2.ホットチョコレートの夜(2)
小学三年生の時、初めてバレンタインチョコを作った。
材料が少なく初心者でも作り易いと聞いて挑戦したトリュフ作り。結果はチョコレートが分離するわ、ココアパウダーをひっくり返すわで母に怒られながら、手伝ってくれた姉と台所を掃除した苦い記憶がある。
結局友達に渡すこともなかったので、トリュフ作りを失敗したことは家族しか知らない秘密の出来事だ。
それをなぜ彼女が知っているのか。
「八年前に亡くなっているはずのお姉さんの姿をした私は一体何者なのかということよね」
混乱している間に彼女のデザートプレートは綺麗に食べ尽くされていた。
対照的に目の前にある乳白色のクリームは冷えて縁が固まり始めている。鶏肉一つにフォークを刺して口に運ぶと、少し冷えてはいるが十分に濃厚で美味しい。
二口目を口に入れるのを見届けると、彼女がやっと口を開いた。
「別に不思議なことは何一つないのよ。だって、私はお姉さんからこの姿を引き継いだのですもの。私はもちろんあなたのお姉さんではないわ。でも必ずしも違うとは言い切れないの」
「姉の姿を引き継いだ?」
「そうね、私自身こんな経験は初めてだからどうしたかいいのか分からないの。そうだ、こうしましょう」
名案が浮かんだというように音を立てずに手を叩くと、微笑を浮かべながらこちらを指差した。
「まずはあなたのお姉さんのことを教えてちょうだい。引き継いだ体の持ち主を知っている人に会う機会なんて滅多にあるものじゃないの。さあ、話してちょうだい」
高圧的とも言える物言いで彼女はそう言って、それきり何も話さなくなってしまった。興味深そうな顔をしてじっと見つめているが、まだ姉のことを話すのを躊躇していた。
ふと周りが気になって見渡すと、入った時より随分と店内が混みあっていた。にぎやかな話し声やグラスを重ねる音、カトラリーの金属音、さまざまな音でごったがえしている。
そのお陰でこのテーブルで繰り広げられる荒唐無稽な会話は、誰に聞かれる心配もなさそうだった。
「姉はどうして亡くなったのか、ずっと疑問だったんです。姉とは十六歳離れていたのですが、両親が共働きで帰りが遅かったのでいつも二人で過ごしていたんです」
不承不承話し始めた姉の話だったが、実はずっと誰かに姉の話をしたかったのだと分かった。堰を切ったように次々と口からこぼれ出る内容に、彼女は静かに耳を傾けていた。
「姉は少女のような人でした。二十歳を過ぎてもいつまでも少女のように夢見がちで、十六も年が離れていたのに私に最も近い人だったんです。怒ったところは見たことがなく、どちらかというと感情の起伏が少ない人でした」
楽しいことがあっても辛いことがあっても、ほとんど変わることのない姉の表情。かわって、目の前で表情豊かにこちらを見ているのは、姉と同じ顔をした別の女だ。
「雷だけは苦手で、少しでも空がゴロゴロ言い出すと毛布を持って私の部屋へやってきました。その時だけは姉の感情の動きを見ることができて嬉しかったんです。嵐の夜は二人で毛布の中で震え、満天の夜はベランダで遅くまで星を数えては両親に怒られました」
雷に怯える姉の手を握ってそっと目をのぞき込むと、その目に映る自分の姿に安堵した。
姉は自分を見ているのだと。
「ある時姉は私に言ったんです。明日私が死んだらどうすると。いつになく真剣は顔で冗談を言う姉を私は不思議に思ったのですが、そんなの嫌だと答えると、姉は満足したように笑いました。でもその一週間後に姉はいなくなったんです」
食事どころではなくなったので、ある程度口をつけたところで食事はさげてもらった。代わりに注文したホットコーヒーを飲みながら、言うか迷っていたことを口にする。
「友人と卒業旅行で海外に行くことになって、パスポート取得のために戸籍謄本を取ったんです。抄本でもよかったんですけど単にどんなものなのか興味あって。そしたら母だと思っている人が祖母で、姉だと思っている人が母親だと分かりました」
「どう思った?」
少しだけ考えてすぐに首を振る。
「母は優しいし父も私を可愛がってくれる。真実が分かったからと言って姉を母親だとは思えないし、母を祖母だとも思えなくて」
それは本心だった。
姉が亡くなった時、家の中は火が消えたように静かになった。何度も母が声を殺して泣いている場面に出くわすこともあったし、父も明らかに無理をして笑っていた。
「姉はちゃんと荼毘に付して、代々の墓に眠っています。ではあなたはなんですか?」
「私は体をそのまま使っているのではないの。私はその存在を写すだけ」
光を宿さない真っ黒の目が気まずくなるくらいじっとこちらを見つめている。
「あなたのお姉さんがあなたと会いたがっていたんだわ。それで、私とあなたを巡り合わせたのね」
「それって……?」
「ホットチョコレートとココアって、明確に違いはないらしいの」
「え?」
唐突に戻ってきた話題に面食らう。
「私自身は境界のぼんやりとした存在なの。自分とあなたのお姉さんとの違いも分からないくらい」
女に聞きたいことはたくさんあったが上手く言葉にできずにいると、目の前の気配が大きく動いた。
「私はすぐにあなたのことは忘れてしまうでしょう。あなたも早く忘れた方がいいわ。思いがけない楽しい夜だった。二度と会うことはないでしょうけど、さようなら」
椅子から立ち上がった女は振り返ることなく立ち去っていった。
すぐに荷物を持って店を出ると、女は通りの向かい側にこちらを向いて立っていた。夜をそのまま纏ったような装いのせいか、彼女の存在はひどく浮いているようで夜の闇にしっくりと馴染んでいる。
「さようなら」
女はまた同じせりふを告げると闇に溶け込むように路地に消えていった。
彼女との邂逅は現実だったのか夢現だったのか。
ふと思いついて、スマートフォンでホットチョコレートとココアの違いを調べてみた。
彼女は明確な違いはないと言っていたが、製造過程でカカオ豆からカカオバターを取り除いたものがココアで、取り除かなかったものがチョコレートなのだという。
同じ姿をした姉と彼女の違いは、カカオバターなのかもしれない。違いは明確ではなく、同じものとして扱われることもあるが、同じようで同じでないもの。
月のない空が深い闇を内包している。
まるでおとぎ話に紛れ込んだような夜だった。