「実の母には一度も褒められなかった」と旦那様にこぼしたら、翌朝から義母様が毎日私を抱きしめてきます
「よくできたな」
旦那様がそう言ったのは、私が刺繍したハンカチを差し出したときだった。
私は、その言葉にどう返せばいいのか分からなかった。
◇
嫁いで、二か月が経つ。
シュタインベルク公爵家の朝食の席は静かで、旦那様――レオポルト様は、もともと口数の多い方ではない。
「……どうした」
ハンカチを受け取ったまま、旦那様が眉を寄せた。
私が黙り込んだせいだ。
何か言わなければ。失礼のないように。正しい返事を。
「申し訳ありません。その……返事を、知らないのです」
「返事?」
「母には、一度も褒められたことがなかったので。褒められたら何と言えばいいのか、習っておりません」
言ってから、しまったと思った。
こんなことを打ち明けて、何になるのだろう。
旦那様はしばらく、深い青の目で私を見ていた。
それから、ハンカチを丁寧にたたんで胸の内ポケットにしまい、短く言った。
「そうか」
それだけだった。
私はほっとして、冷めかけた紅茶に口をつけた。
翌朝。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「あなたがフィオナね!」
銀髪をきっちり結い上げた婦人が、ドレスの裾をつまんで小走りにやってきた。
立ち上がる暇もなかった。
私は、柔らかい腕とラベンダーの香りに、まるごと包まれていた。
「よく来てくれたわ。よく、うちの息子の顔を毎朝見て、怖がらずにいてくれたわ。えらいわ」
「は、母上……」
旦那様の声が、なぜか少し困っている。
前公爵夫人、イレーネ様。
領地の外れの別邸で暮らしておられる、旦那様のお母様だった。
「昨夜、レオポルトから早馬が来たの。『母上の手が要る』って。あの子が私を頼るなんて、十年ぶりよ」
義母様は私を抱きしめたまま、頭のてっぺんに頬を寄せた。
私の体は板のように固まっていた。
人に抱きしめられた記憶が、私には一つもなかった。
◇
実家のハーゲン伯爵家で、母は「伯爵家の顔」だった。
いつも背筋を伸ばし、手袋の指先まで正しく、誰にも隙を見せない人。
そして、私にも同じものを求めた。
七歳の冬、私は初めて一人で刺繍をした。
白いハンカチの隅に、すみれを一輪。
母の誕生日に渡そうと、毎晩こっそり針を動かした。
渡した日のことは、今でもよく覚えている。
母はハンカチを窓の光にかざして、言った。
「針目が三つ、曲がっているわね」
それから引き出しにしまって、私の前で取り出すことは二度となかった。
私は「申し訳ありません」と言った。
以来、母に何かを差し出すたびに、私が言える言葉はそれだけになった。
刺繍が上達しても。
語学の先生に褒められても。
社交界で一度も粗相をしなかった年も。
「当たり前のことよ」
「もっとできるはずでしょう」
母の返事は、いつもそのどちらかだった。
十二歳の冬、隣国の言葉で詩を暗唱する会があった。
私は一番長い詩を、一度もつかえずに言い終えた。
会場の大人たちが拍手をしてくれて、私は嬉しくて、客席の母を探した。
母は扇で口元を隠したまま、小さく首を横に振った。
帰りの馬車で言われたのは、一言だけだった。
「お辞儀が浅かったわ」
十六歳で社交界に出た夜も、同じだった。
私は一度も相手の足を踏まずに、三曲を踊り切った。
母は「当たり前でしょう」と言って、先に馬車へ乗った。
そのうちに、私は人の顔色を見るのが上手になった。
怒られる前に謝る。
何か差し出す前に、どこが駄目か自分で先に探しておく。
そうしておけば、少しだけ痛くないから。
だから私は、褒められたときの返事を知らない。
知らないまま、二十歳になった。
シュタインベルク公爵家からの縁談は、母が決めた。
公爵閣下のほうから申し込まれたのだと聞いたが、理由は誰も教えてくれなかった。
私はただ、「粗相のないように」とだけ言い含められて、この家に来た。
◇
義母様は、その日のうちに本邸へ移ってこられた。
荷物は、馬車二台分あった。
「しばらく泊まるわ。いいわよね、レオポルト」
「……最初から、そのつもりでお呼びしました」
旦那様は目をそらしてそう答えた。
そして私の隣に来て、低い声で付け足した。
「俺は、言葉が下手だ。だから、上手な人を呼んだ」
その日から、毎日が少しおかしくなった。
朝、私が食堂に入ると、義母様が両腕を広げて待っている。
「おはよう、フィオナ。今日もちゃんと起きられたのね。えらいわ」
起きただけです、と言おうとしたら、もう抱きしめられている。
最初の三日、私は抱きしめられるたびに息を止めていた。
腕を、どこに置けばいいのか分からない。
背中に回していいのか、下ろしたままでいいのか。
義母様はそれに気づいていたのだと思う。
四日目の朝、抱きしめたまま、私の耳元で言った。
「腕はね、好きなところでいいの。間違いなんてないのよ」
その日、私は初めて、義母様の背中にそっと手を置いた。
義母様は「まあ、上手」と言って、もう一度ぎゅっと力を込めた。
私が紅茶を淹れると、義母様は一口飲んで目を閉じる。
「まあ、おいしい。蒸らし方が丁寧ね。よくできました」
お客様の名前を一度で覚えると、拍手が起きる。
花瓶の花を活け直すと、また拍手が起きる。
ついには、侍女たちまで加わり始めた。
「奥様、本日の髪のまとめ方、大変お上手でございました」
侍女のネルが、真顔でそう言って一礼した。
後ろで料理長のグスタフが、大きな手で親指を立てている。
家令のハロルドに至っては、帳簿の確認を手伝っただけで「お見事です」と三回言った。
「あの、皆さん……どうして」
「大奥様のお言いつけです」
ネルがあっさり白状した。
「奥様が何かなさるたびに、気づいた者が必ず一つ褒めること。一日に十は褒めるように、と。現在、本日の七つ目でございます」
数えていたのか。
私は思わず顔を覆った。
頬が熱い。
どうしていいか分からなくて、私は結局、いつもの言葉を口にした。
「申し訳ありません……」
「謝ることじゃないのよ」
廊下の向こうから、義母様の声がした。
いつの間にか、そこにいらしたらしい。
「褒められたら、『ありがとう』でいいの。でも、すぐに言えなくていいわ。慣れるまで、何百回でも褒めるから」
◇
旦那様も、努力しておられた。
努力、しておられたのだと思う。
夕食の席で、私がスープを飲み終えると、旦那様は咳払いをした。
「……良い」
「何がでしょうか」
「飲み方が」
義母様が、向かいの席で額を押さえた。
「レオポルト。それは褒め言葉の骨だけよ。肉をつけなさい」
「肉」
「どこが、どう良かったのか。それを言うの」
旦那様は真剣な顔で考え込み、スプーンを置いた。
長い沈黙のあとで、ぽつりと言った。
「……君が、うちの料理をおいしそうに食べるのが、良い。グスタフも喜んでいる。俺も、嬉しい」
厨房の方から、何かを落とす音がした。
たぶん、グスタフだ。
私は、スプーンを持ったまま動けなくなった。
嬉しい、と言われた。
私が食べているだけで、誰かが嬉しいのだという。
「……ありがとう、ございます」
小さな声だったけれど、初めて言えた。
旦那様の耳が、少し赤くなった。
義母様は「まあ」と言って、ナプキンで目元を押さえた。
それからしばらく、屋敷では奇妙な取り合いが続いた。
「母上、今朝は俺が先に挨拶をしました。抱きしめる順番は俺です」
「あら、あなたは夫なのだから、いつでもできるでしょう。私は期間限定よ」
「期間限定なら別邸に――」
「何か言った?」
「……何も」
廊下の真ん中で、背の高い公爵閣下が、お母様に言い負かされている。
私はそれを見て、気がついたら笑っていた。
声を出して笑ったのが、いつ以来か思い出せなかった。
◇
ある晩、眠れずに図書室へ本を取りに行くと、隣の執務室から旦那様の声が聞こえた。
「……君の刺繍は、美しい。針目が揃っていて、色の選び方に品がある」
私は思わず足を止めた。
誰に話しかけているのだろう。
「いかがでしょう、ハロルド」
「旦那様。大変結構でございますが、ご本人のいないところでおっしゃっても、奥様には届きません」
「本人の前だと、言葉が出てこない」
「それで、毎晩わたくしを相手に練習を」
「……笑うな」
「笑っておりません。旦那様がこれほど熱心に何かを練習なさるのは、剣の稽古以来でございます」
私は、本を抱えたまま、そっと引き返した。
廊下の窓に映った自分の顔が、見たこともないほど赤かった。
旦那様は、私を褒める練習を、毎晩していたのだ。
家令を相手に。真剣な声で。
その夜は、結局一頁も読めなかった。
◇
ある夜、私は義母様の部屋の灯りがまだついているのを見て、扉を叩いた。
「お義母様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「なあに」
「どうして、こんなに私を褒めてくださるのですか。私は、何も特別なことはしていません」
義母様は、編み物の手を止めた。
そして、窓辺の椅子に私を座らせ、ご自分も隣に腰を下ろした。
「あなたのお母様――コルネリアとはね、若いころ、同じ年に社交界へ出たのよ」
私は驚いて顔を上げた。
「あの人も、褒められずに育った子だった。あの人のお母様がとても厳しい方でね。『褒めたら娘が駄目になる』と言って、一度も笑いかけなかったそうよ」
義母様の声は静かだった。
責める響きは、どこにもなかった。
「だから、あの人を憎めとは言わないわ。でもね、フィオナ。それはあなたが我慢し続ける理由にはならないの」
義母様は、私の手を両手で包んだ。
「あなたはずっと、ちゃんとできていたのよ。誰も言わなかっただけ。だから今、私がまとめて言っているの。二十年分」
二十年分。
そんなもの、どれだけ褒めても足りないのではないかと思った。
そう言うと、義母様は笑った。
「だから期間限定じゃないのよ。レオポルトには内緒ね」
それから義母様は、私に一つだけ宿題を出した。
「寝る前に一つ、自分で自分を褒めること。声に出さなくていいわ。心の中で」
その晩、寝台の中で目を閉じて、私は考えた。
今日の私は、何ができただろう。
紅茶を淹れた。お客様の名前を覚えた。旦那様に「ありがとうございます」と言えた。
けれど、どれを思い浮かべても、すぐに母の声が重なった。
『当たり前のことよ』
結局その夜は、一つも褒められなかった。
次の夜も、その次の夜も。
五日目の夜、ようやく、小さく心の中で言えた。
『今日は、笑えた。よくできました』
言ってしまってから恥ずかしくなって、私は毛布を頭までかぶった。
◇
秋の終わりに、領都の広場で慈善バザーが開かれる。
毎年、公爵家の女主人が取り仕切るのが習わしなのだと、ハロルドが教えてくれた。
「今年は、あなたにお願いしたいの」
義母様がそう言ったとき、私は反射的に首を横に振りかけた。
できなかったらどうしよう。
母に「もっとできるはず」と言われる顔が、目の前に浮かんだ。
「失敗してもいいのよ。私が去年やったときなんて、売り上げより、お茶菓子の代金のほうが高かったんだから」
義母様が胸を張ってそう言うので、私は思わず噴き出した。
そして、引き受けた。
ひと月かけて、準備をした。
孤児院の子どもたちと一緒に焼き菓子の値札を書き、町の職人たちに出品をお願いして回った。
私自身も、刺繍のハンカチを二十枚縫って並べた。
屋敷の皆は、毎日一つずつ、ちゃんと褒めてくれた。
「値札の字が、子どもにも読みやすいですわ」とネル。
「この焼き菓子の配合、来年も使わせていただきます」とグスタフ。
「職人組合の長が、『奥様は話をよく聞いてくださる』と申しておりました」とハロルド。
当日、広場はたくさんの人で賑わった。
焼き菓子は昼前に売り切れ、子どもたちが歓声を上げた。
午後になって、私の刺繍の台の前に、背の高い人影が立った。
「全部だ」
旦那様だった。
外套の襟を立て、財布を取り出して、真顔でそう言った。
「旦那様、それでは町の方が買えません」
「……そうか」
旦那様は少し考えて、一枚だけ手に取った。
それから、ハンカチの値札を指でつまんで、小さく呟いた。
「安すぎる。君の刺繍は、こんな値段ではない」
周りにいた町の奥さんたちが、くすくす笑った。
私は耳まで熱くなって、うつむいた。
その日の夕方、ハンカチは最後の一枚まで売り切れた。
帰りの馬車で、義母様は私を抱きしめ、旦那様は向かいの席で黙って頷いていた。
売り上げは、例年の倍近くになったと、ハロルドが目を潤ませて報告した。
その夜の宿題は、迷わずにできた。
『今日は、最後まで逃げなかった。よくできました』
心の中でそう言ってから、少しだけ付け足した。
『旦那様が一枚買ってくださって、嬉しかった』
それは褒め言葉ではなかったけれど、どうしても言いたかった。
◇
その翌日から、私はこっそり刺繍を始めた。
白いハンカチの隅に、すみれを一輪。
七歳のあの日から、すみれだけは一度も縫ったことがなかった。
針を持つ手が、少し震えた。
三つ、曲がってしまったらどうしよう。
けれど、今度は誰も針目を数えない。
そう思えるようになるまでに、三日かかった。
仕上げたハンカチを、私はお茶の時間に義母様へ差し出した。
「お義母様に。いつも、ありがとうございます」
義母様は受け取って、すみれを指でなぞった。
窓の光にかざすことは、なさらなかった。
その代わり、ハンカチをそのまま、ご自分の目元に当てた。
「……使っちゃったわ」
涙声で、義母様が笑った。
「いけないわね、新品なのに。でも、どうしても今使いたかったの」
それから私を引き寄せて、髪を撫でた。
ゆっくりと、何度も。
子どもにするように。
「よくできました、フィオナ。とても、よくできました」
その瞬間、何かが胸の奥でほどけた。
七歳の私が、引き出しの前でずっと待っていた言葉だった。
針目を数えられなかった。
窓の光にかざされなかった。
引き出しにしまわれることもなく、受け取ったその場で、使ってもらえた。
私の縫ったものが、誰かの涙を拭いている。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに温かいのだろう。
気づいたら、私は泣いていた。
声を上げて、子どものように。
義母様の肩に顔を埋めて、ドレスを濡らしてしまっても止まらなかった。
「いいのよ。いっぱい泣きなさい。泣けたのも、えらいわ」
義母様の手は、ずっと私の背中にあった。
扉の陰で、旦那様が立ち止まる気配がした。
入ってこられなかったのは、たぶん、ご自分も目が赤かったからだと思う。
◇
母が公爵家を訪ねてきたのは、それからひと月後のことだった。
前の晩、私はほとんど眠れなかった。
母の好む茶葉を用意し、母の好む位置に花を活け、母の好む角度にカップを並べた。
並べながら、どこを指摘されるか、先に探している自分に気づいた。
長年の癖は、数か月やそこらでは消えない。
「公爵夫人として恥ずかしくない務めができているか、確かめに参りました」
応接間で、母は背筋を伸ばしてそう言った。
以前の私なら、それだけで指先が冷たくなっていたはずだ。
けれど今日は、隣に旦那様が、向かいに義母様が座っている。
母は紅茶を一口飲み、カップを置いた。
「蒸らしが長いわね」
「あら、私はこの蒸らし方が好きよ。とてもおいしいわ」
義母様が、にこやかに言った。
「コルネリア、久しぶりね。フィオナは本当によくやっているわ。先月の慈善バザーも、この子が一人で取り仕切ったの。過去最高の売り上げだったのよ」
「当たり前のことです」
母は、いつもの調子で答えた。
「この子は、褒めると駄目になる子ですから」
部屋が静かになった。
旦那様が何か言おうと身を乗り出したのを、義母様が目だけで止めた。
「そう。それなら、あなたは誰に褒めてもらったの?」
母の唇が、わずかに開いた。
「私は……私だって、一度も褒められたことなど――」
そこまで言って、母は口をつぐんだ。
自分が何を言ったのか、気づいたのだと思う。
カップを持つ手袋の指先が、かすかに震えていた。
「……失礼いたします」
母は立ち上がり、それきり何も言わずに帰っていった。
謝罪の言葉はなかった。
私も、それを求めなかった。
ただ、扉の閉まる音を聞きながら、母もまた、幼いころから何かを待っていたのかもしれない、と思った。
「よく、最後まで座っていられたな」
旦那様が、私の手を握った。
「怖かっただろう。……君は、立派だった」
骨だけではない、ちゃんと肉のついた褒め言葉だった。
「ありがとうございます、旦那様」
今度は、すぐに言えた。
◇
数日後、実家から小さな包みが届いた。
手紙は入っていなかった。
中にあったのは、白いハンカチが一枚。
隅に、すみれが一輪。
針目が三つ、曲がっていた。
十三年間、引き出しの奥にしまわれていたはずのそれは、黄ばんでもいなかった。
誰かが、ときどき取り出して、きれいに洗っていたのだ。
私は長いこと、それを膝の上に置いて眺めていた。
義母様が後ろから覗き込んで、「まあ」とだけ言った。
それ以上は、何もおっしゃらなかった。
ただ、私の肩に手を置いて、しばらくそのままでいてくださった。
あの人も、どう返せばいいのか分からなかったのかもしれない。
褒め方を、誰にも習わなかったから。
だから言葉の代わりに、これを送ってきたのかもしれない。
本当のところは、分からない。
分からないままで、いいと思えた。
それから、義母様に縫ったハンカチの隣に、そっと並べた。
七歳のすみれと、二十歳のすみれ。
どちらも、私が縫ったものだ。
◇
その夜、旦那様が執務室から戻ってくると、私は一枚のハンカチを差し出した。
深い青の糸で、旦那様の家紋を縫ったものだ。
旦那様はそれを受け取って、しばらく黙っていた。
それから、あの朝と同じ言葉を言った。
「よくできたな」
私は、今度は迷わなかった。
「ありがとうございます。……旦那様も、よくできました」
「俺が?」
「言葉が下手だからと、お義母様を呼んでくださったこと。あれが、私が生まれて初めていただいた、一番の贈り物です」
旦那様は、目を見開いた。
それから、手の中のハンカチに視線を落として、ゆっくりと言った。
「……一年前、王都の夜会で、君を見た」
「私を、ですか」
「庭の隅で、葡萄酒をこぼして泣いている小さな令嬢がいた。叱られると震えていた。君はしゃがみこんで、自分のハンカチで裾を拭いてやって、こう言っていた」
旦那様は、少しだけ笑った。
「『ちゃんと謝れたのね。えらいわ。よくできました』」
覚えていなかった。
けれど、言いそうだと思った。
誰かが震えていると、私はいつも、自分が一番欲しかった言葉を、その子に渡していたから。
「あの朝、君の話を聞いて分かった。君は、自分が一度も言われたことのない言葉を、他人には言えていたのだと。それで、思った。この人には、誰かが同じ言葉を返さなければならない、と」
旦那様は、そこで口ごもった。
「……だが、俺には上手く言えなかった。だから、母上を呼んだ」
胸がいっぱいになって、私はしばらく何も言えなかった。
旦那様は、少し困った顔をした。
それから、ぎこちなく両腕を広げた。
「……今夜は、俺の番でいいか」
「はい」
私は自分から、その腕の中に入った。
ラベンダーではなく、インクと冬の夜の匂いがした。
大きな手が、慣れない手つきで私の髪を撫でる。
「よく、うちに来てくれた」
耳元で、旦那様がそう言った。
廊下の向こうで、誰かが「よくできました」と小さく拍手する音がした。
たぶん、義母様だ。
ネルとグスタフとハロルドも、一緒かもしれない。
私は旦那様の胸に顔を埋めて、笑った。
褒められたときの返事を、私はもう知っている。
(了)
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