憂鬱なシェリーロワ公爵夫人
公爵夫人となって数年。
理解ある夫のおかげで、アンジュは王国がより良くなる為の活動をすることが出来た。
社交はほどほどで良いと言われているため、必要最低限の付き合いしかない。ただ以前から仲の良い貴婦人達とは、より友情を育み絆が強固なものになっているのだから、良いことだろう。
帝国からもたらされた綿花栽培は、土地が痩せてしまうなどの問題が多いことを王家に上申し、公爵領では行わないようにと夫と話し合って取り決めた。
もちろん仲の良い貴婦人達とも話し合い、彼女達の領地にあった綿花の畑はなくしたと聞いた。ただ農民は教育されていないため、理由を説明しても納得されないことが多い。隠れて栽培している者たちも多く、最終的には畑を焼き払うしかなく大変だったのだと、愚痴をこぼす友人もいた。本当に教育の大切さが身に染みると、アンジュは彼女とその夫に同情したのだった。
公爵領には炭鉱がいくつもある。農夫を炭鉱夫にすることで雇用先を確保したことで、失業者をなくした。もちろん炭鉱近くに、彼らとその家族が住むための宿舎を建てて、衣食住に困らないようしてあげた。
それからシェリーロワ公爵領で商売をする者は、厳しく精査してから許可するようにもしてある。何せ母の身に起きた不幸な事件を思うと、商人というのは金儲けの為なら何をしでかすかわからない野蛮で下劣な人種なのだから。
アンジュは自分の功績は素晴らしいものだと自負していたけれども、王様からのお褒めの言葉はない。褒められたくてやっているわけではないが、それでも少しくらい目に見える形で感謝してほしいとも思ってしまう。
お茶を飲みながらくつろいでいると、侍女が新聞を持ってやってきた。
友人のコラムが掲載されているというから、今回だけ購入したのだ。確か友人は、輸入された食べ物の危険性について研究結果を発表するのだと息巻いていた。
この国は残念ながら、女性が人前に出て何かをするというのを嫌がる傾向がある。だから友人の研究結果も笑われて終わっただけだと言っていた。全く酷い話だ。この新聞だけは、その内容を少しだけだが載せてくれるという。
普段は低俗な事しか書いていないらしいが、まともな記事を載せたいという欲求もあるようだ。意地汚い野良犬のようなものねと、アンジュは思った。友人には、今回ばかりは仕方ないにしても低俗な新聞社と関わりを持たない方が良いわと助言しておいた。今回の記事が認められれば、一流の新聞社から声がかかるはずだとも。
友人のコラムを読もうとすると、目に入ってくるのはいくつもの大きな見出し。
『ココの娘再び王都劇場で上演中。大人気のため当日分のチケットを求め大行列。中には10回以上も観ているという強者も』
この劇は知っている。『ココ・ベネローマ夫人』という、下品で過激な内容が話題の有名な話の続編だ。確か最初は、王都の劇場で一週間ほど公演され、それが人気となって国中で興行されているのだ。
その内容はココ・ベネローマ夫人が平民に落とされたあと生まれた娘が、義父を丸め込み、貴族の未亡人を騙して結婚させ、養子に入り込むとこから始まる。義姉の物を羨ましいからとなんでも欲しがり、ついには婚約者まで奪った。そうして貴族令嬢にはあり得ない淫蕩な日々を送っていた。権力を手に、悪どく人々を苦しめ、未亡人と義姉を虐げ続けていたのだ。
虐げられても誇りを失わなかった健気な義姉は隣国の皇太子に見初められ、ついにはココの娘と義父の罪を暴き処断するというものだった。
人気だからと公爵と観に行った事もあった。公爵は『ココの娘』を気に入っているようで、公演を行なっている劇団を支援するためにパトロンの一人となった。公爵領にも劇団を呼んで、何度も公演をさせている。
「どことなく私たちの話に似ているだろう。この健気な義姉というのが、君に似ている。助けに来るのが皇太子なのが気に食わないがね」
そんなことを言いながら、アンジュの手の甲に口付けを落とすから。パトロンになったことを責められない。
ただやはり劇団などで働いている連中は、義理もないらしい。最近は公爵が呼び寄せようとしても、別の場所で公演が決まっているのでと断られることが多くなったという。やはり貴族の出自でもない下賎な人間は、信用してはならないという、良い教訓だろう。
公爵は別の劇団に声を掛けているようだが、一流と言われる者たちは、理由をつけて話に乗っても来やしない。
『モーラ連合王国全土に線路拡大。駅舎の整備が進む。メデム運河付近は帝国との共同で、蒸気船を開発予定』
劇団が来ない理由となる記事の見出しを見つけ、アンジュは新聞の端をくしゃりと握りしめた。
いまやモーラ連合王国中に、線路が建造されている。南部の港町から、それこそ北部の国境の街まで、蒸気機関車で移動ができる時代となった。馬車で何日も掛けて移動しなければならなかった道のりが、蒸気機関車を乗り継げば一日で移動が出来るのだ。
だがその恩恵は、公爵領にはやってこない。
もう何度も王家に嘆願しているというのに、許可は降りなかった。
蒸気機関車の線路の開発は、国家事業であるから、公爵家が勝手に線路を建造することもできないのだ。王立の科学アカデミーから技師たちがやってきて何やら調べていたが、いつも不許可と書かれた書類を置いていくだけである。
彼らはいつも、シェリーロワ公爵領に建設するには土地が適していないという判断を下すのだ。この公爵領では地滑りや川の氾濫が多いと、ここ数年の災害をまとめた紙を突き出してきて難癖をつけるので、この前は致し方なく少しばかりの金銭を包んでやった。
素直に受け取れば良いのに、金額が少なかったからか、技師たちは「こんな事をしても許可を通す訳にはいきません」とか言って怒って帰ろうとしていた。公爵は激怒して彼らを処分したけど、身の程を知らない人間は本当に面倒だわとアンジュは思った。
今度はまともな技師たちを寄越してもらわなければと、王家に抗議文を送ろうとアンジュは眉間に皺を寄せた。
『王女さまお気に入りビスケット! 旅のお供にフロランの甘くて美味しいビスケットを! フロラン商会、新たに工場を建設。働き手求む』
王家の事を考えていると、新聞に載った広告が目に入った。
フロラン商会とは最近ずっと話題になっている。モーラ連合王国の王女の、大のお気に入りのお菓子を販売しているからだ。あんなものを、王女が食べるだなんて本当に王家の教育はどうなっているのだろう。
王都ではこのビスケットをお茶と共に食べるのが流行っているのだというが、本当にあり得ないとアンジュは思った。
なにせこのビスケット、職人が手作りしている訳じゃない。
工場で大量生産されていて、誰もが気軽に食べられるお菓子として、国中で広まっているのだ。王女が平民のものを食べるだなんて信じられない。広告に王女さまお気に入りとか書かれても、罰すら与えないのは本当におかしい事だ。
このビスケットの販売の仕方にも、卑しさが滲み出ている。
缶に入ったビスケットを購入すると、何百個かに一つに特別な缶の蓋が存在するのだ。その蓋を持って商会を訪れると、木の実入りの特別なビスケット缶が貰えるという。たかだかそれだけだというのに、平民達はこぞって買うのだから、理解出来やしない。
しかもこのビスケットの工場がある場所は、王都のスラムなのだ。あんなろくでなしの吹き溜まりで作った食べ物を口に入れるだなんて、本当に身の毛もよだつと、アンジュはとうとう新聞をぐしゃぐしゃにして引き裂いた。
ああもう忌々しい世の中だわと、アンジュは思った。
もう少しまともな人間が増えれば良いのに、とも。
蒸気機関の燃料となる石炭が公爵領にはあるのだから、王家は公爵家に対して弁えた態度を取るべきである。今の王は何もわかっていないわと、王国の未来を憂いていると、夫であるシェリーロワ公爵が帰ってきた。
先日の処分した技師たちは、事故にあったと報告したのだが、その件について王家から呼び出されていたのだ。
「王から、馬車でも事故が起きるような場所には、やはり線路の建造は難しいななどと言われてしまった」
いつになく苛立つ夫を労いながら、アンジュは何てことかしらと嘆いた。王はやはり公爵家を冷遇しているようにしか思えない。いつか私たちが報われる日が来るわと、気休めにしかならない言葉だったが、アンジュは公爵に声をかけた。
「……そうだな。そういえば、新たに爵位を授けられる者がいる。今度の建国祭で授与式も行われるそうだ」
公爵家も参加するようにと言われているから、新しいドレスを作ろうと夫が提案してきた。
「ええ、それは嬉しいですけれど。一体どのような方が授与されるのです? また平民からの、ですか?」
「いや、それが。なかなか複雑な出自らしい。公国の高貴な血を引いているとか。王が直々に確認をしたから、その出自に嘘はないらしいが……」
「まあ、何か事情があるお方なのですね」
「あまり詮索はするな、だそうだ」
「しかし事情はあるとはいえ、高貴な方がわが国の貴族となるだなんて、素晴らしいことじゃありませんか」
平民が金で爵位を買うより、よっぽどマシだとアンジュは思う。公爵もそれに同意し頷いた。
「それに女性初の爵位授与だ。素晴らしい式典になるだろう」
「まあそれは素晴らしいですわ」
その素晴らしい女性に続きたいとアンジュは思った。式典でその方と仲良くなって、公爵家の現状を訴えよう。きっとそんな素晴らしい人ならば、アンジュの味方になってくれる筈だ。
そうして場合によってはその方とともに、貴族の力を盛り立てようと思った。
思ったのに。
ストロベリーブロンドの女が国王の前へと跪いた。
その身分に不釣り合いなドレスを纏って。安物のイヤリングをつけて。
なんで、なんであの女が。
なんであんな女があそこにいるの。
「このモーラ連合王国の鉄道事業発展に貢献し、市民の食糧事情を改善させ、さらにはスラムの者達の更生に尽力したそなたの功績は、何物にも代え難い。この先も我が国に尽くしてくれることを願う」
その言葉を受け取るのは、あんな学もない、下賤な平民風情じゃない。
「我が身に余る、光栄なお言葉ですわ、陛下」
名門貴族に生まれ、高貴なる者の務めを果たし、王国の未来の為に尽くしてきた私こそが、ふさわしい筈なのに。
陛下は間違っている。こんな事ありえない。あってはならない事だ。
「ココ・シャンティ・フロラン。そなたに侯爵の地位を与えよう。今後も励めよ」
陛下は騙されているんだわと、叫びたくて仕方がなかった。
あの夜に、ノエル家を乗っ取ろうとした害虫は始末したと思ったのに、意地汚く生きているだなんて。
「私の忠誠は陛下に捧げます。すべてはモーラ連合王国の未来のために」