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アンリエットに言伝

作者:

描くべきものを見失い、自分を変えてくれるような「運命」を求めるハンナ。

祖母の遺言に従い訪れた辺境の街で、彼女は不老の娘アンリエットに出会う。


(2019年発行・有翼人アンソロジー「プテリュクス」寄稿)

 汽笛が遠ざかる。ホームに吐き出された乗客たちは、それぞれに周囲を見回したすえ、ひとり、またひとりと砂煙の中に消えていく。彼らに続き、枯草がまばらに生えるだけの大地を踏みしめてようやく、逃げてきたのだ、という実感が湧いた。

 砂煙を吸った途端に咳が出た。次々と引きずり出されそうになる自責の念を押しとどめて、早足に煉瓦造りの石段を下りてゆく。駅に迎えの手はいない。当然だ。なぜならわたしがこの町を訪れることを知っているのは、今朝方不安げに送り出してくれた母親だけなのだから。今の今まで反抗のひとつもしなかった一人娘の家出じみた暴挙だ、母の狼狽は想像に難くない。きっといまごろは仕事も手につかず、うろうろと廊下を歩き回っているころだろう。

 申し訳ないと思いこそすれ、家のことばかりを考えてもいられない。わたし自身、これから訪ねる相手の顔を、写真の中にさえ見たことのないありさまなのだ。手がかりといえば祖母から譲り受けた――ただしくは、祖母の死後、遺品の中からわたしが見つけ出した――小さな絵画が一枚だけ。その絵画も、荷作りの際にナップサックの奥に追いやられてしまっている。手元に掘り返すのも億劫で、肩の重荷になるばかりの代物と化していた。

 まずは探し歩いてみるしかない。いくらかの苦労は割り切っているつもりだった。ずり落ちかけたナップサックを背負い直し、頭に焼き付けた名前をいま一度口にする。

 ――マクレイン。

 ミス・マクレイン。

 それが祖母から伝えられた、彼女の古い友人の名前だった。


 祖母が死んだのは昨年の末。聖誕祭を過ぎて間もない、冬のさなかの一日だった。秋季最後の通学日を終えたばかりのわたしは、彼女が危篤であるとの報せを受けて、校門をくぐったその足で病室を訪れることになったのだ。

 猛吹雪の吹き荒れる日だった。雪の飛礫は窓を殴りつけ、悲鳴じみた風の音が絶え間なく響いていた。薄闇を照らす灯りは頼りなく、ああこれが人の死ぬ日なのだと、うすぼんやりと考えていたことを憶えている。

 しかしそこで思考は行き詰まり、あとは空回りを繰り返す。母のすすり泣き、唇を結んだ父の重い呼吸、かれらに挟まれて祖母を見下ろしてもなお、感慨じみた思いはついぞ胸に湧くことのないまま。自分一人が黒い羊であるかのような心地で、白布に横たわる祖母の声を聞いていた。

「ハンナ」

 だから、驚いた。

 はじめに呼ばれた父の名前、続いて(祖母の娘であるところの)母の名前。高齢ゆえに家に残らざるを得なかった祖父への伝言をひとつかふたつ。神託じみて与えられていった遺言の末尾に、みずからの名前が呼ばれるなどとは思いもよらなかったのだ。聞き違いだろうかと瞬きをしてから、ようやく、はい、おばあちゃん、と吐き出した返事が、あとで母親に咎められないだろうかと怯えてしまうほど。

 おそるおそる目をやった。幾重にも皺の刻まれた顔で、祖母はうっすらと笑っていた。いっそ彼女への怯えすら抱く、わたしの胸中まですべて見透かすようにして。

「あなたが健やかに育ってくれたことを嬉しく思います。最後までおばあちゃんらしいことができないままでごめんなさいね」

「……いいえ」

 ぎこちなく首を振る。せめてもの礼儀であるように思われたからだった。

「その上であなたに頼みごとをする、わたしの厚かましさを許してください。……いいえ、こんなお婆さんの言うことなんて、忘れてしまってもいいの。いつか、ほんの少しでも、気が向いたらでいい」

 ――ミス・マクレイン。

 耳慣れない名を口にして、祖母は目を閉じた。

「彼女に会いに行ってちょうだい。あなたの若く鮮やかな時間の、貴重な幾ばくかを、わたしに分けてもらえるのなら。そうしてどうか、わたしの死を彼女に伝えて。恨めしくて、愛おしい、わたしの大切なおともだちに」

 上下する毛布の揺れが、少しずつゆるやかになっていく。母が祖母の手に縋り付き、わたしは追いやられるようにして一歩を引いた。感情の狭間に取り残されたような気がして、一刻も早くその場から逃げ出したかった。

 祖母リアナ・ベルウェットは、今際の際に至るまで、ほとんどかかわりのない肉親だった。若いころは誰もが名を知るような素晴らしい女性であったのだと、母はよくよく語り聞かせたものであったが、その物語にわたしが興味を抱くことはついぞないまま。ファーストネームを思い出すことにすら、一拍を必要とするような相手だったのだ。

 だからまるで、知らない小説のひとひらを、ふいに口にされたかのような心地でいた。

 わたしのゆく道に、彼女の生はおろか、死ですらも意味を成すことはないだろう。そう思った。事実、祖母の死から一週間後には、彼女の遺言もすっかり頭の中から消え失せてしまっていたのだった。

 祖母の言葉を記憶の淵から呼び起こすのは、それからまるまる一年後。

 彼女の一周忌に、わたしが遺品の整理を手伝う日を待つことになる。


「アンリエット・マクレイン?」

 くり返したわたしに、ええ、と花屋の店員はうなずいて、鷹揚に頬杖をついた。

「マクレインといえば彼女のことでしょうね。よく花を買いに来るわ。あなた、あの子のお友達?」

 首を振りながら、存外年頃が近いのだろうかと考える。七十を過ぎて亡くなった祖母の友人なのだから、相手もさぞ高齢なのだろうとばかり思いこんでいたのだが、そういうわけでもなかったらしい。

 ミス・マクレインを訪ね歩いて、これで九軒目になる。小さな町であるとはいえ、名前すら明らかでない他人を探すのは至難の業だった。足にも疲労が溜まってきたころだ。すげなく追い返されてはかなわないと、わたしはなるべく誠実に言葉を選ぶ。

「わたし自身にとっては、深いかかわりのある相手ではないんです。ただ、亡くなった祖母からの言伝を届けなくてはならなくて。ミス・マクレインのお家をご存知ですか?」

 店員はいささか気の毒そうに眉を下げる。

「わたしもお住まいまでは。それに彼女はあくまでお客様だもの、知っていたとしてもお話しすることはできないわね。ごめんなさい」

「そうですか……」

 また途方もない街歩きからか、と肩を落としたときだった。

「わたしのことを話しているのよね、お姉さん」

 横合いから声をかけられる。花の種を手にした娘がひとり、警戒する様子もなく歩み寄ってくるところだった。よく見れば先から店の中を歩き回っていた客の一人だ、ということは今の今まで話を聞いていたのだろう。店員が肩をすくめる。

「お店の人間には守秘義務ってものがね、エティ」

「自分から声をかけたのだから問題ないわ。そもそも、わたしの名前どころか、よく店に来ることまで教えてしまっているんだもの。守秘義務も形無しね」

 わたしよりもいくつか年上とみられる女性だった。ブラウンの髪がしなやかに曲線を描き、肩先であちらこちらに跳ねている。長い睫毛の下に潜む琥珀は、どことなく動物じみたかがやきを放っていた。

 彼女はわたしに向かって、慣れた所作で手を差し出した。

「アンリエット・マクレインです。エティと呼んでくれればいいわ。あなたは?」

「ハンナです。ハンナ・ベルウェット……」

 握手に応える。つめたい手への動揺を隠せなかった。

「ベルウェットの。それならお姉さん、彼女のことは問題ないわ。確かにわたしの知人ではないけれど、知人の知人、のご親戚だったみたい」

 ミス・マクレインは店員から種を買い取ると、わたしに向けてにこりと笑い、「ついてきて」と先導する。

 軽やかに歩くひとだ、と感じたのが第一印象で、それはそのまま彼女自身の纏う空気に結び付く気がした。爪先は無音で地面を蹴る――まるで重力など知らないといわんばかりに。言い換えればまるで地に足がついていないかのようでもあり、彼女はひょうひょうとした態度でわたしに語りかけるのだった。

「さっきはああ言ったけれどね、あなたの探している人は、おそらくわたしのことではないのよ。たしかにわたしはマクレイン性を名乗っているけれど、それもここ数年の話なの。本来マクレインと呼ばれるべきなのは別の女性」

「別の女性、というと」

「あなたが探しているのは、あなたのおばあさんの、かつてのおともだちだということ。シシリー・マクレイン、あるいはミス・マクレインと呼ばれていた人ね。身寄りのなかったわたしに名字を与えた人。老衰で、三年前に亡くなっている」

 足を止める。一歩先で振り返ったエティに、「亡くなっている? 三年前に?」と尋ね返す。「そのことを、おばあちゃんは」

「ええ。シシリーに縁のある相手には訃報を届けているから、あなたのおばあさんもご存じのはずよ。なのにあなたが伝言を届けにきただなんて、不思議な話もあるものね」

「不思議な話、どころじゃないわ」

 めまいがした。彼女の言を信じるならば、祖母は自分の死の間際に、死人に向けての言伝を託したということになる。ばかげている、わたしが辺境行きの汽車に飛び乗ったのは、見ず知らずの相手の墓参りをするためだったというのか。

「無駄足だったの……」

 わたしの独り言を受けて、エティはあいまいに首をかしげる。縁遠い知人の孫娘が押しかけてきたのだ、彼女自身も迷惑に感じてはいるだろう。しかしそれをおくびにも出さず、「疲れたでしょうから、今日は泊まっていきなさいな」と誘ってくれる。「おばあさんのご逝去については、明日シシリーの墓前に伝えに行けばいいわ。さっきの花屋で、こんどは供花を買いましょう」

 やさしいエティの慰めは、しかし、わたしの胸からずっと遠いところで響くのみだった。そもそも祖母の遺言に従ったのは、祖母の遺言を叶えようなどという殊勝な志があったからではないのだ。

 そこでようやく思い出すことがあった。ナップサックを抱え直し、何度か取り落としかけながら、額に収まった一枚の絵画を引き抜く。エティがわずかに目を見開くのを、見覚えがあるのだろうか、と推し測りながら、

「わたしにも、理由があるの」

 両腕で絵を抱く。描かれているのは、暗がりに立つ女の背中だ。白くか細く、骨の浮いた皮膚を外気にさらしている。

 何よりも目を引くのは、腰の上に生えた焦茶の翼だった。羽根の一枚一枚までが執拗に描かれた旅鳥の翼。疲れ果てたように垂れ下がりながらなお、闇に対比して生き生きと眩しい。

「おばあちゃんの遺品のひとつ。作者の署名はマクレイン。これを見つけたからわたしはここに来たの、描いた人に訊きたいことがあったから」

 首より上は描かれず、彼女が瞳を向ける先はもとより、表情の一端さえも明らかではない。だというのに描き手の執拗な思慕ばかりが、わたしの目を奪って離さないのだ。翼を描いてみせながら、縫い留めるように叩きつけた筆の痕跡が、突き刺さんばかりの妄執を叫んでいる。

「どうしてこれを描いたのか。どうしてこれが、おばあちゃんの家にあったのか。描かれた相手が実在するなら、彼女はいったい何者なのか。シシリー・マクレインに会えないというのならそれでもいい、それでも彼女のこと、少しでも理解せずには、わたし、家に帰れない……」

 厚かましいとはわかっていても、甲斐を求める心が蓋をするのだ。

 技巧に驚くべきところがあるわけではない。色彩が人の目を引くわけでも。しかしそうした評価とは裏腹に、わたしはとうとう絵画を持ち出し、夜ごとに有翼の彼女を見つめるようになっていた。じっとりと、胸を内側から焼かれる感覚に指先を震わせながら。それは絵の中の娘に向けられたとも、描き手であるミス・マクレインに向けられたものとも知れない、不定形の、しかし確かな焦りだった。

 わたしには、この絵は描けない。

「……そう」

 エティは悼むように目をつむる。呼吸のあとにあらわにされた瞳は、先よりもずっと突き放そうとする色を含んで、わたしを見据えていた。

「あなたの知りたいことは、きっと、わたしが最後までわからなかったことと同じなのね。わたしはもうあきらめてしまったのだけれど……いいわ、彼女の墓を掘り返すというなら、この一晩はあなたの好きになさい」

 提示された刻限は、亡きシシリーに友人の訃報を届けるまでの秒読みに等しい。無駄足にするかはあなたしだいよ、と放るように言って、エティはわたしに背を向けた。


 シシリー・マクレインと住んでいたという小さな家を、今はエティが一人で使っているらしい。彼女はわたしが休む部屋として、シシリーの寝室を貸し与えた。

「彼女の私物ならほとんどがここに残っているはずよ。好きなように触れてくれて構わないし、必要であれば持ち帰ってもいい」

「エティにとって大事なものは?」

「あいにく、そういったものはないの。もともとシシリーはものを持たない人だったし、描いていた絵もほとんど買い手や貰い手が付いたから」

 手元に残ったのは、わたしが抱えてきた翼の娘の絵ぐらいであるらしかった。それを祖母のもとに送ったのはエティ自身であったという。

「最後に描かれた一枚だもの、シシリーのいちばんの友人が持つべきだと思ったの。わたしは絵のことが分からないし。価値を見出してくれるあなたの手に渡ったのなら、その絵もきっと幸運だったのね」

 他人事のように言う。価値、とくり返すわたしに、エティは微笑を浮かべるだけだった。

「夕食の時間に呼びに来るわ。あまり根を詰めないようにね」

 エティが立ち去るのを待って、わたしはそっとシシリーのベッドに腰を下ろした。敷かれているのは古いマットだが、軽く払っても埃が舞うようなことはない。持ち主の死後も定期的に掃除がされているのだろう。

 ひととおり部屋を見渡してみたものの、エティの言う通り、私物と呼べるようなものは少なかった。文机の上に画具、本棚に書物。あとはベッドがひとつだけだ。本棚に並ぶ画集の背表紙を目で追ってしばらく、わたしはそのうちの一冊を引き抜いた。

 日記だった。罪悪感を覚えつつ、ざっと頁をめくる。記述自体は途中で途切れているが、どうやらシシリーが学生時代に書いていたものであるらしい。文の合間にはいくつかの素描が見られた。

 叱られないだろうか。逡巡し、背を丸めて最初の頁を開く。

 シシリーの過ごした日々にこそ、わたしの知りたいものが残されているような気がした。たったひとつの記述でも、自分との類似点を見つけ出せたなら――抱く期待は淡い。読み進めるにつれて響くようになる耳鳴りは、つい先日、教師から叩きつけられた批評の音をしていた。

 絵を描くこと。わたしの描くべきもののこと。本当に描きたいもののこと。

 一度としてその意味を考えたことがなかったから、わたしはかれの前から、逃げるようにして走り去ることしかできなかったのだ。


 シシリーが夢見がちな少女であったことは、彼女の綴る文章から見て取れた。

 彼女の学生時代、五十余年前といえば、まだ戦後間もないころだ。学校に通っていた子女がみな相応の身分を携えていた時代。とはいえ彼らの家は戦争がつまびらかにした不都合を覆い隠すのに必死で、十把一絡げに学徒などと呼ばれはするものの、血筋の確かさにはいくらかの違いが生じていたようだった。

 シシリーもまた、戦前には莫大な富を築いていたはずの貿易商の一人娘だ。はずの、とは言葉の通りで、特需を峠にじりじりと勢いを失っていく彼女の家は、シシリーがこの日記を書くようになるころ、ほとんど倒産手前にまで傾いていた。

 家の立て直しを図る父親によって婚約者も決まっていたようで、たびたびサイモンという名の年上の男性と街に出ていたことが綴られている。ただし当の本人は、相手がお優しい方でよかった、今日はお褒めの言葉をいただけた、自分は幸せ者なのだろうと、前向きに捉えていた節はあるのだが。

 彼女のいちばんの楽しみは、学びごとの合間に学友と写生にくり出すことだった。その学友というのが、ほかならぬわたしの祖母リアナ、旧姓にしてリアナ・マーゴットである。シシリーと同い年でありながらずっとリアリストで、「少し考えが甘いんじゃないかしら」と口を酸っぱくして言うのが彼女の常のようだった。

 シシリーは書き残している。

 ――写生に励んだところで、絵を売って暮らすにはわたしの身分は窮屈だったし、いつか訪れるだろう未来はまったく別のところにあるとわかっていた。だからわたしにとって、絵を描くことは本来ままごとでしかない。命を費やして絵を描くようなことを、お父様は許してくれないだろうから。

「『とは、いうけれど』」

 頁をめくって次へ。直前までの整った字列とは打って変わって、書き殴るかのようにシシリーは続ける。

 ――そうはいっても、わたしは唯一の趣味に楽しみを見出していたし、いっそ愛していたと言ってもいい。絵を描くことは、自分にとってもうひとつの世界への扉であったのだ。わたしはきっと、こうありたい、こうあるべきだと、わたしなりの祈りを込めて、世界を描き続けているのだろう。

「大げさな人……」

 それが時勢によるものなのか、シシリー個人の資質なのかは明らかではないけれど。

 ともあれ、シシリーはいわゆる「冒険ごっこ」を好く類の少女で、同年代の少女たちに比べるとずいぶんな変わり者であったようだった。題材探しの散歩をくり返しながら、日々気ままに過ごしていたことが伺える。

「『わたしの毎日は、おおむね平凡に流れていた』。……けして平凡ではないと思うけれど。『この日、少女の姿をした運命に出会うまでは』」

 心臓がひときわ大きく跳ねる。ここからだ、と身を乗り出して、わたしはさらに頁をめくる。いつからか、シシリーの記述は私小説めいた趣を帯び始めていた。

 普段よりも足を伸ばし、廃校舎の脇まで向かったシシリーたちは、物陰にうずくまる少女を見つけた。擦り切れた服を身にまとい、傷んだ髪を風にさらして、まるで翼を刈られた天使のような佇まいで、彼女は膝を抱えていた。

 ――わたしの頭にまず浮かんだのは、生徒の間でまことしやかに語り継がれていた噂話だった。少女の姿をした亡霊、傷だらけのエティ。彼女は姿形を変えないままで、百年に一度、この地を訪れているという。

「……え」

 ――あなたはエティ? とおそるおそる尋ねたわたしに、彼女は言葉を忘れたみたいに口を開閉させてから、アンリエットよ、と掠れた声で答えた。あなたたちがそう呼びたいというなら、エティでも構わないけれど、と。

 そこで足音を耳にして、びくりと肩が跳ねた。勢いよく日記を閉じる。どうやら聞き違いではなかったらしい、早足に階段を上ってきた家主が、部屋の扉を二度叩くところだった。わたしの返事を待ちもせずに、彼女は中に入ってくる。

「集中しているところ悪いけれど、夕飯の時間よ。そろそろ下に」

「……傷だらけの、エティ」

 漏れてしまった名前を呼び直すことまでは叶わなかった。エティはわたしの抱きしめた日記と、なによりわたし自身の表情を見て、すぐにことの次第に気付いたらしい。無遠慮を咎めるでもなく、まるで幼気ないたずらを目にとめたかのように笑ってみせた。

「亡霊でも見たような顔をするのね。ちょうどいいわ、話は食事をしながらにしましょう。おかしく感じるかもしれないけれど、わたしだって、食べなければ生きていけないのはあなたと同じなのよ」


 コンソメで煮た芋とにんじんに、牛肉の塊がいくつか入ったスープ。ナッツを練り込んだパンと、葉物の野菜をちぎったサラダ。最後にミルクを運んでくると、エティはテーブルを挟んでわたしの向かいに座った。

 二人分の椅子と二人分の食器からは、失われたものの気配が滲んでいた。食べるにも、喋るにも、口を開けないままのわたしに、エティは「ビスケットをくれたのが、シシリーだったのよ」と切り出した。スープの食べ方を教えでもするように、一口先にすすってみせる。

「五十年? 六十年? どれだけ前になるのかしら。あなたの調べ上げたとおり、たとえ百年前であったとしても、やっぱりわたしはこの見かけをしていたのだけれど。……そのころのわたしはあちらこちらを転々と歩いて、住んで、たまには働いてみたりもしながら生きていた。彼女たちの学校の庭先に迷い込んだのはほんの偶然だったの。ひどくおなかがすいていたから、きっと昼食の匂いにつられたのだと思う」

 犬みたいね、とエティは笑う。スープの湯気がうっすらと揺れた。

「誰にも見つからないように、木陰で身を縮めていた。まさか絵の題材を探していた女生徒に捕まるなんて思わなかったわ。それどころか、わたしの腹の音を聞きつけた彼女から、おやつのビスケットを差し出されるだなんて」

「シシリーは、あなたのことを誰にも話さなかった?」

「ええ、誰にも。代わりに明日も、明後日も、きっとあの場所で会いましょうって、子供じみた約束を取り付けていったの。あなたのおばあさんは、始終渋い顔をしていた」

 反故にすることはいくらでもできた。しかしシシリーはただの一度も約束を違えなかったという。待ち合わせの時間に雨が降ろうと、傘を握りしめて立ち続けていたと。

「約束はいつまでも続いていった。シシリーが学校を卒業しても、家に勘当されて一人で暮らすようになっても、けして離してはくれなかった。彼女が死ぬ前日だってそうよ。きっと明日も一番に、おはようのあいさつをしましょうねって。約束が守られなかったのは、その一度だけだった」

 区切りを置くように、エティは長く息を吐く。わたしは何を返すこともできなくなって、いつしか逃げるように食事に手を伸ばしていた。塩気の薄いスープとやわらかなパンは、エティとシシリーとの約束に、何度となく用いられてきたのだろうと思われた。

「傍にいることを強いておきながら、シシリーはわたしに何も求めなかった。言葉だって、体だって、何ひとつ。その上最後に描き上げた一枚は、わたしに自由を託している……」

「翼の彼女は、あなたなの」

 エティは答えず、スプーンをコップの中に放る。硬質な高音が耳を叩いた。

「シシリー、かわいそうな子。わたしのような亡霊に狂わされて。……彼女が死んでから、なにも訊けずじまいだったことだけをずっと憶えているの。笑い方も、声も、もうずいぶん忘れてしまったのに、不思議ね」

 ぞっとするほどの静けさをごまかすように、エティは空になった器を重ねていく。

「あなたが来たからあやふやになってしまったけれど、本当なら、今日のうちにここを発とうと思っていたのよ。昔のような放浪に戻るつもりで。故人にとって何者でもないわたしが家を占領しているんじゃ、彼女の知人が気の毒でしょう」

 千切れたパンの、最後の一口を飲み込んだ。わたしはとうとう縋るものを失くして指をすり合わせる。もやもやとした違和感が頭を覆っていた。

 自由、とエティは称したけれど、わたしがあの絵を持ち出してきたのは、シシリーの執念を感じたためではなかったか。生命に満ち溢れた翼を、しかし標本じみた正確さで描いてみせた一枚に、心臓を引き絞られるような心地がしたから。

 けれどそれを口にするのも気が引けて、両手を机に重ねたまま長くうつむいていた。エティの指先が、ふいにわたしのそれに触れる。反射で身を引くと、「勘違いならごめんなさいね」と彼女は目を伏せた。

「あなたも絵を描くひとなのかしらと思って。シシリーと同じように、薬指にペンだこができていたから」

 心の柔らかいところに触れられた気がして、うまく呼吸ができなくなる。――シシリーとは違う、形ばかりのものよ、と返したら、彼女は困ってみせるだろうか。それとも幼いと笑うだろうか。自分の言葉すらうまく見つけられない私を。

 返事を探して、長く迷って、結局は不格好に首を振ることしかできなかった。

「……絵を描いているということと、絵を描くひとであるということは、違うわ」

 それで生計を立てているとか、職業として名乗っているとか、ではなく。

 言葉にした途端、腹に詰め込まれた異物ががなりたてる。祖母も、シシリーも、アンリエットも、結局のところわたしとは無関係だ。お下がりの物語に爪を立てたところで、てのひらに残るものなどない。自明のはずだった。

「わたしに描きたいものがあったわけでも、描かなければ生きられないわけでもなかった。でも、ただ、そうしていることで、わたし自身が、何かになれる気がして」

 初めて母の顔を描いた日、彼女が喜んでくれていたのを憶えている。彼女は祖母の仕事を継ぐために半生を過ごした人だから、わたしがわたし自身の夢を見出したこと――見出したように見えたことが、何より嬉しかったのだろう。

 わたしには自由が許されていた。許されていたから、そう生きなければならなかった。

 知らず知らずに身を食むものは、呪いと呼ぶのがよいのだろうか。わたしの中の空白を教師に指摘されたとき、気付けば私は教室を抜け出していた。

 わたしは、わたしを名指す名前を知らない。

「エティ、」

 だから黙り込んだ彼女に、心臓を差し出すようにして、問うほかになかったのだ。

「わたしも、あなたを描いてもいい……」

 吐き出した、瞬時に後悔して、喉を絞めたい衝動に駆られる。彼女の耳にだけは届かなければよいのにと思った。あるいは今すぐ消えてなくなってしまえたら。しかし居間に漂っていた無言は、わたしのささやかな祈りさえも叶えてはくれないのだ。

「……だめよ。あなたの貴重な時間を、わたしなんかのために浪費してはいけない」

 声色は優しかった。

 はっきりと引かれた一線が、そのまま彼女との距離だった。亡霊を自称する彼女との。おそるおそる顔を上げて、エティの瞳が透明であるのを見て取ったとき、わたしはようやく自分の愚かさを呪った。

「明日になったら、すぐにお家へお帰りなさい。そうしておばあさんのことも、シシリーのことも、わたしのことも、すべて忘れてしまったほうがいい。老人の過去なんかに付き合っていてはいけないの。……ここで起きたことは、みんな、悪い夢だったのよ」

 アンリエットという器の穴は、シシリーの不在によって空けられたものではない。

 彼女が生来抱えていた虚に、シシリーはただ、生涯をかけて蓋をしていただけだ。


 そうしてわたしは、故郷ゆきの汽車に揺られている。

 枕木を踏んだ電車が震える。休日の終わりであるせいか、始発にもかかわらず車内は人でごった返している。人に触れないようにと身を縮め、いつからか無意識に、膝に乗せた本の――シシリーの日記の表紙を撫でていた。

 持ち帰ろう、と決めていたわけではない。荷に紛れ込んでいたことに気付いたのは、汽車の椅子に腰を下ろしたその瞬間だった。思い当たるのはエティとの夕食の直前で、あのとき焦燥に駆られていたわたしは、あろうことかその日記を自分の荷物に押し込んでしまっていたらしかった。今になって返しに向かうこともできず、かといって未読の頁に目を通すこともはばかられ、他人の思い出を抱えたまま汽車に揺られる羽目になったのだ。

 車内の暖房に包まれて、ぼうっとした頭で思いを馳せる。つられるように自分の過去をふり返ろうとするたび、なにひとつとして指先にかかるもののないことを思い知らされた。

 少なくとも、日記の紡ぐ物語に比べれば、わたしの歩んできた十数年の、なんと平凡なことだろう。

 誰に寄ることもなく生きてきて、そのくせ自分が何者なのか、自分で語ることもできなかった。思えば当たり前のことだ、自分を称し得るものは、畢竟、他人の言葉の他にはありえない。鏡の中にしか自分の顔かたちをとらえられない以上、わたしがわたしを知ることはないままだ。

「描きたいもの、なんて、訊かなくてもいいのに」

 下手だと一言、伝えてくれればよかった。そうすればあきらめられた。才能などよりもっと、確かなもので理由が付いたなら。

 深い溜息をついて、ばかみたいだ、と目をつむった。誰かのためでなければ描き続けられなかったように、誰かのせいにしなければ描くことをやめられなかった。報いを受けたのは、他人に背を押されなければ、ぶらんこも漕げない子供だったからだ。

 汽笛がわたしの思考を遮る。乗り継ぎ駅への到着を報せる合図だ。別の路線に乗り換えさえすれば、あとは故郷へ送られるのを、ただ待っていればいい。

 日記をナップサックにしまおうとして、指先は別の突起に触れた。角を生むものの正体には気付いている。一度、慰めるようにしてそれを撫でてから、わたしは汽車を下りた。

 駅にはなよやかな風が吹いていた。

 じきに春が来るのだろう。ホームに据えられた花壇にはもうポピーが咲いていて、重たげに花弁を揺らしていた。わたしは備え付けの屑籠の前に立ち、ナップサックの口を開く。アンリエットを描いた絵画を両手に捧げ持って、しばらくの間眺めていた。絵のことが分からないとエティは苦笑していたけれど、彼女はシシリーにまつわるなにもかもを、自分のそばから追いやらねばとでも考えたのだろうか。

 いや、と首を振る。――ただ、価値の軽重を引き比べた結果に過ぎなかったのだろう。

 アンリエットは透明だった。彼女というカンバスに色を与えるものは、彼女に相対する人々の側だ。見知らぬ地をさまよい歩く私が、無意識に先導を頼んでいたように。

 しかしシシリーはアンリエットに、ただそこにいることだけを求め続けた。亡霊は困惑する。自らを定義する額縁がない以上、求められた通りに振る舞うことすら許されない。

 まるで鏡を見ているようだった。彼女のもとを離れた今になって、ありありと理解できてしまう。絵画を額に押し付けて、わたしは絞り出すように空に問いかけた。

「どうして、わたしをエティに会わせたの……」

 答えはなかった。

 わたしを乗せてきた汽車が、別の駅へと向かっていった。乗り換え先の列車が着くまでに、さほど時間は残されていない。古びた額縁を外して屑籠に放る。残った絵もまた捨て去ろうとして、手を止めた。

 額縁と絵画との隙間に、一枚の手紙が挟まれているのに気付いた。

 体からどっと汗が噴き出す――なぜ気付かなかったのか。暴く必要がなかったからだ。額縁を開けようなどと考えてもみなかった。絵画はあくまでシシリーの遺したもので、わたしの関わるべきものではなかったから。

「『運命でなくても、かまわなかった』」

 手紙を読み上げる声は震えた。正確に口に出さねば、取り落としてしまいそうな気がした。汗ばむ掌を握り、自列の最後までを読み終えたところで、喉はからからに乾いていた。

 急かすように人波が揺れる。わたしの故郷へ向かう汽車が、ホームに到着していた。逃せばもう数時間はホームで待ちぼうけを食らうことになる。帰るのならば今しかない。

 それでもわたしは動けなかった。

 届けるべき言伝が、まだ、残されていたことに気付いてしまった。


 母に与えられた紙幣は、家からシシリーの街までの往復ぶんと少しだけだ。財布をほとんど空にして、息も絶え絶えに走ってきたわたしを、エティはぎょっとした顔で出迎えた。

 彼女の手には花の種の包みがある。靴には砂粒がこびりついていて、ちょうどそれを蒔き終えたところであったことが伺えた。行き先はシシリーの墓前だろうか。声をかける直前の面差しは、飛び立とうとする水鳥にも似ていた。

「どうしたの、忘れ物でも? 部屋にはなにも残ってはいなかったはずだけれど」

「お願いがあるの、アンリエット」

 彼女の手首を握り、両手に捕らえる。

 これは賭けだった。勝ったとしても得るものなどない、不毛な賭けだ。

「あなたを描かせて。わたしの一生のお願いよ」

 金輪際会うことがなくなったとしても、エティに嫌われたとしても、それどころか忘れ去られたって構わなかった。ただ、確かめたかったのだ。

 エティの手を引いて家へと押し入る。彼女を椅子に座らせると、わたしは荷の中からスケッチブックを持ち出した。使い慣れた鉛筆を握り、椅子の上に膝を抱えて、猛然と彼女の横顔を写し取っていく。

 彼女はやり過ごすすべを考えるように押し黙っていたが、観念するように首を振った。

「あなたのことを誤解していたみたいね。おとなしいお嬢さんだと思っていたけれど、ずっと強引だった。昨日も言ったでしょう、私、もう家を出るのよ。ここには二度と戻らないつもりでいたの」

「間に合ってよかった。あのままだったら、きっと後悔したから」

「後悔の主語はあなただけよ。勝手なひと」

 文句をつけながらも、エティは立ち上がらなかった。わたしに横顔を晒したまま、しかし最後の抵抗だとでもいうようによそを向いていた。小窓から取り込まれた日の光が、埃をちらちらと輝かせながら彼女の頭上に降り注ぐ。

 シシリーはアンリエットの背に何を見たのだろう。天使と呼ぶにはいささか無情な彼女だ、渡り鳥の翼を与えたのは正しかったように思われた。

「……あなたが名前を言ったとき」おもむろに、エティは背もたれへと体を預ける。彼女の肩を、腕を、焦茶の髪がしどけなく流れていった。「これはきっとリアナの復讐なのだと思った。シシリーという友人を奪っていったわたしに、わたしがけして得ることのないものを……孫を、子供の存在を、そしてじぶんの死を、見せつけようとしたんだろうって」

「ちがうわ」確証があった。「絶対にちがう」

「あら、どうして」

「おばあちゃんの言伝があったもの。『わたしの大切なおともだち』って」

 エティはくすくすと笑い、首を振る。

「シシリーのことでしょう。わたしに言ったわけじゃない」

「いいえ、間違いなくあなたに向けたものよ。証明してみせましょうか」

 乾いた唇を舐める。わずかばかり鼻白んだ様子のエティに、ひとつひとつ、言葉を選んで伝えた。

「あなたなら、サイモン・フレデリックの名前を知っているはずね、エティ。シシリーの婚約者で、若いころは陸軍将校を務めていた人のこと」

「ええ、もちろん」

「彼らの婚約は、シシリーがまだ幼いころに決まっていた。倒産寸前のシシリーの実家は、彼女の縁談にすべてを託すしかなかったの。シシリーが高等部を卒業するのを待って、結婚する手はずを整えていた……」ひとつ息をついて、続ける。「でもその縁談はご破算になった。結婚相手をなくした彼の現在を知っている? きっと今頃、わたしの実家で、ご機嫌に庭木の手入れをしているところよ。リアナの夫、わたしのおじいちゃん。サイモン・ベルウェット」

「……知っているわ。わたしがシシリーを奪ったせいよ。その余波を受けなければならなかった、かわいそうなリアナ。わたしを恨んで当然でしょう」

 エティがせせら笑う。彼女はわたしの家族構成をじゅうぶんに心得ていた。ともすれば、祖母に関心のなかったわたしよりもずっと。事実わたしが話して聞かせたことは、ほとんどがシシリーの日記に綴られていた内容だ。

 汽車の中でむさぼるように読んだ、日記の中身を思い出す。かつては鮮やかに描かれていたシシリーの日記であったが、頁の末尾に近づくにつれて、次第に言葉少なになっていった。まるでシシリーの有する言葉のひとつずつを、残された日々が奪っていくように。

 そうしてとうとう卒業を翌日に控える日になって、シシリーはリアナを学校に呼び出している。彼女の日記はそこで途切れた。彼女が何を告げたのか、リアナが何を返したのか、明らかにはされないままで。

 ――正確には、破り取られていたのだ。

 最後の記述と見られる頁は一枚、丁寧に冊子から抜け落ちていた。ならばその一枚はどこに消えたのか。問うまでもない、シシリーが手ずからアンリエットに渡した、絵の傍らに挟んだのだ。最後まで口にできなかった、彼女のわがままの顕現として。

「アンリエット、あなたは勘違いをしているわ。あなたがシシリーを奪ったのでも、シシリーが親友を裏切ったのでもない。リアナが道を与えたの。サイモンとの結婚を控えて、とうとうあなたを諦めるしかなかったシシリーに、選択肢を示したのはリアナのほう」

「選択肢? どういうこと」

 エティが顔色を変える。私は汗で滑った鉛筆を握り直し、続けた。

「シシリーは卒業の前日に、リアナに伝えるつもりでいたのよ。自分が結婚したら、もうアンリエットの手を取る人のいないこと。だから誰かに彼女を託すつもりでいた。シシリーが信頼できるのは、リアナしかいなかった。……けれど、リアナ・マーゴットには用意があった。シシリーの未来を丸ごと引き受けるだけの覚悟が」

 かつて母が語った昔話は、しわがれた祖母の姿しか知り得ないわたしにとって、ほとんどほら話も同然だった。聞く先から忘れ、記憶の奥底にしまい込んでいたそれに、わたしはようやく目を向けたのだ。

 祖母を輩出したマーゴット家は、古くは公家の血筋に連なる家系であったという。リアナは家の資金を元手に、シシリーの実家――ベルウェット貿易の資産を買い上げて、自らその名を預かり当主の座についた。破談になりかけていたサイモンとの婚約も引き継ぎ、彼が持つ軍属とのつても利用することで、一代で巨万の富を築いてみせたのだ。

 卒業前夜の失踪の結果、家から勘当され、弾き落されたのはひとりだけ。居場所を失くしたシシリーは、母親の旧姓であるマクレインを自称して辺境に身を寄せた。

「全部、シシリーの願いを守るため。最後の最後まで決して自分の口からは伝えなかった、彼女の願いを果たすため」

 シシリーが綴った願い、日記の最後の一頁。

 ――運命でなくてもかまわなかった。路傍の石のひとつでいい、歯車にさす錆でもいい。

 ――誰かのせいでなければ生きられないひとの煩う、ささやかな錘になりたかった。

 それはアンリエットが、今の今まで探すことのなかった答え。シシリーが祈るようにして隠した内心だ。伝言の形を取らなかったなら、誰にも届かず、焼き捨てられるとも知れなかった独白だった。

「あなただっておかしいと言ったでしょう。おばあちゃんはシシリーの死を知っている。だとしたら、それが届けられるべき相手は、残されたアンリエット以外にはあり得ない」

 しかし祖母にはもう、自らの足でアンリエットのもとへ赴くだけの体力が残されていなかった。だから誰かを恃むしかなかったのだ。自分の娘でも、その婿でもなく、わたしに言伝を預けた理由が、今になってようやく腑に落ちた。

 ――あなたの若く鮮やかな時間の、貴重な幾ばくかを、わたしに分けてもらえるのなら。

 それは、わたしがまだ若かったから。

 アンリエットの手を握り続けるだけの、長い猶予を抱えていたからだ。

「これほどひどい話もないわ。あなたはわたしを勝手呼ばわりしたけれどね、エティ、勝手なのはみんなが同じことでしょう。立場を擲ったシシリーも、親友の願いを私に押し付けたおばあちゃんも……二人のことを知ろうともせず、軽々しく捨て去ってしまうあなただって」

 シシリーの願いはリアナを通じ、わたしの手に放られる。掛け違えた釦を留めなおせるのは、わたしが彼女たちの輪からはじき出されているからだ。

 悔しかった。狂おしいほどの情動を向けられた相手が、よりにもよってそこに価値を見出していないことが。わたしがもがき苦しんでも欲したよすがを、気安く無視する彼女のことが。

 そして羨ましかったのだ。アンリエットを形成する空虚を見抜いてなお、一縷の望みをかけることのできたシシリーが――自分の秘め事を暴いてくれるかもしれないと、最後の最後で祈りを託せた彼女のことが。

「笑ってよ、エティ。日記を読んだとき、わたし、浅ましく期待したの。これこそが運命だと思った。シシリーの執着を理解して、彼女の通った道を知って、そうすればきっとあなたを描きたいって、――わたしにだって思えるはずだって」

 鉛筆が転がり落ちた。こちらに微笑みかけるアンリエットの姿を写し取って、わたしの手は動きを止めていた。つたなく乱れたデッサンの、その端々に覗くこざかしいだけの技巧に、どうしようもなく絶望してしまう。

 エティはわたしからスケッチブックを取り上げる。長い呼吸の末に、問いかけた。

「……あなたには、わたしがこう見えている?」

「違う」鼻をすすり、答えた。「違うの、そうじゃない。だってわたし、また同じことをしている。あなたの欲しがる答えを考えている」

 わかってしまった。自分の中に探すべき熱情を他人に求めている時点で、わたしには最後まで、描きたいものなど見つからない。

「わかっていたのよ、あなたは何も選ばない。わたしと同じようにできている。なのにどうして、あなたにはシシリーがいたの。おばあちゃんがいたの。生涯をささげてまで、選んでくれる人がいたの。……シシリーが何も伝えなかった理由を教えてあげるわ、アンリエット。欲しがればあなたは従ってしまう、器用に彼女を愛してみせるからでしょう」

 賭けはわたしの負けだった。

 シシリーの願いに突き動かされるようにして筆を取れば、自分にも選ぶことができるかもしれないと思った。求められるままのわたしではない、自らの意志で、描くべきものに向き合えるかもしれないと。

「あなたが亡霊なら、わたしはなんだって言うの」

「……ハンナ」

「どうして棄ててしまうの。わたしよりもずっと幸せなくせに、どうして……」

 なにもかも、都合のいい空想だったのだ。運命などというものはどこにもない。掘り起こされるべき宝物、持ち主を駆り立てる衝動が、誰の胸にでもあるわけではない。後ずさりを続けるだけのゲームから、ようやくふりだしに戻るための賭けにさえ、わたしは勝つことができなかったのだ。

 不器用な手つきで、エティがわたしの髪を梳く。幼子にするように。なだめるように。ええ、そうね、あなたの言うとおり、わたしは傲慢だったわね――そう相槌を打ちながら、彼女は何度となくわたしに謝った。

「でもわたしは、あなたの言うものを欲しがったことなんて、ただの一度もなかったの。なかったのよ、ハンナ……」

 それが果たして自嘲であったのか、反論であったのか。逃げるようにして耳をふさいだわたしには、いつまでも判じられないままだった。


 太陽が中天を過ぎようという折、駅前には都を目指す人々が集まっている。帰ろうとする人々、赴こうとする人々、彼らの中には急くような空気が流れていた。

 降る陽光の穏やかさに耐えかねて、わたしは「本当にいいの」と尋ねやる。駅前に辿り着いてから、もう何度目になったかという問いかけだ。空だったはずのわたしの財布には、見かねたエティによって、紙幣三枚と硬貨五枚が押し込まれているのだった。

「あなたも心配性ね、ハンナ」

 エティは肩をすくめて、見送りにと携えていた二枚の絵をちらつかせた。

「シシリーの絵とあなたの絵。買い取ると思えば安いものでしょう」

「大切だなんてすこしも思っていないのに?」

「意地悪な言い方ね。それでもいいのよ」

 エティは絵を抱える。自分に重ねられた空想の皮膜を。まるでそれが彼女の宝物であるかのように錯覚しかけて、なるほど厄介なひとだとわたしは溜息をついた。

「エティが構わなくてもね、わたしの気が済まないの。お金は必ず返しに来るから。といっても、もうお休みは終わってしまうし、来週か、次の長期休暇にでも……」

「それなら、もうしばらくはここにいようかしら。長旅をしてくるかわいいハンナに、お茶の一杯も出ないんじゃかわいそうだもの。そのときは学校の話でも聞かせてちょうだい」

「おばあちゃんみたいなことを言うんだから」

「あら、あなたに比べれば、ずっと歳を取っているに違いないでしょう」

 いたずらっぽく笑いあう。笑声の切れ目を境にして、わたしは一歩を踏み出した。

 駅前にとどまっていた人々が、改札に飲まれていくのを見た。汽車が着くのも時間の問題だろう。その一団に加わろうとして、ふとエティをふり向いた。

「わたしね、絵、やめようと思うの」

 エティは寸秒目を丸くしたものの、しまいにはひとつ、確かにうなずいた。たとえ真反対の答えを出していたとしても、エティは同じ顔で、同じようにうなずくに違いなかった。だからこそ彼女に聞いてほしかったのだ。

 均されるのはまだおそろしい。絵をあきらめたところで同じだ。きっとまた、秀でた何かが欲しくなる。みずからが何者であるのか、問い続けずにはいられない。

 それでも強いて棄てていく。自由という名の牢獄から、自分を放してやるために。

「さようなら、エティ。またきっと、ここで会いましょう」

 エティからの返事が届く前に、踵を返して地を蹴った。人の間に潜りこみ、改札を通り抜けながら、彼女はどんな顔をしただろうか、寂しがる素振りでも見せただろうかと、想像をめぐらすうちに汽笛が鳴る。――きっとそんなことはないだろう。彼女はけして、わたしにものを求めるような人ではないから。

 いつかエティはわたしの前を去るだろう。わたしが引き止めることをやめたときに。身勝手な祖母とシシリーへの、最初にして最後の抗いであるように思われた。それは来週でもいいし、一年後でもいい。三十年後だってかまわない。とにかく手綱を握っているのが自分であることには、いくらか胸のすく思いがしていた。

 言伝を下ろして、ナップサックはひどく軽い。

 わたしを語るためのことばは、まだ、見つからないままでいる。

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