77.出発
わざとらしくリップ音を響かせてゲオルグはアンネマリーの手から唇を離した。垂れる左右に分けられた長い前髪の隙間から弧を描く目元が見え、アンネマリーは歪めていた顔に笑顔を張り付けた。そして漸く自由になった手をそれとなく彼の視線から隠し服で拭く。
「私には勿体無い挨拶を頂き、ありがとうございます」
嫌味と受け取れるであろう謝辞を素晴らしい笑顔で伝えると、ゲオルグは何も気にしていないのか同じ様に微笑んだ。
「こちらこそ、貴方に触れられる名誉をありがとうございます」
「名誉だなんて大袈裟な」
「ふふ、ヘルマン侯爵令嬢からしたらそうなのかもしれませんね」
紫の瞳を細め微笑む男とアンネマリーは僅かに距離を取る。と言っても一歩自然に見える程度に下がっただけだが。それでもゲオルグはアンネマリーの拒否感を感じ取り、一瞬で笑みを作り物のようなものに変えた。
「では、殿下がお待ちです。こちらへ」
執事の様に腰を曲げたゲオルグはアンネマリーに背を向ける。背中を向けられているのに何故かずっと監視されている感じがした。恐らくこれは警戒心からくる勘違いだとは思ったが、それでも肌がぴりぴりと痛む。
アンネマリーは気を抜けぬままゲオルグの後ろを通常よりも距離を取り歩いた。とうに馬車を降りていた侍女が不思議そうにアンネマリーを見ていたが一瞥もせず、ゲオルグの背中だけを見続ける。
この男とはいつ会っただろうか。頭はいつの間にかその事でいっぱいになっていた。長い銀髪、それに整っていると言われれば整って見える顔立ち。通常よりも吊り上がっている目は笑うと狐に見える。髪色のせいなのか顔色もとても白く見えた。
(全体的にとても白い、白か)
揺れる結われた銀髪を見ながらアンネマリーは眉間に力を込めた。すぐそこまで来ているのだが、あと一歩降りてこない。
そうして黙ったままゲオルグに付いていくと宮殿の入り口からカーティスが出てくるのが遠目から見えた。近くの護衛騎士に何かを言われたのか面倒くさそうに手で追い払う仕草をしている。何処にいても彼は彼なのだなと当たり前の事を思い、アンネマリーは思考を緩めた。
「殿下、お連れしました」
だるそうに近付いてくるカーティスへゲオルグが声を掛ける。首に片手を添えながらぐるりと首を回したカーティスがいつもより低い声で返事をした。その声にアンネマリーはまた彼は機嫌が悪いのかとがっかりしたが、同じ馬車でなければ問題はない。
アンネマリーは立ち止まったゲオルグの横へ立ち、目の前のカーティスへ挨拶をした。
「殿下、おはようございます。本日はご一緒出来て嬉しいです」
「思ってもいねえ事よく言えるな」
「そんなそんな」
ほんの少しおどけながら言えば、軽薄な笑みを向けられた。だがその笑みは一瞬アンネマリーに向けられただけですぐにゲオルグに向けられる。
「んで、お前も行くんだろう?」
まさかとは思っていたが、実際言葉にされると酷く動揺する。アンネマリーはカーティスの言葉にぴくりと反応し、視線だけゲオルグへ向けた。ゲオルグは肯定の笑みをカーティスへ向け頷く。
「ええ、是非。医療に関わるものとしては大変興味深いので」
その言葉でアンネマリーはハッとゲオルグを何処で見たのか漸く思い出した。この銀髪、そして白さ、魔獣討伐演習の救護テントでただ傷を見ていただけの男だ。傷に触れるだけ触れて後は処置を他の人に任せた保険医。いや、男爵というのなら保険医ではないのかもしれない。医療に携わっているというのは確かなようだが。
アンネマリーはポンと手を叩きたくなる衝動に駆られたが、大人しく二人を見る。この二人にどのような繋がりがあるのかは不明だが、カーティスに敢えて着いていこうとするのだ、悪くはないのだろう。
朝陽がちょうど目に眩しくなった頃、馬車の用意が出来たとカーティスの護衛が声を掛けて来た。アンネマリーは此処へ来た馬車と同じものに乗るのだが、それを分かっている筈のカーティスが意地悪そうに笑う。
「俺と一緒のやつに乗るかぁ?」
「ありがとうございます、でも大丈夫です。私は乗ってきた馬車に侍女と乗ります」
「そうか、残念だなぁー」
くつくつとカーティスは笑い、耳についている大ぶりの悪趣味なピアスを触った。
「じゃあ、ゲオルグ男二人むさくるしく乗ろうぜ」
そう言ってカーティスは馬車へと歩き出す。ポンとゲオルグの肩を叩き、通り過ぎる様を目で追っているとゲオルグがアンネマリーの名を呼んだ。今までカーティスがいたから少し警戒を解いていたが、アンネマリーの勘違いでなければ少なからず好意を持たれている相手、それに名を呼ばれビクリと肩が跳ねる。
「どうしました?」
辛うじて笑顔を纏い、返事をすれば5歩は離れていた距離を一気に詰められた。
「道中お気を付けください。何か御座いましたら遠慮なく呼んで頂けると」
細められた目は本当に狐のようだ。アンネマリーは喉が緊張からクルルとなり、咄嗟に喉を押さえる。
「ええ、わかりました。トレッチェル男爵もお気を付けて」
同じ目的地であるのに何に気を付ける事があるのか。それに違う馬車でどう呼べと?
何を考えているかは悟らせずに返事をしたアンネマリーは礼をして自身の馬車へと向かう。すぐ後ろで革靴の音がし、ゲオルグも歩き出した事がわかった。横に並ばれるのを阻止する為に大股で急ぐと、侍女の焦った声が聞こえた。流石に申し訳ないかと思ったが、速度を緩めるという選択肢はアンネマリーには無い。
今も感じるゲオルグからの視線はアンネマリーの胸を騒めかせる。良い意味ではない。とても嫌な予感を孕んでいるという意味だ。人の感情の機微に疎いアンネマリーではあるが、この視線の意味が分からない程無知でもない。これはエドウィンから捧げられた感情のお陰であるのだが。
追いつかれず馬車に乗り込んだアンネマリーはやっと視線から解放され、ほっと一息ついた。道中はカーテンを開け、外の景色を見ながら行こうと思ったのだがゲオルグの視線の事を思い、サッとカーテンを閉める。ゲオルグも馬車に乗っているのだから見られるという事は物理的に無理なのだが、これは気持ちの問題だ。外の情報を入れると落ち着かなくなってしまった。
侍女にもカーテンを閉める様言い、暗くなった車内でアンネマリーは一人考える。
あの男は何なのだろう。ただの女たらしであれば問題はない。だが、どうも胸がざわつく。落ち着かない胸を宥めるようにアンネマリーは自身の手を左胸に置いた。
こんなに落ち着かないのはエドウィンと会った時くらいのものである。まぁ、エドウィンのそれと同じかと言われたら全く違うのだが。
アンネマリーは外を遮断するカーテンの一点を見つめた。そしてどうかこの旅路が問題なく終わりますように、そう思いながら深い溜息を溢したのだった。




