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シャンティとクレーナッツ領の人々(二)

 少しだけ暗くなってしまった雰囲気を振り払うように、そしてシャンティは少しでもレオンを元気付けようと、その手を取って、屋敷の中へと入って行った。

「ねえレオンさま、お腹が空いていると気分は落ち込むものなのよ。執務は終わったのなら、少し私と一緒に過ごしましょう」

「な、何をするんだ」

「うふふ、とっておきの楽しいことよ!」

 堂々と宣言してシャンティが向かったのは、屋敷の厨房だった。


「ビスケットを焼きましょう」


 片目を瞑ってレオンに微笑めば、半信半疑の様子でビスケットをと聞き返してきた。それに力強く頷くと、シャンティは生地をこねるのが楽しいのだと教えてあげた。

「嫌なことも何もかも、ビスケットの生地に叩きつけてやるのよ。何もかもぜーんぶ。それをね、オーブンで焼いてしまえば、美味しいものに変身するの。魔法みたいでしょう」

 さあとレオンを厨房に押し込むと、使用人が驚いた様子でやってきた。お願いとレオンに小声で言うと、諦めたように笑って肩を落としてから、使用人に対して厨房を使わせて欲しいと言ってくれた。


「れ、レオンさまがですか?」


「ああ、少し場所を借りたい。それから材料も。何か足りなくなるようだったら、買い足して良いから」

「別に構いませんが」

 シャンティがお願いした時は拒否されたが、屋敷の主人からなら受け入れてくれるらしい。シャンティの望むがままの材料が、あっという間に目の前に用意される。

「さあ袖をまくって、汚れないようにしないと。美味しいビスケットを焼くコツは色々とあるけど、面倒な作業ほど丁寧にやると良いのですってよ」

「そうなのか?」

「秘伝のレシピにはそうあるわ」

「……そもそも私は、あまり調理などということをした事がないんだが」

「あら、大丈夫よ。私がついてるもの」

 意気揚々と話すシャンティに、レオンはそれならばと、妙に真面目な顔で頷いた。どうやら真剣にビスケットを焼く事にしたようだった。その様子がなんだかおかしくて、シャンティは声をあげて笑った。


 そうしてレオンと二人で作り上げたビスケットは、不格好であったものの、甘く良い匂いがした。


「焼きたてのビスケットの匂いって、私大好き。この匂いが香水になれば良いのに」


 レオンに同意を求めると、小麦粉を顔につけて白くなったのに気付かないまま立っている。シャンティがはそれを指摘してやると、レオンは見当違いのところを手でぬぐい、さらに顔をよごしてしまう。

 シャンティは持っていたハンカチで、レオンの顔を拭ってやった。すると耳まで真っ赤になったレオンが、照れた様子でお礼を言ってくる。

 その姿に胸が高鳴り、シャンティまで顔を赤く染めたのだった。


 何をしでかすのかと様子を伺っていた使用人達は、二人の様子に驚いていたが、口を出すような無粋な真似をするようなことはしなかった。


 シャンティがぎこちなくもビスケットを食べようと提案すれば、レオンがそうだなと頷く。が、すぐに疑問を口にした。

「君はさっき、ケーキを食べたとネーバルから聞いているが」

「ケーキとビスケットは違うものなのよ。だからお腹にたまるのもまた別の場所なのよ」

 さあお茶を淹れなきゃねと、シャンティは厨房の隅にある椅子を運びながら言った。

「まさか、ここで食べるのか?」

「そうよ、ここで食べるの。焼きたてはやっぱり、オーブンの前で頂かなきゃね」

 作った人間の特権なのと言えば、レオンはそうかと納得した様子で頷いた。お茶が欲しいわと思うと、いつの間にか使用人がカップにお茶を注いで出してくれている。

「どうぞ、領主さま、奥さま」

「ありがとう」

「いいえ、……いいえ」

 老齢の使用人は、涙を滲ませていた。どこか具合でも悪いのかと思ったが、そそくさとシャンティ達の前から去ってしまったため、訊ねることもできない。

 何かあったのなら後で聞けば良いかと、シャンティはお茶を淹れてレオンに差し出した。

「それにしてもいっぱい焼けたわね。ネーバルさんにも分けてあげましょ」

「た、食べてもらえるだろうか」

「こういうのは、気持ちなのよ。そうだわ、皆さんもよかったら召し上がってちょうだいな。良いでしょ、レオンさま」

「ああ、そうだな」

 驚いた様子の使用人が、レオンの言葉に笑みを浮かべた。ありがとうございますと、使用人達は口々に感謝の言葉を述べている。


「みんな平等に、ってのが良いのよ。同じものを同じだけ、それが一番よ」


 シャンティは焼き上がったビスケットの中からひとつ手に取ると、それをレオンに差し出した。

「そしてほんの少しのサプライズが、特別感を引き立てるの」

 食べてみてちょうだいと促せば、レオンはビスケットをかじり目を見開いた。

「……ナッツが入ってる」

「レオンさまにだけ、特別なビスケットよ」

 他の人には内緒ねと、シャンティは口元に指先を当てながら、ママ直伝のポーズをとってみせると、レオンは柔らかな表情を浮かべている。


「本当に君は……」


「失礼致します、レオンさま!」


 レオンの言葉を遮るように、焦った様子でネーバルがやってきた。ただ事ではない様子にシャンティは身構えると、ネーバルが足早にレオンのもとへと近付く。


「ご隠居さまがいらっしゃっております」


「お祖父様が!?」


「はい、今先ほど。応接室にご案内してあります」

「一体の用事なんだ」

「孫の結婚祝いにきたと、そうおっしゃっておりますが」


 二人の視線が、ほぼ同時にシャンティへと向けられた。


「えっ?」





「レオンさまのお祖父様が遊びに来ただけでしょ? そんなに焦るものなの?」


 とにかく着替えてきてくれと厨房を追い出されたシャンティは、大慌ての使用人に促され廊下を歩いていた。先ほどお茶を用意してくれた老齢の使用人は、困ったような表情を浮かべている。

「レオンさまの御母堂さまとの結婚を、最後まで反対されていたのがご隠居さまなのです。貴族の娘と婚姻しなければ後継から外す、勘当するなど、そういった事を仰られておりまして……」

 それはまた激しい親子喧嘩だなとシャンティは思った。が、しかし、レオンの父親はそこから一体どうやって結婚を認めさせたのだろうかと疑問に思った。

「ねえ、それじゃ前領主さまは、どうやって結婚を認めてもらったのかしら。レオンさましか子供がいなかったから後継になったって聞いたけど……」


「それはアレが、クレーナッツ領に新たな産業をもたらしたからだ」


 話を遮るように声が聞こえてきた。

 視線を向けると、ちょうどクレーナッツ家のご先祖さまの肖像画が飾ってある場所に、精悍な顔立ちの人物が立っている。杖をついているものの背筋はピンと伸び、顔に大きな傷跡のある大柄な老人だった。

「ご、ご隠居さま」

 使用人が青ざめた顔で悲鳴のような声を上げる。

 隣にいたシャンティはというと、この人がレオンさまの祖父なのねと、ある意味その見た目に納得していたところだった。最初に会った時のレオンと同じように、隙のない、厳しい表情を浮かべている。顔立ちはあまり似てはいないものの、雰囲気はそっくりであったのだ。


「お前が、レオンの妻か。わしはバーナード・クレーナッツ、レオンの祖父だ。孫夫婦の仲が大変に良いと聞いてな、喜ばしい事だから、お披露目の夜会まで待ちきれなくて、贈り物を持って駆けつけたのだよ」


 豪快に笑うバーナードの目は、全く笑っていない。シャンティを見定めようと、隙なく伺っているように見えた。


「初めまして、お祖父様。お越しになっていただけて、とっても嬉しいわ。よろしかったら一緒にお菓子でも召し上がりませんか?」


 スカートの裾を持ち上げて、シャンティは淑女らしい挨拶をした。バーナードは眉間に皺を寄せ、さらに険しい顔をする。それを見た使用人はますます怯えていたが、シャンティは怯む事なく笑顔で言った。

「ちょうどビスケットを焼いたところですのよ、お祖父様」

 良い匂いがするでしょうと言えば、バーナードは表情を緩めてそうしようかのと了承の言葉を吐いた。

「焼きたてのビスケットは、わしの好物だ!」

「まあそうなのですか。私の得意なお菓子もビスケットなの。ぜひ味を見てくださる?」

「ははは、構わんぞ」

 バーナードにエスコートされ、シャンティは来た道を引き返した。

 使用人は顔を青ざめさせたまま、深々と頭を下げている。そんなに怖い人なのかしらと、シャンティはバーナードを見上げた。顔立ちはレオンに似てない事もないが、彼はどちらかといえば母親似なのだろうなと思った。

 そんなシャンティの視線に気付いたのか、バーナードが話し掛けてくる。

「なんだ、この傷が恐ろしいか?」

「傷? あら、痛むのですか?」

「いや、古いものだから別に」

「なら良かった。あ、不躾にお顔を見た事を気にしてるのかしら。ごめんなさい、レオンさまと雰囲気が似ているわって思っていたのよ、おじいさま」

「そうか」

 シャンティからしてみれば、顔の傷など恐ろしくもなんともない。それに先ほどからエスコートしてくれているバーナードは、シャンティの歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれているようだった。そういうところが、レオンに似ていると思った。


 流石にバーナードを厨房に案内するわけにもいかず、応接室へと向かえば、レオンが驚いた顔をした。が、すぐにバーナードに挨拶の言葉を述べている。

「連絡してくださると、お祖父様を持て成す準備ができたのですが」

「気にするな! 孫に会いにくるのに、いちいち連絡など必要あるまい。それに驚かせたかったというのもある」

 レオンの責めるような言葉を気にした様子もなく笑い飛ばし、バーナードはソファに腰掛けた。レオンは小さくため息を吐いて、向かいの席に腰掛ける。さてシャンティはどうすべきかと見渡してから、レオンの隣に座った。

「お祖父様、彼女が私の妻……」

「ああ、先ほど廊下で会って挨拶をしたから、紹介は構わん。彼女からお茶に誘われたのだよ」

「ええ、お祖父様には、私の作ったビスケットを食べていただきたくて」

 美味しく焼けたんだと、シャンティは笑顔でバーナードに話しかける。バーナードはすすめられるがまま、ビスケットを手に取ると、一気に頬張った。そして、驚いたように目を見開いたかと思うと、手を顔で覆った。

「お、お祖父様、どうなさったんです? どこか、お加減が?」

 慌てるレオンに、バーナードは手で制して言った。


「いや、すまんな。随分と懐かしい味だと思ったのだよ。……こんなに美味しいビスケットは、友人から貰ったもの以来だ」


 バーナードの言葉に、シャンティは目を瞬かせたが、すぐに美味しいなら良かったわと微笑む。

 そしてそれからバーナードとは当たり障りのない話をして終わった。時間にして一時間も経っていないだろう。

「祝いの品を届けに来ただけだからな、わしは帰る」

「夕食を一緒にいかがですか」

「いいや、若い夫婦の仲を邪魔するわけにもいかんだろう。一緒に夕食を取るのは、今度にしよう」

 そう言ってバーナードは帰り支度を始めてしまった。屋敷の外には、迎えの馬車が待機している。レオンと二人、見送るために玄関ホールまで行くと、別れ際にバーナードがシャンティを見て言った。


「次に会うときは夜会か。レオンの叔父にあたるジェイクは少々面倒な奴だ。嫁いできたばかりで、気苦労も絶えないだろう。無理に参加せずとも構わんぞ。わしが上手いこと言っといてやろう」


 美味しいビスケットのお礼だそうだ。シャンティはどう答えるのが正解か考えあぐねていると、レオンが彼女のフォローは自分がするからと答えた。

「……そうか、どれだけ出来るか楽しみだ」

 ではなと別れの挨拶をすると、バーナードは宣言通り帰っていってしまう。バーナードはこの街から少し離れた場所に、邸宅を構えているのだそうだ。雪が降り積もる前に帰り着けるだろうとのことだった。


 馬車を見送った後で、レオンはシャンティに微笑みながら言った。


「アンジュ、君がお祖父様に気に入られたようで良かったよ」


 残念ながらレオンさまとは春まで一緒にはいられなそうねと、そう思ったのだった。

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