6.怪しげな仮面舞踏会
目元だけ隠した仮面を付けて、明らかにふしだらな事を目的とした場所に来てしまった。
私はこんな場所に来たことが、ルスラム王国で次期皇帝として足場を固めようとしている夫キルステンの足を引っ張るような気がした。
「人間は窮屈に追い詰められると、本能に正直に退行してしまうのかもしれないですね。でも、みんな楽しんでいますわ。ビルゲッタ様! 今日の真っ赤なドレス、凄い似合ってますわよ。たまには、ただのビルゲッタになって楽んだらいかがですか?」
立ち去りたいという私の想いを引き止めるようなアルマの言葉。
「アルマ、でも、私はここで失礼するわ」
「市井の生活を知ることも、皇太子妃として重要なのでは?」
私は幼くしてキルステンとの婚約が決まった侯爵令嬢。妃教育ばかりで、市井の生活が実際どのようなものかは知らない。痛いところを突かれた気になっていると、目の前の仮面をつけた男女が口付けを交わすのが見えた。
「アルマ⋯⋯私、見学は終わりましたので、ここで失礼しようかと⋯⋯」
アルマに話しかけると、彼女は真っ黒な仮面を付けた金髪の男の手を取ろうとしていた。
彼女は私を一瞥するとふっと口の端を上げ、私の耳元に唇を寄せてゆっくりと囁いてくる。
「ここで、名前を呼ぶのは禁止です。楽しんでください。いつもの自分ではない、他の誰かになれますわ。自分を解放するのって、気持ち良いですよ! 少しはその頑丈な殻を破って楽しむ事を覚えないと、夫にさえ触れられない体が寂しがってますわ」
アルマは軽やかにそう言い残して見知らぬ金髪の男に連れられ、体を密着させてダンスを踊る。私はその姿を見ながら、自分には絶対にできないと思った。
(夫にさえ触れられない体⋯⋯)
彼女に言われた言葉が私の心に闇を落とす。初夜は義務。その義務を果たすことさえしなかったキルステン。彼は余程、私が嫌いなのだろう。
たとえ振り向いてもらえなくて嫌われていても、私は彼を想い続ける。前世で彼は本の中の人だったけれど私にとっては初恋だった。そして、今世ではそんな彼と結婚までできている。
(キルステン、会いたい、キルステン⋯⋯)
決してここにいるはずのない夫の名前を私は頭の中で繰り返して、騒めく心を落ち着かせ冷静を保とうとした。例え、彼が私を疎ましく思っていようとも、私は彼を心から慕っている。彼は言わば私の生きる道標。嫌われていたとしても、捨てられたとしても、きっと私は彼の幸せを願う。
私はジロジロと仮面越しに自分を見てくる男たちの視線に不安になり、後ずさる。壁にゴンと頭をぶつけた所で、痛さに自分の現在の状況を落ち着いて見られるようになった。
「美しいご令嬢、私と踊って頂けませんか?」
目の前に来た茶髪に白い仮面を付けた男の言葉に、私は反射的に勢いよく首を振った。
ダンスを一曲踊ったら、個室に連れて行かれるのがこの場所のルールである事が分かったからだ。
好奇心など消え失せ、恐怖心が襲う。
「わ、私は見学に来ただけなので」
「見学? ここは初めてですか? 初々しいですね。実に可愛らしい。私が手取り足取り楽しみ方を教えて差し上げますよ」
私を強引に抱き寄せた茶髪の男が耳元で囁いた。怖くて震えが止まらなくなる。仮面をつけている彼は仕立ての良い服を着ている。実はここは貴族の裏の社交場かもしれない。そう思って、周囲を見渡すと仮面をつけた男女が皆知り合いにも見えてくる。皆、この異様な状況に動揺した素ぶりもない
(ここにいるのは常連ばかり? とにかく私は間違いなく場違いだわ⋯⋯私は、皇太子妃。間違いがある前にここを去らなければ)
私は力強く抱き込んでくる茶髪男から身を捩って逃れようとするが、力の差があってうまくいかない。
「失礼します。彼女は私の連れなので」
私を安心させる聞きなれた低い声がする。
「連れ? そんなものこの自由な場所では存在しないはず!」
茶髪の男は振り向いた先にいた黒い仮面から覗く赤い瞳を見て狼狽した。
赤いルビー色の瞳からはひしひしと殺意を感じる。
「し、失礼しました」
逃げていく茶髪の男を尻目に私は食い入るように赤髪の男の赤く光り輝くルビー色の瞳を見つめる。
(フェリクス? なんでここに⋯⋯年頃だから?)
見慣れたその瞳は私より三歳年上の幼馴染フェリックス・ダルトワ卿のもの。
「美しいお嬢様、私と踊って頂けますか?」
「はい」
私は導かれるように、彼の差し出す手に自分の手を重ねる。
男は私を抱き寄せると自分に体を預けさせた。
(えっ? フェリクス、ちょっとお遊びが過ぎる!?)
指先の少し硬い感触や、男らしい香りに覚えがある私は戸惑った。私の本能が目の前の男は幼馴染のフェリクス・ダルトワだと言っている。でも、彼とは家族のような関係で、私がキルステンと結婚した後は主従関係。こんな風に体を密着させて踊ったこともないので、ドギマギしてしまう。
私は戸惑いながらも、悪目立ちしないよう目の前の男のがっしりした胸板に身を寄せた。
「お嬢様、顔が少し赤いです。人酔いしているのではないですか? 季節も良いので少し外を散歩しましょうか?」
私の耳元で囁く声は、私がキルステンの興味を得られず伏せっていた時に気遣ってくれたフェリクスのもの。
「はい、お気遣いありがとうございます」
私は赤髪の仮面の男に連れられて外に出た。
少し冷たくも感じる夜風が気持ち良い。
周りを見ると白樺の木の影の至る所で男女が睦み合っている。
「なんだか居心地が悪いので、もう少し離れましょうか」
「はい!」
思わず元気よく発した私の声に、男の口角が上がるのが分かった。
無言の男に私がひたすらについていくと、皇城内の薔薇園のところまできた。私は着替えをしている間、馬車で周囲を迂回していただけで皇城からあまり離れていない場所にいたようだ。
(アルマ⋯⋯何でそんなことを)
不安になる気持ちを落ち着けようと薔薇の上品な香りを肺まで吸い込む。仮面舞踏会の会場からは距離があり、周囲に人の気配がない。
手入れされた美しい赤い薔薇に囲まれ、満天の星空の元で私と赤髪の男は二人きりになった。
私は目の前の男がフェリクスだと確信していた。
彼に聞きたい事は沢山あった。
あの嫌らしい仮面舞踏会の会場はなんなのか。
アルマについて何か知らないか。
私の知る限り、フェリクスは皇室に忠誠を誓った剣技ににしか興味のない男。二十三歳の将来要望な彼には多くの縁談があったのに、彼は興味を示さなかった。彼はダルトワ伯爵家の一人息子で来年には伯爵位を継承する。女の影がない事を嘆かれるのはルスラム帝国で彼くらいだ。
なぜ、清廉潔白で真面目なはずの彼があのような場所にいたのかが最大の疑問。
私の頭の中に浮かんだ沢山の疑問は、目の前の自分を慈しむように見つめるルビー色の瞳の前にどうでも良くなってしまった。
いつも、私を心配してくれる私の良き理解者、フェリクス・ダルトワ。
急に猫になり、人間に戻り、いかがわしい場所に置き去りにされた。不安で頭が沸騰しそうだ。
私はそっと身に付けていた銀色の仮面をとって、目の前の男にしがみつく。
「フェリクス! 怖かった! 本当に怖かったの」
男は無言で私を骨が折れるくらい強く抱きしめた。
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