3.ゴーストレディ
ゴーストレディ……。思わず、は?と声が出た。家族3人を次々と見れば皆力強く頷いている。
アンネマリーは嫌な汗が額から噴き出るのを感じた。そして自身のもう一つの呼び名を口にする。
「『生活の母』ではなくて?」
ほぼ回らない頭で辛うじてそう言えば、隣のヘルムートが馬鹿にした様に鼻で笑った。いや、『した様に』ではなく実際馬鹿にしたのだろうが。
「それもどうかと思うがな。ゴーストレディ、存在するのか分からない不気味な奴という事らしい。学校の試験は入学時から首席を守り、様々なレポートを提出するが姿を見た者はいない。論文も同名で発表されているが同一人物なのかもわからない。全てが曖昧な存在。それがお前と言う事だ」
「いやいや、試験の時、何人も試験官来るじゃないですか。私会話しますよ。少なくともその人達は私の事を知ってるじゃないですか」
「お前、そんな少人数が存在を主張した処で浸透する訳ないだろう。それにそいつらがそれを主張する意味もない。何のメリットがあってお前が存在する事を言うんだ」
アンネマリーは思わず勢いよくその場に立ち上がった。その姿を見てエリゼが『まあ』と目を丸くしたが、気にせず言葉を続ける。
「意味がわかりません!どうしてそんな事に!」
アンネマリーが声を荒立たせてそう言えばヘルムートは酷く驚いた顔をした。
「意味がわからないだと?さっき説明しただろう。気味が悪い存在だからだと」
「だって姿を現さなければ、影が薄く」
「馬鹿か、お前は。学校でも学会でも名が知れ渡っているのにどうして忘れられると思っている。姿が見えない分、様々な噂が出る事くらいわかるだろう。いや、お前は社交界に出ないから知らないのか。貴族社会を。お前は貴族社会のいいネタだよ。良い意味でも、悪い意味でもな」
ヘルムートはワイングラスを一気に煽り、空になったグラスへ手酌でワインを注ぐ。そして、そのまま視線を真横に向けると、真っ青な顔のアンネマリーが視界に入った。注いだばかりのワインを一口飲み、グラスをテーブルに置けばヘルムートはアンネマリーの頭を慰める様に軽く撫でる。
何だかんだこの男も妹には甘いところがあるのだ。だが、当人はそんな手も気付かないのか、呆然とただ一点を見つめていた。
アンネマリーは考える。だって試験もレポートも必要最低限だからやっていた事で、不登校ではあったが卒業をちゃんとしなければと言う意識はあった。だからわざと試験を間違えてみたりだとか自らを下げる事はしなかった。論文に至っては趣味の範囲で、自分がやってみたら楽だったので皆に共有しようと発表しただけだ。
口元に手をやり、アンネマリーは上目遣いで家族を見る。
「ゴーストレディって有名なんです?」
ギュンターが勢いよく頷いた。エリゼも肯定の笑みを浮かべる。ヘルムートは僅かに瞳を動かしたのみだった。
「もうずーっとお茶会でどうなの?って言われるのよね。アンちゃんはおばけじゃないわぁ」
「私も昨日ちょうど近衛騎士団長に言われたよ。末っ子て生きてるのか?って」
「俺も王太子に聞かれた。ゴーストレディはヘルマン家の幻想か?とな」
アンネマリーは家族の言葉に顔が段々引き攣っていく。まさか引き篭もりの代償がこんな事になるとは。中途半端に出すものを出していたから変な関心を得てしまったという事らしい。
(どうしたものか)
アンネマリーにとって姿を見せない事で変な噂を立てられるのは不本意な事だった。学校の成績も首席で、学会に論文も発表していれば変な噂など立てられずに家名を辱める事もなく生きていけると思っていた。だってどちらも名誉な事だろう?
だが実際はそんな実績など無いかのように貴族社会では『ゴーストレディ』と馬鹿にされていたと言う。
「そんなことって…」
口元に手をやり、アンネマリーは暫し考え込んだ。
これはきっとアンネマリーが露出すれば済む問題だ。学校へ行けば噂は回り、この不名誉なあだ名も消えていくだろう。
(だけど)
前世の事はこの際どうでも良い。正直なところ、そんな前世なんてバレる確率は低いだろうと思っている。
それよりもアンネマリーはいつもの警鐘の存在の方が気にかかる。あれは学校へ行こうとする自分を強く引き留め続けている。抵抗すれば出来るのかも知れないが、した事はない。
怯える心を宥めすかされ、真綿に包まれる事が全てのように警鐘に従ってしまう。何故ならそれが一番安全で簡単だからだ。
(でも)
自分の我儘でヘルマンの家名に傷を付けるのはとても愚かしい事。前世には縁の無かった家族は何が何でも守りたい存在だ。そして守る方法は既に分かりきっており、直ぐにでも実行出来るもの。
そう、その方法はとても簡単だ。学校へ行けば良いだけなのだから。
アンネマリーはズキリと急に頭が痛みだし、顳顬を抑えて俯いた。ヘルムートは妹の様子に眉根を寄せ、その頬を撫でながら顔を覗き込むと『アン』と名を呼んだ。その声は憮然とした顔には似つかわしく無く、酷く心配そうな声色であった。
アンネマリーは響く音に瞼を閉じる。
―――学校へ行っては駄目よ
―――とても危険
―――賢いアナタなら解るわよね
グアングアンと頭に響く警告の音。これを振り切れる事が出来るのだろうか。
痛む頭は決意を鈍らせる。言葉を発せようとすると一段と頭が痛み出す。
「アン……」
その声は父か、それとも兄のものだったのか。少なくとも母ではない。頭に柔い温かさを感じると次第に痛みが鈍くなっていった。
「大丈夫かい」
アンネマリーは顳顬にあてていた手を外し、父を見た。
「ごめんなさい、あまりの現実に頭痛が」
「あらぁ、そんなショッキングだったかしら」
「もう休むかい?」
「いえ、大丈夫です。デザート食べてから休みます」
心配そうな父と不思議そうな母。痛みは消えても鳴り続ける音は、屈してしまいそうな程だ。何だと言うのだ、この音は。忌々しい事この上ない。
「父様」
アンネマリーはテーブルの下に置いた手をつねりながら父を呼んだ。
「次の月曜日から学校に行こうと、思います」
―――そう口にした途端、プツンと頭の音が消えた。
空白となった頭は警鐘なんて無かった様に通常を取り戻している。ハッとしたアンネマリーはつねっていた手を口元に持っていき、短く声を出した。
何かひとつ、物事が終わった様な爽やかさを感じた。
清々しい、そんな言葉が頭に浮かぶ。
そんな中、家族はアンネマリーの言葉に時が止まった様に静まり返っていた。3人が3人とも目を見開き、アンネマリーを見つめている。最初に言葉を発したのはヘルムートだった。
「本当、か」
疑いの気持ちがあるのか、恐る恐る詰まりながら言う姿はまだ目を見開いている。
「冗談を言ったつもりはないんだけど」
「じゃあ本当に行くのか」
「そのつもりよ」
「本当だな」
見開いていた瞳にクッと力を込めたヘルムートは頷き、ギュンターを見た。ギュンターはその視線にハッとし、瞬きを多くすると、わざとらしく咳払いをする。まだ状況が読めていないのか瞳を泳がせながら『アン』と名前を呼んだ。
「いいんだね、行くんだね」
言葉にすれば落ち着いてきたのか、ギュンターは言葉の最後にはアンネマリーをしっかりと見つめていた。アンネマリーはその言葉に深く頷き、軽く微笑んだ。
「そんな不名誉な、ヘルマン家らしくないあだ名は嫌ですからね」
「あらぁ」
エリゼは気の抜ける声を出すと、可憐な笑みで言葉を続ける。
「でも本当良かったわぁ。これで皆にアンちゃんはこんな綺麗で可愛いのよって見せびらかす事が出来るわぁ」
少女の様にふふふ、と笑うエリゼにギュンター以外の家族は苦笑しか出なかった。
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