第4話『刻彫』
「おい。待ってくれよ」
九月。
文化祭の準備に色めき立つクラスメイトをよそに、特に仕事を振られていない私が正門から下校しようとした時、私は後ろから右肩を掴まれた。私は歩みを止める。存外に力が強かったものだから、少し驚いてしまった。でも声の主と、声の主からそのように言われる内容に心当たりがあった私は、毅然とした態度で振り返る。こいつの心を少しでも抉れるように、出来るだけ冷たい目で。
「……何?」
声の主は私の想像通りの人物だった。
同学年の女子の中で一番背が高い私よりも頭二つ分ぐらい背が高くて、明るい髪色。中学生のくせに、ピアスなんかしてる。
顔を見ると吐き気すら覚えるーー私の、彼氏。
「今日のお前、なんか、冷たくねえか?」
「いつもこんなもんでしょ」
「いや、ぜってーおかしいって! 俺、なんかしたか? それとも何か、嫌なことでもあったのか? 話してみろよ」
もしもこの一連のやりとりを見た人がいたならば、彼に対して『様子がおかしい彼女を慮る優しい彼氏』という印象を持つのではないだろうか。本当にその通りだったら良かったのにな。そんな風に、ありもしない妄想をする。
「俺がコトを、守ってやるから」
そして当然のように、甘い台詞を吐いた。
その言葉を聞いて、私は思わず笑ってしまった。別に彼が面白い顔をして笑わせに掛かってきていた、というわけではない。彼の表情は至って真面目。
……いや、今の状況を思えば、面白い顔をしていると言っても過言ではない。ここまで何も分かっていない人間がいるとは、と驚いて笑ってしまった。
「何がおかしいんだよ。こっちは真剣なんだぞ」
「さっきの台詞を言って良いのは、誠実な人だけよ」
「どういうことだよ」
「……私が冷たいのも、あなたが何かしたのも、嫌なことがあったのも正解よ。やましいことをしたいんだったら、スマートフォンのパスワード、もう少し人に見られないように工夫したらどうかしら?」
一瞬、時が止まる。私以外の全てが、活動する事を停止したような錯覚を抱く。
しばらくして、彼が思い出したように表情筋を動かし、何やら弁明を始めた。
「それは、向こうから言い寄ってきて、仕方なく」
「仕方なく、お泊まりとかしちゃうのね」
そこまで言うと、次第に彼の顔は変わっていった。真剣な顔付きから、へらへらした腑抜けた表情に。
「なんだ、やきもちか? 元はと言えば、お前に愛想がないのが悪いんだろ。人のスマホを見るとか、信じらんねー。嫉妬してんのなら繋ぎ止めようと努力しろよ。全然そうしようって気が感じられねー。女ならもっと、愛想よくしろよ」
そんな言葉を何の躊躇いもなく言い切った彼を見て、私は踏ん切りが付いた。
今の発言中、途中で、少しでも思い留まってくれたら。
言葉をせき止めてくれたら。
彼の中で間違いに気付いて、謝ってくれたらーーそう、思ったけど。
「おい、何とか言えよ」
そんな気、さらさらないって顔してる。
自分が正義だと疑わない顔してる。
「嫉妬、ねえ……あなた、察し悪過ぎ」
私はそんなこいつに、思いの丈の全てをぶつける。怒りというより、呆れが強い。
「私が苛立っていたのは、あなたが他の女にデレデレしてたから、ってのが理由じゃないわよ。そんなの、吐き気がする。あなたが熱心に口説いてきてしつこかったから、仕方なく付き合ってあげただけ。それなのにその後、私をまるで所有物かのように雑に扱って、思い違いも甚だしいわ。あなた、釣った魚にエサをやらないタイプよね。そんなあなたの本性を看破出来ずに、少しでも心を開いた自分に、どうしようもなく苛立っただけよ」
「なんだそれ。訳わかんねえ」
「分からなくて結構よ。あなたみたいな人に守られなきゃ生きられないほど、私は落ちぶれていないから」
私は彼の手を振り解き、歩みを進めた。
「おい! 待てよ!」
再び彼が私の右肩を強い力で掴み、自分の方を向かせようとした時、その振り返る勢いのまま、私は左ストレートをお見舞いした。利き手から繰り出された体重の乗った拳が、彼の頬を直撃する。拳に鈍痛が走る。
しかしそれ以上に、高揚感があった。
「これ以上、私と口を聞かないで。視界に入らないで、とは言わないわ。同じ学校だしね。距離を置いてくれるだけでいいから……私の世界を、二度と害さないでちょうだい」
うずくまった彼に配慮する気には当然ならず、私は歩き出した。しばらくして、後方から何やら口汚い言葉が飛んできた気もしたけれど、別世界の言語だと思って無視した。
彼の言葉が私の中で意味を持つことは、もう二度と無いだろう。