↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「実の母には一度も褒められなかった」と旦那様にこぼしたら、翌朝から義母様が毎日私を抱きしめてきます

掲載日:2026/11/06

「よくできたな」

旦那様がそう言ったのは、私が刺繍したハンカチを差し出したときだった。

私は、その言葉にどう返せばいいのか分からなかった。


◇


嫁いで、二か月が経つ。

シュタインベルク公爵家の朝食の席は静かで、旦那様――レオポルト様は、もともと口数の多い方ではない。


「……どうした」


ハンカチを受け取ったまま、旦那様が眉を寄せた。

私が黙り込んだせいだ。

何か言わなければ。失礼のないように。正しい返事を。


「申し訳ありません。その……返事を、知らないのです」


「返事?」


「母には、一度も褒められたことがなかったので。褒められたら何と言えばいいのか、習っておりません」


言ってから、しまったと思った。

こんなことを打ち明けて、何になるのだろう。

旦那様はしばらく、深い青の目で私を見ていた。

それから、ハンカチを丁寧にたたんで胸の内ポケットにしまい、短く言った。


「そうか」


それだけだった。

私はほっとして、冷めかけた紅茶に口をつけた。


翌朝。

食堂の扉が勢いよく開いた。


「あなたがフィオナね!」


銀髪をきっちり結い上げた婦人が、ドレスの裾をつまんで小走りにやってきた。

立ち上がる暇もなかった。

私は、柔らかい腕とラベンダーの香りに、まるごと包まれていた。


「よく来てくれたわ。よく、うちの息子の顔を毎朝見て、怖がらずにいてくれたわ。えらいわ」


「は、母上……」


旦那様の声が、なぜか少し困っている。

前公爵夫人、イレーネ様。

領地の外れの別邸で暮らしておられる、旦那様のお母様だった。


「昨夜、レオポルトから早馬が来たの。『母上の手が要る』って。あの子が私を頼るなんて、十年ぶりよ」


義母様は私を抱きしめたまま、頭のてっぺんに頬を寄せた。

私の体は板のように固まっていた。

人に抱きしめられた記憶が、私には一つもなかった。


◇


実家のハーゲン伯爵家で、母は「伯爵家の顔」だった。

いつも背筋を伸ばし、手袋の指先まで正しく、誰にも隙を見せない人。

そして、私にも同じものを求めた。


七歳の冬、私は初めて一人で刺繍をした。

白いハンカチの隅に、すみれを一輪。

母の誕生日に渡そうと、毎晩こっそり針を動かした。


渡した日のことは、今でもよく覚えている。

母はハンカチを窓の光にかざして、言った。


「針目が三つ、曲がっているわね」


それから引き出しにしまって、私の前で取り出すことは二度となかった。

私は「申し訳ありません」と言った。

以来、母に何かを差し出すたびに、私が言える言葉はそれだけになった。


刺繍が上達しても。

語学の先生に褒められても。

社交界で一度も粗相をしなかった年も。


「当たり前のことよ」

「もっとできるはずでしょう」


母の返事は、いつもそのどちらかだった。


十二歳の冬、隣国の言葉で詩を暗唱する会があった。

私は一番長い詩を、一度もつかえずに言い終えた。

会場の大人たちが拍手をしてくれて、私は嬉しくて、客席の母を探した。

母は扇で口元を隠したまま、小さく首を横に振った。

帰りの馬車で言われたのは、一言だけだった。


「お辞儀が浅かったわ」


十六歳で社交界に出た夜も、同じだった。

私は一度も相手の足を踏まずに、三曲を踊り切った。

母は「当たり前でしょう」と言って、先に馬車へ乗った。


そのうちに、私は人の顔色を見るのが上手になった。

怒られる前に謝る。

何か差し出す前に、どこが駄目か自分で先に探しておく。

そうしておけば、少しだけ痛くないから。


だから私は、褒められたときの返事を知らない。

知らないまま、二十歳になった。


シュタインベルク公爵家からの縁談は、母が決めた。

公爵閣下のほうから申し込まれたのだと聞いたが、理由は誰も教えてくれなかった。

私はただ、「粗相のないように」とだけ言い含められて、この家に来た。


◇


義母様は、その日のうちに本邸へ移ってこられた。

荷物は、馬車二台分あった。


「しばらく泊まるわ。いいわよね、レオポルト」


「……最初から、そのつもりでお呼びしました」


旦那様は目をそらしてそう答えた。

そして私の隣に来て、低い声で付け足した。


「俺は、言葉が下手だ。だから、上手な人を呼んだ」


その日から、毎日が少しおかしくなった。


朝、私が食堂に入ると、義母様が両腕を広げて待っている。


「おはよう、フィオナ。今日もちゃんと起きられたのね。えらいわ」


起きただけです、と言おうとしたら、もう抱きしめられている。


最初の三日、私は抱きしめられるたびに息を止めていた。

腕を、どこに置けばいいのか分からない。

背中に回していいのか、下ろしたままでいいのか。

義母様はそれに気づいていたのだと思う。

四日目の朝、抱きしめたまま、私の耳元で言った。


「腕はね、好きなところでいいの。間違いなんてないのよ」


その日、私は初めて、義母様の背中にそっと手を置いた。

義母様は「まあ、上手」と言って、もう一度ぎゅっと力を込めた。


私が紅茶を淹れると、義母様は一口飲んで目を閉じる。


「まあ、おいしい。蒸らし方が丁寧ね。よくできました」


お客様の名前を一度で覚えると、拍手が起きる。

花瓶の花を活け直すと、また拍手が起きる。

ついには、侍女たちまで加わり始めた。


「奥様、本日の髪のまとめ方、大変お上手でございました」


侍女のネルが、真顔でそう言って一礼した。

後ろで料理長のグスタフが、大きな手で親指を立てている。

家令のハロルドに至っては、帳簿の確認を手伝っただけで「お見事です」と三回言った。


「あの、皆さん……どうして」


「大奥様のお言いつけです」


ネルがあっさり白状した。


「奥様が何かなさるたびに、気づいた者が必ず一つ褒めること。一日に十は褒めるように、と。現在、本日の七つ目でございます」


数えていたのか。

私は思わず顔を覆った。

頬が熱い。

どうしていいか分からなくて、私は結局、いつもの言葉を口にした。


「申し訳ありません……」


「謝ることじゃないのよ」


廊下の向こうから、義母様の声がした。

いつの間にか、そこにいらしたらしい。


「褒められたら、『ありがとう』でいいの。でも、すぐに言えなくていいわ。慣れるまで、何百回でも褒めるから」


◇


旦那様も、努力しておられた。

努力、しておられたのだと思う。


夕食の席で、私がスープを飲み終えると、旦那様は咳払いをした。


「……良い」


「何がでしょうか」


「飲み方が」


義母様が、向かいの席で額を押さえた。


「レオポルト。それは褒め言葉の骨だけよ。肉をつけなさい」


「肉」


「どこが、どう良かったのか。それを言うの」


旦那様は真剣な顔で考え込み、スプーンを置いた。

長い沈黙のあとで、ぽつりと言った。


「……君が、うちの料理をおいしそうに食べるのが、良い。グスタフも喜んでいる。俺も、嬉しい」


厨房の方から、何かを落とす音がした。

たぶん、グスタフだ。

私は、スプーンを持ったまま動けなくなった。

嬉しい、と言われた。

私が食べているだけで、誰かが嬉しいのだという。


「……ありがとう、ございます」


小さな声だったけれど、初めて言えた。

旦那様の耳が、少し赤くなった。

義母様は「まあ」と言って、ナプキンで目元を押さえた。


それからしばらく、屋敷では奇妙な取り合いが続いた。


「母上、今朝は俺が先に挨拶をしました。抱きしめる順番は俺です」


「あら、あなたは夫なのだから、いつでもできるでしょう。私は期間限定よ」


「期間限定なら別邸に――」


「何か言った?」


「……何も」


廊下の真ん中で、背の高い公爵閣下が、お母様に言い負かされている。

私はそれを見て、気がついたら笑っていた。

声を出して笑ったのが、いつ以来か思い出せなかった。


◇


ある晩、眠れずに図書室へ本を取りに行くと、隣の執務室から旦那様の声が聞こえた。


「……君の刺繍は、美しい。針目が揃っていて、色の選び方に品がある」


私は思わず足を止めた。

誰に話しかけているのだろう。


「いかがでしょう、ハロルド」


「旦那様。大変結構でございますが、ご本人のいないところでおっしゃっても、奥様には届きません」


「本人の前だと、言葉が出てこない」


「それで、毎晩わたくしを相手に練習を」


「……笑うな」


「笑っておりません。旦那様がこれほど熱心に何かを練習なさるのは、剣の稽古以来でございます」


私は、本を抱えたまま、そっと引き返した。

廊下の窓に映った自分の顔が、見たこともないほど赤かった。

旦那様は、私を褒める練習を、毎晩していたのだ。

家令を相手に。真剣な声で。


その夜は、結局一頁も読めなかった。


◇


ある夜、私は義母様の部屋の灯りがまだついているのを見て、扉を叩いた。


「お義母様。一つ、伺ってもよろしいですか」


「なあに」


「どうして、こんなに私を褒めてくださるのですか。私は、何も特別なことはしていません」


義母様は、編み物の手を止めた。

そして、窓辺の椅子に私を座らせ、ご自分も隣に腰を下ろした。


「あなたのお母様――コルネリアとはね、若いころ、同じ年に社交界へ出たのよ」


私は驚いて顔を上げた。


「あの人も、褒められずに育った子だった。あの人のお母様がとても厳しい方でね。『褒めたら娘が駄目になる』と言って、一度も笑いかけなかったそうよ」


義母様の声は静かだった。

責める響きは、どこにもなかった。


「だから、あの人を憎めとは言わないわ。でもね、フィオナ。それはあなたが我慢し続ける理由にはならないの」


義母様は、私の手を両手で包んだ。


「あなたはずっと、ちゃんとできていたのよ。誰も言わなかっただけ。だから今、私がまとめて言っているの。二十年分」


二十年分。

そんなもの、どれだけ褒めても足りないのではないかと思った。

そう言うと、義母様は笑った。


「だから期間限定じゃないのよ。レオポルトには内緒ね」


それから義母様は、私に一つだけ宿題を出した。


「寝る前に一つ、自分で自分を褒めること。声に出さなくていいわ。心の中で」


その晩、寝台の中で目を閉じて、私は考えた。

今日の私は、何ができただろう。

紅茶を淹れた。お客様の名前を覚えた。旦那様に「ありがとうございます」と言えた。

けれど、どれを思い浮かべても、すぐに母の声が重なった。

『当たり前のことよ』


結局その夜は、一つも褒められなかった。

次の夜も、その次の夜も。

五日目の夜、ようやく、小さく心の中で言えた。

『今日は、笑えた。よくできました』

言ってしまってから恥ずかしくなって、私は毛布を頭までかぶった。


◇


秋の終わりに、領都の広場で慈善バザーが開かれる。

毎年、公爵家の女主人が取り仕切るのが習わしなのだと、ハロルドが教えてくれた。


「今年は、あなたにお願いしたいの」


義母様がそう言ったとき、私は反射的に首を横に振りかけた。

できなかったらどうしよう。

母に「もっとできるはず」と言われる顔が、目の前に浮かんだ。


「失敗してもいいのよ。私が去年やったときなんて、売り上げより、お茶菓子の代金のほうが高かったんだから」


義母様が胸を張ってそう言うので、私は思わず噴き出した。

そして、引き受けた。


ひと月かけて、準備をした。

孤児院の子どもたちと一緒に焼き菓子の値札を書き、町の職人たちに出品をお願いして回った。

私自身も、刺繍のハンカチを二十枚縫って並べた。

屋敷の皆は、毎日一つずつ、ちゃんと褒めてくれた。


「値札の字が、子どもにも読みやすいですわ」とネル。

「この焼き菓子の配合、来年も使わせていただきます」とグスタフ。

「職人組合の長が、『奥様は話をよく聞いてくださる』と申しておりました」とハロルド。


当日、広場はたくさんの人で賑わった。

焼き菓子は昼前に売り切れ、子どもたちが歓声を上げた。

午後になって、私の刺繍の台の前に、背の高い人影が立った。


「全部だ」


旦那様だった。

外套の襟を立て、財布を取り出して、真顔でそう言った。


「旦那様、それでは町の方が買えません」


「……そうか」


旦那様は少し考えて、一枚だけ手に取った。

それから、ハンカチの値札を指でつまんで、小さく呟いた。


「安すぎる。君の刺繍は、こんな値段ではない」


周りにいた町の奥さんたちが、くすくす笑った。

私は耳まで熱くなって、うつむいた。

その日の夕方、ハンカチは最後の一枚まで売り切れた。


帰りの馬車で、義母様は私を抱きしめ、旦那様は向かいの席で黙って頷いていた。

売り上げは、例年の倍近くになったと、ハロルドが目を潤ませて報告した。


その夜の宿題は、迷わずにできた。

『今日は、最後まで逃げなかった。よくできました』

心の中でそう言ってから、少しだけ付け足した。

『旦那様が一枚買ってくださって、嬉しかった』

それは褒め言葉ではなかったけれど、どうしても言いたかった。


◇


その翌日から、私はこっそり刺繍を始めた。

白いハンカチの隅に、すみれを一輪。

七歳のあの日から、すみれだけは一度も縫ったことがなかった。


針を持つ手が、少し震えた。

三つ、曲がってしまったらどうしよう。

けれど、今度は誰も針目を数えない。

そう思えるようになるまでに、三日かかった。


仕上げたハンカチを、私はお茶の時間に義母様へ差し出した。


「お義母様に。いつも、ありがとうございます」


義母様は受け取って、すみれを指でなぞった。

窓の光にかざすことは、なさらなかった。

その代わり、ハンカチをそのまま、ご自分の目元に当てた。


「……使っちゃったわ」


涙声で、義母様が笑った。


「いけないわね、新品なのに。でも、どうしても今使いたかったの」


それから私を引き寄せて、髪を撫でた。

ゆっくりと、何度も。

子どもにするように。


「よくできました、フィオナ。とても、よくできました」


その瞬間、何かが胸の奥でほどけた。

七歳の私が、引き出しの前でずっと待っていた言葉だった。


針目を数えられなかった。

窓の光にかざされなかった。

引き出しにしまわれることもなく、受け取ったその場で、使ってもらえた。

私の縫ったものが、誰かの涙を拭いている。

ただそれだけのことが、どうしてこんなに温かいのだろう。


気づいたら、私は泣いていた。

声を上げて、子どものように。

義母様の肩に顔を埋めて、ドレスを濡らしてしまっても止まらなかった。


「いいのよ。いっぱい泣きなさい。泣けたのも、えらいわ」


義母様の手は、ずっと私の背中にあった。

扉の陰で、旦那様が立ち止まる気配がした。

入ってこられなかったのは、たぶん、ご自分も目が赤かったからだと思う。


◇


母が公爵家を訪ねてきたのは、それからひと月後のことだった。


前の晩、私はほとんど眠れなかった。

母の好む茶葉を用意し、母の好む位置に花を活け、母の好む角度にカップを並べた。

並べながら、どこを指摘されるか、先に探している自分に気づいた。

長年の癖は、数か月やそこらでは消えない。


「公爵夫人として恥ずかしくない務めができているか、確かめに参りました」


応接間で、母は背筋を伸ばしてそう言った。

以前の私なら、それだけで指先が冷たくなっていたはずだ。

けれど今日は、隣に旦那様が、向かいに義母様が座っている。


母は紅茶を一口飲み、カップを置いた。


「蒸らしが長いわね」


「あら、私はこの蒸らし方が好きよ。とてもおいしいわ」


義母様が、にこやかに言った。


「コルネリア、久しぶりね。フィオナは本当によくやっているわ。先月の慈善バザーも、この子が一人で取り仕切ったの。過去最高の売り上げだったのよ」


「当たり前のことです」


母は、いつもの調子で答えた。


「この子は、褒めると駄目になる子ですから」


部屋が静かになった。

旦那様が何か言おうと身を乗り出したのを、義母様が目だけで止めた。


「そう。それなら、あなたは誰に褒めてもらったの?」


母の唇が、わずかに開いた。


「私は……私だって、一度も褒められたことなど――」


そこまで言って、母は口をつぐんだ。

自分が何を言ったのか、気づいたのだと思う。

カップを持つ手袋の指先が、かすかに震えていた。


「……失礼いたします」


母は立ち上がり、それきり何も言わずに帰っていった。

謝罪の言葉はなかった。

私も、それを求めなかった。

ただ、扉の閉まる音を聞きながら、母もまた、幼いころから何かを待っていたのかもしれない、と思った。


「よく、最後まで座っていられたな」


旦那様が、私の手を握った。


「怖かっただろう。……君は、立派だった」


骨だけではない、ちゃんと肉のついた褒め言葉だった。


「ありがとうございます、旦那様」


今度は、すぐに言えた。


◇


数日後、実家から小さな包みが届いた。

手紙は入っていなかった。


中にあったのは、白いハンカチが一枚。

隅に、すみれが一輪。

針目が三つ、曲がっていた。


十三年間、引き出しの奥にしまわれていたはずのそれは、黄ばんでもいなかった。

誰かが、ときどき取り出して、きれいに洗っていたのだ。


私は長いこと、それを膝の上に置いて眺めていた。

義母様が後ろから覗き込んで、「まあ」とだけ言った。

それ以上は、何もおっしゃらなかった。

ただ、私の肩に手を置いて、しばらくそのままでいてくださった。


あの人も、どう返せばいいのか分からなかったのかもしれない。

褒め方を、誰にも習わなかったから。

だから言葉の代わりに、これを送ってきたのかもしれない。

本当のところは、分からない。

分からないままで、いいと思えた。


それから、義母様に縫ったハンカチの隣に、そっと並べた。

七歳のすみれと、二十歳のすみれ。

どちらも、私が縫ったものだ。


◇


その夜、旦那様が執務室から戻ってくると、私は一枚のハンカチを差し出した。

深い青の糸で、旦那様の家紋を縫ったものだ。


旦那様はそれを受け取って、しばらく黙っていた。

それから、あの朝と同じ言葉を言った。


「よくできたな」


私は、今度は迷わなかった。


「ありがとうございます。……旦那様も、よくできました」


「俺が?」


「言葉が下手だからと、お義母様を呼んでくださったこと。あれが、私が生まれて初めていただいた、一番の贈り物です」


旦那様は、目を見開いた。

それから、手の中のハンカチに視線を落として、ゆっくりと言った。


「……一年前、王都の夜会で、君を見た」


「私を、ですか」


「庭の隅で、葡萄酒をこぼして泣いている小さな令嬢がいた。叱られると震えていた。君はしゃがみこんで、自分のハンカチで裾を拭いてやって、こう言っていた」


旦那様は、少しだけ笑った。


「『ちゃんと謝れたのね。えらいわ。よくできました』」


覚えていなかった。

けれど、言いそうだと思った。

誰かが震えていると、私はいつも、自分が一番欲しかった言葉を、その子に渡していたから。


「あの朝、君の話を聞いて分かった。君は、自分が一度も言われたことのない言葉を、他人には言えていたのだと。それで、思った。この人には、誰かが同じ言葉を返さなければならない、と」


旦那様は、そこで口ごもった。


「……だが、俺には上手く言えなかった。だから、母上を呼んだ」


胸がいっぱいになって、私はしばらく何も言えなかった。

旦那様は、少し困った顔をした。

それから、ぎこちなく両腕を広げた。


「……今夜は、俺の番でいいか」


「はい」


私は自分から、その腕の中に入った。

ラベンダーではなく、インクと冬の夜の匂いがした。

大きな手が、慣れない手つきで私の髪を撫でる。


「よく、うちに来てくれた」


耳元で、旦那様がそう言った。


廊下の向こうで、誰かが「よくできました」と小さく拍手する音がした。

たぶん、義母様だ。

ネルとグスタフとハロルドも、一緒かもしれない。


私は旦那様の胸に顔を埋めて、笑った。

褒められたときの返事を、私はもう知っている。


(了)


面白かったら、評価・ブックマーク頂けるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。