42.最悪の事態
すっかり忘れていた存在を前に二人は固まった。そういえば彼は失神していた。先程はリリーに気を取られていたが、彼は結界の外でずっと倒れていたのであろう。
「どうなっている」
エドウィンが呻く様に声を絞り出した。一段落したと思われた騒動が復活し、心無しか顔色が悪い。目の前の不気味な存在に只々驚愕している様だった。
アンネマリーもエドウィンに腕を掴まれながらも、リリーの様に眼球全体を黒くさせたアーベルを驚いた表情で見つめた。
どうなっている?エドウィンと同じ事を考え、目を細めアーベルにおかしな点が無いか確認をする。いや、おかしいところばかりなのだがコレに至った元凶は何なのかと全身に目を配る。頭部、胸部、左右の腕、指、ズボンに靴。アンネマリーから見える範囲に特におかしいものは無かった。
「魔石……魔石をあの人も持っていたのかしら」
独り言の様に呟き、アンネマリーは空を見る。だが、リリーの時の様にあの不気味な闇は居ない。
「あれは気が狂っているだけ?」
あの闇が無いのだとしたらあれは何なのだろう。低音で一定の声を出し続ける老人の中に彼の自我はない様に思えた。
グラリグラリとゆっくりとアーベルの体が揺れる。まるで空から糸で操られている様なぎこちない動きに鳥肌が立ちそうになった。眼球が黒い為、視線は何処にいっているのかはわからない。それが不気味さを助長し、更に口端に溜まる泡が彼の異常さを表していた。
「あああああ―――」
低音で平坦な声、揺れる体に垂れる唾液。アンネマリーは眉を顰め、エドウィンを見る。その視線に気付いたエドウィンがコクリと頷いた。
「気絶させるか」
「そうした方が宜しいかと」
エドウィンはアンネマリーを掴んでいた手を離し、アーベルへ近づいて行く。その後ろをアンネマリーが付いていこうとすると片手で制止された。
「アンネマリー、君は離れていろ。何が起こるか分からない」
そう言われ、思わずキョトンとしたが、心配させた先程の事を思い出し、若干不服に思いながらも意識を失っているリリーの側まで戻る。その場所からエドウィンの動きを見ていれば、彼は素早くアーベルの後頚部に手刀をした。ガクンとアーベルの体が前へ落ち、それをエドウィンが片手で支える。長身のガッチリとしたエドウィンであれば同じ男性であっても老齢のアーベルは問題なく支えられる様だ。
暫くは何か起こるかとアンネマリーもエドウィンもアーベルの様子を注視していたが、ピクリとも動かない様子に問題は無さそうだと判断し、同時に安堵の息を吐いた。
一体何だったのだろう。アンネマリーは安堵しながらもアーベルの変化に疑問を拭えなかった。リリーの時は媒体があったので理解が出来た。だがアーベルにはそれらしきものは多分ない。リリーとアーベルの身に起きた事は一緒だが、アーベルの時は空の闇は無かった。この違いは何だろうか。
拭えない疑問と不自然さが気持ち悪い。
「一体何だったのか」
アーベルを肩に担ぎながら、エドウィンが戻ってくる。
「本当、なんだったのでしょうね……」
担がれているアーベルの後頭部を見ながら、アンネマリーは消化出来ない違和感に胸を押さえた。
「やっぱり変な気が……」
そう口にした瞬間、担がれているアーベルの体が激しく跳ね、それに対応出来なかったエドウィンの肩から落ちていく。まるで釣り上げられた魚の様に体をくねらせ、跳ねさせ、ビタンビタンとその場で暴れている様にアンネマリーは目を見開いた。
アーベルを落としたエドウィンは跳ねられた際に腕を激しく弾かれたのか腕を押さえながら、やはり目を見開いてアーベルを見ている。
見えたアーベルの瞳はやはり真っ黒で、事はそう簡単では無かった事が伺われた。
「ああ!!!ああ!!!ああぁぁぁ!!!!!」
何が起きているのだろう?耳をつんざく絶叫が鼓膜を破く様に揺さぶり、アンネマリーは空気の震えさえも感じ耳を押さえた。
(痛い)
耳が物理的に痛く感じる音量に顔を歪める。その中でもアーベルをきちんと視界に収めていると、アーベルの叫び声と共に口から何が漏れている事に気付いた。
(あ!そういう事か!)
それはリリーの割れた魔石のモヤに似ているものだった。それがアーベルの口から漏れ出ている。喉の奥から吐き出される絶叫はそれを出す為なのかもしれない。
アンネマリーは5歩先に転がるアーベルの口を封じようと大股で駆け寄った。途中、アンネマリーを心配してだろう、エドウィンが腕を掴み制止してきたが、それを笑顔で振り切り、アンネマリーは片足を大きく引く。そして勢いよくアーベルの顎を蹴り上げた。
―――ガコン
と不自然な音が鳴り、音は止まった。瞳は真っ黒の為、判別は出来ないが何となく白目を剥いている気がする。女の力なので顎は砕けていないと思うが、口端から血が出ているので舌を噛んだかもしれない。
「…………」
アンネマリーはアーベルの顔を覗き込もうと恐る恐る身を屈めようとした。だがそれはエドウィンが腕を掴んできた事で出来なかった。
「だから!何故危険な事ばかりする!?」
目を吊り上げて怒るエドウィンの姿に申し訳なさよりも『なんだなんだ』という気持ちの方が勝り、アンネマリーはへらっと笑った。
「危険の基準がエドと私では違うんですかね。あと多分、このまま終わらないと思うのでリリーさんを安全な場所に避難させないと危険です」
「……ッ!ああ、あのモヤか」
苛立ちながらもアンネマリーの言葉を理解し、悔しそうに文句を呑み込んでいく。エドウィンはアンネマリーの腕を掴んだまま引き摺る様にリリーの所まで行くとリリーを肩に担いだ。
「拠点に戻るぞ!」
乱暴な動作のままエドウィンは大股で拠点まで向かおうとした。強い力で腕を掴まれ、呆気に取られる程の勢いで歩くエドウィンを焦った顔でアンネマリーは見上げ、腕を振り解こうともがいたがびくともしない。
そうこうしている間にもアーベルから出る黒いモヤが何かを起こすかも知れないのに。アンネマリーは後ろを振り返りながら腕を離そうと空いている手でエドウィンの腕をつねる。それでも力が緩む事は無かった。
「離して!離して下さい!!」
「離さない!!!」
「離してってば!!」
エドウィンに対して敬語で対応しようと心掛けていたが、必死な抵抗で敬語が外れ始める。それさえも気付かず、アンネマリーはエドウィンの手から逃れる為に激しく身を捩った。
「もうッ!!良いから離して!!あのモヤをどうにかしなきゃなんだから!!!」
「離すわけないだろう!好きな女をどうして危険な場所に置いていける!?」
「好きな女の要望くらい聞いてよ!!」
「こればっかりはきかん!!」
平行線なやり取りにもどかしさばかりが募る。アンネマリーは何度も後ろを振り返り、強制的に半ば走らされている為ぶれる焦点でアーベルを見る。もうその姿は小指の先程の大きさに見える。だがそれでも彼の周りが黒ずんで見えた。恐らく口を閉じさせたとしてもモヤは止まらなかったという事だろう。
アンネマリーはその事実に舌打ちをし、エドウィンを睨め付けた。
「もう良い!知らない!勝手にやるから!!」
アンネマリーはそう言うと空いている手でエドウィンの腕を掴んだ。
「彼の地へいざ行かん!彼の地へ彼らを!」
早口で詠唱し、最後の仕上げとばかりにエドウィンの腕をポンと叩く。その詠唱にエドウィンは嘘だろ、と言いたげな驚いた顔をし、アンネマリーの名を呼ぼうとした。
「アンネ」
だがその名が最後まで紡がれる事は無く、シュンッとエドウィンとリリーが一瞬で消えて行く。
アンネマリーは二人を拠点まで飛ばしたのだ。最初からこうすれば良かったと掴まれていた腕を摩り、アーベルの元へ急ぐ。近付けば近付く程、モヤがはっきりと見え、事態の悪化を感じた。
恐らくだが、アーベルはあの空から垂れる闇に触れてしまったのだ。リリーにばかり気を取られていたが、あれの一部がアーベルの中に入り、あの状況を生み出したに違いない。そしてそれはきっと。
―――ギャッ
前方から聞こえる声に最悪の事態が頭を過ぎる。瞬きも少なめにアーベルの元へ急ぐと、やはり事態は思わしくない方向へ向かっているようだった。
アーベルの体から漏れ出るモヤとは別にアーベルからとろりとした黒い液体が漏れている。それが地面に広がり、黒くなった地面がぽこりぽこりと気泡を出し、悪臭を漂わせていた。
「………ッ」
口元を服の袖で覆い、試しにアーベルと地面に結界を張ってみる。だが何だかこれじゃない感が凄い。抑え込めている様に見えるが、根本的な解決にはならない。それにアーベル、生きているかは正直分からないが死んでいるという確信も無いのでどうにか助けたい。
苦々しい気持ちで結界の中を見ていると、突然地面の気泡が一段と大きく、そして激しくなった。弾けた気泡の雫が結界につき、結界の中が黒に塗れていく。
「なに、これ」
一歩後退し、その様子を困惑しながら見ていると黒い地面から何かが出てきたのが見えた。じわじわと見えて来る姿にアンネマリーは息をのんだ。
(あ、これ結界破れるわね)
地面から出るそれの頭部の全貌が見えた瞬間、アンネマリーの張った結界が硝子の様に砕け散った。
パラパラと舞い落ちる結界と闇の雫に顔を歪めたアンネマリーはそれらから身を守る為に自身に結界を張る。ポツンポツンと飛沫が結界に当たるのを耳で聴きながら目の前の闇から出ずる魔の物から目を離せずにいた。
紫がかった黒い鱗。ギョロギョロと動く大人一人分はありそうな瞳、鋭い牙に鋭い爪。巨大な体はこの森のどの木よりも大きい。
地面から全身が這い出るとそれは威厳を見せつけるかの様に体の倍はありそうな翼を広げた。その瞬間、風圧で木々がバキバキと折れ、無惨に折れた木々が何処かへ飛んで行く。アーベルの魔力暴走で倒れていた木もおもちゃの様に飛んでいった。
「これは、うん」
アンネマリーは目の前の邪悪な存在を見上げる。その顔はほんの少し引き攣っていた。
「竜か。初めて見たわ」
乾いた笑いが自然と溢れる。伝説と言われる存在をさて、どうしたものか。アンネマリーは頭の中の様々な書物の情報をひっくり返し始めた。




