76.切望
こんなにも心躍る事があっただろうか。こんなにも心待ちにした日があっただろうか。
こんなにも、こんなにも会える日を指折り数え、何度も夜を越えるのが苦しいと思った事が。
休もうと柔らかなベッドの上で瞼を閉じても昂ぶりから頭が冴える。どんなに疲れていてもだ。それでも無理やり酒を飲み、眠れば夢には覚えのあるホワイトベージュ。
―――夢に出たのはあの日の彼女だった。
ホワイトベージュの髪がふわりと揺れ、安宿の毛羽だったシーツに広がる。押し倒したのは自分だった。戦争に出ているとは思えぬ程華奢な肩を押し、その長くか細い首筋に唇を這わしたのも自分。僅かに触れた喉に歯を軽く立てれば色のある声が微かに聞こえた。それは小さく、だが本能をむき出しにさせるには十分な声量。吐息とも言える声。
自分に全てを委ねる彼女の肢体は口付けを落とす度に反応を見せる。白い肌がほんのり赤く色付けばあとは一つになるだけだ。
言葉には発する事が出来ない感情。だが、それを唇にのせ吐息を奪うように口付ける。何度も何度も角度を変え、抱えきれない思いを注ぎ込む。そうしていると白い手が苦し気に胸を押した。熱を帯びた指先が遠慮気に肌に触れる。可愛らしい抵抗に唇を離せば涙を溜めた赤い瞳が何かを訴えるように見てきた。
自分しか映っていない瞳、赤い瞳の中にいる自分、世界が二人だけなのだと錯覚する瞬間。全ての感情が喜びに支配される。自分に触れる白い手を感情のまま掴み、指の一本一本を慈しむ様に唇を這わし、最後に薬指を噛んだ。
―――愛している
それを言葉ではなく表現するにはこうするしかない。
隷属の証で縛るのではなく、もっと別の形で縛ることが出来たなら。そう思い、何度も何度も愛を捧げる。唇からも、それ以外からも全ての手を持って言葉以外で伝える。それが彼女に届いているのかは分からない。だが、それでも愛を捧げ続けたいと、そう思い続けたのだ。
ああ、ああ、夜が明ける。
バルト子爵領への出発の日となった。
アンネマリーは侍女の一人と共に王城へと向かう。何故なら予定は狂うことなくカーティスも同行する事となったからだ。体調不良や公務でキャンセルになることを望んでいたが、そう希望通りにはいかないらしい。
朝から侯爵邸から王城まで馬車で揺られる。無駄な行程だと思いながらも王族であるカーティスの言葉を無視するわけにはいかない事は元引き篭りであっても知っていた。言われた通りの時間、場所へ馬車はアンネマリーを乗せて向かう。舗装された道を行きながらアンネマリーは少し不貞腐れた顔で外を見た。如何にもこれが不本意だとわかる表情が反射で窓に映り、その顔を見て更にアンネマリーは眉根を寄せた。
だが、どんなに嫌だと思っていても馬車が動き続ける限り目的地へは着くものだ。まだ早朝に近い時間であったからだろう、約束の時間の40分前には王城へと着いた。だが目的地は更に奥にあるカーティスの亡き母へ与えられていたシンバニア宮である。そこへ辿り着くには王城の敷地内を通り抜けるため、警備の騎士へカーティスから予め渡されていたカーティスの紋章入りの通行証を見せる。何の問題もなく通行を許可され、少し速度を落とし進めば朝露が輝く林が出てきた。
王城の敷地内にこんな場所があるのかと見ていると視界が一気に開け、目の前に白磁の宮殿が姿を見せる。雪を纏ったような白い建物は荘厳な教会を思わせる雰囲気を持ち、息を呑む程美しい。アンネマリーは走る馬車の中からその美しい建築物を瞬きもせず見ていた。
「綺麗……」
意識せず言葉を零せば、目の前の侍女も微笑みながら頷く。
「側妃様の為に陛下が建てられたそうですよ。それはそれは寵愛されていたとか」
「そう、知らなかったわ」
宮殿に目を奪われたまま、感情が乗らない声で答える。だが、頭はちゃんと侍女の言葉を処理していたのだろう。陛下の寵愛という言葉がすとんと胸に落ちてきた。こんなにも美しい宮殿、愛していなければ造らないだろう。宮殿の外観もそうだが、それを彩る庭園も美しい。全貌は見えないが、正面から見える彫像や植物は手入れが行き届いており、石畳さえも一級品だと素人でも分かる美しさを持っていた。
ほう、と見惚れていると馬車の速度が段々と落ち、ゆっくりと止まる。馭者が誰かと話している声が聞こえ、暫くすると馬車の扉がノックされた。それに侍女が返事をすれば扉が開かれる。朝特有の冷たい空気が馬車の中に入り、アンネマリーは無意識に自分に掛けられたストールを直した。
現れたのは馭者ではなかった。居たのは見覚えが微かにある男。何処で見たのかはパッと思い出せなかったが、確かに見た事がある男だった。
「朝早くからご足労頂き、ありがとうございます。どうぞ、手を」
男はそう言うとアンネマリーへ手を差し伸べた。アンネマリーはもやっとする気持ちを抱えたまま、言われた通りに男の手に自分の手を添えた。
「足元、お気を付けて」
言われ慣れない言葉に曖昧に微笑み、アンネマリーは馬車から降りる。次は侍女に手を貸すのかと思っていたが、男はアンネマリーの手に触れたままニコリと笑った。
「ヘルマン侯爵令嬢とお会いするのは二回目になります。私の事を覚えておりますか?」
正面から言われ、アンネマリーは誤魔化す様に微笑んだ。まさか相手から早々に言われるとは思ってもおらず内心冷や汗だらだらである。焦りを隠したまま、アンネマリーはゆったりとした声を出した。
「ええ、覚えております。でも、ごめんなさい、お名前が思い出せなくて」
さも申し訳なさそうにそう言えば、男はアンネマリーの手をぎゅっと握った。
「ああ、覚えていてくださったのですね。名前は名乗っていなかったので知らなくて当然です。私の名はゲオルグ・トレッチェル。一応男爵の位を賜っております」
握られた手に不快感を覚えたが、ほぼ初対面の人間の手を振り払う事も出来ない。口元に笑みを作ったまま適当な相槌を打つと、ゲオルグは目を丸くした後面白そうに声を出して笑った。一体今の何処に笑う箇所があったのか不明だが、アンネマリーも合わせて笑ってみせる。二人で向き合い笑う変な空間は実に意味が分からない。この時間に若干の苛立ちを覚えたアンネマリーは勢いで握られた手を外そうとした。だが、思いの外ゲオルグは強く手を掴んでいたようで指の一本も外れなかった。
笑いを無理やり引っ込ませたゲオルグはにやけが残る顔を軽い咳払いで整えるとアンネマリーの瞳をじっと見つめた。その視線は遠くにいる婚約者を思い出させ、アンネマリーは気まずさに思わず目を逸らす。
どうしてエドウィンを思い出したのか。それはゲオルグの瞳に熱を感じたからだ。アンネマリーの勘違いかも知れない、自意識過剰かも知れない。だが、紫の瞳はほぼ初対面の人を見るにはおかしすぎるくらいの熱があったのだ。
「あの、トレッチェル男爵……手を」
若干視線を斜め下へ向け、アンネマリーは暗に手を離すよう伝えた。
ゲオルグはわざとらしく『ああ』と言うと手の力を抜く。漸く解かれる手にアンネマリーが安堵した時、流れるような仕草でゲオルグが身を屈めた。
何だと思う間も無く、ゲオルグの一つに纏められた長い銀髪が肩からゆらりと落ちる。指先だけを骨ばった長い指に絡め取られ、手の甲に柔らかい感触が当たった。
「えっ」
眼下に見えるのは銀髪の頭。黒髪ではない、銀髪だ。それがアンネマリーの手にキスをしている。手の甲は親愛の証だと言う。だが、どうにもそれを感じる事が出来ない長さに手が震えだす。ほぼ初対面なのにも関わらずこの距離の詰め方はどうにも気持ちが悪い。
これが普通の貴族令嬢であれば喜ぶことなのかもしれない。だが、アンネマリーには気持ちの悪い行為にしか思えなかった。
ゲオルグ・トレッチェル男爵。もう忘れることが出来なさそうな人間にアンネマリーは顔が見えないのを良い事に思い切り顔を顰めた。




