1.アンネマリー•ヘルマン
アンネマリー・ヘルマンは侯爵家の次女として生まれた。
ヘルマン家は魔術師の家系であり、魔力が高く国で重宝されている。父も兄も王国魔術師団に配属されており、父に至っては五つの魔術師団を纏める総長を任されている。兄も第二魔術師団の団長を最年少で指名された。
姉は既にソマリン公爵家に嫁いでおり、公爵夫人として社交界に名を輝かせている。
母は永遠のぶりっ子だ。
そんな優秀な家族の中でアンネマリーは末っ子としてすくすく育ち、現在17歳。所謂結婚適齢期に入ったが、婚約者はおろか友人もおらず、父ギュンターは頭を抱えていた。
アンネマリーは12歳から引き篭もりである。幼い頃から協調性と社交性がなく、お茶会も一度しか行った事がない。12歳から通う筈の王立学園も人が沢山いるのが嫌という理由で入学はしたものの一度も行っていない。
あと1年で卒業だというのにだ。出席日数が足らないのにまだ席があるのは筆記試験と課題だけは提出している点と名門侯爵家の権力があるのかもしれない。
日がな一日、本邸より離れた研究棟に引き篭もり、侯爵家の蔵書を読み漁る。気になる術式や魔導具があればその場で研究し、レポートを纏めたりしていた。自らで何かを生み出すものも好きな為、思い立ったらすぐ実験出来るこの研究棟がアンネマリーは好きだった。
また、アンネマリーは自堕落で怠惰な人間性を持ち合わせていた為、動くのを何よりも嫌った。その為、生活魔術に誰よりも秀でており、生活魔術学会へ論文を多く発表している。
『生活の母』それはまだ17歳である彼女の通称である。
そんな彼女には秘密があった。それは誰にも言ってはいない大きな秘密であり、彼女が引き篭もっている理由の一つだ。
アンネマリー・ヘルマンには前世の記憶がある。
それに気付いたのは8歳の時だ。高熱に魘され、やけに鮮明な夢を見た。まるで誰かの一生を体感している様な夢だった。
その人は幼い時から高度な魔術を操り、そのあまりの有能さを王に買われ、10歳より多くの戦に駆り出されていた。一人で一軍隊を一掃する力は尊敬もされていたが、それよりも畏怖される存在であった様だ。遠巻きにされ、化け物と罵られる、そんな人だった。
戦以外は何もない人生。感情も何もない。絶望しかない心はいつも他人の死が染み付いていた。
10歳から人殺しを始め、死ぬ22歳までずっと血に塗れ、死しかない生き方。
最期も戦場にて男に胸を貫かれ、絶命。何も残らない人生。全てを殺す人生。
『絶炎の魔女』アナスタシア・ゴレッジ。
それが彼女の前世の名だ。
アンネマリーは幼いながらもその名前を知っていた。その名前は様々な文献、物語で悪虐さを残され、子供が悪戯をした際に言われる人物。
『悪い事をしたら絶炎の魔女が攫いにくるよ』
300年前にいた最厄の魔術師の名前、それであった。
アンネマリーは思う。
(なんか話と違うな。もっと苛烈な人だと思ってたけど)
それから彼女の文献を読み漁り、自分の記憶と擦り合わせていく。
だがどれも自分の記憶とは違く、本当にこれはアナスタシアの事なのかと頭を抱えた。アナスタシアの記憶では全てが国の命令で行ったものだったが、全てが独断であり、すれ違う人も殺したと言う記載が多い。また人嫌いで全てを滅ぼす為に力を奮っていたと言うのだ。
全くそんな事はなかったというのに。何たってアナスタシアは自分で物事を考えられない人だ。命令されなければ何もしない空っぽな人間だったのだ。
(それにしても300年経っても風化しないって凄い悪者ね)
アンネマリーはアナスタシアの記憶が蘇っても彼女の感情面が全く理解出来なかった。記憶と共に感情も蘇るのだが、本当に何も考えていない所謂指示待ち人間だったのだ。魔術は感覚で全て出来る天才だがそれ以外はポンコツ。裏切られても『そうか』で終わり、指示がなければ殺す事も追う事もない。食事も必要性を感じず、言われなければ取ろうともしなかった。
アンネマリーも自堕落な人間だが、今世は食事第一に考えているので食べないなんて考えられない。でも彼女は空腹さえも感じないのか何日も食事を取らなくても平気だった。その割に女性的な体つきをしており、上司の男に命令され戦場で娼婦の様な事もさせられていた。
(こんなの人形だわ。生きてると言えるの?こんな人生嫌)
幼いながらもアンネマリーは決意し、誰にも侮られない、利用されない人生を歩む事を決めた。
その為に、アンネマリーは父にお願いし様々な分野の家庭教師を付けてもらった。知識があれば自分の身を守れると思ったからだ。魔術は勿論の事、歴史、風土、経営、薬学、医療、馬術、剣術、護衛術その他諸々。貴族淑女のマナーも念の為習った。
最初は父もあまりの多さに少し反対したが、アンネマリーの『将来の選択肢を増やしたい』という嘘で折角の学習意欲を削ぐわけにはいかないと陥落した。
やってみればどの分野も楽しく、持ち前の地頭と運動神経の良さで10歳の頃には学園卒業までの学習を終えていた。これには家族も家庭教師も驚き、飛び級で王立学園へ入学させようとしたが、アンネマリーはそれを拒否。寧ろ進学しないと言い出した。
「学園で習う分は全てやったのだから行っても意味ないと思うの」
だが、結局は王立学園進学は貴族の義務だと言う事で入学させられた。まあ、先程言った通り一度も行ってはいないのだが。
前世の記憶があるアンネマリーが恐れている事はこの前世がバレ、殺される事だ。
前世のアナスタシアは戦場で命を落とした。これはアンネマリー以外であっても一般常識で知っている歴史である。だが皆と違うところはアンネマリーにはアナスタシアが殺された瞬間までも記憶があるというところだ。
正直、その時の記憶は曖昧でどんな事を思って死んだのかは思い出せない。苦しい?悲しい?ひどい?どれも解らない。
でも、あの自分を突き刺した男の碧い瞳が脳裏に焼き付いて離れないのだ。真っ直ぐと鈍く光る瞳、刺した瞬間僅かに瞳を閉じる仕草。
重く、熱く焼かれる様な痛みが走り、崩れ落ちる体を男に預けてぼやけていく視界。
パチン、と真っ暗になった世界。
この世にいる人は死ぬ事を経験していない人が大多数だろう。だが、前世の記憶を思い出してからアンネマリーは死の瞬間を幾度も夢に見た。
夢を見る度、汗ばむ体に、歯を食いしばる為か痛む奥歯。
何度も何度も何度も見て、そして思ったのだ。
―――こんな思いはしたくない。自分は老衰で死ぬのだ、と。
夢はこの歳になってもたまに見たりするが、年々情景が薄くなっている。そのせいか昔よりは前世に囚われなくなって来たとは思う。
だからといって恐怖が消えている訳ではない。殺される夢はとても恐ろしい。朝に本当に目覚めるのか不安になる。夢に取り残されるのではないかと恐怖してしまう。
夢が薄くなってきた頃、学校に登校してみようと思った事があった。行ける気がする、と根拠のない気持ちで挑もうと思ったのだが、鐘が鳴った。
グワングワンと頭を揺らす程の警鐘が。
それは『学園に気を付けて』と頭に響き、足を家に引き留めるのだ。
5年間、何度も登校しようと思った。だが、その度に警鐘は鳴り続け、『本当に行ってもいいの?』と引き留め続ける。
それがどうしてなのかは全くわからない。だがそんな日々が続き、気付けば登校拒否を5年間続けていた。
この気持ちを家族に伝えた事はない。恐らく今後も伝える事はないだろう。何故ならこれを伝えるにはアンネマリーの前世を言わなければならない。だが前世の悪名を知っているが故にそれは避けたい事だった。
それに何だかんだ、この研究棟に引き篭もっている生活がとても気に入っている。誰にも邪魔されず、自分の好きな事をし、お腹が空いたら好きにお菓子を食べる。ここを天国と言わず、何と言うのか。
そして今日もまたアンネマリーは書類の散らかった研究棟の一室のソファーに横たわりながら本を読む。
パラパラと流す様にページを捲れば、術式が頭に流れ込んだ。
この穏やかな日々がいつまで続くのか。もしかして死ぬまで続くかも、と自嘲しながら本を閉じる。
もう陽は沈み、開けた窓から冷えた風が入ってくる。そろそろ夕食の時間に違いないと戸締りをし、パチンと指を鳴らせば一瞬にして本邸の食堂へ跳んだ。
アンネマリーは自分の席に座り、他の家族を待つ。
前世には無かった暖かい家族、それが今世はある。それだけでアンネマリーは前世の自分が救われている気がした。