シエルの同期は馬鹿である。
シエルの同期は馬鹿である。
どれだけ馬鹿なのかと言えば、任務中に足を滑らせ崖から落ちた挙句、記憶喪失になるくらいには馬鹿である。
「よぉ!お前がシエラか?俺はキール、よろしくな!…って、そっちは俺のこと知ってるんだったか」
記憶喪失になったというのに、悲壮感をまったく感じさせず呑気にこちらに挨拶するこの男。彼こそ、シエルの同期の騎士キール・ジャンナーである。快活で気の良い男ではあるが、少々抜けているというか、前述した通り間抜けなところがある。
そんな彼を前に、シエルは努めて冷静な声をかけた。
「…よろしく、キール。それと私の名前はシエラじゃなくてシエルね」
「あっ、悪い!まだ完全にみんなの名前覚えきれてなくてさ」
「いいよ、気にしないで」
申し訳なさそうにするキールに、シエルは首を振る。
記憶を失くす前のキールも出会った頃はよく人の名前を間違えていたのであまり気にならなかった。
「しばらくは私が一緒に行動することになるから、よろしくね」
ついこの間まで病床についていたキールはまだ記憶が曖昧で、前の自分の仕事でもある騎士の業務も忘れてしまっていた。
そこで彼のお目付役に抜擢されたのが同期であり前々から行動を共にすることも多かったシエルである。
「おう、こちらこそよろしくな!」
人当たりの良い笑顔を浮かべてキールはシエルの手を取って握る。少し角ばった大きな手のざらついた感触も、少しぬるく感じる暖かさも、いつもと変わらないキールのものなのに、目の前の彼はシエルのことを1つも覚えていない。
そんな事実が、シエルにはひどく滑稽に思えた。
◇
キールが事故に遭ったのは、今から半月ほど前のことである。
その日は朝からひどい嵐で、地面が相当ぬかるんでいた。そして、任務の最中にそのぬかるみに足をとられて、キールは崖から落ちた。崖の高さはあまりなく、下にも緑が生い茂っており、幸いにも目立った外傷はなかった、…身体の方には。
その代わりとでもいうべきか、頭の方は強く打ち付けており、一時は生死の境も彷徨った。
それでもなんとか一命を取り留め、身体も順調に回復し始めた矢先にそれが判明した。
『なぁ…あんた誰だ?』
そんなお決まりのフレーズを、キールが吐いたのは彼が意識を取り戻してから3日ほど経った頃だろうか。
実は、この時シエルはそこに居た。というか、上記の台詞を言われたのがちょうど見舞いに来たシエルだった。尤も、その時のことをキールは意識が回復したばかりだったので覚えていないだろうが。
そのまま、あれよあれよという間に様々な検査が行われ、キールの記憶喪失が判明した。
どうやら、キールは自分のことや家族のことなどは覚えているが、友人に上司や同僚、仕事のことなどは曖昧で、ほとんど覚えていないようだった。
それでも何人かに1人は顔を見たことがあると言ったり、名前だけ知っていたりと断片的な記憶はあるのだが、何故か同期であるシエルのことは全くと言っていいほどキールは覚えていなかった。
(…仮にも、告白した相手なのになぁ…)
キールのことを考えながら、頭の中でシエルは不満を漏らす。
実は、事故に遭う前日にシエルはキールに告白を受けていた。王城の夜の巡回の際、2人きりになったわずかな時間で言われたのだ。
『お前のことが好きだ!シエル!お、俺の恋人になってくれ!』
『…は』
『待て!まだ返事は言うな!』
『えっ?』
『どっちに転んでも、明日の任務が手につかなくなる!返事は明後日にしてくれ!』
『な、なにそれ…』
では何故今告白したのかと呆れて問えば、「今しかないと思ったからだ!」と馬鹿みたいな返事が返ってきた。それでも、そんな所も愛おしいと思えるくらいにはシエルもキールのことを想っていたのだ。
(…結局、返事どころか存在も忘れられちゃったけど)
そう思うと、自然と自嘲的な笑みが漏れた。無意識に握りしめた手に爪が食い込んで、その痛みでハッとした。それからゆっくりと緩慢な仕草で作業に戻る。
現在、シエルは鍛錬場で日課の武器の手入れ中である。ちなみにキールは休養中のことに関する書類の提出があるとかで、事務所の前で別れた。
告白のことは誰にも言っていない。もちろん、キール本人にも。
常識的に考えて、いきなり知らない女に「私も好きだ」と言われてもキールが困るだけだと分かっていたからだ。
(…友達以上恋人未満から、恋人に昇格するどころか、1日で赤の他人に格下げだなんて、とんだ笑い話だ)
笑い話のはずなのに、どうしようもなく悲しいのは何故なのだろうか。
視界が悪くて、しばらくの間シエルは作業ができなかった。
◇
「なぁシエル。お前ってさ、いつもそんな顔してるのか?」
次の日のことである。シエルは模擬戦闘の後、キールからそんな風に声をかけられた。
運動後の汗を拭きながら、シエルは答える。
「…どういうこと?」
「いや、昨日会った時から思ってたんだけどな。シエルお前、ふとした瞬間に何か思いつめた顔してるだろ?」
「………そう、かな」
ドキッと心臓が跳ねた。
キールは馬鹿だが、昔からこういう他人の感情には敏感だった。特に悲しみや恐れなどの負の感情はすぐに気づく。記憶があってもなくても、そんな所は変わらないのだろう。
心配そうにこちらをみる藍色の瞳が、痛かった。
「何か悩んでることでもあるのか?いや、病み上がりの俺じゃ力にはなれんかもしれないが、それでも少しなら──」
「…確かに、悩み事はある」
「お、何だ?遠慮なく言えよ!」
「実は私、あんたにお金貸してたんだよね」
「………え?」
キールの目が点になる。
「銀貨5枚。あんたが事故に遭う前に貸してたんだけど…今のあんたは綺麗さっぱり忘れちゃってるでしょ?だから、もう返ってこないのかなって…」
「…なーんだ!そんなことか!馬鹿だなシエル!安心しろよ、記憶があろうが無かろうが銀貨5枚くらいすぐ返すぜ!」
「ちょ、キール、痛い痛い」
ガハハハと笑いながらキールがバシバシと背中を叩く。どうやら上手く誤魔化せたようだ。
人の感情には敏感なくせに、変な所で単純だなぁとシエルは思わず笑ってしまう。
その顔を見て今度はキールがニカッと歯を見せて笑った。
「やっと笑ったな!やっぱお前は笑ってる方がいいな」
「え…」
驚いてキールの方を見る。
「なんか分かんねぇけど、俺、お前が笑ってる方が安心するんだよなぁ」
「…そっか」
「あっ、おい!また戻ってるぞ!」
「また見たいなら金貨3枚頂きます」
「金取るのかよ!」
騒ぎ立てるキールをフフンと鼻で笑い飛ばして、シエルは緩慢な仕草で立ち上がる。
必然的に目線がシエルの方が高くなり、キールを見下ろす形になった。不思議そうにこちらを見上げる藍色と目があって、居たたまれなくなって逸らす。
「…なぁ、シエル──」
「キール、シエル、ちょっといいか」
キールが何か言おうと口を開きかけた時、2人の上司である騎士隊長の声がかかった。
「西の森の魔術師…ですか?」
シエルの言葉に、騎士隊長は深く頷いた。
「そうだ。その魔術師のもとに、キールと一緒に行って欲しい」
「俺とその魔術師って知り合いなんすか?」
隣で話を聞いていたキールはどうやら前の自分の話かと思ったようだ。
「いや、知り合いではない。ただ、お前に関係があるのは確かだ」
「?」
「何でも、西の森の魔術師は人の心についての研究に熱心らしい。記憶に関する魔術にも長けているとか」
その一言ですぐにシエルは合点がいった。
つまり、騎士隊長はキールの記憶を取り戻す手がかりを掴むためにその魔術師の所へ行けと言いたいのだろう。今まで崖から落ちて頭を打ったという外的要因ばかり気にしていたが、今度はキールの潜在意識、内面からもアプローチしてみようと考えたのだ。
「向こうにも書状で話は通してあるから、明日にでも行ってこい」
騎士隊長のその言葉を最後に、その場はおひらきとなった。
「………」
「………」
その帰り道、キールもシエルも一言も喋らない。
シエルは普段からよく話す方ではないが、記憶をなくした後も変わらずお喋りであったキールがここまで黙っているのは珍しい。
それほどまでに、キールも真剣に考えているということだろか。
「…なぁシエル」
「…何?」
しばらくして、遠慮がちにキールが口を開く。
「記憶をなくす前の俺って、どんな感じだった?」
「………」
「シエル?」
「…別に、今のあんたと変わらないよ。お調子者で単純で体力だけ人一倍ある馬鹿」
「なっ、ひでぇな!シエルお前、俺のことそんな風に思ってたのか!?」
「…なによ、今の方がカッコいいとでも言って欲しかったの?」
「ばっ、そういことじゃ…」
「変わらないよ」
強い口調でシエルは言う。
「今も昔もあんたは変わらない。キールはキール…でしょ?」
「……お、おう…そっか、そうだよな」
「そうだよ」
「…俺は俺、だよな」
「うん。キールはキール、他の誰でもないよ」
シエルの言葉に安心したようにキールが目を緩める。
きっと、不安だったのだろう。そりゃそうだ、目が覚めたら知らない人達に囲まれて、向こうは自分を一方的に知っていて、怖くないわけないのだ。
実際、キールの性格は記憶をなくす前と何も変わらない。ただ、記憶がそれに追いついていないだけだ。
(…キールは変わらなくていい。変わらなくちゃいけないのは、私の方だ)
たとえキールが記憶を思い出せなくても、シエルはそれを受け止めなければいけない。過去のことなんて、忘れなければ。
そう思いながら握り込んだ手のひらは、爪が食い込んで痛かった。
◇
翌日、シエル達は西の森の魔術師に会いに行くべく、日の出と同時に城を出た。
「…西の森の魔術師ってのは、ずいぶん辺鄙なところに住んでるんだな」
そのキールの言葉にシエルも全力で同意する。
今日は随分早くに王城を出たはずなのだが、馬車を乗り継いで乗り継いでやっと西の森に着いた頃には昼を過ぎていた。
地元の人の話によれば、魔術師の家はここからさらに奥まった場所にあるという。
「…ちゃんと帰り道わかるかな」
「パンでもちぎって行くか?グレーテル」
「馬鹿、パンならさっき全部食べたでしょ」
そんな軽口をたたきながら2人は森の中を進んでいく。
鬱蒼と茂ってた木々は、先程まで見えていた青空と陽の光を遮って、森は少し薄暗い。幸いにも森は一本道で、迷うことはなさそうだった。
「それにしても、西の森の魔術師ってどんな人なんだろうね。地元の人もよく知らないって言うし」
「滅多に森から出てこないらしいからな」
「隊長も手紙のやりとりしかした事ないって言ってたし…」
騎士隊長が会いに行くのを勧めるくらいなのだから、決して悪い人物ではなのだろう。しかし、情報が少なすぎるような気もする。
シエルが一抹の不安を覚えて眉根を寄せる一方で、キールはあまり気にしていない様子だ。
「実は、すげーおっかない魔術師だったりしてな」
「いい加減なこと言わないでよ、失礼でしょ」
シエルの非難の視線も何のその、キールはニヤリと笑みを浮かべる。この表情をしているキールは大抵ろくでもないことを考えているとシエルは知っていた。
「いや、もしかしたらこの道も罠だ───」
そこまで言いかけてたところで、突然後ろにいたキールの声が止まる。否、止まったのではなく正確には途切れた。
「…え?キール?」
後ろを振り返って、シエルの喉がヒュッと鳴った。
キールがいない。代わりにあるのは大きな穴。
その穴に落ちたのだと理解した瞬間、シエルは目の前が真っ暗になった。無我夢中で穴に駆け寄って叫ぶ。
「キール!?キール!!!」
「いてて…何だこれ?落とし穴か?」
穴の中に落ちたキールは、始めは驚きはしたものの至って冷静であった。
落とし穴といっても、それほど深さはなく、子供騙しのようなものだ。相手の不意をつくためだけに作られたようで、キール1人でも十分に上にあがれそうだった。
穴の外からシエルの必死な叫びが聞こえる。
「キール!キール!返事して!」
「おうシエル!俺は大丈夫だ!今上がるから待ってろ!」
「キール!キールっ…!」
「…シエル?」
シエルの様子がおかしい。だが、下からだと上の様子が見えない。急いでキールは穴を這い上がった。
穴からひょっこり顔を出すとシエルを安心させようとニカッと歯を見せて笑ってみせた。
「シエル!ほら、俺はこの通りピンピンしてるぜ!」
「キール!キール!」
「シエル…?お前、どうした?」
上がった先にいた、シエルは号泣していた。
そして、キールが穴から出たというのに、今もなお誰もいない穴に向かって叫んでいる。
困惑と焦りを含んだ顔でキールはシエルに近づいた。
「シエル!俺はもう大丈夫だぞ!」
「キール!死なないで!お願いキール!」
「シエル、シエル、落ち着け。こっちを見ろ」
「おねがい…おねがい…死なないでキール…」
シエルの身体を無理矢理こちらに向かせるが、目を合わせようとしても、合わない。どこか遠くを見ているような、幻覚を見ているような、そんな目だ。
何度も頰に流れる涙を拭ってやるが、一向に止まらない。
「死なないで…死なないでキール…」
「大丈夫だシエル、俺は死んでない」
「キール…キール…私のこと忘れないで…」
「シエル?お前…」
シエルの言葉にハッとした時、しゃがれた声が響いた。
「──何じゃ何じゃ、尋常でない悲しみを感じて来てみればこの騒ぎは」
「っ!?誰だお前!」
そこにいたのは、白いフサフサの髭を生やした老人だった。キールは咄嗟にシエルを腕に抱いて庇う。
そんな様子を見ても老人はめんどくさそうにボリボリと首を掻いている。
「お前の方が誰じゃ若造。断りもなく私の森に入りおってからに」
「俺はキール・ジャンナー、こっちは仲間のシエルだ」
「……キール?キール?はてさて、何処かで聞いた名前の気がするのぅ」
「城の騎士だ!今日、西の森の魔術師を訪ねると書状で伝えてあるはずだ!」
「おお〜!そうじゃったそうじゃった!訪問者リストにそんな名前があったなそういえば」
ぽんっと手を打つと、「最近忘れっぽくなっていかんわい」と言いながら老人はまた首をボリボリと掻いた。
その呑気な様子に些かイラつきながらも、キールは確信をもって言った。
「あんた、西の森の魔術師だろう?」
「いかにも。私が西の森の魔術師トレハースじゃよ。いやぁ〜すまんのぅ、来客があるとすっかり失念して防犯用の罠を解除するの忘れとったわい」
「今はそんなことどうでもいい!それより、助けてくれないか。仲間の様子がおかしいんだ」
「ほぉ〜ん、どれどれ」
トレハースが杖をつきながら、キールの腕の中のシエルを覗き込む。
「キール…キール…」
シエルは未だ泣き止まず、うわごとのようにキールの名前を繰り返し呼んでいた。
それを見たトレハースが沈痛な表情で優しく声をかける。
「おお、おお、可哀想に。辛いことを思い出したんじゃな。娘さん、今楽にしてやるぞ」
トレハースが手をシエラの額にかざして何かを唱えると、シエルがフッと意識を手放した。
少し警戒した顔でキールがトレハースを見る。
「…今のは?」
「何、少し眠らせただけじゃ。といっても、しばらく目は覚めん。今まで溜まっていた悲しみが一気に溢れてしもうたからな」
「悲しみが溢れた…?」
「心が限界を迎えたということじゃ。ほれ、ついてこい。詳しい話は私の家で話してやる」
コツコツと杖をつきながらトレハースが先を行く。
「シエル…」
涙で濡れたシエルの頬をキールはもう一度優しく拭ってやる。先ほどの取り乱したシエルの様子が、絶望に染まったようなあの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
(…俺、シエルのあんな顔、前にもどこかで…)
そこまで考えて、キールは切り替えるように頭を振る。それから、腕の中のシエルをもう一度しっかり抱き直すとトレハースの後に続いた。
◇
トレハースの家に着くと、彼は居間のソファを顎で指した。その拍子に長い髭がひょこひょこと揺れる。
「ほれ、娘さんはそこのソファに寝かしてやれ。ベッドもあるんじゃが、ジジイのは嫌じゃろうて」
その指示に従い、キールはそっと優しくシエルをソファの上に下ろした。それから自分の上着を脱いでシエルの身体に掛けてやる。
「若造、お主はこっちじゃ」
「いや、俺はいい。それよりも爺さん、シエルのことを早く楽にしてやってくれないか」
ソファの後ろにある食卓に座るように促されたが、キールはゆるく首を振って断る。
キールの断りを気にした様子もなく、トレハースは卓上のカップに湯を注ぐと口を開いた。
「まぁそう焦るでない。物事には順序というものがある。順番を見誤れば余計に複雑になるだけじゃ」
「そう言ったってな爺さん…!」
「まずは、お主がここに来た本来の目的を果たさねばならん。娘さんはその後じゃ」
「………」
確かに、ここに来た本来の目的はキールの記憶を取り戻す手がかりを掴むためだ。今、シエルのことをなんとかできるのは目の前のトレハースしかいない。その彼の言うことに大人しく従うしかない自分に、キールは内心舌打ちした。
トレハースはズズッとお茶を啜りながら、ジトっとした視線をこちらによこす。
「おーおー、悔しそうな顔をしよってからに。わしだってむさ苦しいお前の相手なんてしたくないんじゃぞ。早くあの娘さんのところに行きたいんじゃ」
「…俺は何をすればいいんだ?」
「お主はじっとしておれ。ふむ、まずは頭の中を見てみようかの」
ぎしりと椅子をきしませながら席を立つと、トレハースはキールに近づいて彼の額に手をかざした。それから何か、呪文のようなものをブツブツと呟いている。
キールは目の前に立つ老人に訝しげな視線を向けた。
「こんなので分かるのか?」
「うるさい、黙っとれ。お前のような単純明解な馬鹿と違って、私の魔術は複雑なのじゃ」
「…そーかよ」
トレハースの無遠慮な物言いにムッとしつつも大人しくされるがままになっていたキールだが、ふと、額の方に暖かい何かに触れられる感覚があった。
「おっ、あったあった。…ふむ、ほぉ〜ん…成る程」
「なんか分かったのか!?」
「ええい、黙っとれ。落ち着きのないやつじゃ」
「………」
それから数分経って、トレハースは額にかざしていた手を下ろした。
そして、なんでもない事のように冷静に言う。
「よし、分かったぞ。お主の記憶、元に戻る」
「なっ、本当か!?」
「うむ」
目を見開いて詰め寄るキールに、トレハースは深く頷く。
「そもそも、お主は記憶を失ってなどいない」
「…何?」
「何かの弾みに記憶に鍵がかかってしまっただけじゃな。分かりやすく言えば自分で自分の記憶を封じたといったところじゃ」
「俺が自分の記憶を封じた…?」
「通常であれば、何か辛い経験や恐ろしい思いをした時、そういうことが起こるんじゃが、お前の場合は違うぞ」
「どういうことだ」
「お前の場合は、ただの偶然じゃ」
「………頼む、もう一度言ってくれ」
「だから、ただの偶然じゃ」
「………」
キールは黙って目の前の老人を見る。白髪から覗く瞳の色は、嘘を言っている人間のものではなかった。
「…ふざけてないよな?」
「当たり前じゃ!むしろ私がお前に聞きたいくらいじゃ!こんな馬鹿みたいな理由では、私も立つ瀬がないわい!」
「つまり、崖から落ちた弾みで、俺は自分で自分の記憶を閉じ込めたっていうのか?」
「そうじゃ。おそらくぶつけ所が悪かったのじゃろう。頭の中の記憶を司る部分が狂ったんじゃ。その証拠に、全て忘れているのではなく、断片的にポロポロと思い出すこともあったのではないか?」
そう言われてキールはハッとする。確かに、自分のことや家族のこと以外、友人に上司や同僚、仕事のことの記憶は曖昧だったはずなのに、何人かに1人は顔を見たことがあったり、名前だけ知っていたりと断片的な記憶はあった。
「それに一番は、あの娘さんに対するお主の態度じゃ。書状には付き添いとして同僚が同行すると書いてあった。あの娘さんのことだろう?」
「あ、ああ…シエルは俺の同期だ。俺はまだ記憶が曖昧だから、一昨日から一緒に行動して色々教えてもらってたんだ」
「ふん。記憶がないくせに、お主の彼女を見る目は一昨日知り合った同僚を見る目ではない。愛しい者を見る目じゃ。…恐らく感情が記憶を追い越しておるんじゃな」
「感情が、記憶を…」
ソファに横たわるシエルをじっと見る。泣き腫らした顔を見ていると胸が痛んで、もっと笑った顔が見たいと思う。シエルの笑顔を見ると、何故だかホッとするのだ。
「さて、そこで漸くあの娘さんのことじゃが」
トレハースの言葉にハッとする。キールは慌てて視線を戻した。
「やっとか!シエルを早く助けてや──」
「ええい!話は最後まで聞け!いいか、お主の記憶の鍵はおそらくあの娘さんじゃ」
「シエルが俺の記憶の鍵…?」
「そして、お前が記憶を取り戻さん限り、あの娘さんの心はまた壊れるぞ」
「…っ、」
「根本的なところを解決せねばならんのじゃ。ある意味、お前よりも娘さんの方が重症かもしれんな」
黙り込むキールを横目に、トレハースはまた茶を啜った。「喋りすぎると喉が渇くわい」とボヤく。
「まず状況の確認じゃ。森に入るまでには娘さんには何の異変もなかったのか?」
「ああ、普通に会話も出来た。疲れた様子はあったがそれは長時間の移動によるものだと思う。おかしくなったのは…多分、俺が落とし穴に落ちてからだ」
「…待て、穴に落ちたのか?」
「そうだ。けど、子供騙しみたいな穴だったし、第一あれを作ったのは爺さんじゃないか」
「今は穴のことはどうでもいい。お前が何かに落ちたという事実が重要なんじゃ」
「俺が落ちた事実?」
「…ふむ、お前が崖から落ちた時も、娘さんはその現場にいたか?」
「ああ、同じ班に所属して行動を共にしてたらしい。確か、俺のことを一番最初に知らせたのもシエルだったそうだ」
「…成る程な、ではその時もきっと娘さんはお主が崖から落ちたのを見たんじゃろう」
トレハースは自身の豊かな髭をさわりながら言う。
「お主が穴に落ちたことで、娘さんはお前が崖から落ちた光景を思い出したんじゃろうな。そして、それがギリギリの所で保っていた娘さんの心を壊すきっかけになった……まあ、こう考えるのが自然じゃろうて」
「シエルは、そんなに傷ついていたのか…?」
「この大馬鹿者!好きな男が死にかけた上、自分のことを忘れていたんじゃぞ!そりゃ傷つくに決まっとるわい。…よくもまあ、これほどの悲しみを今まで誰にも悟らせなかったものだ」
「…分かるのか」
「抱えきれなくて身体から滲み出ておる。負の感情は周りに蔓延しやすいでな、私も魔術師のはしくれ、人のこういった感情を感じるのじゃ」
「………そうか」
キールは唇噛み締めたまましばらく黙り込む。
それからソファに横たわるシエルに近づくと、その手を握った。小さくて、それでいて少しかさついた、剣ダコのあるこの手は、彼女の日頃からの努力を思わせた。
…この手を、ずっと前から自分は知っている。
(…シエル、ごめん。俺のせいで、お前を苦しめている)
しばらく握った後、キールはゆっくりと立ち上がり、トレハースに向き直った。
その藍色の瞳には強い光が宿っている。
「シエルを助けたい。記憶を思い出したいんだ。…俺はどうすればいい」
「ふむ、そうじゃな…少々荒くなるが、手っ取り早いのは娘さんの記憶を見ることじゃろう」
「そんなことできるのか?」
「できる。私を誰と思うておるのじゃ。しかし、見るのはお主が事故に遭った後の記憶のみじゃ。それ以上はお主にも娘さんにも負担がかかり過ぎる」
「なんでもいい、思い出せるのなら!シエルを助けることができるのなら!」
「結構な心がけじゃが…いささか暑苦しいなお主」
トレハースはフッと1つ息を吐くと、シエルのそばに近づいた。そのまま額の上に手をかざしてブツブツとまた何か呪文を唱え始める。
しばらくして、その彼のこめかみに玉の汗が滲み始めていることにキールは気がついた。
「苦しいのか?爺さん」
「…人の記憶を覗くのじゃからな、抵抗がきついのじゃ」
「俺の時は平気そうだったが」
「お前は単純馬鹿じゃからな、つくりもシンプルで抵抗らしい抵抗もなかったぞ」
「………」
それが良いことなのか悪いことなのかは、キールは敢えて聞かなかった。
「…よし!見つけたぞ!私の腕を掴め!」
言われるがままトレハースの腕を掴むと、スーッと何か膜のようなものに包まれる感覚が起こった。
それから、グイッと何か強い力に勢いよく引っ張られる。
(…っ、)
反射的に閉じていた目をゆっくりと開くと、まず目に入ってきたのは激しく打ち付ける雨だった。それなのに、雨に打たれている感覚はない。
『──キール!!!!』
突然、自分を呼ぶ声にキールは驚いてそちらを見る。
そして、さらに大きく目を見開く。
『キール!!キール!!』
ずぶ濡れのシエルが、這いつくばって崖の下に向かって何度も叫んでいたからだ。
「なっ…シエ──」
「呼んでも聞こえんぞ」
聞き慣れた声に驚いて左を向くと、トレハースがそこにいた。自分と同じように雨に打たれている様子はない。
「あくまでもこれは過去の記憶。私たちは居ないものであり、干渉もできない。ただ、見続けることしかできないのだ」
「………」
「…どうやらここはお主が崖から落ちた直後の記憶らしいな」
叫び続けるシエルの周りに人が続々と集まり、崖から落ちた自分を救助する支度を始めている。
『班長!!キールが!』
『分かっている!地面に足をとられたんだ!』
『他の班にも救援を!』
迅速に自分を助け出す用意が進められているのを、どこか歯がゆい気持ちでキールは見つめる。たとえ記憶がなくとも、落ちたのは自分だ。自分が皆の手を煩わせている。その事実が悔しかった。
「…娘さんは、最初こそ取り乱しておったが、その後は思ったよりも冷静じゃな」
トレハースの客観的な意見にキールは無言で頷く。
「…シエルは、いつだって冷静であろうとするんだ。どんなに動揺しても、どんなに傷ついても、人前では平気そうな顔をする」
「…ほぉ」
トレハースの物言いたげな視線を感じる。何か言いたいことがあるなら言えと、キールが口を開こうとした瞬間、ぐにゃりと視界が揺れた。
「なんだ!?」
「おそらく次の記憶に移るんじゃ、備えろ!」
「ぐっ…」
ぐらぐらと揺れる視界に目眩のような感覚を覚える。
一瞬の暗闇の後、今度は眩いほどの光に包まれた。目を細めてその光をよく見ようとした瞬間、気づけば白い部屋の中にいた。
「…ここは、医務局か?」
次の記憶は、どうやら城の医務局の小さな病室のようだった。先ほどの眩い白は病室の壁と床の色だったようだ。
「見ろ、娘さんがおるぞ」
示された先にいたのは、白いベッドの脇に立ったシエルと、そのベッドの上に横たわったキール自身だった。
どうやらここはキールが助かった後の記憶らしい。
病室は個室なのか、小さな部屋にベッドが1つだけだった。
『…キール、早く目を覚まして』
シエルが呟く。か細くて、震えた声。ほんの一瞬気を抜けば、聞き逃してしまうようなそんな声だった。
『キール…死なないで…』
肩が小さく震えている。それを見ると、落とし穴のところで見たシエルの泣き顔がキールの脳裏によぎった。
胸が痛くて、今すぐ走って行ってあの小さい背中を抱きしめたい衝動に駆られる。
「…なぁ爺さん」
「なんじゃ」
「シエルに近づいてもいいか?」
「…触れられんぞ」
先程の考えを読まれたのかと、思わずドキリとする。どうやらトレハースには何もかもがお見通しのようだ。
「分かってる。…ただ、近くにいたいんだ」
トレハースが無言で頷いたのを合図に、シエルにそっと近づいた。
シエルは横たわったまま動かないキールの手をそっと両手で包むように握り、何度も何度も小さな指で優しく撫でていた。
一方で、握られた過去の自分自身の手はピクリとも動かない。シエルに触れたい今の自分がその光景を見ていることが、なんだか皮肉みたいに思えた。
『…キール、私の告白の返事、任務が終わったら聞いてくれるんじゃなかったの』
「…っ!」
その言葉に、キールは目を見開く。
ポツリと落とされたシエルの言葉が泉に落とされた一滴の雫のように、キールの中に波紋となって広がっていく。まるで霧が晴れていたように頭が鮮明になっていく感覚があった。
(そうだ…俺は任務の前日シエルに告白を…!)
どんどん記憶が頭の中に流れ込んでくる。前々から機会を伺っていたのだ。あの日は夜の巡回で、偶然2人きりになった。今しかないと思った。そう思ったら気づけば想いを口に出していたのだ。
夜空を背に、驚いた顔をするシエル。それから、呆れた顔でこちらを見るシエル。それもそうだろう、告白の返事の保留なんて、普通はされた方がするものだ。
けれど、その呆れた顔がいつもより赤い気がして、少し、いや大分期待したのだ。
…それだというのに、自分は一体彼女に何をした?どんな思いをさせた?
どうして、こんな大事なことを今まで忘れていたのだろう。
『私、キールのこと…』
シエルが、ゆっくりと口を開く。
その時、視界がぐにゃりと歪み出した。
「なっ…!」
「時間じゃ!次の記憶に移るぞ!」
叫ぶトレハースの言葉とともに、目の前の光景が──シエルがどんどん遠ざかっていく。それが過去の記憶であることも忘れて夢中でキールは手を伸ばした。
「待て!シエル!シエル!」
「馬鹿者!あれは干渉できんと言うておろう!おそらく次で最後じゃ、備えろ!」
「クソッ…!シエル!」
叫び虚しく、シエルの姿は闇の中に消える。キールは伸ばした手を力なく下ろした。トレハースは静かな目でただそれを見つめる。
「…思い出したか」
「…ああ。多分、ほとんど全部…」
「じゃが、娘さんの記憶はまだ終わらんぞ」
「え…」
「次で最後と言うたじゃろう、ほれ」
顎でしゃくられた方向を見た瞬間、キールはまたしても病室に立っていた。先程と全く同じ部屋だ。
「戻ってきたのか…?」
「時間が進んだのじゃ。ほれ、娘さんの格好がさっきと違うじゃろ」
確かに、シエルの身につけている衣服が少し違う。それに、シエルの様子も先程より明るいように見えた。
『あ…!キール?起きたの?』
優しげなシエルの声が病室に響く。彼女の口から告げられたその言葉に、キールは驚いた。
「どういうことだ…?」
「ほー、どうやらお主が目を覚ましてから数日経った頃の記憶のようじゃな」
フサフサとした髭を触りながらトレハースが言う。
シエルに声をかけられた記憶の中のキールは、ベッドの上で少し身じろぎした。
『ゔ…』
『よかった…3日前に目を覚ましたって聞いてたんだけど、私が来た時はいつも寝てたから…』
シエルは心底安心したような様子だ。嬉しそうに笑うシエルのを見ながら、キールは何か胸騒ぎのようなものを感じていた。
(あ…)
この続きを、自分は知っている。
『なぁ…』
『ん?何?』
この言葉の先を、知っている。
「──やめろ!言うな!」
過去に向かって叫んでも、意味などないのに。
『なぁ…あんた誰だ?』
『……え?』
シエルの、動きが止まる。浮かべていた笑みが、段々と消えていく。
少し掠れた、だるそうな声で過去のキールは言葉を続ける。無知であるが故に、目の前の大切な存在を傷つける。
『…見たことない顔だが、もしかして昔会ったりしてたか?』
『………』
『…悪い。…俺、慣れない人の顔と名前覚えるの苦手でさ』
『…そう、ですか。こちらこそ、馴れ馴れしく、すみません』
希望が絶望に変わる瞬間とは、こういうことだろうか。シエルの瞳から光が消えていくのを、キールは歪んでいく視界の中で確かに見た。
キールは静かにうなだれた。
「…ああ、シエル…シエル…」
「…時間じゃ。戻るぞ」
ぐにゃりと足場が歪んでいく。それが、記憶の世界によるものなのか、自分自身の目から溢れ続ける涙のせいなのか、キールにはもう分からなかった。
◇
部屋に戻ると、シエルは変わらずソファの上に横たわっていた。
無造作に置かれたシエルの手を何も言わずにキールは握る。暖かいその小さな手に触れらることが、何よりも嬉しかった。
「シエル…シエル、俺はお前をたくさん傷つけた」
懺悔でもするかのように、シエルのそばに跪いてキールは俯いた。トレハースは静かに告げる。
「…直に娘さんは目を覚ますじゃろう。おそらく、お前が穴に落ちた後のことは覚えていない。心に負担がかかりすぎたからな」
「………」
「後はどうするかは、お主たち次第じゃ」
「……色々と、ありがとう。爺さん」
「…ふん、娘さんを早く安心させてやれ。…私は奥の部屋にいるから、話終わったら呼ぶんじゃぞ」
「ちょっと力を使い過ぎたわい」と呟きながら、トレハースは奥の部屋に消えていく。
しんと静まり返った部屋の中で、キールはただシエルのことを見つめていた。
それから数分ほど経った時、ソファの上のシエルが大きく身じろぎした。思わずキールは身を乗り出す。
「う…」
「シエル…!」
「ん…ここは…?」
「西の森の魔術師殿の家だ。シエル、辛くないか?」
「あれ?私、どうしてここに…って、え…!どうしたのキール」
「なんだ?」
「あんた、泣いてるじゃない」
シエルは驚きながらも、指でキールの頬を優しく拭っていく。それが心地よくて、キールは目を細めた。
「…ああ、さっきから視界がぼやけると思ったら、…俺、また泣いてたのか」
「“泣いてたのか”って、そんな他人事みたいに…」
「そんなことより、シエル」
「ん。何?」
「抱きしめていいか?」
「はぁ?…って、うわっ!ちょっと!」
返事を聞く前にキールは勢いよく、シエルの腕を引いて抱き込んだ。はじめは何が何だか分からなくて、もがいていたシエルも遂には観念したのか恐る恐るキールの背に手を回した。
それから困惑したような声を上げる。
「どうしたのキール。あんた、さっきから変だよ。それに、何で私ここにいるのかいまいち分かってないんだけど…」
「シエル…シエル…ごめん、シエル…」
「だから、何言って…」
「今まで辛い思いさせて、ごめん」
「キール…?」
「崖から落ちて、死にかけて、心配かけてごめん。ずっと目を覚ますの待っててくれたのに、……シエルのこと忘れてごめん」
「キール?もしかして、記憶が戻ったの…!?」
「ああ、戻った。全部」
「本当に?」
「ああ」
「…本当の、本当に?」
「ああ」
「…うっ、そじゃ、ない?」
「ああ。嘘じゃない。…だから泣くな、シエル」
キールの肩に顔をうずめて、しゃくりあげるシエルの背中をもう一度強く抱きしめる。
「シエルには、笑っていてほしい。…言っただろ?シエルの笑顔を見ると安心するって」
「ば、か…私がっ、ずっと…どんな、思いで…」
「シエル…シエル…俺を見捨てないでくれて、ありがとう」
「ばかっ…ほんと、ばか…私があんたのこと、見捨てるわけないでしょ…」
向かい合って額を合わせる。泣きながら見せたシエルの笑顔は、この世のどんなものよりも美しく見えた。
「…シエル、返事を聞かせてほしい」
「…馬鹿、もう言ったよ」
「知ってる。でも、もう一度ちゃんと聞きたい」
「………しょうがないな」
シエルがキールの唇にそっと自分のものを寄せる。
「私もキールが好き。…たとえ、何度忘れられても」
最後の一言は、言い切る前にキールの口の中に消えた。