第四話 私にはあなたしかいない ―岡山茉季―
上野毛ひかり。私の嫌いな女。
私はこの女のことを死ぬまで許さない。
*
世界は私を中心に回っていた。
東京は明るくて星が見えないって授業で聞いた時、見えなくて何が困るんだろうと思った。
だって私には全てがある。細いカラダに白い肌。小さい顔に大きな目。手足はすらりと長くて、髪色と同じブラウンの瞳を誰もが羨ましげに見つめる。
習い事のピアノは週に二日、バレエは週に三日もあって大変だ。でも持って生まれたものを活かさないのは勿体ないとみんなが言うし、そんなことは誰よりも私自身が一番よく分かってる。
可愛さは才能で能力だ。私は生まれた時点で天から祝福されていた。だから自分の指の細さを見ていられるピアノも、自分の華奢さをアピールできるバレエも大好きだった。「こんなに可愛くてなんでもできるなんて完璧だね」って言われるのが、この世で一番気持ちのいいことだと私は物心がつく前から気づいていた。
私はつまり太陽なんだと思う。気づいた時には誰もが見上げる場所にあって、その圧倒的な光ですべてを照らす存在。
いつもそう。気づいた時には周りには何人もの人がいた。かわいいね、一緒に遊ぼうって、小さな頃からそればっかりだった。右に左に腕を引っ張られてばかりの人生。でもそれもしょうがない。石ころだって虫だって、どんなつまらないモノでも光に照らされることで存在できるのだから。
はっきりと自覚したのは小学校三年生の時だった。クラスで何組かに分かれて演劇の発表をしようとなった時、クラス全員で私の取り合いになった。白雪姫は茉季ちゃん以外ありえない。そう言って必死に私と同じグループに混ざろうとするクラスメイトの女子たちを見て、あ、みんな他のグループになって私と同じ白雪姫をやることに耐えられないんだ、ということに気づいてしまった。
だってそれって、なんて情けなくてみすぼらしいんだろう。持って生まれたものの違いでどうしてこんなにもはっきりと差別が生まれてしまうんだろう。
私は泣きながら先生にお願いした。「みんながかわいそうだからグループは一つだけにしてあげて」って。
みんなは「まきちゃん大好き」といって私を囲んだ。私もみんなが大好きだった。その不憫さを全身で表現して、私の価値を何度も確認させてくれるから。
中学は私立に行きたいと母にお願いしたら、二つ返事でその願いは叶った。どうしてと聞かれた時、「もっと上の環境に行きたい」と言ったら、母は「向上心のある子ね」と言って私を褒めた。
向上心と言われれば確かにそうだろう。人には生まれつき決められたステージがある。テレビに出てる芸能人が特にそう。彼女たちは顔が良くてスタイルがいいからあそこにいる。逆にそうじゃないから平凡なその他大勢はテレビの外側にいる。私はその外側にいることが耐えられなかった。だって私には才能があるから。
誰ひとりとして知り合いのいない進学先で、その比類なき才能の大きさはすぐに証明された。私は入学式で何人に話しかけられただろう。同級生だけじゃない。上級生にもたくさん声をかけられた。女子の先輩はちょっと怖かったけど、敬語を使ってちょっと礼儀正しくしていればすぐにお気に入りにしてもらえた。どの部活に入って、とか、どの委員会に一緒に入ろう、とか、そればっかり。みんなどれだけ私のことが好きなんだろうと思った。
友達と呼べる人はいなかったと思う。というか友達って何? もし同じ目線で同じ気持ちを語り合えるのが友達なのだとしたら、これまでの人生で私に友達はいなかったし、そもそもそんなものは必要なかった。ただ私を取り囲んで、私の価値を噛み締め続けていればいい。そして私に気に入られたいと必死になって、私に選ばれることに喜びを感じて、そうして私を大切にしてくれればそれが一番。もしそれを友達と呼んでいいなら、私は学校の全員に「大好き!」と満面の笑顔で叫ぼう。
早く、早く誰か力のある人が私を見つけて。こんなに誰からも愛される人間がただ道を歩いていていいの? 私は日本の広いことにうんざりしながらトモダチと渋谷と原宿を歩き続けた。釣れるのはナンパと怪しいキャッチばっかりで、東京も終わったな、と肩を落とした。
みんな「マキに声かかんないのホント不思議だよね」と口々に言った。「案外そういうもんじゃない?」と言った口の中はキャラメルマキアートの味でいっぱいだった。
私が私の価値を疑わなかったように、誰もが私の価値を疑わなかった。
突き詰めると、私に努力は必要なかった。誰かに愛されたいとか、好かれたいとか、よく分からない感情だった。何をしてもしなくても周りが私を囲むなら、別に私立とか公立とかどうでもいいことに私は気づいた。ただ高校は制服が可愛いところに絶対に行きたい。私は母に「頑張るのに疲れちゃった」とか言って、私の価値を一番引き出してくれる高校に進学することにした。
そしてやっぱり高校でもトモダチはできなかった。だって周りがきゃあきゃあ騒いで私を持ち上げるから。
高校生にもなればメイクの一つや二つしていくのは当たり前。校則が私の何を縛れるっていうんだろう? 私はすぐにクラスの華として君臨した。平々凡々と生い茂る雑草の中で、ただひとり私だけが一輪挿しで花びらを広げることを許されていた。
高校一年の一学期はみんな少しでも早くグループを作りたくて必死だった。グループの価値はそのグループの筆頭の顔で決まる。誰だって私を輪っかの中心に据えたい。私には選ぶ権利があったから、顔のそこそこいい子を中心に、あとは自分自身の価値をよく理解している子をふたつまみくらい。そうしてできたグループは盤石で、誰もが入りたそうに指を咥えてこちらを見ていた。そんな風に見られても、生まれた瞬間から決められたステージは変えられないから仕方がない。私だって別に邪険にしたりハブいたりしたいわけじゃない。ただ私という存在がここにあるだけで、避けようのないものだと思って諦めてもらうしかない。
「マキ、カラオケいこうよ!」
「マキ、一緒に試験勉強して~」
「マキ、そのコスメどこで買ったの? 同じの使いたい!」
「マキ、どうしたらそんな風に生まれてこれるの?」
これまで何百回も聞いてきたテンプレめいた文字列に返せる言葉は一つ。
「えー? どうだろうね」
私は言葉に意味を持たせなくていい。
勝手に相手が価値を感じてくれるから。
*
高校二年の一学期の初日。私は人生に退屈していた。
満たされすぎていて刺激がない。私はグループの中の誰かと誰かをぶつけて仲違いさせたり、ちょっと気持ちが重めの子にわざと冷たくしてメッセージアプリにどれだけ通知が来るかを眺めたりしながら、なんとか日々を凌いでいた。
保留にしている告白の返事はいくつあったっけ。次の土日は誰と約束してたっけ。全部がどうでもいい。
うちの学校はクラス数がそれなりに多く、クラス替えで教室の顔ぶれがガラッと変わった。知ってる子は少数で、どの子も私を見て顔を綻ばせて近寄ってくる。運のいい子たちだなと思いながら、さてどうメンバーを組んだら楽しいかなと、私はパン屋でトングをカチカチ鳴らすような気持ちで教室を見渡した。
既に新しいコミュニティを作り始めてる子。知ってる相手と輪っかを固めてる子。一人で所在なげに周りを見てる子。窓際で頬杖を突きながら外を眺めてる子。
ちょいちょい、最後の子。そんなに雰囲気作っちゃって高校生活大丈夫か? 私クールです、あまり話しかけないでください、みたいな空気、正直痛くて見ていられない。そんな子に限って繋がりに飢えてたりする。
楽しいかも。そう思って、私は窓際の子に近づいた。学期始めに張り出される席順表は大方頭に入っていたけれど、苗字の読み方が分からなくて、私はとりあえず下の名前でその子を呼ぶことにした。
「カレンだっけ? 一年の時どこクラスだった?」
儚げに見てる視界の先を私でいっぱいにしてあげよう。そんなことを思いながら、私は窓の外を見つめるカレンを見下ろすようにして立った。
さあ、この世界に溢れる理不尽を感じて。自分のステージは生まれた瞬間から運命づけられていることを、私を見ることで思い知って。そして私を――
「……? ああ、えっと、なに? ゴメン、夜更かししちゃって眠くてさー、てかその香水の匂い、あそこのでしょ? 私アレあんま好きになれなくてさー」
私は言葉を失った。
え? は? そんな単音ばかりが頭の中を埋め尽くしていた。
理解が追いつかないのか、それとも理解したくなかったのか。
後者の可能性が脳裏をよぎった瞬間、私の全身を覚えのない恐怖が包んだ。
生まれた瞬間から人のステージは決まっている。
そして、それらを隔てる壁の、恐ろしく分厚いことも知っている。
なら、この人のステージは。
そして、私のステージは。
「そ、そうなの、私もあんまりって思ってたとこ。もらいものなんだけど、せっかくだから一回くらい使おうと思って」
「あーね、あるある。てかめっちゃかわいいね! 推せる! 名前なんだっけ、えーと、どこクラスだった?」
「わ、私? 茉季。岡山茉季」
「マキね、そんじゃお昼一緒しよ! あ、でも現金入れたお財布忘れてきたんだった……ごめんマキ、千円貸して! 学校でカード使えないの不便だわー」
「出た出た、お嬢さまアピール」「カレンの家まじどうなってんのー?」「カード持たされる女子高生とか聞いたことないわ」「私だったら一瞬で溶かす」
「うるっさい! これでも節度を守って使ってるんだから! ったくもー、ウチはウチで大変なの!」
なんだ、これ。
なんだこの集団。なんだこの真ん中にいる人間。
なんだこの、高身長で、色が白くて、顔が小さくて、目が大きくて、さらさらな茶色い髪をした――私よりかわいい女は。
一学期が始まって何日が経った? 一日……いや、ゼロ日?
それなのに、このカレンという女は、窓際をぼけっと眺めているだけで、どうしてこんなにも人間が寄ってくるんだ?
あ、違う。
私も、寄ってきた中のひとりなんだ。
それに気づいた時、私の人生は終わりを告げた。
新しい岡山茉季の人生。
それは劣等感と恐怖をお粥状に混ぜたものを、ホースで無理やり喉に流しこまれるところから始まった。
「マキさむーい、カイロ持ってたっけ?」
「うん。はい、どうぞ」
私は10枚入りの袋から、貼るタイプのカイロを一つ取り出してカレンに手渡す。カレンはそれを当たり前のように受け取り、外袋を開けるとペリペリとフィルムを剥がして、出たゴミを「はい」と私に差し出した。それを私もまた当たり前のように受け取り、手の中でくしゃっと小さく潰した。
それだけで私はめまいに襲われた。これまでの人生で、煩わしいゴミを押し付けるのは私の方だった。そのゴミを今は自分が握っている。みすぼらしいと蔑んでいた側の人間になり下がっている。
その事実がどうしても受け容れられなくて、許せなくて、自分はこんなことをするために生まれてきたんじゃないと思うと胸の奥が詰まって苦しくて。
「マキ、大丈夫? 調子悪いなら帰る?」
「えっ? ううん、全然大丈夫だけど!」
だけど、その苦しさ、虚しさを飲み込むほどに大きかったのは、恐怖。
頂点に君臨する人間はその指先ひとつで周りの人間の行き先を変えられる。私はそれを誰よりも知っている。
だから笑った。だから答えた。だからその人の目を見て、その人の視線の先を追った。
怖い。恐い。私は初めて恐怖を知り、そして自分を知った。
「あ、そのネイルこの前バズってたとこのじゃない? さすがマキだなー!」
「わかる? カレンがかわいいって言ってたから、気になって行ってみた。お店の雰囲気もよかったよ?」
カレンの顔がキラキラと輝く。その目で私を見ている。私を評価している。
安心する。満たされる。カレンが見ているのなんて頑張りのほんのひと欠片。だけどそれでもいい。十個準備した中の一個でもカレンに刺さればそれでいい。
そうでなくてはいけない。常にカレンの目に止まっていなければいけない。私は、マキは、カレンの一番でなくてはいけない。
カレンの次の席。私が守らなければいけないステージはここ。ここにいれば、マキはカレンのお気に入りだと周囲に認めさせれば、周りは私を羨む。「そんなにかわいいんだからカレンの隣にいられて当然だね」と思ってもらえる。
私は二番じゃない。カレンの一番の友達。
私の目測通り、カレンは一学期が始まって半年も経たないうちにクラスの、いや、学年の女王として君臨した。
圧倒的なルックス。コミュ強の風格。滲み出る金持ちの遺伝子。小細工なんてひとつもない。カレンこそ、持って生まれたものだけで世界を操作できる人間だった。
一年生の時に私の周りにいた子は全員、目をぎらつかせてカレンのことを見ていた。女はしたたかだ。誰だって身に着けるアクセサリーは高級な方がいい。
「わたし一年のころマキと仲よかったの!」
そう言って彼女たちは私の背中に靴跡をつけてカレンに近寄った。必死になって築いてきただろう私との関係は、カレンに好かれるという目的の前にはもはや便利グッズだった。なぜなら今、彼女たちの私を見る目はモノを見る時のそれだったから。
でも私はお前たちとは違う。顔も、スタイルも、何から何までカレンに限りなく近い。私は変わらず特別なんだ。そんな奴らがカレンに一番に愛されるわけがない。そんなことはあってはならない。
私は悟った。今日まで私が積み上げてきたものは、今日のこの試練を乗り越えるためのものだったんだって。そう考えたら私は幸福だった。だって私なら一番にカレンに愛してもらえる。私はかわいいから。そして、どうすれば可愛がってもらえるかを誰よりも知ってるから。
「ねぇ、カレン」
グループでカラオケに行く道の途中。私はカレンの横にととっと駆け寄って自然に手を握る。
「おっと、マキったら甘えんぼさんね」
「甘えられるのが好きってこの前言ってなかった?」
「よく覚えてるね? マキみたいなかわいい子に甘えられるなら大歓迎だよ」
「やったぁ」
私はカレンの庇護欲を刺激する。好奇心を刺激する。満足感を与える。全能感を与える。征服欲を満たす。カレンの欲ならなんでも満たす。
私だからできること。私だから分かること。何を言われたら嬉しいか。何をされたら嬉しいか。人前で好意をアピールされること。分かりやすく私が一番でしょって顔をして、他の子のことをチラッと見ること。岡山茉季はそういうキャラ。あざとく抜け駆けして、それを咎められない可愛げのある女の子。犬みたいに尻尾を振って、カレンの行くところならどこにでもついていって。
吐き気が止まらない。でもこれは私が変わるための成長痛のようなもの。これまでの岡山茉季の形はいらない。私は全身の骨を折って砕いて、カレンに一番沿った形の女になる。カレンという星の光を一番間近で見ていられる存在になる。
その権利を周囲にひけらかしている自分自身を想像した時、私は救われたような気持ちで、恍惚とした表情を浮かべていた。
でも、もしかしたらこれが本当の私だったのかもしれない。
そう思ったのは、夏休みに入る前の、期末試験の最終日のことだった。
その日は試験勉強と、カレンがフォローしてるアカウントのチェックと、見てるドラマの復習と、そして何より大切なお弁当作りとで一睡もしていなかった。
珍しいことじゃないからもう慣れていた。ルーティンのようにそれらを繰り返す日々にもう苦痛はない。
それよりも、玉子焼きが上手く焼けたかとか、カレンも勉強で無理してないかとか、そんなことばかり考えている自分がいた。
そうしている最中に思ったのだ。
「――好き」
「へ?」
「……カレンのいっぱい食べるとこ」
夏の屋上は強めの風が吹き抜けて、扉を出てすぐのところは影になっていてコンクリートが冷たい。
本当は入っちゃいけない場所だから、他の生徒も寄りつかない。そこは私とカレンの二人だけの聖域だった。
一層強い風がカレンの長い髪をなびかせた。前髪を崩すまいと躍起になって手で額を押さえていると、無造作に髪をかき上げるカレンと目が合った。
「私も好きだよ」
「……え」
「こんな甲斐甲斐しくお弁当作ってくれる子、ほかにいないもん」
今朝から私の中で疼いていたそれが、ぷく、と土を割って芽を吹いた。
信じられない気持ちになったけど、きっとそれはそうだった。
私は息を飲んで、そうしなきゃじゃなくて、そうしたいという気持ちで、もう数センチだけカレンに近づいた。
「好き。カレンのことが好き。一緒にいたい」
「いいよ。夏休み予定ないし、いっぱい遊んじゃおっか」
うるさい蝉の声。焼けるような日差し。憎らしいだけの夏の昼下がりが、今はこんなにも優しい。
それを知った私は、間違いなく世界で一番幸福だった。
夏休みは私とカレンのすべてだった。
たくさん遊んで、遊んで、遊んで、何度も好き、好き、好きと言った。その言葉はいつしかカレンに届いて、カレンは私を愛してくれた。
全てが報われる気持ちだった。過去の自分がどれだけ空虚な人間だったかも思い知った。
でも今は怖くない。私を理解してくれる人がいるから。
私とカレンの間を隔てるものは何もない。どんなことがあっても、私にはあなたしかいない。
二学期の席替えは思ったようにならなかった。
私は教室の扉に一番近いところの最前列で、カレンはそこから離れた列の一番後ろから二番目の席。自分のくじ運の悪さを散々恨みつつ、それでも焦りは自然となかった。
カレンと目が合い、手を振る。カレンは相変わらず眠そうで、気だるげにでも手を振り返してくれる。私の日常はそれだけで極彩色に色づいた。
休み時間は必ずカレンの席に行って、カレンの好きそうな話を時間の限りした。カレンはいつも私を褒めてくれた。そしてよく消しゴムを失くすカレンのために、ロッカーに何個もストックしてある消しゴムを週に何度も渡した。ストックはたくさんロッカーの中にあるからいつでも言って、と私は得意げに伝えた。
でも、カレンは夏が過ぎゆくにつれ、少しずつ気だるさを増していった。授業中はしっかりしてるけど、休み時間になると途端に机に突っ伏すことも珍しくなく、そっとしてあげる時間が増えた。でもそうしてあげるのがカレンを好きな人の務めだと思ってぐっと堪えて、買ってきたブランケットをかけてあげたりした。
季節は少しずつ冷たくなっていった。ついこの前あったはずの幸せが、夏の熱によって生み出された蜃気楼のように思えて、私は猛烈な吐き気に襲われた。
それでも私が正気を保っていられたのは、お昼になればお弁当を食べてくれるし、グループの誰とも親しそうにしていなかったから。だから少なくとも避けられているということではなかった。
そう。そんなことはない。ないよね? 私のこと避けてる? そんなこと口が裂けても言えない。それで「うん」って言われたら、私は死んでしまう。
こんなに好きなのに。早く元気になって、私に一番の笑顔を見せて。
「ね、消しゴム貸してくれない?」
授業中聞こえたその声に、私は棒で殴られたような勢いで振り返った。
そんな距離から言われても困っちゃうよ。すぐロッカーから出してくるね。どの言葉を口に出すのが相応しいかを瞬時に思い描きながら。
「いいけど。はい」
――?
なんだ?
何が起こった?
目で見た情報だけを整理すると、カレンは後ろを振り返って、消しゴムを貸してと言った。
後ろの女が、ぶっきらぼうな声と表情で、汚い消しゴムを差し出した。
冷静な頭で、その状況をもう一度眺めた。
それが何を意味するか、私の頭では理解ができなかった。
理解なんて、できるはずもなかった。
「カレン、あのさ」
カレンと目を見て話せるのは、いまや放課後しかなかった。
私はいてもたってもいられずに、帰り支度をするカレンに半分立ちはだかるようにして話しかけた。
「マキ、どうしたの?」
「えっ、いや」
カレンの顔色は私の知っているそれだった。気だるげでも眠そうでもない。活力に満ちた瞳が私を見ていた。
私はほっと胸を撫でおろした。私のカレンが私を見ていた。私は自分の狭量さを隠すようにして言葉を紡いだ。
「最近疲れてない? 大丈夫?」
「あー、夏、遊びすぎちゃって疲れたかも」
「そうなんだ、じゃあこれからお茶でもして」
「マキ」
「うん?」
時間が止まった気がした。カレンは体を私じゃなく教室の扉の方に向けて、目線だけを私の方によこした。
「消しゴム、もういいよ。お弁当も。ごめんね無理させて? 私、塾あるから、急ぐね!」
そう言って、カレンは私の体に触れないように、するりと身を躱して去っていった。何かを追いかけるような高揚感を残して。
私はそこに立ったまま。
言葉を咀嚼して、そこにどんな好意的な成分があるかを抽出しようとする。
でも、何回噛んでも。
何回噛んでも何回噛んでも何回噛んでも。
私の口の中には覚えのあるその言葉しか浮かんでこない。私が過去に何度も伝え方に苦慮したその言葉しか。
飽きたから、もういいよ
私はカレンを追った。カレンの気配が、足音が全部手に取るように分かる気がした。
走った先、カレンは駅前で私に背を向けて立ち止まっていた。私に追いかけてもらうことを待っていたんだろうか? 私は笑顔を作りながら最適な言葉を頭に描いた。
「ひかりちゃん。あ、ちゃんづけでいいよね?」
私の足が、少しずつ速度を落として、静止する。
九品香蓮。
誰かの名前を呼んだその人は、新しい光を見つけたようにしてそこに立っていた。
カレンはその女を連れてどこかに歩き出した。二人はやがて寂れた公園のブランコに腰を下ろした。
私はマンションの影からカレンを見つめる。カレンの上ずった声が聞こえる。こんな声は機嫌のいい時でもなかなか聞けない。
片方の女はぼそぼそと何を喋っているのかまるで聞き取れない。これではまるでカレンが一方的に話しかけているようだ。
「呼び方、カレンでいいよ。ひかりちゃんは駅からどっち方面? 上り?」
ひかり。
上野毛ひかり。
カレンの一つ後ろの席に座っている目立たない女。私から消しゴムの役目を奪った女。
私の許しも得ずに、その名前を呼ぶ権利を持った女。
『ねぇ、カレン』
『私見てるよ』
『私なんかしちゃった?』
『ごめんね、話を聞かせて』
私はメッセージアプリでカレンに思いを伝えた。私の好きなカレンなら、私の気持ちが届くはず。
ほら、すぐに既読がついた。カレンがスマートフォンを見てる。きっと私の思いが伝わったんだ。
「ごめん、今日はちょっと用事あるから、明日からってことで!」
そう言ってカレンはその時間を打ち切る。何があったかわからないけど、私のメッセージを見てカレンは動いてくれた。
カレンは上野毛ひかりとかいう女に背を向けて、私の方に歩いてきた。その表情はにこやかだ。きっと何かの誤解があったんだ。
「マキ」
上野毛ひかりから見えないところまで来たところで、そう言ってカレンは私の手を取った。カレンは罪な人だ。そうやって私をどこまでも翻弄して。
「ねぇ、マキ」
だん、と私の背が路地裏のコンクリートの壁に叩きつけられる。
ぎゅうっと握り締めた手首を、ぎりぎりと壁に押しつけて。
「そんなことしてると、友達やめるよ」
そう言ったあと、カレンはすぐに掴んでいた手を離して、どこかへと行ってしまった。
こわい、こわいよカレン。
どうしてそんな、雑草を見るような目で、私のことを見たの?
私はカレンに好かれるために形を変えた。
形を変えた先で、たったひとつの好きを手に入れた。
この私は手放せない。生まれ変わった先でそれを見つけてしまった私はもう変わることはできない。
私はカレンに縋った。休み時間に細かく話しかけた。お弁当も豪華にした。消しゴムのストックを絶やさなかった。
上野毛ひかりとの帰路を追った。上野毛ひかりと立ち寄った店に入った。上野毛ひかりと食べているものを食べた。上野毛ひかりと乗っている車両に乗った。
夏休みの写真を見返した。疼く体を慰めた。重くない程度にメッセージを送った。既読がつかないことに理由を探して当てはめた。
来る日も来る日も追いかけて追いかけて、追いかければ追いかけるほど離れて離れて、カレンは上野毛ひかりを連れて図書室に行って、そのまま一緒に帰って、ファミレスに寄って、カラオケに行って、上野毛ひかりに傘を借りて、その足でどこかを目指して歩いていって。
そしてカレンは死んだ。
私をひとり置き去りにして。
*
「――上野毛ひかり」
私はその名前の女を呼び止めた。
「え?」
女は振り返り、私の顔を訝しげに見つめる。
「……誰ですか?」
そのいかにも被害者ぶった態度が私は嫌いだった。
カレンのお通夜の時、私は死ぬほど泣いた。当たり前だ。カレンのことを愛していたから。
でも、上野毛ひかりは泣いていなかった。私とカレンの時間を奪っておきながら。
私はカレンがそうしたように上野毛ひかりの手首を掴んで歩いた。上野毛ひかりは声も出さずに、恐怖で身を縮こまらせたようにして私にただ引きずられていった。
曲がり角のところで道を折れ、壁に上野毛ひかりの背を叩きつける。
「いた……っ」
「あなたに私の気持ちが分かる? 私は今でもカレンを追いかけることでしか生きてるって思えない。でもカレンの代わりはどこにもいない。苦しい。寂しい。空っぽな胸が全然埋まらない」
「いたい、です」
「九品由蘭って誰!? 全然カレンに似てない! この人ならって思ったけどダメだった! ねぇ、あなたなら知ってるの? 私とカレンの時間を奪ったあなたなら!」
「知らない、なんのこと……っ」
「カレンが死ぬ前! カレンのお気に入りだったあなたなら分かるでしょって言ってるの! 私は誰に縋ればいいの? 好きだったのに、愛していたのに、あなたみたいな女に引っかかって! 私からカレンを取り上げて!」
「やっ、やめてっ! 二年も前のことなんて言われてもわからない!」
上野毛ひかりは私を突き飛ばした。私はコンクリートの地面に打ちつけられて膝を擦りむいた。
「……私はカレンを好きだった。なのになんで選ばれたのがあなたなの、どうして私じゃなかったの……!」
「そんなの…………そういうところでしょう」
「え……?」
私はその時確かに光を見た。
もう二度と形を変えられないと嘆いていた私が、変わらずにこのままでもいられる予感を感じさせる光。
「香蓮は私に変わらないでって言った。変わっちゃう友達が多くて困るって。だから、そういうことでしょ」
「え……? え……っ?」
冷たい、雑草を見るような目。
こんな目ができる人、カレン以外にいたんだ。
この人だ。この人なら今の私を埋められる。カレンのお気に入りのこの子なら。
そうだ。カレンがこの子をお気に入りにしたのは、そういうことだったんだ!
「あっ、ごっ、ごめんね、ごめん!」
私は膝立ちのまま、ひかりににじり寄ってその太腿を抱いた。膝の感触が私の頬を何度も押し返したけど、もう離さない。
「ごめんね、ひどいこと言ってひどいことしてゴメン、痛かったよね!? そんなつもりじゃなかったの、許してね?」
「なっ、なにして……っ」
「私のこと見て、ね、ね? もう怒るようなことしないから、ちょっと笑ってくれるだけでいいから、ね、ねっ!?」
「やめてください……!」
私は反射的にひかりを解放する。気を悪くさせたなら本当に悪かった。でもこの気持ちをどうしても伝えたい。
「連絡先、交換しよ? あっ、してください? それだけでいいの、本当にそれだけで!」
「えっ、ええ……? やっ、あの……そうすれば、やめてくれますか?」
「やめるやめる! びっくりさせちゃったよね、ごめんね、私そういうところあるから、こういうのがカレンにウザったく思われたのかな? あはは」
私の目から大粒の涙が流れ続けていた。これでようやく解放されるという安堵と、いつか感じた成長痛の痛みが、私の全身をぎしぎしと軋ませた。
「…………はい、これで」
「やった、ありがと! スタンプ送るねっ、よし! あ、ひかりだっけ? 一年の時どこクラスだった?」
上野毛ひかり。私の好きな女。
私はこの女のことを死ぬまで離さない。
*
亜紗との短い通話を追え、私はベッドに身を沈めた。
何が起こったのか、亜紗に顛末を話した今でも頭の整理がつかない。
私は今日、香蓮の三回忌の法要に行った。そこで岡山茉季という、高校二年生の時にクラスメイトだった人に呼び止められ、腕を掴まれて詰め寄られたかと思えば、急に縋るように許しを請い始めて――思い返すだけでも頭が痛くなってくる。
亜紗は私が忘れ物でもしてお寺に戻ったものと思い、そのまま紀実加と駅まで歩いて、そこで私を待っていたらしい。事情を話すと亜紗は目をむいたが、私の身を案じてとりあえず帰宅を優先し、電話でゆっくり話すことを提案してくれた。
茉季からは絶えずメッセージが届き続けている。通知を切ったメッセージアプリのアイコンには124という数字が表示されていた。私は大きなため息をついて、スマートフォンをベッドに沈めた。
思い出したくないのに、茉季に言われたことが頭の中をよぎる。私はそのひとつひとつになるべく注目しないよう心がけた。けれどその努力に反するように、思い出される茉季の言葉のすべてが、私の記憶の中の香蓮に少しずつ色をつけていった。
茉季は香蓮のことが好きだった――愛していたと言っていた。そして、私にはその気持ちが分からないだろう、と。
香蓮は確かに奔放な人で、そういうところに私も魅力を感じたのだと思う。けれど、私は茉季のようにおかしくなってはいない。
じゃあ、茉季と私の違いはどこにあるのか。人付き合いが上手か下手かとか、そもそも人に興味があるかないかとか、それくらいしか思いつかない。
そんな中、パッと頭の中に浮かんだフレーズが、妙に私の心をざわつかせた。
――思いの大きさの差。
「そんなことない」
私はその発想を否定する言葉を口に出していた。そうしてから、自分でもどうしてその言葉を口に出したかが分からなくて、思わず腕で目を覆った。
窓の外から雨の音が聞こえていた。冷たい、冬の雨の音。
ブーッ、ブーッ、とスマートフォンが震える。私はありもしない誰かからの着信を期待して、ベッドに伏せたままのスマートフォンを手に取った。
そこに表示されていた文字は、亜紗の名前でも、茉季の名前でもなく。
「……大井希」
その着信画面は、私が決心して通話のアイコンをタップするのを静かに待つかのように、いつまでも震えて光っていた。




