38.事はまだ動かない
―――クラウス、クラウスだなぁ
目の前の男を見て、過去に自分を殺した男を思い出す。だが、思い出す顔は最期に見た顔ではなく、お互いの立場を知らずに会っていたあの時の顔だった。何だかんだ一緒に買い物に行き、花を貰って帰るという今考えると不思議な関係。心があまり動かない前世の自分、アナスタシアの中でも異質なとても優しい記憶。それの中心にクラウスがいた。
アンネマリーは過去への哀愁か、何だか切ない気持ちになり、寂しげにフッと笑った。
「どうした?」
「ふふ、何でもありません」
突然眉を下げ笑ったアンネマリーにエドウィンは肩に触れようとしたが、すんでで手を止める。アンネマリーの防御結界に弾かれてしまうからだ。行き場のない手はそっと下げられ、誤魔化す様に何度もグッパと手を握りしめていた。その姿を見てアンネマリーはなんとも言えない気持ちとなり視線を下げる。
(彼は、アナスタシアを覚えている?)
沸いた疑問に自嘲して、アンネマリーは強く瞼を閉じる。覚えていたとして、自分はどうするのだろう。きっと彼はもう自分を殺さない。だとしたら自分はどうしたらいい?
「アンネマリー、本当に大丈夫か」
揺れる瞳が恐る恐る視界に入ってくる。少し癖のある前髪が瞳の一部を隠してはいるが、それでも瞳だけで彼の心を読む事は出来た。心配しているこの瞳はいつか自分を裏切ったりするのだろうか。よく分からない感情に自身の疲れを感じて、アンネマリーはフルフルと頭を振った。そしてコクリと頷き、雑念を消す為に自分の頬を両手で叩く。こんな事を考えていてもしょうがない。今考えるべき事は他にある。アンネマリーは頬を手で挟んだまま、地面に座り込んでいたリリーに視線を向けた。
「エドウィン殿下、リリーさんの術解いてもらえます?話がしたいので」
リリーはハクハクと口を動かしてはいるが、声が出ていない。腕も足もダランとしている。アンネマリーにやった事は許される事ではないが、エドウィンには纏わりついただけなのに声も封じ、体の自由も奪うとは中々酷な事をする。
アンネマリーの願いにエドウィンは不満げに表情を消した。まだリリーが何をしたのか話していないのに、もうそんなにリリーが許せないのだろうか、感受性が豊かなのか?と不思議に思っているとエドウィンはスッと目を細めた。
「エド、と」
「はい?」
「エドと呼んでくれないのか」
「は……」
まさかの呼び方の問題である。確かに先程はつい愛称で呼んでしまったが、この先ずっと愛称で呼ぼうとは思っていなかった。ホッとしたから何となく出ただけで、深い意味は無い。そう、無いはずだ。
じっと犬の様に見られ、アンネマリーは居心地の悪さに視線を逸らした。リリーを見れば二人のやり取りを苦々しく思っているのが丸わかりの顔をしている。
不意に目の前が陰り、エドウィンが駄目押しで顔を覗き込んで来た。それに動揺し、アンネマリーは何度もパチパチと瞬きをした。口元ももにょもにょと動き、瞬きの度に視線はあっちゃこっちゃへ向いている。
名を呼ばれ、結界ギリギリに顔が近付いてきた為、アンネマリーは一歩後ずさった。
何故愛称を呼ばないだけでこんな目に合うのか。確かに呼ぶと柔らかく笑うので、エドウィン的には嬉しい事なのだろう。だがまだエドウィンとアンネマリーは婚約をしていない。その関係で愛称を呼び続けるのはどうなのか。一度呼べばこの先ずっとなんて、詐欺みたいな事ある?
アンネマリーは様子を伺う様にエドウィンを見る。先程よりは表情は戻っているが、何処か不満気な感じは残っている。どうしたものか、とアンネマリーは視線を伏せ、そして二、三度瞬きをした。
「エド」
話を進めるには呼ぶしか無い。アンネマリーは観念して、そう呼ぶとエドウィンは柔らかく、でも少し意地悪く微笑んだ。
「あぁ」
「エド、リリーさんの解除してくれますか」
「しよう」
愛称で呼べばすんなりと快諾し、エドウィンはパチンと指を鳴らした。するといきなり力が入ったのに体が驚いたのか、リリーは前につんのめり、地面に顔を打ちつける。ドシャンという鈍い音が響いた。
既に泥だらけのリリーであるのに、これは可哀想だ。アンネマリーは僅かに眉を顰め、リリーの行動を見守った。エドウィンは何でも無い様に澄ました顔で眺めている。
リリーは油の切れたカラクリの様な音が聞こえそうな程、ギギギとゆっくりと体を起こし、ゆらりと顔を上げた。その顔は泥と草、そして木屑の様なものがくっついている。あれ程までに容姿に自信がありそうだったのに、何も繕う事は出来なさそうな様子にアンネマリーは不憫さを感じ、視線を逸らした。
ギン、と強い視線を感じたので恐らく今、リリーはアンネマリーを睨み付けているのだろう。ある程度は元気そうだと、感じていた不憫さをほんの少し無くし、逸らした視線をリリーに戻した。
(凄い目力。この子怒り過ぎよね)
思った通り、強い怒りに満ちた瞳で見られており、アンネマリーはさてと腕を組む。隣にエドウィンが居るのでそんなに酷い事態にならないとは思うが、アンネマリーはリリーに今回の事について問い掛けた。
「リリーさん、何を思ってこんな事をしたのですか」
あまり感情を込めずに言えば、リリーの顔は怒りで歪んでいった。今にも噴火しそうな表情と顔色でアンネマリーを睨み付け続ける。肩も上下している様子を見ると相当苛ついている様だ。
アンネマリーはリリーの返答をただ黙って待ち続ける。どうせ下らない理由からだとは思うが、決めつけるのは良くない。本人の口から聞くべきだし、アーベルとの関係も気になるところだ。
じっと温度差のある視線を交わしていると、リリーが悔しそうに口を歪め、手をついていた土を爪で抉っていく。その様をエドウィンと二人で只々眺めた。エドウィンは何を考えているのか、何も発する事は無く、表情の冷ややかさが増すだけだった。その間にも形の良い爪に茶色い土が入り込み、それと比例する様にリリーは醜く顔を歪ませていく。
「何でアンタがそこに居るのよ!!」
獣の様に吠えたリリーにはもう猫は居ない様だ。エドウィンの前だというのにあの媚びる声を出していない。
「そこはアンタじゃなくて私の場所でしょうが!!」
目を血走らせながら、言う姿を見てもエドウィンは引く事無く、ただその吐かれた言葉を考える。だが理解が出来ない様でアンネマリーに視線を寄越した。
「どういう事だ?分かるか、アンネマリー」
「恐らく彼女は……エドに好かれたかったのでしょう」
「……成程?」
「なのに……エドがリリーさんで無く、私を擁護しているのが気に食わないのだと思います」
「…………成程。よくわからんな」
何故アレを擁護する必要がある?とエドウィンは首を傾げ、同意を求める様に『なぁ』と苦笑した。それをここでやるのは煽っているだけなのでは?と感じたが、それを今言ってもしょうがないのでアンネマリーは黙って頷くだけにした。




