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1.ホットチョコレートの夜(1)

 明日が休みという開放感のために真っすぐに帰る気になれず、なんとなく入った店で彼女と出会った。


 彼女は新月の夜をすっぽりと身にまとって私の前に現れたのだ。





 オフィスビルから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 立て込んでいた仕事が一段落し、明日からの三連休をどう過ごすか、それだけを想像して楽しい気分になっていた。週末に重なった休日はそれだけで得したような気分にしてくれる。


 一人暮らしの部屋に帰って夕食を作ることを考えると億劫になったので、外で食事をして帰ることにする。

 会社の昼休みにフリーペーパーで見た洋食屋を思い出し、店の地図を必死に思い出すが詳細な位置が思い出せない。最寄りの駅に近かったことだけで記憶に残った店だった。


 スマートフォンで検索するが見当たらない。行けば分かるだろうと楽観的な気持ちで、いつもの改札を出た。空を見上げると、いつもよりも闇が深い気がした。


 おぼろげな記憶を頼りに駅から五分程歩いた路地に、煉瓦造りのその店はあった。周りの毒々しいまでに灯るネオンの中、こぢんまりとしたその店は逆に少し浮いて見えた。


 毎日通勤している街なのに、その日の街はまるで知らない場所のようだ。


 特に流行っている様子でもなく、かと言って寂れている様子もない。女性ひとりで食事をするには丁度良さそうだった。


 少し緊張しながらドアを開くとカランとドアベルが音を立てる。一人であることを告げると、整えられたテーブルに案内されてメニューを渡された。


 メニューを隅々まで見て、若鶏のクリーム煮の安価なセットを選んだ。最近は手を抜いてカップ麺やコンビニエンスストアの弁当で済ませていたので、久しぶりに食事らしい食事をすることが嬉しくて思わず喉が鳴る。


 先に運ばれて来たグラスビールで喉を潤すと口の中に心地よい苦味が広がって、ようやく人心地がついた気がした。


 アルコールを許されてまだ数年しか経っていないのに、ひと仕事を終えた後にビールを飲む習慣が定着してしまった。実家の父が飲むビールを一口もらっては、顔をしかめた幼少の頃が懐かしい。


 先に運ばれてきたサラダにフォークを刺して、久しぶりに食べる野菜を噛みしめた。少しだけ酸味の強い自家製ドレッシングは、玉ねぎが多く入った実家の母の作るドレッシングに似ていた。


 ゆっくりと店内を見回すと、オーナーの趣味だろうか骨董人形や西洋磁器などが四方に飾られている。ややもすれば野暮ったくなりそうな装飾品だが、店の雰囲気に合っていて趣味のいい内装だと思った。


 料理の運ばれてくるまでの間、友人にメッセージを返そうとスマートフォンの画面をタップする。そういえば先日会った時の画像を送って欲しいと言われていたのを思い出し、画像フォルダを検索する。


「ご一緒いいかしら?」


 画像を探している途中で声をかけられて、驚いて返事をする。


「は、はい! どうぞ」


 指が滑って違う画像を送ってしまい、早々に取り消しボタンをタップした。


 耳を澄ますと人の声が増えている。店内が混んできたのだろう。下を向いてスマートフォンの操作をしていると、前の椅子が女性の手で引かれるのが目に入った。


「雨が降ってきたせいで、店内が満席になったみたい。ゆっくりしていた所をごめんなさいね」


 それは不思議な感覚だった。もういないはずのよく知った声が聞こえた。驚いて声の主を見上げると、そこにはいるはずのない姉がいた。


「お姉ちゃん?」


 思わず口から出た言葉に彼女は訝しげな顔をした。


「……初めてお会いすると思うんですが?」

「ええ、すみません。姉にとてもよく似ていたもので」


 私の答えに納得したのか、彼女はそのまま話しかけて来ることもなく、メニューを指さしながら店員に注文をしていた。


 それにしてもよく似ている。

 似ているなんてものではなく姉そのものなのだ。しかし姉がこんな所にいるはずはないのだ。こんな所と言わず、この世にいるはずがないのだ。

 まるで姉の体を借りて来たかのような彼女の姿。


 なぜか酷く動揺して顔を上げることができなくなった。

 姉であるはずはないのだ。

 彼女も初めて会うと言っていた。


 なんだかおかしな空間に迷い込んだような錯覚を起こして、ただ下を向いていた。


「私がどうしてこの姿なのか教えてあげましょうか」


 声をかけられ顔を上げると、彼女が頬杖をついてこちらを見ていた。吸い込まれそうな漆黒の瞳が、私を縫いとめるかのようにこちらをじっと見ている。


「それはどういう……?」


 意味あり気な言葉を発してから、彼女はそのまま無言になった。言われた言葉を反芻し必死に意味を考えるが混乱するばかりだ。


「お待たせいたしました」


 待ちに待っていたメインの料理が運ばれて来た。こんがりと焼き目の付いた鶏肉としめじに、濃厚そうなクリームが絡んでいる。見ただけで食欲をそそるその皿からは温かな湯気が上がっていた。添えられたバゲットの香ばしい匂いと共に鼻腔をくすぐっている。


 ところがさっきまでは空腹で待ちきれないくらいだったのに、今は食事をする気にもなれない。

 届いた料理に手を付けるか迷っていると、彼女は疑問を察したかのように自ずから語り始めた。


「私はあなたが思っている通りの存在よ」

「え? それはどういう……?」


 彼女がその目を三日月に変えてくすりと笑みを浮かべると、並んだ歯の間から尖った八重歯が見えた。


 私のよく知っている顔である筈なのに、それは見た事もない表情をしている。

 知らない人のように見えるのは、艶やかに伸びた漆黒の髪や、完熟したトマトのように鮮やかな口紅のせいなのかもしれない。

 未だかつて髪を伸ばした姉も、赤い口紅を塗った姉も見たことがなかったのだ。


 彼女は一瞬口を開こうとしたが、左手でグラスを持ち上げるとゆっくりと水を口に含んだ。彼女の一挙手一投足から目が離せず、落ち着かないまま居住まいを正して彼女が紡ぎ出す言葉に待ち続けた。


「私はずっとこの姿でいる訳ではないのよ。でもこの姿は気に入っているの。だから私にしては長く使っているかしら。本当の私の姿なんてもう誰も知る人はいないでしょうね。だって私自身ですらもう覚えていないのだもの」


 そう言って彼女は口角を少しだけ上げて微笑んだ。それは姉がよくしていた表情だ。


「お待たせいたしました。パンケーキとホットチョコレートです」


 ふわふわとした厚みのあるパンケーキのプレートが彼女の前に置かれた。中央にのったアイスと輪切りのバナナ、パンケーキの間に挟まれた苺のスライス。そしてたっぷりのチョコレートソースがかかっている。


「チョコレートが大好きなの。あなたは?」

「私も好きです」


 そう答えると彼女は嬉しそう笑って、ナイフでパンケーキを小さく切って満足そうに口へと運んだ。一口目を飲み込むと、もう一つにチョコレートソースを多めにつけて口に運んだ。


「ソースはもっとかかっている方が美味しそうじゃない?」


 私には十分たっぷりとかかっているように見えるが、同意を求める彼女の視線に肯定の意志を返した。


「チョコレートとココアの違いって知ってる?」


 唐突な質問に面食らいつつ違いについて考える。普段よく食べているのはチョコレートだ。ココアは食べるものだっただろうか。


「ココアは飲み物で、チョコレートは固形のお菓子ってことですか?」

「だったらこのホットチョコレートは?」

「あれ? どこが違うんだろう。トリュフにかけるパウダーはココアですよね?」


「そうね。あなたがバレンタインチョコを作っていて、キッチンにこぼしたのがココアパウダーよ」

「どうしてそれを?」

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