84.まだ帰れない
だがエドウィンにはデニーゼに感謝している事が1つだけある。それは留学先でアンネマリーに出会えた事だ。元々行く気はなかった留学、面白味も無くそれは終わると思われたが、まさかの最終学年で生涯の伴侶に会えるとは思いもしなかった。登校してもつまらぬ授業へ行く気になれず、温室で時間を潰していたがそんな日々も無駄では無かった。
(本当に煩わしい)
だからこそ現状に対しての苛立ちが強い。書面ではもう既に婚約を結んでいるが、お披露目である婚約式は延期となっている。覆そうと思えば覆す事が出来る状態であるのは確かだ。婚約式を延期させる為にこのような事を仕出かしたに違いない。まあ、あくまでエドウィン関係の事は今回のおまけだとは思うが、だからこそ更に腹が立つ。
(ついでに娘の我儘もきいてやろうという感じだろうな)
エドウィンは顔を顰め、眉間を揉む様に掴んだ。その様子を見ていたウルリッヒは苦笑混じりに溜息を吐き、ソファーから体を滑らせ、今にも落ちそうなだらしない体勢になった。疲れたのだろう、『あー』と一定の音を出していたがいきなりスンと黙る。
兄のこうした奇行に慣れているエドウィンは特に反応はせず、落ちそうなウルリッヒを見続けた。因みにウルリッヒがこのような事をするのは疲労が溜まり、思考力が落ちてきた時である。つまりはそういう事だ。
ほぼソファーに座っていないウルリッヒは数秒瞼を閉じた。そして開いた時、ぼやきにも似た声を出した。
「皇位継承権を放棄するには教皇の署名がいる。その教会がヘス公爵側に付いたのは痛いな」
兄の言葉にエドウィンは同意しか出来ない。
この様な事がないように立ち回っていた筈なのだが、自分が信を置いていた者は裏切り、殺された。今思えば幼馴染だからと完全に信用していたのが裏目に出た。そんな彼も結局はヘス公爵に良い様に利用された後ひっそりと殺されてしまったのだが。
「そうですね、これが捨てられればもう少し御しやすくなると思うのですが。早々に放棄していなかったのが悔やまれます」
「まあ、もしもの時の為に必要だっただろう。それに無ければ無いできっと奴らは別方面に騒ぐ。あっても無くても同じだ」
確かにそうかもしれない。不満がない人間などいないのだ。それにこの国はいつの時代も内乱が多い。そういう国なのだ。平和な時代も勿論あった。だが戦争がない時代の方が圧倒的に少ない。それは権力主義なお国柄故しょうがないのかもしれないが、勝手に巻き込まれる方は怒りしかわかない。今回の事もいい迷惑である。
「今言うべきではないのかも知れんが、伝えておく」
これからの事を思い、ぼうっと宙を見ているとウルリッヒがだらしない体勢を戻しながら口を開いた。意識を一瞬何処かへ飛ばしていたエドウィンはその声に瞬きをし、『はい』と頷く。
ウルリッヒはエドウィンに近くへ寄るよう手招きする。それに従いエドウィンが身を乗り出したのを確認してから自身も身を乗り出した。
「妃が懐妊した」
鼻先が付きそうな程接近して話された内容にエドウィンは息を呑んだ。この部屋には二人しかいない。だが、囁くような声でそれを伝えたウルリッヒは力強い視線をエドウィンへ向け、ゆっくりと体勢を戻す。
ウルリッヒの妃の懐妊。それは悲願であった事。だが今はタイミングがまずい。この敵に先手を打たれた状況での懐妊はここを狙ってくれと言っているようなもの。ただでさえまだ間者の炙り出しが全て終わっていないのだ。情報を隠していても何処から漏れるか分かったものではない。
だがエドウィンが思う事は当然ウルリッヒも思う事。祝福の言葉が咄嗟に出なかった事に少し焦りながらエドウィンは途切れ途切れに言葉を発した。
「それは、おめでとう、ございます」
その複雑そうな声色にウルリッヒは苦笑し、頷いた。
「まあ、そうなるな。俺がそう言われてもそうなるさ。さすがに妃の前ではそうならなかったが、まあ心中は複雑だ」
ウルリッヒは愛妻家だ。だからこそ猶更何故この時期に、と憤っている。それは妃への感情ではない。ヘス公爵家等の反皇太子派への怒りだ。本来であれば素直に喜べた奇跡であったのに、この騒動のせいで不安の方が強くなってしまった。これからウルリッヒの妃は過剰に守られて生活する事になる。妃も事の重大さを知っているのでそれに反対する事はない。だがやはり夫と同じく不安が強いのだろう。思い悩んでいる姿が度々見受けられた。
「エドウィン、俺の言いたい事は解るな?」
眼光鋭く、ウルリッヒは弟を見た。戦場で獣と呼ばれた男の視線にエドウィンは体を強張らせる。自分が草食動物になった心地となりつつも、ごくりと唾を飲み込んだエドウィンは引き攣る頬を無理やり動かした。
「ええ」
返事は短かったが、それだけで十分だった。ウルリッヒは眼光の鋭さそのままにはっきりと口を開く。
「だからこそ今排除をしたい。この機を逃す訳にはいかない」
最後は笑みを浮かべていたが、その笑みは圧力を与えるもの。エドウィンはゆっくりと頷き、心の中でアンネマリーの名を呼んだ。返事は当然返ってこない。だがエドウィンは心の中でアンネマリーに話し掛け続けた。
(やはりまだまだ帰れないようだ)
頷きから顔を上げると、含みのある笑顔の兄が目に入る。エドウィンはそれを見て眉を下げ微笑んだ。




