レオンと望まぬ花嫁
レオンの母はセウィ族の村長の娘だった。
本来だったら兄が村長になるはずだったが、幼い頃病を患い、村長になれないと判断されてしまったそうだ。その為、村長の弟が新たな後継となり、以来手もつけられないような乱暴者となってしまったそうだ。だから母は、常に兄の暴力と暴言に晒されていて、いつも兄に謝って過ごしていたという。
「だからね、レオン。ここはとても幸せな場所なの。誰も私を傷付けたりしない、刺繍をして心穏やかに過ごせる、幸せな場所」
そう言って微笑んだ母が、本当に幸せだったのかはわからない。
クレーナッツ伯爵である父はほとんど母の部屋にはやってこなかったし、親しい友人だとか訪ねてくる人もいなかった。そんな生活のどこが幸せなのだろうかと疑問に思ったが、母が伯爵夫人として振る舞おうとしても、クレーナッツ家の親類達の目は厳しかったので、言っていることは本当なのかもしれないと思うようになった。
実際、寄宿舎で生活しているとき、婚約者である令嬢が「社交は面倒くさい」だとか「できることなら好きなことだけしていたいわ」だとか、そういう愚痴を言っているのだという話を聞いた。レオン自身は結婚など遠い話すぎて意識したこともなく、そうなのかと素直に納得していた。
卒業間近、両親が死んだという連絡が来て、あっという間にクレーナッツ伯爵を継ぐこととなってしまい、レオンは早々にその話を参考にする事態となった。
執務にもあまりなれておらず、後見人の叔父にあれやこれやと口を出され苛立っていたところに、勝手に縁談を結んできたという話が来たのだ。あまりもな事に抗議するが、支度金は支払われているし、相手の令嬢は準備をして向かっていると言われてしまい、まともに拒否もできなかったのである。
しかもその話を聞いた直後に、花嫁であるノエル家のご令嬢が屋敷へとやってきてしまったため、レオンは苛立ったまま応対することとなった。
はじめて見た時は、無垢で可憐な少女という見た目で、まさに世間知らずなご令嬢が来たと思った。追い返したくとも無理ならば、せめて母のように心穏やかに過ごしてもらおうと考えて、部屋で過ごすようにと言ったのだ。収穫祭の準備に追われ、構っている暇もない状況だったというのもある。
しかし彼女が屋敷に来て数日、ネーバルが困った様子で報告してきた。
彼女が連れてきたノエル家の侍女が、やたらと女主人の権限を求めてくるそうだ。それは彼女がやらせているのかと問えば、そうでもないらしい。
「マナーの勉強だと言われまして、お嬢さまに対して食事を抜いたりと、かなり厳しく指導されているご様子です」
「……そんなに、彼女はマナーがなっていないのか?」
「立派な淑女かと問われれば、私の口からはなんとも。しかし、厳しく指導されるほど、素行の悪い方のようには見えません」
来たその日に、侍女に叩かれそうになっていたのを思い出す。確かあの時は、ネーバルを悪し様に罵っているのを反論したからだっただろうか。あとでロロナナの店で買い物をしているのを咎められていたと、揉めた理由を聞いたが、彼女自身は王都の貴族にありがちなモーラ王国人という選民思考は持ち合わせていないようだ。セウィ族にも偏見なく接しているらしい。
「一度時間を作ってお嬢さまとお話になられた方がよろしいかと」
「そんな暇などあるわけないだろう」
ネーバルの言葉を一蹴して、レオンは執務に取り掛かった。祭りの規模などに叔父から色々と指摘が入り、予算をもっと増やせなどの要求があったため、それらに頭を悩ませていたのだ。叔父がそのように訴えるものだから、他の村の管理をしている親類達も、こぞって予算がだのなんだのと色々言ってくるのだ。
父が管理していた時と同じ金額でといえば、それでは色々と便宜を図った事に対して見合わないだとか、税金で賄えないとかなんとか。ついには領民から、冬の暖房用の木炭すら徴収するしかないなどと言い出す始末だ。それらの処理と連絡調整をしているため、レオンの執務は日々夜遅くまでかかってしまっていたのだ。
全ては収穫祭が終わってからと思っていたのに、ある日突然屋敷からいなくなってしまった。侍女とノエル領に帰ったのかと思ったが、彼女一人が消えたらしい。まさか誘拐かと報告を聞いて焦るが、ネーバルが多分窓から出たのだと思いますと、侍女に気付かれないように小声で言った。
「ま、窓?」
「ええ、窓が開いておりましたし。窓枠下に足跡が」
「令嬢がそんなことをするのか!?」
そもそもできるのかと驚いていると、ネーバルは口髭に手を当てて言った。
「先日届きましたノエル家からのお手紙とは、全く印象が違いますね。王都の学校での成績は優秀、マナーも完璧でどこに出しても恥ずかしくない娘、というものです。まあああいうものは、大袈裟なほどに良く書いてあるので、参考にしても良いかいささか疑問ですが」
「……王都の知り合いに、ノエル家の令嬢について聞いてみようと思う」
「お嬢さまのことが気になるのでしたら、それが一番かと」
「…………」
彼女のことを調べるのも大事だが、それよりもどこに行ったのかを探さなければならないため、レオンは仕方なしに執務室から出た。
万が一、彼女がノエル領に帰るために屋敷を出たのなら、大事にならないようにしなければならない。叔父にでも知られたら、それこそノエル家や親戚一同で騒ぎ立てられる可能性がある。
一体どこに行ったのだろうか、もし山の方に行ってしまったのなら、危険だ。従姉妹のロロナナに協力をお願いしようと、街の広場に近い炊事場へと足を向けた。するとそこで、彼女はロロナナと笑い合い楽しそうに話をしていた。
予想外の姿に驚いたが、すぐに屋敷に帰るように促すと、おとなしくついてきた。従姉妹のロロナナから、非難がましい視線が突き刺さる。とにかく彼女を部屋へと戻した後、すぐにロロナナが屋敷を訪ねてきた。
「結婚、相手ときちんと話す、お互いを知り合う、しないとだめ。家族離れて、嫁きた、大事にしてあげて」
まさにその通りとかいえない言葉に、レオンは目を瞑った。
「仕事、忙しい、言い訳、だめ。嫁と話す、時間すら、取れないの?」
「わかってる、わかってるよ」
「わかってない、奥さま、いじめられてる」
「……だからあれほど、部屋にいろと」
「そうじゃない、わかってないにも、程がある」
呆れた声を上げた後、ロロナナは眉を寄せて言った。
「彼女はロロナナの友、酷いことしたら、だめ」
ロロナナは物静かな性格で、一人でシピに乗っていることが多い娘だった。同年代のセウィ族と仲が悪いわけじゃない。けれども親しいわけでもない。不思議で掴み所のない子だ。そんなロロナナが、彼女のことを友達だと言い、気遣うような態度を見せている。
レオンが知っている、典型的な貴族令嬢とは、違うような気がした。
公国の劇団が訪ねてきた時も、一悶着あったようだ。彼女とノエル家の侍女との間には、どのような確執があるのだろうか。
ロロナナから叱られた後、何度か時間を見つけて部屋を訪ねたが、ノエル家の侍女に「お嬢さまは体調を崩されておりますので」と断られてしまったのだ。しかし一緒に広場へ行った時に体調を尋ねてみたが、全くそんな様子もなかった。
朗らかな様子に促されるように、つい執務の不安を口にしてしまう。けれども彼女は、励ますような言葉を掛けてくれた。裏表のないような、素直な言葉だった。
本当に、貴族令嬢らしくない。
堂々と言い返してくるし、要求もしてくる。女性というものは、買い物や出かけることを望むとばかり思っていたのに、彼女は一緒に食事をとるだとか、話をするだとか、それから料理を一緒に作ろうだとか、予想外のことばかりだ。
怯むことなくこちらを見つめてくるルビーの瞳が、強く煌めいているような気がして、魅入ってしまいそうだった。
その日の夜、王都の知り合いから手紙が届いた。
女好きで放蕩三昧だが、それだけ貴族の噂話には詳しい男だったのだ。
その男が言うには、アンジュ・ノエルは学校に通っており、数人の男性達にアプローチされているとのことだった。政略結婚されそうだったと周囲に洩らしているという。そしてブルネットの髪色、アメジストの瞳の持ち主で、うちの屋敷に来ている彼女とは似ても似つかぬ容姿だ。
男はさらに付け加えて、ノエル伯爵夫人は再婚していて、相手の連れ子に娘がいると書いてあった。身内だけを集めた夜会でお披露目されたようだが、義妹のものをなんでも欲しがる、頭の悪い愚かな勘違い女と噂されるほどだとも。
「……うちに来たのは、再婚相手の連れ子の方か」
手紙をネーバルに見せると、そうでしょうねと肯定された。
「洗練された淑女というよりは、商人の娘というのがピッタリくるお方ですし。お言葉ですが、ジェイクさまはまた、騙されたのでしょう」
「連れ子を替え玉にして、支度金だけ取られたということか」
「ノエル家の娘という点では、間違いではございませんから。だとしたら侍女のあの態度も納得がいきます。彼女のそれは、主人に対するものではありません」
「義妹のものをなんでも欲しがると……」
「ふむ、さらにお言葉ですがね、レオンさま。私どもが暮らすクレーナッツ領は、あまり商人にとって旨みのある場所ではありません。そしてレオンさまも、商人の方からすれば娘を嫁に出してまで縁を繋げたい、というわけでもないです。クレーナッツ領内の商会ならまだしも、他領の方ならば王都の貴族と縁を結んだ方がよっぽど良いでしょう。絵姿すらないレオンさまとの婚姻を、欲しがったかどうか」
もっともな言葉の数々に、レオンは言葉もない。
士官学校に通っていた時も、戦うことしか脳がない野蛮な一族と揶揄される事があったのだ。クレーナッツ家ではセウィ族の血が入っていると蔑まれ、王都ではクレーナッツ家ということで蔑まれ。自分はどこにいっても認められることがないのだなと、深いため息を吐いてレオンは落ち込んだ。
だがふと、昼間の彼女の言葉を思い出した。
『私はレオンさまのこと、優しい人だなって思うけれど。眉間に皺を寄せている姿は、神経質そうって感じちゃうけど、時々見せる微笑んだ表情との落差が魅力的だわ』
異性からあそこまでストレートな言葉をもらったのは、初めてだった。というかよく考えてみると、口説いているようにも思える。まさか令嬢がそんな事を。いや彼女は元平民だったか。いやでもそんな、そんな。
思考がぐるぐると回転し、レオンは昼間と同じように顔に熱が集まってくるのを感じた。
そんなレオンの様子をどう受け取ったのか、ネーバルは咳払いをしてから言った。
「レオンさま、彼女がどのような理由でこちらに来たか、本当のことはわかりません。ですがノエル家の娘として、あなたさまの妻となった方です。もう少しだけ、歩み寄ったらいかがですか?」
「……ああ、そうする」
彼女と一緒に食事を摂ると、話が尽きなかった。
退屈だと思われないか心配になったが、彼女は次から次へと楽しそうに笑い、美味しそうに食べ、それから声を上げて笑った。どうにも一般的な貴族令嬢の態度ではないので、もしかして令嬢ではないことを隠す気はないのだろうかと思ってしまう。
カエルを捕まえたなんて話は、絶対に他ではしてはいけないと思う。見かけによらず苛烈というか、なんというか。
そういえば窓から出てロロナナに会いに行っていたのだ。それくらいはやるなとも思った。
なんだろう、彼女を見ていると、母とまるきり違う。
母はいつも堪える人だった。
理不尽な事をされても、言われても、唇をグッと噛み締めて、何事もなかったように笑うのだ。
大丈夫、大丈夫よレオン。なんでもないのよと、己に言い聞かせるように呟きながら。
クレーナッツ伯爵との婚姻が認められて、レオンが後継となったら少しは変わるかと思った。
けれども伯爵夫人となった母は、公式の場に出ることとなり、さらに理不尽な態度に晒されてしまった。そしてひどく塞ぎ込むようになったという。
そんな母を見て父は、伯爵夫人としての仕事は何もさせない事にした。母も母で、外には出ようとせず、部屋で刺繍をして一日の大半を過ごしていた。それが良いことだったのか、レオンにはわからない。
ただ母には良いことだったのだろう。そしてそれは、彼女には当てはまらないのだなと、理解した。
彼女は部屋に閉じ込めて置けるような人間じゃない。
外で自由に動き回っていることこそが、幸せなのだろう。
それこそ、クレーナッツ領に引き留めてはいけないのかもしれないなと、レオンはそう思うようになった。それとともに、できればこのまま、彼女もクレーナッツ領で一緒に暮らしていけたのならと、相反する事を思うようになったのだ。
話をするたびに、彼女と一緒にいるのが心地いいのだ。
まるで陽だまりの中で過ごしているかのようで。
屈託なく笑う声は、いつだってレオンが沈み込みそうになるのを引き上げてくれる。
ルビーのような瞳が常に強い輝きをもって煌めいていて、彼女のことをとても、そうとても綺麗だとレオンは思ったのだ。
けれども現実は、いつだってレオンの望みなど叶えてくれない。