聖夜の夜に思うこと
「私、最近ようやく思えるようになったんです。 希望なんて無くても変わらずに世界は綺麗で、私もその一員になれるって」
10年前のいつだったか、一緒に図書室を出たところで外の風景を見ていた彼女が言った。
彼女、といっても別に恋仲だったわけじゃない、10年前の何時かの片鱗、その片隅の中に薄く刻まれただけの思い出の一つ。
放課後いつも図書室で本を読んでいた彼女に偶然話しかけたその日から、卒業式迄のごく短い期間を友達として過ごした、というだけの思い出。
10年後の今、僕は就職活動をしなきゃならないというのに公衆便所の薄汚い洋式トイレにカフェイン錠を握りしめたままそんな事を思い出していた。
脇の台座に置いた鞄の中には数店廻って手に入れた9箱の錠剤が僅かに頭を見せて使われる事を待っている。
死にたいと思った事は無いけれど、かといって生きていく意味も喜びもとんと感じられないのでこうして1週間近く心の振り子が生き死にの、そのどちらかに触れるのを待っているという具合だった。
そんな退屈な事をしている内に、うつらうつらとうたた寝してしまったのか件の夢、というか記憶を思い出してしまったのだ。
あの時の彼女は今の僕と同じで、何か鬱屈した、言うなればぶよぶよした膜の中に自らどっぷり浸かっているかのようだった。
事実話しかけるまでは大人しくて控えめな子だと思っていたのだけれど、話してみれば多少メルへンな脳みそをしていること以外は教室で流行りの服について話す他の女生徒達と至って変わらない普通の子だったのだ。
つまり、あの子は誰かとの繋がりを切望していたってことなんだろう。
彼女の思いはそうだとして、結局学校の連中は彼女を人付き合いの輪の中に入れる事は無かった。
いや、弾こうとも入れようともしなかったというのが正しい。 そこにあるのは無関心だけだったのだ。
そこまで思い出して、僕は痛くなった尻を庇うように少し姿勢をズラした。
目の前の壁には雑多な落書きばかりが書き殴られている、姿勢を変えた拍子に壁の端っこに「助けて」と小さく書いてあったのを見つけた。
恐らく、自分と同じように何かを抱えてここへと逃げ込んで、そして誰にも言えない思いの丈をぶつけたんだろう、元は綺麗な字を書く人だったようで、その字は細かく震えていたけれどバランスは取れていて好感が持てる。
僕はそんなどうでもいい考えを――何を考えようと結局どうでもよかったのだけれど――中断してもう一度自分の中へと入り込もうと便座の上に丸くなった。
今の僕は、何で目の前の事すらも無関心でいられるようになったんだろう?
大学の人付き合いに疲れた? 失恋? 就職活動で感じる社会からの冷たい目線? 不安? 家族...
漠然と考えても答えは出ない。 だから、全てが原因なんだと無理矢理決めた。
「迷惑さえ掛けなければやりたいことをやればいい」
父母の言葉は、応援ではなく無関心だ。
そう言われた日から、僕はこの公衆便所でひたすらやりたい事が出来るまで待っている。 それが、自分の生き死にを決める振り子だった。
何も無いならすぐにでも死ねる、だからこそクリスマスくらいまでは生きていてもいいかなと思ってぐだぐだしている内に一週間もここにいる。
「もうすぐクリスマスじゃないですか。 まぁ私にはクリスマスなんてどうでもいいんですけど、もし良かったら一緒に...」
…一緒に…何を一緒に?
一度思い出せば、なんだかんだ女の子と一緒に過ごした記憶は忘れ難いもののようでソレは記憶の棚をめちゃめちゃにひっくり返すよりも早く見つかった。
タイムカプセル。
馬鹿馬鹿しいったらありゃしないが、それでも僕と彼女はソレを埋めた。
僕は未来の自分への手紙と、当時好きだった物を思い返す為のリスト。 彼女は幾つかの、未来の自分へ読ませたいという本と、何かを書いた紙だった。
聞いても教えてくれなかったし、当時は知らずにいることが紳士だと思っていたから敢えて見なかったのだ。 当時の僕は、それが10年後に思い出すきっかけになるとも思っていたし。
僕はハッとして、腕時計を覗き込んだ。
10年後の12月25日。 クリスマス...。
生き死にの振り子は相変わらず真ん中をふらふらしていたけれど、僕は握っていたカフェインを鞄に投げ入れて7時間も居たトイレをようやく出た。
それでも相変わらず、世界は無関心に満ちている。
トイレから歩いて10分くらいのビルとビルの合間、その街路樹の中に僕達はタイムカプセルを埋めた。
10年前よりも全体は小綺麗になって人通りも多くはなっていたものの、街行く人々は相変わらずクリスマスを祝う人の笑顔ばかりだ。
あの時の僕、いや僕等はこの雰囲気に馴染んでいたかは分からないけれど、今無言で街路樹の僅かな土くれに小さなスコップを突き立てる僕に、冷ややかな視線が突き刺さるのを感じる。
このスコップを買った時も、店員の愛想がいいのは最初だけで会計の間も陰鬱な顔をしている僕を心底嫌悪したかのように二度も目を合わせようとはしなかった。
今の僕の立ち位置はこんなもんだ。 恐らく、何かが変わらなければ大体いつもこんな感じになるだろう。
それでも、僕はもう他人を気にしてはいなかった。 生死の振り子が死へ振り切れても後ろ髪を引かれなくてもいいように、この些細な興味をさっさと消費してしまおう。
そうは思っても僕の冷え切った手が握るスコップは相変わらずタイムカプセルにぶつかるわけでもなく、しけったコーヒーパウダーでコンクリートに小さな山を作るだけの単純動作をひたすら繰り返すだけだった。
「君、そこで何をしているんだ。 街路樹を掘ってはダメだよ」
自分と同じ歳か、それより少し上くらいに見える若い警備員が困ったような顔をして立っていた。
「…すいません」
余計な要素、ではあったものの事情を説明する程のものでもないし、止められるようならそれでも良かった。
どうせ、日付が変わる頃にはあの公衆便所に入ってカフェイン錠を一気にあおるぐらいしか自分の人生には予定が経っていないのだから。
死ぬ前にこの警備員のことをことさらに酷く書いて迷惑を掛けてやろう。 さっきまで遺書なんて書く気は無かったけれどそんなことを思いながら僕はスコップを街路樹の傍へと放り出した。
歩き去ろうと踵を返した時に、若い警備員ははっきりした声で、誰かの名前を呼びかけてた。
誰か、というよりは自分だった。 勿論僕はこの警備員を知らないのだけれど。
警備員が困ったようにはにかむ。 ついで、もう一度僕の名前を呼びかける。
それでも尚何も言わない僕を見て、警備員は戸惑ったように「あれ…別人なのかな」と呟いた。
「何か御用ですか?」
僕の声は、若い警備員のソレと比べると蚊の鳴き声のような、覇気もクソもないものだったろう。
昔はどうだったかは知らないけれど。
「ええ、でもひとまず、防災センターへいらっしゃいませんか?」
そう言って警備員は周りを見渡してから大げさに寒がって見せた。 実際、コートも着ずに紺色の制服だけのその姿は、ビックリするほどこの通りの景色に馴染まない。
それでもにっこりと笑う警備員は、僕と比べれば遥かにこの状況を楽しんでいるようだった。
初めて入る防災センターの中は不思議な機材と監視カメラが壁に所狭しと嵌め込まれていた。
荘厳、とはとても言えなかったけれど。
壁の色は白一色で向かい合わせになった事務用の机と、就職活動でよくお世話になった応対用の小さなテーブル。
入り口から見える光景はそれくらいで、残りは他人の目に入らないようにあえて大きなブラインドが引き出されて置いてあった、その上にはカレンダーや拾得物の案内などというポスターで不自然さを打ち消そうという無駄な努力がしてある。
若い警備員に案内された応接間に入る前、監視カメラを眺めていた年配の警備員がこちらを見つめるのに気づいた。
無関心、というよりは冷たく、厳しく感じるような目。
場違いだ。 と直接言われているような気がして、僕は何故だか逆に安心してしまった。
少ししてから、若い警備員が暖かい缶コーヒーを二人分持ちながら入ってきた。
彼は片方の手に持っていた書類の入った紙袋をテーブルの反対の椅子へと置いてから、丁度僕と対角線に位置するようにその隣へと座った。
「クリスマスだっていうのに、彼女と一緒には来ていないんだね」
「いえ、そんな人いないですから」
何を悟ったのか若い警備員も寂しそうに頷くと、片方の缶コーヒーを僕の机へと置いてから、自分の分のプルタブを開けた。
カシュン、という音を共に美味そうにコーヒーを飲む姿がやけに馴染んで見えた。 きっと、同じような動作を日々の生活の中でずっと無意識に繰り返してきたのだろう。
「さて、本題にはいろっか、何を探してたの?」
「これって取調べかなんかですか?」
僕の口答えを警備員は笑って誤魔化した。
「いいや、警備員は警察に似たような事は何もできないからね、あくまで私的な質問と思って答えてくれないかな」
「タイムカプセルです、10年前の」
彼は不敵な笑みを浮かべてから、書類の束の中を漁り始めていた。
大人を困らせる計画が全て望んだ通りに進行した子供のように、目が輝いているように見える。 きっと、本当に楽しいんだろうと思った。
「もったいぶって悪かったね。 君の…君のというか君達のタイムカプセルは6年前にウチの管財さんが見つけてね。 ちょっと申し訳なかったけどアレ、掘り起こしたんだ」
「…どうなったんですか?」
「ああいうのって、すぐ警察に届けるか一定期間保管したら処分しないといけないんだけどね、君達が掘り出すまでは当時まだ6年もあったわけだから結局僕等が保管しちゃったのよ。 勿論、内緒だけどね」
そう言って、若い警備員は紙袋の中から茶色く変色したお茶缶、もといタイムカプセルを骨董品を扱うかのように静かに机の上に置いた。
"君達が"と若い警備員が言ったのを僕はあえて訂正するようなことはしなかった。
確かに、"僕"でなく"僕達"でいれれば良かったのにと思う。
相変わらず小声で頭を下げる僕に向かって、若い警備員は外を気にしてから囁くように言った。
「さっき監視カメラ見てた人いたでしょ、あの人が保管しとけって言ったんだよ。 しかも埋めた人はここにタイムカプセルがあるなんて知らないんだぞって、今日なんて出勤してからずっーとカメラで君達が探しに来るの待ってたわけだからね」
「…迷惑になる場所に埋めてすみませんでした」
「意外とセンチな人だからねぇ、ホント、人って分からないよね」
ビルの防災センターを出た時も、外の世界は何一つ変わっていないように見えた。
あそこを出るとき、もう一度あの年配の警備員を見ようと思ったのだけれど、彼は結局何処かに行ってしまったようでもう会うことはできなかった。
本当に、あの人の目は無関心で、冷たい目をしていただろうか。
もっとも、それを確かめる為に再びあの場所へ戻るなど到底する気になれないし、かといって他に行く宛もない。
あの公衆トイレに戻るには今は少しだけ、楽しすぎるのだ。
結局、僕は10年前の日をなぞるように、タイムカプセルを埋めた後に来た近くの山の高台へと足を運んでいた。
運動不足と不摂生が祟ったのだろうか、昔は苦にもならない程の道程ですら二度休憩する事になったのには自分でも苦笑せざるを得なかったけれど。
山の高台、といっても町からそう離れているわけでもないし、大抵は雰囲気を楽しみたいようなカップルが町から離れてイチャつこうとやってくるのだけれど、今日は運がいいのか高台には誰一人としていなかった。
好都合ではあるのだけれど、ただ…吹き付けてくる風が肌に痛い。
僕は高台に一つだけのベンチに腰掛けてようやく、タイムカプセルの中身を一つ一つ取り出しては再び戻していく。
この一つ一つが、10年前から時を止めたまま再び僕と彼女の手に戻るのを待っていたと思うと、何故だか懐かしいような、それでいて痛みにも似たような感覚が心臓あたりをムズムズとせっついているようだった。
最初に開いたのは、10年前の自分が今の自分へと書いた手紙だった。
内容は、当たり障りのない勉強はちゃんとしているかだとか中学の友達は大事にしろとか毒にも薬にもないようなくだらない事だった。
当時の自分はこんなにつまらない事しか書けない人間だったっけ、もっと上手い事書いていた筈なのに。
寒さで手を口元に当てた時に、知らず知らずの内に少しだけ上がっていた口角を元の位置へと戻した。
他にも取り留めのない文章ばかりが続いていたけれど、その最後の部分には雰囲気を変えるように"最後に大事な質問を書いておく"なんていう到底僕には似合わないようなかっこつけた文章があるもんだから、僕は誰にも聞かれないように笑いを堪える羽目になった。
まぁ、近くには誰もいないのだけれど。
その質問はわざと手紙の最後の部分に連なるように書いてあったようで、肝心の質問の部分は2ページ目を開かないと分からないようになっていた。
そこまで洒落た仕掛けではないし、しかも質問の内容も分かっているけれど。
僕は、まるで目の前で10年前の自分が僕の反応を楽しみに待っている、そんな風に思えてならなかった。
付近には誰もいないから、僕は目の前の、でも存在しなくなった自分に対してこう言ってみた。
「結局、ダメだったのは見て分かるだろうに」
「いいからさ、開きなよ」
ゆっくり開いた手紙の2ページ目には、彼女にバレないようにわざと小さく、小さくして書いた文字が並んでいた。
『10年後、一緒にタイムカプセルを掘れてるか?』
ここには書いていないけれど、10年後まだ同じ気持ちだったなら、その時に告白しようと思っていたんだっけ。
あの時から、人の目が気になって、それが怖くて仕方なかったから。 だから、あの時必要だった決意を10年後に棚上げしたんだろう。
情けないことだけど、あの時の決意は10年後どころか2、3年後には心の奥に封印されてしまったのだ、そして今に到るまでタイムカプセルや彼女の事自体を忘れてしまった。
自分の手紙をタイムカプセルに戻そうと思ったとき、隅の方に可愛らしい縁取りのメモ紙が挟まっていたのを見つけた。
見つけた、というよりはようやくその番が回ってきたというか、タイムカプセルにはもうそれしか取り出すものが無かったから。
それは、10年前彼女が決して僕に見せようとはしなかった手紙だった。
当時は彼女の手に隠れて見えなかったその表紙には、彼女の筆跡で僕の名前が記してあった。
あの時二人で決めたのは10年後の自分へ手紙を書くという内容だった筈なのに。
でも僕は、彼女の手紙を開くことはできなかった。
なんというか、今の自分ではこの手紙を開く資質を備えてないと思ったんだ。 というより失ったというべきだろうか。
今読んだとして、彼女がどんな文章をどんな風に書いていたとしても、僕はなんとかして彼女の言葉の中に今の境遇への慰めを見つけ出すのだろう。
丁度、彼女が図書室で誰かの助けを待っていたように、今の僕は10年前の言葉に救いを見出そうとしている。
でも、きっと彼女のこの手紙はそんな僕の為にしたためたわけじゃないのだ。
公衆便所に篭ってカフェインの錠剤を握り締めたまま一日を終えることを肯定するような僕の為に書いた手紙では、断じてない。
そう思ったら、僕はこの手紙を読んだら現実とのギャップで卒倒してそのまま死んでしまうのではないかと若干怖くなった。
少なくとも、罪悪感くらいは持つだろう。
「タイムカプセルを掘り起こしたら、その後パーっとお酒飲みに行きたいですね! 新しくできた友達も沢山連れて、きっと楽しいと思うんです」
果たして今の彼女は、10年前のこの日を覚えているのだろうか。
あの時の言葉通り、どこかで友達と、もしかしたら恋人とあのビル前通りで僕とすれ違ったのかもしれない。
僕は高台の手すりに身を乗り出して、眼下の町に目を凝らしてみた。
町中電飾で綺麗に飾られて、その反面高台の暗闇にいる僕は天から見てもすっかり忘れ去られたような存在なんだろう。
彼女の手紙を握り締めながら思った、今日、日付が変わるまでは彼女を待とう。
そうして、その後は光の中でもう一度過ごしてみよう。
僕自身があの綺麗な世界の一員になるには時間が掛かるかもしれない。
それでもこの手紙を読もうと思えるぐらいまでは生きてみようと思う。
どうしようもない過去を支えに生きていくのもかっこ悪いけど、それでもそれを振り回してやろう。
妥協と鬱屈の中で生きていくことになっても、居酒屋の中でそれを肴にしながら店主を相手に管をまいてやろう。
最悪、親の目の前で死を振り回してやってもいい。 僕は彼女に対して出来たように綺麗に自分を救い出すことはできないかもしれないけれど、それでも過去のこの手紙を笑って朗読できるくらいになってやろう。
「希望なんて無くても相変わらず世界は綺麗で、僕もその一員になれる筈さ」
僕は、誰かに向かってそう叫んだ。
致命的に誤字ってた部分と幾つかの部分を校正しました。
他に見つけたら教えていただけると助かります