最終話『嘲笑』
「藤島くん」
僕が教科書やノートをまとめていると、右隣の席に座る鷹白さんが頬杖を突きながら、僕に話しかけてきた。
その表情は、いつもと同じ。
「な……なにかな?」
「さっきから教科書を何度も緩慢なペースで机から出し入れしているけれど、何をしているのかしら? 準備が終わったのなら早く理科室に行けばいいのに。まるで、何かを待っているかのように見えるわよ」
嘲笑。
鷹白さんはいつも、嘲笑うような表情で僕を見る。わざとらしい動作で小首を傾げ、その拍子に、パーマのかかったボブヘアーが揺れた。
綺麗な人だとは思うけど、正直に言ってこの人は苦手だ。
「だ、だから、何度も言ってるじゃないか。親しい人がクラスにいないから、早く行っても喋る相手がいなくて気まずいだけなんだって」
その答えを知っているはずなのに、鷹白さんは僕を困らせるために、わざと同じ質問を繰り返す。勘弁してほしいものだ。
「そっかそっか、なるほどね。藤島くんは友達いないんだ。それなら、可哀想だから時間ギリギリまで、私が話し相手になってあげる」
移動教室前の休み時間。教室に残っているのは、僕と鷹白さんだけだった。その申し出自体は友達のいない僕からすれば有難いことのはずだけど、その相手が鷹白さんとなってしまうと、逃げ出したい気持ちにも苛まれてしまう。
「うん? 何かしら。そんなにまじまじと見て。何か私に、言いたいことでもあるの?」
「い、いや。別にそういうわけじゃ」
そういう鷹白さんだっていつも一人じゃないか、と声に出して言う勇気は僕には無い。
「ううん、何か言いたそうな顔してた。あ、じゃあ当ててあげようか?」
「え」
「『お前もいつも一人じゃねーか、クソアマ。はっ倒すぞ』って思ったでしょ」
「そんな物騒なこと思ってないよ⁉︎ ただ僕は、僕にそんなこと言うわりに、鷹白さんだって一人で行動してることが多いよねって……あ」
「くすくす、だだ漏れてるわよ。藤島くんって、嘘をつくのが下手なのね」
ぐうの音も出ないほど手のひらで踊らされ、僕は恥ずかしくなった。多分顔も真っ赤になっていることだろう。そんな僕の様を見た鷹白さんはさらに、口角をニタリと上げた。
「そんなバカ正直じゃ、人付き合いも苦手そうね」
「そ、そんなの……あっ」
先ほどに続いてまたも口を滑らすところだった僕が、寸前で思い出したように手で口を塞ぐと、それを見ていた彼女がまたも嫌らしい笑みを浮かべた。
「何か言いたそうにした?」
「い、いや。何も」
「別に私は気にしないから。思ったことをそのまま言ってみたら?」
僕は観念して、彼女の言う通りにする。
「……鷹白さんも、僕とは別の意味で、人付き合いが苦手そうだなって、思いました」
「言うじゃない?」
「ごめんなさいごめんなさい」
「ふふ。だから、気にしないって。藤島くん、あなた本当にバカ正直ね」
そう言って、鷹白さんは笑った。
純粋に、僕のトークスキルで楽しませた結果の笑顔なら良かったんだけれど、その本質は、ただただ鋭く僕を抉る嫌味な笑みだった。
「思ったんだけど、無駄におどおどしてるだけのあなたに振り向く女の子なんて、きっといないんじゃないしら?」
「な、何さ急に。言われなくても分かってるよ、そんなこと。そろそろ行くから」
鷹白さんの急角度からの口撃に、僕はたまらず離席した。その動作に合わせて、彼女も席から立ち上がる。
「じゃあ私も。授業に遅れたら大変」
その後も僕は鷹白さんに粘着された。早くこの時間が終わればいいのに、と頭の中でずっと唱えていた。僕に時間を使うぐらいなら、もっと有益な時間の使い方があるだろうに。
「藤島くん。あなたって本当、冴えない人ね」
『そう思うなら、僕に付き纏わなければいいのに』と、心の底から思う。彼女のことは本当に苦手だ。僕がそう思っているのは明らかなのに、彼女はなぜこうも僕に執着してくるのだろう。僕に付き纏ってくるのだろう。とんでもない人に目を付けられたものだと思う。
少なくともクラス替えまでは耐えよう、と思いながらも、まだ新学期が始まって間もない時期であることを恨む。
しかし今は、耐えるしかない。
この嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
ずいぶんと、気が遠くなる話だ。
◯
結果から言えば、その嵐は過ぎ去らなかった。
しかし、それに対して僕が抱く感想は、当時のそれとは全く正反対のものに変わっていた。
「……思い返すと、僕、君には結構酷いこと言われてたよなあ」
彼女が今いる位置は、初めて出会った時と同じ右隣だった。同じこたつ布団にくるまりながら、彼女は答える。
「私、こう見えてもお茶目さんなのよね。だからちょっと、言葉が抜けちゃうの。今更だけど、あの時言い忘れた言葉を言っておくわね」
彼女が首を回し、左隣をーーすなわち、僕の方を向いた。
「『あなたに振り向く女の子なんて、きっといないんじゃないしら?』」
あの時の台詞が、僕を覆う。
言われた当時は多少なりとも傷付いたものだけれど、今では懐かしくも思う。
なぜだろう?
それはきっと、僕がーー彼女が今、僕の隣にいる理由を知っているからだ。
「私を除いて、ね」
あれから彼女と積み重ねた年月を思えば、その言葉が嘘ではないことは、僕には分かる。しかしそれはそれで、何だか無性に恥ずかしい。それに加え、こたつに身を委ねているせいで、身体がどんどん熱くなっていく。手元にあるこたつ用の電子コントローラーで、出力を最小に設定した。
「『あなたって本当、冴えない人ね』ーーそこがとっても、可愛いんだけど。あと他に、私の過去の暴言のどれについて弁明したらいいかしら?」
「も、もう十分だから。この辺で勘弁してよ」
「わかってくれた? 私が世界で唯一、あなたを好きだって事が」
「世界で唯一……か。そう言われちゃうと、少し寂しい気がしないでもないけれど」
熱くなった身体をクールダウンさせる意味も込めて、僕は一旦間を取った。これから言おうとしている台詞を思うと、そのまま口を噤んでしまいたくなる。
でも、無邪気な笑顔で言葉の続きを待っている彼女を見て、気が変わった。決心がついた。
年月を重ねるごとに素直になっていった彼女を見習って、僕もストレートな愛情を表現してみることにした。
「その唯一が古都花さんだって言うのなら、僕に不満なんかあるわけがないよ」
始めはお互い、爪弾きにされた者同士だった。
毒舌が過ぎて浮いていた古都花さん。
ただただ周りに溶け込めなかった僕。
少し系統は違っていたけれど、古都花さんはこんな僕に、妙なシンパシーでも感じてくれていたのかもしれない。
「そもそも古都花さんは何で、僕のことを好きになったのさ。今まで長い間はぐらかされて来たけれど、今日という今日はハッキリ答えてもらおうか」
恥ずかしいことを口にした勢いで、僕は少し強気に出た。少しおちゃらけて、その恥ずかしさを隠しながら。
「私、元彼に浮気されたことがあってね」
しかし浮ついた僕の表情とは対照的に、彼女は真剣な表情だった。内容も内容だったので、僕は慌てて真面目な表情を作る。そして、あまり自分の過去を話してこなかった彼女が、訥々と語り出した。
「そいつ、いわゆるモテ男タイプでね。向こうから熱心に口説いてくるものだから、首を縦に振っちゃったの。結果的にそれは、一時の気の迷いでしかなかったわけなんだけどね。それに私は、ガールフレンドの一人でしかなかったみたい。元々そんなに好きではなかったけど、そいつの本性を見抜けなかった自分に腹が立っちゃって。口論の末に掴み掛けられたものだから、その拍子に思いっきり、頬を殴ってやったわ」
「け、怪我はなかったの?」
「無傷、ではなかったみたいね。あの後数日、学校にも来なかったし」
「じゃなくて、古都花さんの方」
「優しいのね。ちょっと手がじんじんした程度よ。心の方は、健康とは言えなかったけれど」
ふふふ、とおかしそうに笑う古都花さんを見て、僕ははらはらとした。今のは昔話だけれど、僕はたまに、古都花さんに対して危うい気持ちを抱いてしまう。
そんな僕の心配をよそに、古都花さんは続けた。
「それで男なんてどうしようもないって思った矢先に、藤島くんが現れたの」
僕の名前を口に出した途端、彼女は笑顔になった。昔のように、見方によっては冷たく見える笑みだけど、今ではその中に温かみがあることを知っている。それを見て、僕は嬉しくなった。
「藤島くんはそれまでの私の人生では縁の無かった男の子でね。トロくて鈍くて冴えなくて。こんな奴いるんだ、って最初は興味本位で、檻の中の動物を見るような感じだったわ」
「はは……酷い言われようだ」
「……でも喋ってみたら、誠実で。真っ直ぐで。嘘をつかない人なんだなって感じた」
「嘘をつかないんじゃなくて、つけないんだよ。すぐ顔に出るから」
「言えてる」
くすくす、と彼女が笑う。
「その嘘をつけない顔を見ているうちに、私の中にあるものが生まれたの。自分でも驚くくらいに、すっと理解したわ。『ああ、これが恋なんだな』って」
彼女が恥ずかしそうに、左手で前髪を触った。その仕草に、いじらしさを感じる。
「こんな私にも、藤島くんと高校で出会う前……中学時代に、仲良くしてくれた女の子がいてね」
「古都花さん、友達いたんだ」
「言うようになったわね」
古都花さんは少しムッとして、僕の二の腕をつねった。痛い痛い、とおどけて反応した。
「クラスは違ったけれど、仲良くしてくれてね。その子が、『好きな相手がいるなら、とにかく押して押して押しまくればいいよ!』って教えてくれたことを思い出したの。実際彼女はその方法で、クラスメイトと付き合ってたみたいだし……だから藤島くんを好きになった時、思いっきり押してやろうと思ったの。今までの私からは考えられないぐらい、めいっぱい」
「……古都花さんのは押すというより、『刺す』って感じだったけどなあ。言葉のナイフが鋭かったから」
「ずいぶん物騒な言い方するじゃない」
「まあ、当時はそれなりに傷付いてたし……」
「ごめんごめん。じゃあこうしたら、許してくれる?」
そう言って彼女は、僕の身体に巻きついてきた。そう言ってしまうと、まるでツタに覆われた家屋のようなイメージだけど、何も彼女の造形が人ならざる物に変わって、僕を殺しにかかったわけではない。
控えめに言うと、ハグだ。
大げさに言うと、情熱的な抱擁だ。
「これで許してくれる? 足りないって言うのなら、言葉で言い表すことに抵抗を覚えるような恥ずかしい方法を用いて、さらにあなたを包み込むのもやぶさかではないけれど」
僕の後頭部辺りから、彼女がそう囁く。
「こ、言葉で言い表すことに抵抗を覚えるような恥ずかしい方法って何って聞きたいけど、怖いからやめておくよ。僕は大丈夫だから、落ち着いてよ」
「藤島くんこそ落ち着けば? 耳、真っ赤だよ」
「あー、もう。そもそも僕は、怒ってないから」
本当にーー怒るわけがない。
当時、彼女の毒舌に傷付いていたというのは事実だが、その時の僕は単純に、耐性が無かったのだ。僕に対して怖い言葉を使う人間は僕のことを嫌っているのだと、そう信じて疑わなかった。
でも、古都花さんと話すようになってしばらくする内に、そうではないと理解した。彼女は本当に、ただ純粋に口が悪いだけで、僕の事を傷付けようとしていたわけじゃなかった。
古都花さんが、人付き合いが苦手なのは事実だ。しかし彼女は彼女なりに、僕に歩み寄ろうとしてくれていた。人付き合いが苦手な僕でもそうだと分かるぐらい、彼女が僕に向けた顔は、笑顔の割合の方が断然多かった。
出会ってすぐの時こそ、古都花さんが浮かべる表情は惨めな僕に対する嘲笑なのだと思ったものだけれどーー彼女は、そんな人じゃない。そう思ってしまっていたのは、単に僕が、人の心を知ろうとしなかったから。友達が出来ないのを他人のせいにして、正当化して、自分から歩み寄ろうとしなかったから。
古都花さんはあれで、僕に歩み寄ってくれようとしていたのだ。少なくとも今は心からそう思えるぐらい、僕と彼女は、長い時間を共に過ごしてきた。
「……そもそも、古都花さんのことを嫌っているのなら、僕と同じ苗字になって欲しいなんて思わないよ」
古都花さん。
僕の大好きな、鷹白古都花さん。
僕の事を好きでいてくれた、鷹白古都花さん。
そんな唯一無二の彼女が今日、藤島古都花になった。
「本当、責任取ってよね。私ずっと、藤島くんのことばかり考えてるんだから」
ぎう、と古都花さんが腕の力を強め、僕の身体にかかる負担は大きくなった。僕も負けじと、彼女の背中に手を回す。ふんわりとした香りが、僕の鼻腔をくすぐった。
「それはお互い様だよ。僕も古都花さんのこと、自分の命より大切だ」
「そう言ってもらえて嬉しいけど、自分の命を一番に考えてほしいかも」
「言えてる」
そう言って、お互い大きく口を開けて笑った。その振動で、密着している身体が揺れる。
「じゃあ、そうならないために。私が責任を持って藤島くんを見張らないとね」
「お手柔らかにお願いします……あ、そういえばもう同じ名字になるんだし、『藤島』呼びは不自然じゃないかなあ」
彼女は僕を『藤島』と名字で呼ぶ。高校生の時も、大学生の時も、交際を始めた時も。今日までずっと。
「それも、そうね。じゃあ、今日から名前で呼ばせてもらうわ」
照れちゃうけどね、とはにかみながら、古都花さんは僕の下の名前を君付けで呼んだ。そのいじらしさに、なんだかむずむずしてしまう。
「じゃあ、今日から新たなスタートということで。浮気なんかしちゃダメよ?」
「古都花さんが一番分かってるだろ? 僕に隠し事なんて出来ないよ」
「うふふ。言えてる」
その後僕らは、古都花さんに巻き付かれている姿勢も変えずに、他愛のない話を続けた。たくさん、続けた。いくら語り合っても話は尽きなかった。
部屋は暖房が効いていて暖かかった。けれど、人恋しくなる冬という季節柄のせいだろうか。いつまでも、古都花さんの体温に触れていたかった。
古都花さんの温もりが、僕に深く深く浸透していく。