ワケあり無能な第三王子と聞いていたのですが、話が違いませんか?
見た目は冷酷、性格は高慢、笑えば威圧、黙っていれば修羅の顔。それが私――小国リュミエール公国の公爵令嬢ヴィオラ・グリンフィールドの世間一般からの評価である。
ひどい。未婚の乙女に対して使っていい言葉じゃない。
いや、言いたいことは分かる。自分でも分かるのだ。
私は黒に近い紫の髪に切れ長の目をしていて、黙っているだけでやたら迫力がある。にこりと笑ったつもりでも「今、怒ってます?」みたいな反応をされることがあるし、緊張して言葉が出ない時など、周囲から見れば「無言で相手を値踏みしている高慢な令嬢」にしか見えないのだろう。
違う。
ただの人見知りである。
それもかなり重症の。
たとえば先月の夜会でもそうだ。私は勇気を振り絞って、隣にいた伯爵令嬢に話しかけようとした。春らしい淡桃色のドレスが本当に素敵で、刺繍も繊細で、うわあ可愛いぜ、ひとこと褒めたいと思ったのである。
だがいざ口を開こうとした瞬間、喉がきゅっと締まった。緊張で顔も固まった。結果、私は伯爵夫人をじっと見つめたまま、三秒、いや体感では三分ほど沈黙した。
すると伯爵令嬢は青ざめた。
「も、申し訳ございません……っ、なにかお気に障りましたでしょうか……!」
違います。違うのです。気に障ったどころか、刺繍の花模様があまりに愛らしくて、ぜひどこの工房の仕事か教えていただきたいくらいでした。だが私は慌てれば慌てるほど口が開かない。ようやく絞り出した一言も、
「……別に」
である。
終わった。
会話が死んだ。
私の社交も死んだ。
しかもその場にいた令嬢たちには、「ヴィオラ様、また誰かを睨みつけて泣かせたらしい」と光の速さで誤解が広まった。泣きたいのはこっちだ。私はただ、可愛い刺繍を褒めたかっただけなのに。
そんな調子だから、縁談はことごとく破談になる。そりゃそうだ。お茶会で石像のように固まり、夜会で微笑めばスマイルハラスメント、無言でいればまるで鬼のよう。誰が好き好んでそんな女を嫁に迎えたがるというのか。いや、いた。いたのだ。最悪の形で。
ついに実家で現実味を帯び始めたのが、ローレンス卿の後妻話だった。
五十代後半。腹は出ている。髪は減っている。態度はでかい。香水はきつい。趣味もきつい。ついでに女性を見る目がいやらしい。
控えめに言って最悪である。
なので私は、この縁談書を見た瞬間に悟った。
ああ、これは私の人生詰んだと。
「お嬢様、現実逃避で薬草目録を抱きしめるのはおやめください」
侍女のココットが、実に冷静な声で言った。
「無理。変態ジジイで目が腐る前に、私は素敵な薬草で目の保養をしなきゃなの」
私は隣国ガーデンフローの薬草図鑑をぎゅっと抱きしめた。だって見てほしい。香料用の月光草、揮発の穏やかな青海葉、雨のあとにだけ香りを深める雲蜜花。香水作りが大好きな私にとって、素材の宝庫である。
理想郷では? 天国では?
私が本来行くべき場所、そこでは?
なのに現実はローレンス卿の後妻候補。終わる。私の人生、加齢臭に包まれて終わる。
「はぁ~、仕方がないですね。そんな可哀想なお嬢様へ、お父様の公爵閣下からお手紙を預かっております」
「手紙……?」
何だろうと首をかしげながら、ココットからやたら豪華な装飾つきの手紙を受け取った。開封してみると、嗅いだことのないさわやかな香水がふわりと鼻腔をくすぐる。
「なになに……? 隣国ガーデンフロー王国、第三王子ロイド殿下との縁談……縁談!?」
まさかの国外からの縁談である。
内容をよく見れば、条件付きではあるが、私に結婚を申し込みたいとのこと。
跡継ぎを急がないこと。
無理に夫婦の務めを求めないこと。
互いの生活と尊厳を尊重すること。
私は書面を三回読み、四回目で立ち上がった。
「……これ、当たりでは?」
ロイド殿下は、薬草園と交易管理を任されている実務派の王子らしい。薬草園。交易。香料。すばらしい。殿下の姿絵よりそちらに目が輝いた自覚はある。でも仕方がない。私は恋に夢を見る乙女ではないが、香りには本気なのだ。
「しかしお嬢様。ロイド殿下と言えば、悪い噂の絶えないお方ですよ?」
もちろん噂は私も聞いていた。一度結婚したが離縁していること。跡継ぎ問題で揉めたこと。妻で元侯爵令嬢だったマーガレットさんが先に愛想を尽かしたこと。そして、子ができないのはロイド殿下のせいだと一方的に言い立てられ、社交界でずいぶん好き勝手に噂されたこと。
しかし私は思った。
それがどうした。
こちらも愛想のない行き遅れ、しかも「そのままでは変態じみた年上貴族に嫁がされる」という、かなり差し迫った事情を抱えている。お互い、ワケあり上等。むしろ話が早い。
「決めたわ、ココット。私、ガーデンフローへ嫁ぎます」
こうして私は、逃げるように、いや未来へ羽ばたくように、ガーデンフローへと向かった。
◆
「ようこそ、ヴィオラ嬢。あなたと会える時を楽しみにしておりました」
実際に会ったロイド殿下は――噂と違いすぎて、私は初手から脳内会議が大荒れになった。
なにあれ。
顔がいい。
いや、王子だし、事前に姿絵を見たから顔がいいのは分かる。だが想定していた“傷ついた訳あり男性”の雰囲気に対して、実物はあまりにも穏やかで、品があって、声まで優しい。淡い金髪に青灰色の瞳、物腰は柔らかいのに背筋はすっと伸びていて、まるで上質な紅茶に蜂蜜を落としたみたいな落ち着きがある。
人は驚きすぎると無言になる。
私はもともと無言になりがちなので、つまり完全沈黙である。
「長旅でお疲れでしょう。まずは休んでください、ヴィオラさん」
「ど、どもっす(わ、私は何を言っているの……!?!?)」
「ははは、どうやらかなり緊張されているみたいですね」
ロイド殿下はそう言って、ほんの少しだけ困ったように微笑んだ。
「先にお伝えしておきます。私は、あなたに無理をさせるつもりはありません」
その声音は静かだった。
「この婚姻は、あなたの尊厳を損なうものであってはならない。私は……前の結婚で、少し失敗をしました身。立派に夫らしく振る舞えるほど器用ではありませんから」
ロイド殿下は、そこでいったん言葉を切った。
「ですから、その意味であなたに期待を持たせるつもりも、無理をお願いするつもりもありません。まずは、安心して暮らしていただくことを優先したいのです」
私はその場で叫びたかった。
当たり!
大当たり!
超優良物件!
しかし口から出たのは、緊張のあまり絞り出された一言だけだった。
「……承知、しました」
違う。
もっとあるでしょう私。
“ありがとうございます”とか“私も安心しました”とか。せめて人間味を出しなさい。
でもロイド殿下は、そんな私のひどく短い返事にも眉ひとつ動かさなかった。
笑わない。責めない。気まずそうにもしない。
その時点で、私の中の好感度はひそかに急上昇していた。
そして始まった新婚生活は、思っていた以上に快適だった。
まず薬草園がすごい。
控えめに言って楽園である。
朝露を含んだ香草の匂い、温室いっぱいに広がる花の甘さ、乾燥庫に並ぶ珍しい根や樹脂。私は初日に案内された瞬間、目を輝かせすぎてたぶんかなり気持ち悪かった。
「……そんなにお好きなのですね」
ロイド殿下が少し驚いたように言った。
「大好きです」
即答だった。
人見知りはどこへ行ったのかと言われると、香料の話をしている間だけ冬眠するらしい。
「香りって、見えないのに気持ちを変えるでしょう? 気分を落ち着けたり、元気を出したり、誰かを思い出させたり。私はそれが好きなんです。だから、いつか自分の香水をきちんと商品にしたくて」
そこまで一気に喋ってから、はっとした。
しまった。喋りすぎた。引かれたのでは?
恐る恐る顔を上げると、ロイド殿下は柔らかく目を細めていた。
「それは、とても素敵な夢ですね」
だめだ。
優しい。
優しすぎる。
こういうのは心臓に悪い。
私のような恋愛耐性ゼロの女に、そんな真っ直ぐな肯定を向けないでいただきたい。効くので。
しかも後から知ったのだけれど。
ロイド様が最初からあれほど線を引いていたのは、私に興味がないからではなかった。
前の結婚でひどく傷ついていて、夫婦として親しくなることそのものに慎重になっていたのである。
なんでも初夜がうまくいかなかっただとか、男としての機能が不全で役に立たなかっただとか――どれも女性経由で聞いた話なので、どこまで本当なのかは知らないけれど。たぶん、前妻のマーガレットさんがそんな話を広めているのだろう(妻である私だが実際にはどうなのか見てないし、興味もないので知ったこっちゃないが)。
そうと知ると、ますます胸がきゅっとした。
噂の中の“無能な男”ではなく、ちゃんと傷ついた人間として彼を見てしまったからだ。
「ま、私はロイド殿下と仲良く夫婦をやれていれば、どうでもいいわ。あとは……ふふふ、思いっきり香水作りができれば文句どころか感謝しかないもの!」
その日から私は、薬草園に入り浸っては調香の試作を繰り返した。ロイド殿下は忙しい身でありながら、時間を見つけては珍しい素材を融通してくれたり、交易路の話をしてくれたりした。
そして何より困るのは、彼が妙に私を甘やかすことだった。
「無理は禁物ですよ」
「昼食を抜いて研究するのは禁止です」
正論で囲ってくる。
しかも優しい声で。
逃げ場がない。
私は見た目のせいで長らく“強そうな女”扱いされてきたので、こんなふうに体調や食事を当然みたいに気にかけられるのに致命的に弱い。
くそう。好きになってしまうではないか。
いやもうだいぶ好きかもしれない。まずい。契約結婚なのに。
そんなある日。
私が香水作りをしていると聞いたらしいガーデンフロー王国の王妃様から、思いがけない依頼が舞い込んだ。
王太子夫妻のために、心を和らげ、気持ちを近づける助けになる香りを試作してほしい――というのである。上品なお願いだが、あえて下品に言うならば『後継者を作りたいからエッチな気分になる媚薬を作れ』という指令だ。
「つまり、国家の未来を左右する重大ミッションね――」
なるほど。王族でも夫婦の悩みは尽きないらしい。
妙なところで親近感を覚えつつ、私は張り切って離宮にある調合部屋に向かった。
月光草を基調に、青海葉で冷たさを足し、最後に雲蜜花をほんの一滴。甘すぎず、けれどふわりと熱を帯びるような香り。名づけるなら“夏夜の果実”。
会心の出来である。
「結構いい香りだし、あとは効果だけど…………なんだか熱っぽくなってきたような」
頭がポーッとしてきた気がする。
ちょっとまずいかも?と思ったとき、部屋の扉が開いた。
「ヴィオラ、そろそろ夕飯どきなので終わりに……どうしたんですか? 顔が真っ赤ですよ!?」
あ、まずいと思ったときには手遅れだった。
心配そうな顔をしたロイド殿下が私に駆け寄り、顔を近づけてきた。
「ん? この香りは――」
ロイド殿下はわずかに身をかがめ、その香りを確かめた。次の瞬間だった。
彼の喉が、ごくりと動いた。
「……ヴィオラ」
低い。
声が低い。
いつもの穏やかさが、一瞬でどこかへ行った。
「え、な、なにか問題が」
「問題、というか……」
ロイド殿下は額に手を当てた。耳がうっすら赤い。そして気のせいか、妙に前かがみになってませんか殿下。あと殿下の殿下が……ていうか無能どころか恐ろしいくらい立派な……ゲフンゲフン。あの、どうしよう。とても見てはいけないものを見ている気がする。
「す、すみません。王妃様から依頼されていた、例の香水を作っていたんですけど……」
「気分を高揚させる作用が強い。私には少々、強烈すぎる」
私は目を瞬いた。
それから一秒後、私は唐突な浮遊感に襲われた。
「えっ、ちょっ」
「こんな危険な香りを漂わせたまま、一人で離宮を歩かせるわけにはいきません。至急、二人きりに慣れる場所へ移動しないと」
「あ、あの殿下?」
「しかしこれはまずい。私にこんな野蛮な感情が残っていたなんて」
私の言葉、聞こえてます??
そんな思いもむなしく、ロイド殿下は私を抱き上げたまま、夫婦の寝室へと運んでいく。
私は彼の腕の中で頭を抱えた。
月光草と雲蜜花の配合比率が原因だ。
相乗で少し作用が強くなっているんだろう。
理論上はあり得る。だが実際にこうも見事に出るとは。
……………………
……………
……
「しばらく、あの香水の開発を中止とします!」
次の日の昼、全身筋肉痛の私は高らかにそう宣言した。
なぜかって?
オトナの事情ですわよ!!
……のだが後日。
事情を説明した王妃殿下からは、
「それはぜひ、是非とも国のために開発再開を!」
――と、たいへん上品な文面で、実に逃げ道のないお願いが届いた。
しかもロイド様は、なぜかそれを受けた。
「王家からの依頼ですから」
そう言う顔が妙に真面目で、私は逆に混乱した。
なぜですか。そんなに律儀に受けなくてもよろしいのでは。
こちらの心臓の安全保障も考えていただきたい。
とはいえ、私だって香水師の端くれである。
自分の香りの効果を確かめたい気持ちは、正直かなりあった。つまり、しかたなくである。あくまで研究のためである。決して下心ではない。
だが問題は別のところにあった。
効果がありすぎて大変だったのである。
日中にもかかわらず、ロイド殿下は普段の理性的で優しい顔を一変させ、野獣のように私を求めてしまう。もちろん、何があったのかをここでいちいち詳しく語るつもりはない。既婚の身とはいえ、私にも節度というものがある。
ただ、ひとつだけは大声で言いたい。
やっぱりというか、分かっていたけれど、ロイド様は無能なんかじゃなかった。夫婦の相性なんて、本当に当人同士にしか分からないのだと、私は身をもって理解した。
そういうわけで、どちらかというと王妃様の依頼は、香水の効果を上げることではなく、むしろ理性を崩壊させない程度に抑えるための研究がメインとなってしまった。
もちろん、実験台は私たちである。
あくまで研究のため。しかたなく。
本当に、しかたなくだ。
……などと最初のうちは言い張っていたのだが、回数を重ねるうちにその言い訳はどんどん苦しくなっていった。香りがなくてもロイド様は私を見る目が甘くなり、私もまた、研究の時間が来るたびに妙にそわそわしてしまうようになったからだ。
そうして私たち夫婦の仲は、急速に深まっていった。
数カ月が経ち、研究にもようやく終わりが見えてきたころ。
そろそろ社交パーティーに出てほしいと王妃様から誘われ、夜会へと出ることになった。
そこで私たちは、最悪な人物と遭遇した。
ロイド様の前妻、マーガレットと、その現夫である。
豪華なドレスを身にまとって会場に入ってきたマーガレットは、私を見るなり口元だけで笑った。ああ、この人は昔からこうやって人を値踏みしてきたのだろうな、と一瞬で分かる笑い方だった。
「まあ、あなたが新しい奥様? 思っていたよりずいぶんお堅いのね」
喧嘩なら買う。
だが私は人見知りなので、買った喧嘩の受け取り口が見つからない。
その横で現夫が、わざとらしく肩をすくめる。
「ロイド殿下も懲りないな。今度こそ上手くいくといいが……まあ、前回のことがあるから難しいか」
最低である。
下品さに品のある衣装を着せても、最低は最低だ。
ロイド様は表情を変えなかったが、私は見た。
指先がわずかに強張るのを。胸の奥がかっと熱くなる。
たぶん、この場でいちばん腹を立てていたのは私だった。
「失礼ですが」
自分でも驚くほど、するりと声が出た。
マーガレットと現夫がそろってこちらを見る。やめてほしい。そんなに見られると緊張する。だがもう引けない。
「他人の夫婦のことを、ずいぶん楽しそうに語られるのですね」
マーガレットが目を細めた。
「だって事実でしょう? この方は昔から、そういう意味では頼りない方だったもの」
――よろしい。戦争だ。
私はその瞬間、自分でもびっくりするほど堂々と微笑んだ。たぶん周囲から見ればかなり怖かったと思う。今だけはその誤解をありがたく利用させてもらう。
「それは、ずいぶん昔のお話なのではなくて?」
「……なんですって?」
「少なくとも、私が知っているロイド様は、頼りないどころかとても素敵な方ですもの。優しくて、誠実で、私の仕事にも理解があって、驚くほど私を大事にしてくださいます」
ロイド様が、横でぴたりと固まった気配がした。
知るか。今は援護射撃中である。黙って受けてほしい。
「それに」
私は言った。言ってやった。
「夫婦の相性なんて、当人同士にしか分からないでしょう? 他人が勝手に“原因”を決めつけるなんて、ずいぶん無粋だと思いますわ」
現夫の顔が引きつる。マーガレットの笑みも消える。効いている。よし。もっとだ。
「少なくとも私は、ロイド様との結婚を心から幸せだと思っています。毎日が穏やかで、楽しくて、少し困るくらいには甘やかされていて」
ここで一度ロイド様を見上げる。
青灰色の瞳が、見たこともないほど揺れていた。
「ですから、昔の印象だけで今の夫を語らないでくださいませ。私はこの方を、誰より素敵だと知っていますので」
沈黙が落ちた。
勝った。
内心で私は両手を上げて踊った。だが外見は修羅鬼のままである。たぶんすごく強そうに見えたはずだ。やったね。こんなところで評判が役に立つとは思わなかった。
マーガレットは唇を震わせたが、結局なにも言い返せなかった。現夫も気まずそうに視線をそらす。散々見下しに来たくせに、退く時だけ静かなのは実に格好が悪い。
やがて二人は、取り繕った挨拶だけ残して退散した。
ざまぁである。
しかもかなり上品なざまぁだ。すばらしい。
彼女らが去ったあと、私は中庭の花壇前でロイド殿下と向かい合っていた。
夕暮れの光が、花を透かしている。綺麗だった。けれど今は、それどころではないくらい胸がどきどきしていた。
「殿下」
いや違う。
今は違う。
「ロイド様」
彼が目を見開く。そんな表情も可愛くて素敵。
たったそれだけで、私の心臓はさらに大騒ぎした。忙しい。落ち着け。
「私、最初は逃げるためにこの結婚を選びました」
声が震えた。でも止まらなかった。
「変態ジジイの後妻なんて絶対に嫌だったし、隣国の薬草にも興味があったし、正直、ものすごく都合が良かったんです」
ロイド殿下は黙って聞いてくれた。
「でも今は違います。ここにいたいのは、香水のためだけじゃない」
言え。言うのよ私。
ここで黙ったら一生後悔する。
「私は……これからもずっと、あなたと一緒にいたいです」
言った。
言ってしまった。
うわあああ言った!
私が内心で転げ回っていると、ロイド殿下はしばらく黙り、それからとても困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「まいりました」
「え?」
「それを言われたら、もう我慢する理由がありません」
彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
反射的に逃げたくなったが、逃げたら負けだ。何に負けるのかは分からないが、ここで引いたらだめな気がした。
「私は、もう誰とも親しい関係を築けないのではないかと思っていました」
青灰色の瞳が、まっすぐ私を見つめる。
「ですが、ヴィオラ嬢だけは別だった。あなたが香りの話をするときの顔も、強がっているのに少し寂しがりなところも、夢中になると距離が近いところも……全部、愛おしい」
待って。
情報量が多い。
心臓がもたない。
「ですから、誤解のないように申し上げます」
ロイド殿下――ロイド様は、いつもの穏やかな声で、けれど前よりずっと熱のこもった声で言った。
「私はあなたを愛しています、ヴィオラ」
◆
「……先ほどは、その」
ロイド様は珍しく少しだけ言葉に詰まった。
「嬉しかったです。あなたが、あれほどはっきり私の味方をしてくださったことが」
「だって本当のことですもの」
私が言うと、ロイド様は困ったように笑った。
「あなたにああまで言われたら、もう二度と過去に負ける気がしません」
その瞬間、私の頭の中で祝砲が上がった。
恋愛経験ゼロのくせに脳内だけは祭りである。
「わ、私も……好き、です」
なんとか返すと、ロイド様は目を細めた。
それから私の髪にそっと触れ、額へ軽く口づけを落とす。
うわ。
うわあ。
優しい。
優しいのに破壊力が高い。
これが王子。これが第三王子。
ありがとうガーデンフロー王国。観光名所にします? この人。
その時だった。
「お嬢様ー! 王妃殿下からお手紙です! “例の香り、たいへん興味深い成果が出たので、ぜひ量産を”とのことで――」
廊下の先から、ココットが例の香水瓶を片手にこちらへ走ってくるのが見えた。
同時に、ふわりとあの“夏夜の果実”の香りが流れてくる。
私とロイド様はぴたりと固まった。
「……ココット」
「はい」
「今すぐその香水をしまってちょうだい」
「かしこまりました! あっ、でも殿下のお顔が少し赤――」
「ココット!」
「はいっ!」
中庭に吹く夕風が、香りをさらっていく。
私は真っ赤な顔で額を押さえ、ロイド様は咳払いをして視線を逸らした。
その横顔が、少しだけ笑っている。
「ヴィオラ」
「……はい」
「その香水、完成したら名前をつけましょう」
彼は私を見た。
「できれば、二人の新しい始まりにふさわしい名前を」
私はもう一度、今度はちゃんと笑えたと思う。
「ええ。最高に幸せで、最高にときめく名前をつけましょう」
逃げるために選んだ結婚は、気づけば私の夢も恋も連れてきた。
人生、どこでどう転ぶか分からない。
でも悪くない。
むしろ、かなりいい。
少なくともローレンス卿の後妻になる未来よりは、百億倍くらい素敵だ。
これは、きつい顔の人見知り令嬢だった私が、隣国の優しすぎる第三王子に甘やかされながら、自分の幸せを勝ち取るまでの話。
そしてたぶん、ここから先はもっと忙しい。
だって恋も香水づくりも、始まってからが本番なのだから。
拙作をお読みいただき、本当にありがとうございます。
皆さまからの応援が、日々筆を取る力になっています。
もしお気に召しましたら、★評価などいただけましたら嬉しく、今後の創作の励みになります。
これからも少しでも楽しんでいただける物語を紡いでいければと思っております。
心より感謝をこめて──今後ともどうぞよろしくお願いいたします。




