名代辻そば鶴川店 三杯目
そば屋にとって1年で一番の掻き入れ時と言えば、やはり大晦日をおいて他にはないだろう。
日本人は年越しの日、12月31日にそばを食べる。普段は洋食派という者でさえも、この日だけはやはりそばを食べるのだ。
大晦日、この日ばかりは普段閑古鳥が鳴いているようなそば屋でも賑わうくらいだから、人気のあるそば屋の忙しさたるや普段の比ではない。冗談でも何でもなく、戦場のように忙しいのだ。
それは無論、珍そばで悪目立ちしている名代辻そば鶴川店にも当て嵌まる。
早朝から深夜まで、ともかく31日一杯、鶴川店も怒涛のような来客に飲まれ、従業員たちは一休みする暇もなくフル回転で働き続けた。
今日は朝から晩まで通しで働き続けた堂本修司。普段であれば昼間の勤務か夜の勤務だけなのだが、今日だけは店長である修司がいなければ店が回らない。
早番の店員たちが遅番の店員たちと交代するタイミングで修司の顔を見た七海京子などは、そのげっそりとやつれて疲労困憊の様子に引き攣った笑みを浮かべたほどだ。きっと、今日という日が自分の想像以上の激戦になるのだろうと悟ったのだろう。今日は一緒に勤務する坂野と上田も同じように引いていた。
夜の時間で特に忙しいのは、午後9時から12時までの時間である。この時間に、今年のうちにどうにか年越しそばを食べたい人たちが押し寄せ、年越しそばのラストスパートが始まるのだ。
逆に夜12時を過ぎて年が明けると一気に客足が途絶え、元日からは大晦日の忙しさが嘘のように急激に暇になるのだが、名代辻そばはその名の通りそば屋である。正月であろうとお客を呼び込まねば商売にならない。
他のそば屋が軒並み苦戦する大晦日明け、しかし修司には正月であろうと客を呼び込む秘策があった。
普段から珍そばの開発に力を注ぐ男、堂本修司。
当然、正月に集客を見込める珍そば作りにも余念はない。
修司が正月期間の為に開発した新たな珍そばは、その名も『年明けそば』だ。
大晦日に食べる年越しそばに対し、年が明けて新年を迎えてから食べる年明けそば。
正直、ネーミングはダジャレのようなものだが、今回の年明けそば、修司作の珍そばの中ではかなりの自信作だ。
ベースはかけそばで、三段重ねの小さな鏡餅が載ったそばである。橙の部分は柚子の皮をジュレで固めたもので再現し、そばつゆの熱で溶けるように計算されている。
「これさあ、ただのちょっと贅沢な力そばじゃない?」
とは、試作品を食べた京子の弁だが、まあ、その感想もさもありなんといった感じか。
この年明けそば、明らかに修司が普段作る奇妙奇天烈なそばとは毛色が違う、見てくれも味も、かなりまともなそばである。
修司としては、新年を祝うそばを、まさかインパクト全振りのそばにする訳もない。修司にもそれくらいの理性はある。決して見た目の奇抜さだけを求めている訳ではないのだ。
が、京子としてはそれが信じられないらしく、しきりに「あんまり珍じゃない。あんたらしくない」と言っていたのは記憶に新しい。心外なことである。
まあ、ともかく正月対策に抜かりはない。12月のうちから店内に1月1日から年明けそばを売るという告知ポスターをあちこちに貼っておいたし、常連客にはそれとなく正月用珍そばのことも伝えておいた。
古来より変わらぬ正月の定番、雑煮とも互角に渡り合えると自信を持って送り出す鶴川店の年明けそば。珍そばファンやマニアたちならば必ず来てくれる筈だ。
2023年が終わり、年が明けたばかりの1月1日午前1時30分。
修司の期待に反し、今現在、客席には1人のお客もおらず、店内には静寂が漂っていた。
「………………」
あまりにも静か。誰も口を開こうとしない。
ただ、店内に流れる演歌だけが、聞かせるお客もいないのに虚しくリピートし続けている。
「…………こんなもんだって、正月なんか」
あまりの静寂に耐えられなくなったものか、それとも修司を慰める為か、ここで京子がしばらくぶりに口を開いた。
「去年のお正月の時だって、こんなもんだったじゃん?」
「そうですよ、店長。年越しでそばを食べたばかりなのに、まだ年が明けて2時間も経ってないのにそばなんて食べに来ませんよ、普通」
「それに、この時間に外出する人は、ほぼみんな初詣に行く人たちですよ」
京子、上田、坂野が揃って修司に優しい言葉をかけてくるのだが、今の修司にはかえってその優しさが辛い。まるで傷口にシャワーの湯が当たった時のように沁みる。
「ついさっきまでは、あんなにお客さんが来てくれたのに……」
むんずと胸元で腕を組み、憤懣やるかたなしといった感じで鼻から太い息を吐く修司。
いつも修司の珍そばを楽しみに来てくれる常連たちは何処へ行ってしまったのか。
「そりゃ大晦日だからねえ。特需ってやつよ。年が明ければこんなもんだってば」
まるで諭すようにそう言う京子。どうやら今日ばかりはキツい言葉は控えてくれているらしい。
「自信、あったんだけどなあ……」
「まあ、正月三が日明ければまたいつも通りになるわよ」
「その三が日に勝負がしたかったんだよ、俺は……」
「まあ、今は深夜だし仕方ないって。朝になったら、ビールとか飲みに……」
と、京子の言葉の途中で、突如として店の自動ドアが開き、1人のお客が入店してきた。
「「「「!?」」」」
まさか、と、全員が驚愕の視線を入店してきたお客に向ける。
年が明けたばかりで早速の来客。一体どんな酔狂なお客が来たのかと皆が目を凝らしていると、はたして、そこに立っていたのは目も眩まんばかりの神々しさを漂わせる青年だった。
明らかに外国人だと分かる白い肌に、輝かんばかりの金髪、陶磁器のように青い瞳。スラリと背が高く何ともスマートな体形に、歴史に名を残す芸術家が全身全霊を込めて作った彫像のように整った顔。
まるで後光が差しているかのように輝いて見える。
これまで見たこともない初見のお客だが、はたして何者なのか。
「………………あ、い、いらっしゃいませ」
あまりの神々しさに圧倒されてしまったが、しかしお客はお客。ちゃんと接客しなければならない。
修司がどうにか口を開き、ぎこちない口調で言いながら頭を下げると、他の店員たちもハッと我に返った様子で、慌てて頭を下げた。
「「「いらっしゃいませ!!」」」
まるで勤務初日のバイトのようにぎこちなく力んだ様子の面々に対し、男は戸惑うこともなくニコリと微笑んで見せる。
「やあ、どうも。今日はそばを食べさせてもらいに来たんだけど、いいかな?」
軽く手を上げ、何の訛りも感じさせない流暢な日本語で言葉を返す男。もしかすると、日本暮らしの長い人物なのかもしれない。
肌に痛いくらい感じる神々しさに圧倒されてしまったものの、正月早々そばを食べに来てくれた待望のお客だ。接客はいつも丁寧に行っているつもりだが、この大事なお客は更に丁重にもてなさねばならないだろう。
「え、ええ、勿論です! うちはそば屋ですから、お好きなそばをお選びください」
「ありがとう。私は初めてそばを食べるのだけど、おすすめのそばはあるだろうか?」
言いながら、男は厨房に近い席に腰掛ける。
どうやらこの男、まだ食べたいメニューが決まっていないらしい。普通は入り口横の券売機とにらめっこしながら食べたいメニューを決めるものだが、もしかすると彼は券売機で券を買って注文するシステムに気が付いていないのかもしれない。
「そうですね、今でしたら、やはり限定メニューの年明けそばがおすすめですよ!」
おすすめを訊かれたとあらば、やはりそう答えねばなるまい。今日の為に修司が開発した年明けそば。今推さずにいつ推すというのか。
「年明け……そば?」
多少困惑した様子で首を傾げる男。
まあ、彼が不思議に思うのも無理はない。かけそばやもりそばのように店舗を問わず世間に浸透しているものとは違い、年明けそばは修司が作り出したオリジナルメニュー。しかも珍そばに属するもの。更には、ワードからそばの内容を察することが容易ではない。外国人の彼にとっては想像すらつかない未知のそばだろう。
混乱している男に対し、修司はここぞとばかり、ずい、と前に出て説明を始めた。
「日本には年越しの時にそばを食べる風習がありましてね。うちはそば屋ですから、年が明けた新年にも皆様にそばを召し上がっていただきたくて、新年用のめでたいオリジナルメニューを開発させてもらいました」
卓上に置いてあった、ラミネート加工された年明けそばのミニポスターを見せながら熱心に説明する修司。
こうして新年早々お客が来てくれるだけでもありがたいのだが、新年一発目に年明けそばが出ればもっとありがたい。それは熱も入ろうというものだ。
修司の熱が伝わったものか、男は「ほう」と顎に手を当て、何度か頷いてから口を開いた。
「それは何だか縁起がいいじゃないか。では、その年明けそば、というものを頼もうかな」
修司は「来た!」と内心でガッツポーズをしたのだが、当然それを顔に出すことはなく、にこやかに頷きながら「かしこまりました」と頭を下げる。
「あッ! お、お客様……まずは食券を…………」
すぐさま修司は年明けそばの調理に移ろうとしたのだが、ここで京子があることに気付き、慌てて声を発した。
そう、彼は食券を買っていないのだ。
名代辻そばでは全店で券売機を採用しており、口頭で注文を受け付けるシステムは採用していない。それは勿論、鶴川店も例外ではない。
彼にとっては面倒ではあろうが、もう一度立ち上がり、券売機で食券を買ってから戻って来てもらう必要がある。
京子の対応は間違っていない。
「七海、いいから」
が、修司は京子を片手で制し、首を横に振って見せた。
「え?」
困惑する京子に対し、修司はもう一度首を横に振る。
「いいから」
新年1人目のお客、しかも何だか随分と神々しい雰囲気の人物が、最も頼んでもらいたいと願っていた年明けそばを注文してくれたのだ、ここでわざわざ入り口に戻って券売機で券を買って来いなどと言えば彼の機嫌を損ね、注文を取り消して帰ってしまうかもしれない。
新年早々、そんなことになれば縁起が悪い。2024年という年にケチがついてしまう。修司としては、そのような事態は何としても避けたいのだ。
少々面倒ではあるが、相手は1人だし、今は他にお客もいない。事後処理はどうとでもなるし、修司には店長権限という最終手段もある。
「……」
きっちりした京子としては、多少面倒ではあってもお客にちゃんと食券を買ってもらって正規の処理をしたいところなのだろう。
あまり納得はしていないのだろうが、お客の前でグチグチ言うのも憚られると思ったものか、彼女はそれ以上何も言わなかった。
「どうしたのかな? 何か問題でも?」
修司と京子、2人の間の微妙な空気を感じ取ったのだろう、男が不思議そうに首を傾げる。
そんな男に対し、修司は首を横に振ってから営業スマイルを向けた。
「いえ、何でもございません。お代はお帰りの際にいただきますので、その点ご留意ください」
「うむ、ありがとう」
「それでは、おそばが出来上がるまで少々お待ちください」
そう言って修司が頭を下げると、残る3人も修司に倣い、ぎこちなく頭を下げる。
坂野と上田はともかく、京子はまだ不満顔だが、しかしこうなれば彼女も動かざるを得ない。
「上田君、お水頼む」
「あ、は、はい!」
「坂野さん、お餅頼むわ」
「はい!」
修司が素早く2人に指示を出すと、彼らも何とか動き出す。
「七海、ジュレの用意して」
「分かった……」
内心ではまだ不満があるのだろうが、仕事は仕事。京子も頷き、作業に取り掛かる。
そして彼女らの作業と並行して、修司もそばの調理に取り掛かった。修司の担当は、肝心要のそばの調理だ。
手早い調理でかけそばを作り上げ、そこへ坂野が網を使って焼いた餅と、京子が丸く整形したジュレを載せていく。
客の男が上田が注いだ水を飲み終わるのとほぼ同時に、修司は完成した年明けそばを男の前にコトリと置いた。
「お待たせいたしました。年明けそばです」
「ほう、これが……」
何とも芳しい香気満ちる湯気を顔一杯に浴びながら、男が年明けをそばを覗き込んで感嘆の声を上げる。
だがまあ、それはそうだろうと、修司は自信あり気に内心で頷く。何せ、この年明けそばは修司渾身の一作だ。誰であろうと必ず美味いと言わせる自信がある。この、溢れ出るほどの神々しさを纏う男とて例外ではない。
「美味そうだねえ、実に。彼がこだわるはずだ」
顔を上げ、嬉しそうな笑みを浮かべ、しみじみとそう言う男。
「彼……?」
誰のことを言っているのかは分からないが、この男に名代辻そばのことを教えた友人か何かだろうか。彼の言から察するに、その人物とやらは恐らく辻そば通で、強いこだわりを持って彼に辻そばを勧めたのだろう。
「ああ、いや、こっちの話だよ。気にしないでほしい」
訝しんでいる様子の修司に気付いた男が、苦笑しながら曖昧に言葉を濁しながら首を横に振った。
「はあ……」
そう生返事をする修司。
まあ、修司としてもお客の事情をいちいち詮索するつもりはない。どんな動機、理由であれ、辻そばに来てそばを食べてくれるのなら大歓迎だ。しかもそれが自身の作った珍そばであるならば尚のこと感謝しかない。
どのような理由で辻そばに出会うかではない、どんな理由でも、まずは辻そばと出会ってくれることが重要なのだ。味に自信はある。出会って、そしてそばさえ食べてもらえたのなら、誰であろうと美味いと言わせるだけの力は、この名代辻そばのそばには十分にあるのだから。
「では、食べようかな。ええと、確か……いただきます、だったかな? 合ってるかい、これ?」
律儀に手を合わせてそう言ってから、伺うように修司に顔を向けてきた。
「ええ、合っていますが……」
これだけ流暢に日本語を話す人間が、まさかいただきますの言葉を言い慣れていないとは驚きだが、もしかすると母国で十全に日本語を学んでから日本へ来たばかりの人なのかもしれない。そう考えると、いただきますを言い慣れていないことにも納得がいく。いや、きっとそうなのだろう。
修司が頷いて見せると、男は安堵したようにニコリと笑った。
「そうか、良かった。彼が毎日口にしている言葉だからね。私も真似てみたんだ。こちらの世界……あいや、この国では食事の時にそう唱えるのが礼儀なんだろう?」
「そうですね……。まあ、外食の時に言う人はそう多くありませんが…………」
「へえ、そうなのか。とても良い言葉なのに……」
少し残念そうに笑みを零しながら、男は割り箸を手に取り、パキリと割る。割り箸の使い方自体は心得ているようだが、何だか慣れない手付きである。きっと、前知識として割り箸の使い方も頭に入れて来たのだろう。まあ、恐らくは男の言う『彼』とやらの教えだろうが。
現代人があまり外でいただきますの言葉を言わないことについて思うところはあるのだろうが、男は気を取り直した様子で再びそばに向き合う。
「……それはさておいて、まずは冷める前に食べないとな」
そう言って、まずは器に箸を突っ込み、そばを啜る男。心底美味そうにそばの歯応えを楽しんでから、両手で器を持ち上げ、つゆで流し込む。
そして、口内のものを全て嚥下してから、男は満面に笑みを浮かべながら口を開いた。
「…………うん、美味い。これが鰹節と昆布による出汁の味か。確かにこれは、私の子らも夢中になるはずだ」
「あれ? お子様はおそばを食べていらっしゃるんですね?」
男の言葉が少しだけ引っかかり、ついそう訊いてしまった修司。
この男には家庭があるようだが、子供たちはそばを口にしているのに、彼はこれまでそばを食べてこなかったらしい。普通、一緒に暮らしていれば子供たちと同じものを食べるかと思うのだが、どういうことなのだろうか。
言った瞬間、修司はしまった、詮索するようなことを訊いてしまったと、そう思ったのだが、男はほんの一瞬だけ困惑した表情をしただけで、すぐに苦笑いを浮かべた。
「え? あ、ああ……。まあ、そうだね。普段は見守っているから、一緒に食べたりすることはないんだ」
「そうですか……」
子供とは別々に暮しているのか、それとも時間が合わず食卓を共にすることがないのか。ともかく、彼には何か家庭の事情があるのだろう。
これ以上、詮索するようなことを言うべきではない。
修司は静かに頷いた。
それで会話は終わり、男はどんどんそばを食べ進めてゆく。
そばを啜ってから、今度は餅を齧ってその弾力を楽しみ、かと思えば柚子のジュレをそばつゆに溶かし、味の変化を楽しむ。
「やはりどれも美味いね。そばの麺も、この餅というやつも、爽やかな柑橘の皮も。余すところなく全てが美味い」
うん、うん、と頷きながら、美味そうに笑顔でそばを食べ進める男。実に良い食いっぷりだ。
やがて男はそばも具も全てをたいらげると、つゆまで全て啜って器を空にした。
空になった器から唇を離し、ゴトリと音を立てて器を置く男。
彼は満足といった表情を浮かべながら、ふぅ、と熱い息を吐いた。
「………………ごちそうさま。いやあ、美味しかったよ。想像以上だった」
「ありがとうございます。そう言っていただけるとそば屋冥利に尽きます」
彼にとっての初めてのそばは、どうやら満足のゆくものになったようだ。
修司とて料理に携わる者。やはり、お客の美味かったという言葉は何よりも嬉しい。
笑顔で頭を下げてから、修司は空になった器を下げ、彼のコップに水を足した。
男は、その水を1口飲んでから、もう1度、ふぅ、と息を吐き、何だか名残惜しいといった感じで、何処を見るでもない、遠い目を手元のコップに向ける。
「これが年に1度しか食べられないというのは、惜しいものだね、本当」
修司渾身の年明けそば、彼にとってはまた食べたいと思うほど印象に残るものとなったのだろう。
だが、鶴川店に限らず、珍そばというものは名代辻そばにおいて基本的には期間限定メニュー。常設されているものではない。余ほど人気があればリバイバルされることもあろうが、大抵の珍そばは1度提供期間が終わると、もう2度とメニューに載ることはない一期一会のものなのだ。
店長である修司の決定次第なのだが、恐らくはこの年明けそばも今年だけのものとなるだろう。修司の方針としては、同じ珍そばを何度も出すより、新しく開発したものを次々出す方が面白いと、そう思っているからだ。
「年明けそばは3日まで提供していますから、明日か明後日にもう1度お越しくださればまた食べられますよ?」
慰めにしかならないが、修司が気を遣ってそう言うと、男は何故だか自嘲するような笑みを浮かべた。
「いや、私はこちらの世か……じゃなくて、この場所には今日しかいられなくてね」
「あ、そうだったんですか……」
鶴川へは何処か別の場所へ行くついでに寄ったということだろうか。それとも年末年始と出張でこちらに来ていて、明日にも帰るということだろうか。
どちらにしろ、今日しかこちらにいられないのであれば、今後彼が年明けそばを食べる機会は訪れないだろう。
まさに一期一会。珍そばとはかくあるべきという形ではあるのだが、彼の名残惜しそうな顔を見ていると、何だか修司も申し訳ないような気分になってくる。
何と言葉を返せばいいのか、修司がどうにも言いあぐねていると、男の方が先に口を開いた。
「ところでなんだけど、この日本という国では、1年のうちに最も神気が高まるのが1月1日なんだ。何故か分かるかい?」
唐突にそう訊かれて、しかし修司は答えることも出来ず首を傾げる。
何だかいきなり、話題がスピリチュアルな方向に飛んでしまった。
自慢ではないが、修司はあまり信心深い方ではない。むしろ無神論者に近いのではなかろうか。実家には仏壇があるし、葬儀は昔ながらの仏教式、墓も和式だし正月となれば神社に初詣に行くが、普段から神を信仰しているのかというと、そういうことでもない。基本的には神などいないと思っているし、日本にどんな神様がいるかということもそんなには知らない。
だが、普通の日本人というのは概ねこんなものだろうとも思う。大枠で仏教と神道を信じているが、特段信心深くはないし、詳しくもないのだ。
「神気、というのは……?」
修司が逆に訊くと、男は苦笑してからこう答えた。
「まあ、人々の信仰心のようなものかな?」
信仰心。つまり、日本において1年で人々の信仰心が最も高まる日が今日ということか。
「1月1日というと、元旦ですからね。皆、初詣をしに神社へ行きますから、その関係で信仰心も高まるんじゃないですかね?」
有り体な答えだが、修司がそう言うと、男は正解とばかりに頷いて見せる。
「そう、その通り。神という存在は1年のうちで最も信仰心の高まる日にしか地上に降り立つことが出来ない。そして本来、神は現世に対する干渉を禁止されているものなのだが、他所の世界なら別なんだ。その世界の神の許可を得ればね」
他所の世界がどうとか、まるで異世界転生モノのアニメみたいなことを言う男。しかも、何だか自分が神であるかのような言い方だ。いくら神々しい雰囲気を纏っているこの男であろうと、流石に神そのものである筈がない。昔、たまたま空港で見たハリウッド俳優もこれくらいの神々しさを纏っていた。人間は神々しさを身に帯びることが出来るものなのだ。
それにだ、今は別にアニメの話をしているのではない。だとすると、これは仏教や神道ではなく、外国の宗教の話だろうか。
「は、はあ……。それはキリスト教か何かの教えですか?」
修司が困惑しきりでそう訊くと、男は少し間を置いてから首を横に振った。
「……いいや、戯言さ。変な話をして悪かったね」
「はあ……」
何と答えればいいのか分からず、思わず生返事をする修司。
いきなり話題がスピリチュアルなことに飛んだ時は、まさか怪しい宗教にでも勧誘されるのかという雰囲気になりかけたものの、その懸念はどうにか杞憂に終わってくれた。だが、ならば何故、彼は唐突にこのような話をし始めたのだろうか。まさか意味もなく口にしたこととは思えないのだが、修司では流石に真意を測りかねる。
困った顔をして愛想笑いを浮かべる修司に対し、男は何度目かの苦笑をしてから口を開いた。
「ともかく。美味しかったよ。ごちそうさま」
そう言って立ち上がる男。
食べ終わればグズグズせずにすぐ店を出る。回転の速い立ち食いそば屋での立ち振る舞いはかくあるべきだが、今は他にお客がいない。締めにゆっくり水でも飲んで、従業員とひとつふたつ雑談を交わしたところでバチなど当たることもないのに、などと修司は思うのだが、まあ、彼にもそこまでゆっくりしてはいられない事情があるのだろう。
ともかく、お客様のお帰りだ。
それを察して、厨房の方に引っ込んでいた京子たちも出て来て、彼を見送る為に修司の横に並んだ。
「あ、はい。ありがとうございます。お代、800円になります」
本来は食券を買ってもらい、それを受け取る形になるのだが、今回は特別である。この場で代金だけ受け取り、後から修司が券売機で食券を買うような形にすればいい。たまに、1人で来客されるご老人なども券売機の使い方が分からないことがあり、このような処理をすることがあるのだ。
そういう時もやはり京子はいい顔をしないのだが、別に会計を誤魔化したりしている訳ではないし、ちゃんと食券を発行した記録も残している。今は何でも機械化して電子的な処理をする時代ではあるが、それぐらいの人情は残しておいてもいいと、修司は思っている。この東京の片隅、名代辻そば鶴川店にくらいは。
「円……。確か、レートはコルと同じだったか……」
代金を取り出す為だろう、誰にともなく呟きながら懐をまさぐる男。
「え? コル?」
恐らくは彼の国の通貨なのだろうが、聞いたこともない名称である。ドルでもユーロでもなく、コル。アメリカでもヨーロッパでもなければ、南米という感じもしない。一体何処の通貨なのか。というか、そもそもそんな通貨があっただろうか。
「今日は美味しいものを食べさせてもらったから、これで払うよ。おつりはいらないから、きみたちで取っておきなさい」
修司が不思議に思っていると、男が懐から財布らしきものを取り出した。
財布ではなく、あくまで財布らしきもの。何故なら、その財布と思しきものが、まるで中世を描いたフィクションに出て来るような革袋だったからだ。中には何枚も硬貨が入っているのだろう、彼が懐からそれを取り出しただけでジャラリと重そうな音を立てた。
彼はその袋から4枚ほど硬貨を取り出すと、それを修司に直接手渡してくる。
「はい、ありがとうございま……」
と、反射的に受け取ってしまったが、その硬貨を見た途端、修司は驚きのあまり慌てて口を開いた。
「え!? いやあの、困ります!!」
これを受け取る訳にはいかない。修司がこの硬貨を返すべく急いで顔を上げると、しかしそこに男の姿はなく、すでにその場から離れ、出入口の方に向かって歩き始めていた。
「遠慮しなくていいよ。では、私はこれで……」
修司の言葉を遠慮か何かだと思ったのだろう、男は横顔だけで軽く振り返り、右手を上げてひらひらとして見せる。
だが、そうではない。そうではないのだ。これではいけないのだ。
「お客様! 待ってください、お客様!!」
京子たちが不思議そうに見つめる中、修司は必死に男へ呼びかける。
だが、彼はほんの一瞬だけ立ち止まり、
「名代辻そばのそば、美味しかったよ、堂本修司くん。流石、夏川文哉くんの無二の友だ」
とだけ言い残すと、そのまま店を出て行ってしまった。
「……え?」
その言葉に面喰らった修司は、ピタリと動きを止める。
修司の亡き友、夏川文哉。何故、彼の口からその名が出るのか。まさか文哉の関係者で、彼を偲ぶ為に訪れたとでも言うつもりなのか。
生前に修司のことを聞いて知っていたというのなら一応は納得出来るかもしれないが、文哉の死後に開店したこの鶴川店を訪れたことには説明がつかない。
彼は一体何者なのか。そして本当はどういう目的でこの名代辻そば鶴川店を訪れたのか。
「……ねえ、堂本? 大丈夫?」
思考の深みに嵌っていた修司が、そう話しかけてきた京子の言葉でハッと我に返る。
「………………と! それどころじゃねえや! あのお客さんは」
修司は慌てて厨房から飛び出し、急いで店の外へ出てあの男の姿を探したのだが、しかし通りに人が溢れており、彼を見つけることは叶わなかった。
「………………駄目だ。いねえ」
意気消沈した様子で呟き、店内に引き返す修司。
今日は元旦。今の時間、普段であれば森閑としている鶴川駅前ではあるが、今日だけは人の通りも多く、これが途切れることはないだろう。こんなに人が多い中、通りに飛び出して闇雲に探したところで、男が見つかる筈もない。
「ねえ! どうしたのさ、突然?」
店内に戻るや、何だか心配そうな表情でそう訊いてくる京子。見れば、坂野と上田も、何とも言えないような微妙な顔をしている。
まあ、それもそうだろう。傍から見れば、修司のやっていることは奇行である。普段から変わったことばかりしている修司ではあるが、真剣な顔をしてよく分からないことをしているのでは周りも心配になるというもの。
修司は「はあ……」と大きくため息を吐いてから、右手に握り締めていた硬貨を彼女たちに見せる。
「どうもこうもねえ! 見てみろよ、これ!!」
そう言って修司が開いた掌の上には、はたして、明らかに日本円ではない、というかそもそも現行の硬貨かすらも怪しい、4枚の古めかしい金貨が乗っていた。
「……金貨?」
「……金貨ですね」
「……俺、本物の金貨なんて初めて見ました」
3人とも、不思議そうに修司の掌の上の金貨を見つめている。
だが、修司だけは怒り心頭の様子でがなり声を上げた。
「別の国の金じゃねえか! しかもこれ、絶対古銭だろ!? これじゃあお代にならねえってんだ!!」
そう、そうなのだ。これでは代金にならないのだ。
ここは日本であり、流通している通貨は日本円のみ。外貨を使える店というのもあるにはあるが、一般的なものではないし、当然名代辻そばで使えるようなものでもない。しかもだ、現行の通貨ですらない古銭とあらば、銀行のような然るべき場所で両替することも出来ないだろう。というか、これはそもそも本物なのだろうか。まさかとは思うが、金メッキの紛いものであったり、そもそも色が金なだけで別の金属で造られた偽造硬貨ということすらあり得る。
全く、あの男は何というものを寄越してくれたのか。こんなコレクターズアイテムのようなものを渡されたところで店の売り上げにはならないというのに。
だが、憤慨している様子の修司とは打って変わり、京子は冷静な様子で硬貨を1枚手に取り、まじまじとそれを観察している。
そしてややあってから、京子は静かに口を開いた。
「でもこれ……多分、純金だよ?」
その言葉を聞いた瞬間、修司は驚きのあまり目を見開き、京子の顔を凝視した。
「へ!?」
修司だけではない、坂野と上田も絶句して京子のことを見つめている。
皆の注目を一身に浴びながら、京子は説明するよう喋り始めた。
「私でも見たことない金貨だから銀行とかで両替は無理だろうけど、でも、金としての価値はあるよ。これ、24金だし」
言いながら、修司の掌に持っていた硬貨を戻す京子。
以前は外資系金融会社に勤めていた京子である。そんな彼女が言うのだから間違いないだろう。これは純金の硬貨なのだ。
自分の掌の上に、純金の塊が4枚も乗っている。そう思うと、途端に硬貨が光り輝くように見え、掌がズシリと重たく感じる修司。何とも現金なものだが、純金というものには、人には抗い難い魔性の魅力のようなものがある。
修司がわなわなと硬貨の乗った右掌を震わせ、皆の注目がそこに集まる中、上田が静かに口を開いた。
「……あー、これって、18金とかのあれっすか? でも、18金と24金でどう違うんですか?」
まだ大学生、それも高級品などとは縁遠いアルバイトの上田である。金の種類の違いなど知らなくとも無理はない。口には出さないだけで、恐らくは坂野も知らないことだろう。
京子は「そうね」と前置きしてから説明を始めた。
「単純に24金の方が金としての純度が高いのよ」
24金は純度が限りなく100パーセントに近い、まさに純金と呼ぶべきものだが、18金の純度は75パーセント程度。残りの25パーセントは銀やパラジウムなどで混ぜ物をしている。その為、金としての色味や重量、質感といったものにも明確に違いが出るので、京子のように分かる人間は簡単に分かるのだ。
京子の簡潔な説明を受け、上田と坂野も食い入るように金貨を観察する。
「じゃあ、24金の方が高価だってことですか?」
「そゆこと」
「…………確認するけど、これ、本当に純金なんだよな」
どうにか顔を上げ、修司がそう京子に訊く。この硬貨が本当に純金であるならば、年明けそば800円の代金をそこから抜いたところで十分過ぎるほどのおつりが出る。というか、この硬貨1枚の代金だけで年明けそばが何杯食べられるだろうか。それが4枚もあるというのだから驚愕する他はない。
これは何処に売れば高く買い取ってくれるのだろうか。やはり古銭の扱う店だろうか。それとも宝石や貴金属の買い取り専門店か。はたまた古美術商か。ともかく、これを売って余った金額は丸々こちらのもの。その金で私的に珍そばを開発するのも悪くないだろう。休みの日、珍そば研究の為、辻そばではない別のそば屋に行くのもいいかもしれない。
修司がそんな皮算用をしていると、京子が苦笑しながら口を開いた。
「それさあ、いらないんだったら、私が買い取ってあげようか? あんた、刻印ない金貨を捌くことなんか出来ないでしょ?」
先ほどの憤慨を受けてのことだろう、修司の内心など分からない京子がそう提案してくる。
その言葉を受けて、修司もハッと我に返った。
修司は金貨のことに詳しい訳ではないが、それでも、保証書やそれに相当するもの、今回の場合は京子の言う刻印だが、それがない金貨が容易に手放せないことは想像に難くない。絵画や刀剣といった美術品を売る時と同じようなものである。
欲にまみれた皮算用が早くも瓦解し、内心で舌打ちする修司。何事もそう甘くはないということなのだろう。
「お前なら出来んのかよ?」
修司が訊くと、京子は当然だとばかりに頷いて見せた。
「会社員時代のツテでね」
その返答を受け、またしても修司の下種な皮算用が働く。
恐らくだが、京子にこの金貨を売った場合、外で売るよりもかなり安く買い叩かれることだろう。希望的観測も含め、半額くらいで済めばいい方か。半額というのは確かに痛いが、しかし修司にはこれを売り捌くルートがない。後生大事に持っていたとしても宝の持ち腐れだ。先ほどの男が食べた年明けそばの代金をポケットマネーから補填しなければならない分、むしろ損でしかない。だが、それにしてもこれは純金の塊なのだ。半額で売るのは惜しい。価値ある美術品として手元に置いておいてもバチは当たらないだろう。
「………………いや、これは俺が責任を持って保管しておく。あのお客の代金は俺が立て替えておく」
これは手元に残しておく。逡巡の後、修司がそう決めて答えると、京子たち3人が、何故だかジト目でこちらを睨んできた。
「………………1人占めすんの?」
しばしの沈黙の後、京子にそう言われ、修司は思わず「えッ!?」と声を上げてしまう。
「その金貨、私が捌いたら少なくとも数万にはなるよ? それを1人占めするつもり?」
そう指摘され、途端にしどろもどろになる修司。
「ああ、いや、その……」
この金貨は修司が個人的にもらったものではない、あくまでそばの代金として受け取ったもの。であるならば、この場にいる店員全員で公平に分配すべきなのだ。そして、修司は我欲が先行するあまり、そのことをすっかりと失念していた。
「わぁ~、店長最低……」
「俺たちだって一緒に働いてるのに……」
坂野と上田が、非難の言葉を修司にぶつけてくる。本人たちは多分に茶化して言っているつもりなのだが、張本人の修司にとっては何とも胸の痛む言葉だ。従業員のことを大切にしない店長になど店長の資格はない。一緒に働く従業員たちのことをリスペクトしてこその店長。彼らはただの部下ではない、同じ店の仲間なのだから。
「だぁー、もう、わーったよ、わーった! 1人1枚だ! これで文句はねぇだろ!?」
確かに金は惜しいが、その未練を振り切るよう、修司は京子たち3人にそれぞれ1枚の金貨を手渡した。
「分かればよろしい」
手渡された金貨を握り締め、満足そうに頷く京子。彼女に続くよう、坂野と上田も嬉しそうに笑いながら頷いた。
だが、3人とは対照的に、修司は渋い顔である。
「あーあ、もう、折角お年玉が手に入ったと思ったのに……」
まさに捕らぬ狸の皮算用。悪銭身に付かず、とも言えるだろうか。いつの時代も悪の栄えた試しなし。修司の小悪党的ムーブなど早々に頓挫して然るべきなのだ。
「1人だけ美味しい思いしようったって、そうはいかないっての」
掌で金貨を弄びながら、勝ち誇るようにそう言う京子。
「そうそう」
「俺たちだってもらう権利ありますもんね」
坂野と上田も京子に同調するように言う。
だが、そう言う彼らもまた、目が¥マークになっているのだから現金なものである。
大金が手に入ったと思ったのに、お小遣い程度になってしまった。
だが、新年早々、1枚ではあっても金貨がもらえたのだからそれは良しとすべきだろう。例年から考えれば、むしろ上々の年明けといっても過言ではない筈。しかも、その金貨を置いて行ったのは神のような神々しさを纏った謎の男。この金貨は今年の福の象徴、縁起物である。
「………………売らずに取っておくか」
たった1枚になってしまった金貨をポケットに押し込んでから、修司は空になった器とコップを手に取り、厨房に戻った。
皆様、お久しぶりでございます。西村西でございます。
以前、本編である名代辻そば異世界店の感想欄に、神様が辻そばに来店する話を読んでみたい、という感想をいただいたことがあるのですが、本作はその感想を思い出して書かせていただいたものになります。
いつもとは毛色の違う名代辻そばのお話、如何だったでしょうか?
さて、話は変わりますが、本来であれば1月上旬に投稿する予定だった本作、遅れに遅れて2月の投稿となってしまいました。申し訳ありません。
具体的に何とは言えないのですが、1月はとある作業で丸々忙しく過ごしておりました。
そして更に謝らなければならないのですが、2月も結構忙しいのです。上記の作業の続きに加え、確定申告の作業があるからです(泣)。
なので、名代辻そば異世界店の続き、恐らくは3月にならなければ投稿出来ないかと思います。
早速を待ち望んでくれている読者の皆様には大変申し訳ないのですが、いましばらく更新はお待ちください。
何卒宜しくお願い致します。