16.クラウス
家に帰ったアンネマリーはゆったりとした部屋着に着替えるとソファーに身を沈めた。
目の前にある茶菓子には手を出さず、ぼーっと温室での事を思い出す。
エドウィンという男の碧眼を見た時、脳が割れるほどの記憶なのか感情なのか、もうぐちゃぐちゃな情報に襲われた。
きっとこれが自分の恐れていたことなのだろう、と冷静になった今は思える。
『前世で自分を殺した男』に会うから気をつけろ、と頭は警鐘を鳴らし続けていたのだ。
ぐわんぐわんと顳顬に響いていた痛みはとっくに引いているが、記憶をなぞるようにアンネマリーはそこに指を這わせる。
―――クラウス
そう、クラウスだ。今まで名前までは思い出せなかったが、自分を殺したクラウスに違いない。
初めて会ったのは戦時中、密かに拠点にしていた南の小さな港町。上官に言われて、街をぶらぶらしている時に話かけられ、そこから会う度に一緒に買い物や食事をする様になった。
いつもニコニコと笑顔で、人生の殆どを戦場で暮らしていたアナスタシアには接した事がない人種だったと記憶力している。
今考えれば、少し自分に気があったのだろう。
道端の花をわざわざ摘んで、はにかみながら『どうぞ』と渡してくれたりもした。
自分は彼に恋愛感情はなかったが、その行為が新鮮で嬉しかった。わざわざ上官に言ってポーションの空瓶を貰い、それに花をいけて見窄らしい質素な部屋の窓辺に飾った。
花を見て、何かを感じる事はなかったが、その存在が自分も人間なのだと認識させてくれた。物を貰える、他人にも認識できる人間なのだと。
それからクラウスは度々、花をくれる様になった。その度にアナスタシアはポーションの空瓶を探し、窓辺に飾った。だんだんと増えていく花が、生活の一部として馴染んできた頃、戦争が激化し、拠点を移動する事となる。
それは突然の決定で、彼には挨拶も出来ず、その街を後にした。
移動の途中、彼が敵将だと上官に知らされた時は酷く驚き、だが何処か納得した自分がいた。やはり自分は人間扱いはされてなかったのだな、と。弱味を握る為に花を贈られているだけだったのだ。彼に対しては友人とまではいかなくとも知人よりは気を許していた為、聞いた時はぽっかりと穴が空いた様だった。でもそういう事か、と納得すれば、すとんと腑に落ちた。
『次会うのは戦場だろうな』
そう言って片方の口端だけ上げた上官は酷く嬉しそうに笑った。それを見て、自分も笑うべきなのか迷ったが笑おうとしても笑えなかった。代わりに一筋の涙がぽろりとひっそり流れていった。
実際に次に姿を見たのは戦場だった。
アナスタシアを見たクラウスは酷く驚いた顔をし、小さく唇を動かした。
『何故、ここに』
そう動いた口に、悟った。
―――ああ、彼は知らなかったのだ
そして、あの花は純粋な彼の好意なのだと知った。近寄り、会話など出来るはずもない。お互い敵を屠り続け、どちらともわからない撤退の音が響き、戦場がただの墓場になった時、もうあの頃の様に会えない事を理解した。
去っていく彼の背中を眺めながら、気を許した人間はこういう風に去っていくのだな、と自嘲う事しか出来なかった。
それから何年も経ち、その年月の中で何度もクラウスとは戦場で相まみえた。その度に彼が泣きそうな顔で見ていたのをアナスタシアは知っている。それがどの感情から来るものなのか、アナスタシアには解らなかった。友を殺す事に対しての悲しみ、恋慕からの感情?だが、それを見ていると自分が救われている気がして心地良かった。
だからだろう。
だから最期のあの日、彼に殺して貰おうと自ら身を差し出したのだ。
意識が潰える瞬間まで、彼の腕は震えていた。ぼやける視界には薄汚いクシャクシャな顔。
(もしかして、クラウスはアナスタシアを恨んで殺したのではない……?)
ソファー座る足を組み替え、アンネマリーは背もたれに寄っかかる。
考えようによっては悲劇にも思えてきた最期に一縷の光が差し込める。
クラウスが猛烈な恨み、殺意を持って殺したので無ければ殺されないのかもしれない、と。
思い出せば思い出す程、彼は最後を後悔している様に見える。殺したくはなかった、でも戦争だから殺さざるを得なかった、そんな感じだ。
「大丈夫なのでは?」
あんなに恐れていた『死』は最初から回避出来るものだった可能性が高い。きっとあれが戦時中でなければ友人関係、いや恋人関係にもなれていたかもしれない。
そう考え出したら何だか今までの引き篭もり人生が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
そういえば登校を始めてからはあの警鐘は聞こえてこない。
「あー、心配して損した!」
あの警鐘は自分の臆病風だったのかもしれない。そう思ったら肩の力がどっと抜けていった。
気が抜けたらお腹が減ったので目の前のクッキーを放り込む。バターの強い香りが口の中いっぱいに広がり、幸せな気分に包まれた。




