第1話『憧憬』
「ぼくは、お姉さんのことが好きです」
今まで生きてきた中で、そう発した時が最も勇気を奮った瞬間だと思う。言い終わり、ほんの少し生まれた静寂がもどかしくなり、ぼくは着用していたマフラーで口元を隠した。だけど、その言葉自体には、何の嘘偽りも無い。
他に比較対象が無いから確証が持てないのがもどかしいところだけれど、でもぼくは心の中では、この気持ちの正体に気付いていた。どうしようもないぐらいに、答えが導き出されていた。
これが恋なのだとーー絶対的に、分かり切っていた。
「えへへ、ありがとうねー。私も好きだよ、君のこと。カワイイし」
しかしその返答は、ぼくにとって望んでいた形ではなかった。目の前にいる高校生のお姉さんが嬉しそうにはにかみ、むず痒そうに自分のセミロングヘアーをいじった。
でもその姿は単に、『好き』と言われた事実にのみ反応しているように思えてしまう。相手が年下の、ましてや小学生というのだから、きっとスキンシップ程度としてしか受け取ってもらえないだろう。そんな事を思いながら、朗らかな表情を作るお姉さんを見る。
無論、嬉しい気持ちはある。そりゃそうだ。嫌われるより、好いてもらえている方が良いに決まっている。
それなのに、何でだろう。
なぜこうもーー釈然としないのか。
「えっと、あの、そうじゃなくて」
「うん? どうしたの?」
ぼくが自分の気持ちに適した言葉を見つけられずにあたふたしていると、なにやら電子音が鳴った。ぼくのものではない。お姉さんが高校指定のスクールバッグからスマートフォンを取り出す。電話のようだった。ぼくに「ちょっとごめんね」と言って、お姉さんはそれに応答した。その横顔を見てから、ぼくは自分の身体を改めて見た。
そこにいたのは、何の変哲もない小学生だった。
五年近く愛用しているランドセル。使えば使うほどぼくにしか分からない傷が増えていくそのカバンに対して、ぼくはどこか誇らしさを覚えていた。だけど、お姉さんとの歳の差を意識してしまうと、なぜかそれが、途端に恥ずかしい物のように思えてしまう。それがまた愛着を持ったランドセルに悪いような気がして、少しヘコむ。
ぼくがランドセルを手放すような年齢になれば、お姉さんはもっと、ぼくのことを見てくれるのだろうか。立派に年齢を重ねれば、お姉さんがぼくを、男として見てくれるのだろうか。
……本当は分かっている。
ぼくが誕生日を迎えて一つ歳が近付いたと喜んだとしても、そのうちお姉さんも一つ、歳を取る。人間ならそれは当たり前。
その当たり前がぼくにはすごくもどかしくて、じれったい。この間を埋める梯子が欲しくなる。
そんなことを言ったところで、実際的に年齢差を詰めることは出来ない。それならば抽象的な意味として、ぼくが魅力満点の人間になれば、年齢差なんて覆せるのではないか、とも思う。ただそれは、いますぐに用意出来るような代物ではない。答えは簡単だ。
それはぼくがーーまだ子供だから。
どうすれば魅力的な人間になれるのか、ぼくには皆目見当も付かない。
「……うん、うん。分かった。じゃあねー」
そうこう考えていたら、お姉さんの電話が終わった。スマートフォンをスクールバッグにしまい、ぼくに笑みを向ける。
「ごめんね、お母さんから。今日のご飯は私の好きなハンバーグだから早めに切り上げて帰ってきなさいよ、だって! えへへ、やったぜー」
そんな他愛の無い報告をしてくれたお姉さんは、まるで子供のように無邪気だった。と、小学生のぼくが言うのも変な話だけど、とにかく、そんな彼女の様子はとても愛らしかった。
「あっ、ごめん。何か言おうとしてたよね?」
「いえ、もう大丈夫です」
さっきの告白で持ち合わせていた勇気を全て使い切ってしまったぼくは、平静を装いながらそう答えた。ぼくの胸中は全然大丈夫では無いけれど、そう答えるしかなかった。
「ぼくの方こそすみません、引き留めてしまって。図書館に向かうんですよね?」
「いやいや、全然大丈夫だよー。君のこと見てたら癒されたし。勉強もはかどるよー」
「それなら、よかったです。頑張ってくださいね」
「うん! 君に良い報告が出来るように頑張るよー。じゃあ、またね!」
お姉さんはぶんぶんと手を振って、ぼくに笑顔を向けた後、図書館の方向へ去って行った。その様を見ていたら、愛おしさに包まれた。
しかしぼくの心からは、きゅう、と締め付けられている感覚が消えなかった。
真剣に告白したぼくに対し、お姉さんが真剣に返事をしてくれなかったのは、お姉さんが悪いわけではない。お姉さんが冷徹だからではない。今のお姉さんに、単純に、ぼくを見る余裕が無いだけだ。お姉さんは高校三年生で、受験というやつがもうすぐそこまで迫っているらしい。今が追い込みの時期なんだそうだ。
お姉さんとの出会いは、半年以上前の春。ここからすぐ近くにある公園だった。図書室から借りてきた本を、家まで我慢出来ずに公園のベンチで読んでいたぼくに「何読んでるのー?」と話しかけてきたことがきっかけだった。
今となっては、小学生に話しかける高校生って結構怪しいよなあ、と思わなくもないが、あれは単に、本当にただの興味本位だったのではないかと思う。小学生がベンチで本を読んでいたから気になった、とか。お姉さんはそういう人だ。
お姉さんとは、あっという間に仲良くなった。ぼく自身はそれなりに人見知りだから、仲良くなれたのはお姉さんのお陰だけど。実際、お姉さんは小さなことでも楽しそうに、ぼくに話してくれた。人が好きで、懐に入り込むのが上手い人なんだと思う。ぼくにはその時間が幸せだった。
でも次第に、それだけでは満足していかなくなっていた。時間が経つにつれ、ぼくの心は変化していった。
その時初めてこの気持ちが『恋』だと知った。
実際は、年上の異性への憧憬なんだと思う。たまたま読んでいた本にも書いてあったけれど、世間的には、それは一過性のものらしい。成長すれば忘れてしまうような、脆く儚いものらしい。でもぼくは、ただただこの気持ちが沈んでいくのを見過ごせなかった。
だからと言って、それ以上、ぼくは何も出来なかった。
ぼくからお姉さんに連絡を取る事は出来ないし、そもそもぼくはまだ、スマートフォンさえ持たされていない。
単なる偶然。
単なる、顔見知り。
今日だって学校からの帰り道で、偶然お姉さんに会えただけだ。ぼくにとってお姉さんが特別な存在ではあっても、お姉さんにとってのぼくは、たまたま知り合っただけの子供でしかない。
この想いは、一方通行でしかないのだ。
◯
お姉さんが志望校に受かったと聞いたのは、それから数ヶ月後のことだった。まだまだ寒さが深い時期だった。でもいつものように通学路で、笑顔でぼくに話しかけてくれたお姉さんを見て、ぼくはとても、暖かい気持ちになれた。
「受かったよ! 志望校!」
お姉さんはぼくにそんな姿を見せなかったけれど、やはりどこか憑き物が落ちた顔をしていた。
幼い子供のように(これも、ぼくが言うのは何だけど)嬉しそうに小躍りをしていたお姉さんに「おめでとうございます」と返答をしながら、ぼくは思った。
いつの日か、改めてまた、告白しようと。
そんな決意をしていたら、お姉さんがこう続けた。
「だからね、四月から東京に行くの!」
それを聞いた時、ぼくは固まってしまった。
東京。
その言葉の意味が分からなかったわけではない。ぼくは無知な子供だけれど、さすがにこの国の首都ぐらいは分かる。
問題は、そうーーここが。
この場所が、東京ではないということ。
「そう、なんです、か」
ぼくは無意識の内に、お姉さんがこれから先もずっと、この地にいるものだとばかり思ってしまっていた。無根拠だと言うのに。
大学への進学が、県外への引っ越しを伴うという可能性。そんなことにも気が回らなかったぐらい、ぼくは浮ついていたんだ。
急に現実に引き戻されて、頭が真っ白になったけれど、こうなってしまっては今すぐにでも自分の想いを伝えなくてはいけない。
ぼくは気付くと、お姉さんを呼び止めようとしていた。『行かないでください』と甘えて、子供の武器を使って、情に訴えようとしていた。あんなに大人に憧れていたくせに、本当に情けないと自分でも思う。しかし、すんでのところで、そんなことを言うのはやめた。
ぼくに、お姉さんの進路をどうこう言う資格なんて無い。
「……うん? どうかした?」
「い……いや、なんでもないですよ」
そっかー、とお姉さんは言ってから、自分の袖をまくった。そして腕時計を見る。
「そろそろ帰らなきゃ! 色々と準備しなきゃだし」
「はい。お姉さん、本当に、おめでとうございます。出発される日は、必ず見送りますから」
「ありがとう! あ、そういえば私ん家知ってたっけ? 住所知らなきゃお見送りに来れないもんね」
そう言って、お姉さんはぼくに口頭で住所と出発の時間を伝えた。本当に、十分足らずで行けるぐらい近所だった。
ぼくはお姉さんに手を振って、早歩きでその場を離れた。一つ角を曲がった所で、ぼくは駆け出す。自分でも、何が何だか分からなかった。今はただ、胸に巣食うぐちゃぐちゃな何かを、振り落としたかった。
その勢いのまましばらく走っていると、自宅が見えた。玄関に辿り着く。鍵を差し込もうとするが、動悸が激しくて上手く入らない。大丈夫、大丈夫、と頭の中で自分に言い聞かせ、何とか解錠した。中に入り、扉を閉める。そのまま扉に背中を預け、ずるずると落ち、体育座りの体勢を取った。もし両親が家にいたら『どうしたの?』と言われそうだが、今ばかりは両親が共働きであることを幸いに思った。誰とも話したくないし、自分の部屋まで辿り着く気力もない。
誰の視線も無い所で、うずくまることしか出来ない。しばらくそうしていると、次第に心拍数は落ち着いていった。冷静になった頭で考える。
いつの日か、なんて悠長なことを言っている場合ではない。ぼくが大人になるまで、なんて気が遠くなることを言っている場合ではない。
子供のぼくのーー等身大の、ぼくのままで。
どうせなら最後に、力いっぱいに、当たって砕けてやろう。
◯
しかしぼくは結局、お姉さんに会うことなく当日を迎えてしまった。
タイミングが合わないこともあっただろうし、ぼくが怖気付いて、意図的に帰路のルートを変えたことも原因だろう。
でも、今日は違う。
お姉さんがこの時間に、あの家から出発するのは分かっている。
ぼくは無我夢中で駆けた。
正直気まずい思いは否めないし、何をどう伝えるべきかまとまってもいない。でも、いても立ってもいられなかった。
家が近所なのが幸いして、すぐに周辺まで到着した。次の角を曲がればお姉さんの家だ。ぼくは駆けた。角を曲がる。
しかし、ぼくはそこで硬直してしまった。
理由は、お姉さんの家の前に、お姉さんと同い年ぐらいの男の人が立っていたからだ。ぼくはそれを見た時、なぜか『隠れなきゃ』と思ってしまった。来た道を引き返し、一つ角を曲がって止まる。その物陰から、男の人を観察する。
彼はポケットからスマートフォンを取り出して、電話を掛けた。数十秒が経って、玄関が開く。お姉さんだった。
お姉さんと男の人はしばらくの間、何かを話していた。
そして、男の人はーーお姉さんを抱きしめた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。でも、お姉さんの方も、男の人を抱きしめ返した。その姿を見て、ぼくはやっと理解した。
あの人はきっと、お姉さんの恋人だ。詳しくは分からないけれど、引っ越しでしばらく会えないから、『向こうでも元気でな』みたいなやりとりをしていたのかもしれない。でも今のぼくにとって、そんなディテールはどうでもよかった。
お姉さんが、ぼくにはしてくれなかった恋しい顔を、彼に向けていたーーその事実だけで、ぼくは嫌になるぐらい、うちのめされていた。
気付けばぼくは、全力疾走で来た道を引き返していた。
ごめんなさい、お姉さん。『必ず見送ります』という約束は、果たせそうにありません。悲しいけれど、最後はせめて、笑って送り出したかったのに。
最初から相手にされていないと分かっていた。
けれど本当に、どうしようもなく、ぼくが彼女の恋愛対象にはなれないという事実を突き付けられ、ぼくは泣き喚くことしか出来なかった。
ぼくの直感が、初めての恋の終わりを告げる。