87.来なければ
部屋が崩れ、様々なものが視界をぼやけさせる。それは木片であったり、土や埃であるものだ。それらが爆風で舞い上がり、結界の外を見え辛くする。
アンネマリーは紙を持っている手に無意識で力を入れていた。クシャリという音が聞こえ、慌てて力を緩める。
外の様子が見えなければ何も出来ない。
アンネマリーは結界の中にいる侍女の様子を確認した。胸は上下している。やはり意識を失っているだけのようだ。生きている事に安堵し、アンネマリーは再び結界の外へ意識を戻した。
幾つもの瓦礫が結界へぶち当たり、その度に結界に衝撃が走る。三重であるから耐えられているのだろう。一つであったらきっともう終わっていた。
激しい音が幾つも鳴った後、残ったのは僅かな土煙と部屋を成していないボロボロな空間。
そこに蹲るようにリリーがいた。手入れの行き届いていたピンクの髪はもう見る影もない。埃と掻きむしりでぐしゃぐしゃとなっている。
「違う!違う!違う!!私は!!!」
頭を抱える様に、蹲るリリーは何度も何度もそう叫んでいた。誰も何も言っていないのにだ。
何が起きているのか全く分からない。アンネマリーは既視感がある光景を『何故』と険しい顔で見た。
もうペンダントは無い。あれを起こさせるようなものは無い筈なのだ。それなのにあの日と同じような事が起きている。
(もしかして、あれは完全に消えないの?)
一つ浮かび上がった仮定に眉根が寄る。
もし寄生虫のように体に巣喰い、機会を窺っていたのだとしたら?
リリーの魔獣討伐演習の時のきっかけはアンネマリーへの妬みだったと思う。それがアンネマリーに再会した事で再び火がつき、それが動き出したのだとしたら?
あくまで仮定だ。しかしアンネマリーの中ではその仮定がしっくりくる。きっとそうに違いない。根拠は無いがそう感じた。
確証の無い事ではあるが、恐らく確定な事象に顔色が抜けていく。真っ青な顔をアンネマリーは押さえた。
(私が来なければ……)
アンネマリーが来なければリリーは平和に暮らせていたのかも知れない。そんな後悔が一瞬にして襲い、体から力が抜けていく。だが、それでも地に膝を付けないのはこれを収めなければという責任があるからだ。
アンネマリーは青い顔で自分を奮い立たせ、1人結界の外へ出た。
「リリーさん!リリー!」
違う違うと叫び、他を拒んでいるリリーへアンネマリーは声を張り上げた。ピクリと反応したリリーは口を閉じ、ゆっくりとアンネマリーを見る。
その瞳は既に半分以上黒く染まっていた。
しかし染まっていたのは瞳だけではない。ピンクの髪も毛先から黒く染まっている。まるで墨を吸い込んだ布の様にじわじわと黒く黒く変化していっていた。
よく見てみれば指先も黒く染まっている。頭を覆う手が黒く髪と同化していく姿を見てアンネマリーは息を呑んだ。
(何で、止まって)
アンネマリーの脳裏にあの事件の犠牲者アーベルが蘇る。黒いものが溢れる彼と黒く染まるリリーが被り、最悪の事態が頭を過ぎった。
「リリー!」
そんな事駄目だ、考えては駄目だと愚かな考えを振り払う様にアンネマリーはリリーの名を叫んだ。真っ黒に染まりゆく瞳、その瞳から涙が溢れる。
(駄目!駄目!駄目!!)
雫が目頭からも目尻からも落ちていく。ぽろりぽろりと流れる雫が頬を濡らし、顎から床へと落ちていく。止める事の出来ない涙、止まる事の無い黒い侵食。
それでも止めようとアンネマリーはリリーへと手を伸ばす。
少し前まで目の前に居たのに、手を伸ばしても届かない。
「リリー!!」
髪を振り乱し、手を伸ばしてアンネマリーはリリーへと走る。確かに近付いている。そこに居るのに、リリーは動いていないのに手が届かない。あと少し、あと少しの筈だ。伸ばした手、指をピンと伸ばしリリーを掴もうとする。しかし、その行為を笑う様にリリーの瞳が真っ黒に染まった。染み込んだ闇が見開かれ、瞳の何もかもが漆黒に染まる。
カクンと首が落ち、ピンク色の髪が勢いよく黒く染まっていった。
(駄目、駄目……だめ!!!)
そう必死に心の中で喚いても髪の侵食は止まらない。漸く掴んだ肩は力なく簡単に揺れた。
「リリー!!!」
くにゃりと揺れる体、近くで叫んでもピクリともしないリリーをアンネマリーは必死に呼び続ける。それでも何も入ってない様に反応は無い。そうしている間にも髪は根元まで黒く染まり、頭を垂れた乱れた漆黒が風に靡いた。
窓際の外壁はもう先程の衝撃で吹き飛んだ。外との境界が無くなった剥き出しの部屋から曇天が見える。今にも嵐が来そうな灰色の雲。厚い厚い雲が、太陽を遮り光を閉ざす。せめて青空であったなら物事は好転しただろうか。
顔にかかる髪が風に吹かれ、落ちそうな程大きく真っ黒な瞳が見える。その瞳はあの日と同じだ。違うところは髪も黒く染まっているところだろう。あの日より物事が悪化している事は火を見るよりも明らかだ。
絶望は一つ来ると、土砂の様に流れ込んで来る。
両肩を掴んで意識を戻そうと足掻くアンネマリーの視界に入ったのはじわじわと指先から侵食していた黒が胸元へと上がる姿だった。
どう見ても事態は悪化の一途を辿っている。この黒は良くないものだ。あの日見た闇はアーベルの命を刈り取った。同じ事にはならないと誰が断言できよう。
冷えていく体に熱くなる頭。何をどうすれば良いのか分からない。これを止める術をアンネマリーは知らない。
ほんの少し使える治癒術を胸元へ使うが、全く駄目だ。少しも変化がない。ただ無駄に魔力を消費するだけの行為に焦りが募る。
「どうしたら」
分からない。この現象が何なのか分からない。知識がない。知識がないから何も浮かばない。引き篭もって研究していたのは何だったのか。あの数年間は無駄だったのか。
あの石は?あの研究は?駄目だ、まだそこまで進んでいない。あれが何なのかもまだ分からない。
無力感がアンネマリーを包む。
何が首席だ、生活の母か。前世が最強の魔術師であってもこんなにもアンネマリーは無知で無力だ。
縋る様にリリーの柔らかい細い上腕を掴む。真っ黒な瞳は瞬きもしない。頬にはリリーの最後の涙の跡が何筋も見える。しかしそれも黒く染まり、アンネマリーは喉をつまらせた。
「なんで、」
鼓膜を震わせた掠れた声が自分の声だと認識もせず、アンネマリーは顔面も黒く染まりきったリリーを見ていた。リリーを掴む手が震える。頭の中は何故という言葉が何度も響き、時折真っ白に空っぽとなる。
「ガッ、ガッ」
慟哭しそうな程の後悔と焦燥感に苛まれていると突然、動きのなかったリリーの口がパカリと開いた。喉の奥から吐き出す様な異音が聞こえ、アンネマリーはこれ以上無いくらい力を込め、リリーを押し留める。
何が起こるか分からない状況は気を失いそうになる程、息苦しい。それでもアンネマリーはそれを対処しようと試みる。何も分かりはしないのに。
呪い、呪い、そう呪いに違いない。だってでなければこの姿を何と見る?
可憐な少女が真っ黒になるなんて呪い以外あるのだろうか。
呪いであれば解呪をすれば良い。そうは思うが、この状況下で誰に解呪を頼めば良い。アンネマリーは呪いを解く事が出来ない。専門外だ。
頭の中で昔読んだ本の情報を組み立てる。基本的に呪いを解くには媒体が居ると言われている。しかもただ何も考えず媒体を用意するのでは無い。かけられている呪いに関係するものを用意しなければならないのだ。きっとリリーに関係するものはあのペンダント。
「ガッガガガッガッ」
しかし、現実は残酷で簡単に人の希望を摘み取っていく。
先程まで力が入っていなかったリリーの体が突然硬くなる。それは筋肉が硬直しているような硬さだった。指が埋もれる程の柔らかさだった上腕がアンネマリーの指を弾き拒絶する。
アンネマリーを拒絶したリリーは丸めていた背を伸ばし、ゆっくりと直立する。見えた足元は当然の様に黒く染まっていた。
だが変化はそれだけでは無い。アンネマリーは弾かれた手の存在など気にもせず、リリーの背後を目を見開き注視していた。
リリーの背後からバキン、バキンという不快な音が聞こえてくるのだ。時にグチャという水分を含んだ音も聞こえ、それも相まって視線を逸らせない。この音は何なのか、そう問いたくても答えてくれる存在はいない。
激しい音が二度三度鳴った後、布地がハラリと床へ落ちた。それはリリーの服の布地だった。落ちたアイボリー色の布に目が釘付けとなる。
(何故、布が)
その答えは次の瞬間、アンネマリーの視界に広がった。
「うそ、」
(いや、うそなんかじゃない)
その目に映ったのは黒い翼だった。まるで蝙蝠の羽の様な、竜の翼の様なものがリリーの背中から生えていた。
理解出来ない現実の連続にアンネマリーは乾いた笑いを漏らした。
次回更新は明日16時頃になります。
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