。
これは一つの決断。
偉そうな口を聞き、人を使うことに対して容赦がないぐーたら娘。俺は今日、彼女を助けて正当な報酬を貰ってやる。
そう――絶対にだ。
「タツコを置いて失せろよ、変態オヤジ――!」
「上等だ……オレの娘に手を出すってんなら、容赦しねえぞクソガキ――!」
――――――――。
は?
「あっはははは! あはっははははっははっはは!」
俺の背中で、これでもかというほどに笑う女。俺は初めて、本気でコイツを絞めたいと思った。……いやまあ、位置的に絞められるのは俺になりそうなんですけど。
で、隣を歩く変態オヤジ――もといタツコの親父さんは沈んでいた。なんでかと問われれば、タツコが親父さんの背中ではなく、俺の背中が言いとごねた結果である。なんだか少し複雑ですね。
「それにしても……随分と雰囲気変わりましたね」
「ああ……実は転勤先でいろいろとあってな。前のままのオレじゃ舐められるんだそうだ」
そして、そう。この人、本当にタツコの親父さんだった。つい最近、世間が夏休みに突入した頃に帰ってきたらしい。
タツコの親父さんといえば、優しげで爽やかな雰囲気を放つ『THE・できる男』だった。それがどうして、転勤から帰ってきたかと思えばいかにもヤクザな雰囲気を放つ人になってしまったのだろうか。あまり突っ込んだことは聞けないが、まあ、何かしらあったのだろう。
やっぱ働きたくねえなあ……仕事って、こんなに人を変えてしまうんだもの。
「しかし、ミキくんも随分と変わった気がするぞ。まず髪。長すぎやしないか? まったく気づかなかった」
「そろそろ切ろうとは思ってたんですけどね。暑いし鬱陶しいし。でも切るのも面倒くさくて……」
「面倒くさがりなのは変わってないな……」
ちなみに、今日ぶつかった時にやけに因縁を吹っかけてきたのは、知らぬ間にタツコに言い寄る男がいたのかと不安になったからだそうな。過保護すぎると思うんです? まあ髪長いし、チャラ男に見えても仕方ないか。
……さて、親父さんとの誤解の摺り合わせはすんだことだし。そろそろ糾弾と行きましょうか。
「で、タツコさんや。アンタ、相手が自分の父親だとわかっていながらぶっ倒せとか言ったんですか? 人除けとか使ったんですか?」
「だってお父さんキモいし。娘が出かける度にコソコソついてくるのとかどう思う? ねえ?」
「……ごめんなさい、親父さん。さすがに俺でも引きました」
「娘を心配する親の何が変なんだ!? どこに引いたんだ!?」
タツコはすかさず、
「全部」
俺はフォローするつもりで、
「……行動力?」
しかしどちらも親父さんを傷つける結果にしかならなかったようで、「ちくしょぉおおおお!」と泣きながら先に帰ってしまった。あの面白さは変わってないなあ……。
で、タツコはといえば、
「あ、あのアイス食べたい。買ってきてよ。……ミキってば、ねえ!」
「あーうるさいうるさい。耳元できゃんきゃん騒ぐな! お前俺より年上なんだから、たまには俺に奢ってくれてもいいんじゃないですかねえ!」
とある夏の日。
またいつものように、わがままで横暴で、されど憎めない幼馴染であり続ける。
そんな彼女を見て、――楽しそうな彼女を見て、俺は。
こんな毎日が続くのなら、多少のワガママも我慢しよう、だなんて思うのだった。
次の投稿は明日です。……明日できるといいなあ。