シエルの同期は馬鹿である。
シエルの同期は馬鹿である。
どれだけ馬鹿なのかと言えば、任務中に足を滑らせ崖から落ちた挙句、記憶喪失になるくらいには馬鹿である。
「よぉ! お前がシエラか? 俺はキール、よろしくな! ……って、そっちは俺のこと知ってるんだったか」
記憶喪失になったというのに、悲壮感をまったく感じさせず明るく挨拶するこの男。
彼こそ、シエルの同期の騎士キール・ジャンナーである。
快活で気の良い男ではあるが、少々抜けているというか、前述した通り間抜けなところがある。
そんな彼を前に、シエルは努めて冷静な声をかけた。
「よろしく、キール。それと私の名前はシエラじゃなくてシエルね」
「あっ、悪い! まだ完全にみんなの名前覚えきれてなくてさ」
「いいよ、気にしないで」
申し訳なさそうにするキールに、シエルは首を振る。
記憶を失くす前のキールも出会った頃はよく人の名前を間違えていたのであまり気にしていない。
「しばらくは私が一緒に行動することになるから、よろしくね」
ついこの間まで病床についていたキールはまだ記憶が曖昧で、前の自分の仕事でもある騎士の業務も忘れてしまっていた。
そこで彼のお目付役として抜擢されたのが、前々から行動を共にすることも多かった同期のシエルというわけだ。
「おう、こちらこそよろしくな!」
人当たりの良い笑顔を浮かべて、キールはこちらの手を取って握る。
ぎゅっとしっかり握る力加減の下手さも、高めの体温が伝わる大きな手のひらの感触も、いつもと変わらない、キールのものだ。
ただひとつ違うのは、目の前の彼はシエルのことを何も覚えていないことだけだ。
キールが事故に遭ったのは、今から半月ほど前のことである。
その日は朝からひどい嵐で、地面が相当ぬかるんでいた。任務の最中、そのぬかるみに足をとられて、キールは崖から落ちてしまったのだ。
崖の高さはあまりなく、下にも緑が生い茂っており、幸いにも目立った外傷はなかった。……身体の方には。
その代わりとでもいうべきか、頭の方は強く打ち付けており、一時は生死の境も彷徨った。
それでもなんとか一命を取り留め、身体も順調に回復し始めた矢先にそれが判明した。
『なぁ……あんた誰だ?』
そんなお決まりのフレーズを、キールが吐いたのは彼が意識を取り戻してから三日ほど経った頃だろうか。
実は、この時シエルはそこに居た。というか先の台詞を言われたのがちょうど見舞いに来たシエルだった。もっとも、その時のことをキールは意識が回復したばかりだったので覚えていないだろうが。
そのままあれよあれよという間に様々な検査が行われ、キールの記憶喪失が判明した。
どうやらキールは自分のことや家族のことなどは覚えているが、友人に上司や同僚、仕事のことなどは曖昧で、ほとんど覚えていないようだった。
それでも何人かに一人は顔を見たことがあると言ったり、名前だけ知っていたりと断片的な記憶はある。
しかし、何故か同期であるシエルのことは全くと言っていいほどキールは覚えていなかった。
(……仮にも、自分が告白した相手なのになぁ……)
キールのことを考えながら、頭の中でシエルは不満を漏らす。
実は、事故に遭う前日にシエルはキールに告白を受けていた。王城の夜の巡回の際、二人きりになったわずかな時間で言われたのだ。
『お前のことが好きだ! シエル! お、俺の恋人になってくれ!』
『……は』
『待て! まだ返事は言うな!』
『えっ?』
『どっちに転んでも、明日の任務が手につかなくなる! 返事は明後日にしてくれ!』
『な、なにそれ……』
では何故いま告白したのかと呆れて問えば、「今しかないと思ったからだ!」と馬鹿みたいな返事が返ってきた。それでも、そんな所も愛おしいと思えるくらいにはシエルもキールのことを想っていたのだ。
(……結局、返事どころか存在も忘れられちゃったけど)
何かを堪えるように、無意識に握りしめた手に爪が食い込んで、シエルはその痛みで我に帰った。それからゆっくりとした仕草で作業に戻る。
現在、シエルは鍛錬場で日課の武器の手入れ中である。ちなみにキールは休養中のことに関する書類の提出があるとかで、事務所の前で別れた。
告白のことは誰にも言っていない。もちろん、キール本人にも。
常識的に考えて、いきなり知らない女に「私も好きだ」と言われてもキールが困るだけだと分かっていたからだ。
友達以上恋人未満から、恋人に昇格するどころか、一日で赤の他人に格下げだなんて、とんだ笑い話だ。
……笑い話のはずなのに、考えるとどうしようもなく悲しくなってしまうから、少し困った。
視界が悪くて、しばらくの間シエルは作業ができなかった。
◇
「なぁシエル。お前ってさ、いつもそんな顔してるのか?」
それから次の日。模擬戦闘の休憩中、キールからそんな風に声をかけられた。
壁に座ってもたれかかり、運動後の汗を拭いていたシエルは、向かいの男を見上げる。
「……どういうこと?」
「いや、昨日会った時から思ってたんだけどな。シエルお前、ふとした瞬間に何か思いつめた顔してるだろ?」
「…………そう、かな」
どきりと心臓が跳ねた。
キールは馬鹿だが、昔からこういう他人の感情には敏感だった。特に悲しみや恐れなどの負の感情はすぐに気づく。記憶があってもなくても、そんな所は変わらないのだろう。
心配そうにこちらを見下ろす彼の視線が、今だけはひどく煩わしく感じられて、そう感じてしまった事実がまた一層シエルの心を締めつける。
「何か悩んでることでもあるのか? いや、病み上がりの俺じゃ力不足かもしれんが、それでも少しなら――」
「……確かに、悩み事はある」
「お、何だ? 遠慮なく言えよ!」
「実は私、あんたにお金貸してたんだよね」
「……え?」
キールの目が点になる。
「銀貨五枚。あんたが事故に遭う前に貸してたんだけど……今のあんたは綺麗さっぱり忘れちゃってるでしょ? だから、もう返ってこないのかなって……」
「なーんだ! そんなことか! 馬鹿だなシエル! 安心しろよ、記憶があろうが無かろうが銀貨五枚くらいすぐ返すぜ!」
「ちょ、キール、痛い痛い」
ガハハハと豪快に笑いながら、キールが同じ目線でしゃがみ込み、バシバシと肩を叩いてくる。どうやら上手く誤魔化せたようだ。
人の感情には敏感なくせに、変な所で単純だなぁとシエルは思わず笑ってしまう。
その表情を見て今度はキールがニカッと歯を見せて笑う。
「やっと笑ったな! やっぱお前は笑ってる方がいいな」
「え……」
「なんとなくだけど、俺、お前が笑ってる方が安心するんだよなぁ」
「……そっか」
「あっ、おい! また戻ってるぞ!」
「また見たいのなら金貨三枚いただきます」
「金取るのかよ!」
元気に騒ぐキールを尻目に、シエルはゆっくりと立ち上がる。
こちらの一挙一動を見上げてくる澄んだ藍色の瞳と目があって、不自然にならない程度に視線を逸らす。
「……なぁ、シエル――」
「二人とも、ちょっといいか」
キールが何か言おうと口を開いたその時、二人の上司である騎士隊長から声がかかって、結局シエルがその続きを聞くことはなかった。
「西の森の魔術師……ですか?」
シエルの言葉に、騎士隊長は深く頷いた。
「そうだ。その魔術師のもとに、キールと一緒に行って欲しい」
「俺とその魔術師って知り合いなんすか?」
隣で一緒に話を聞いていたキールがそんな疑問を口にする。
「いや、知り合いではない。ただ、お前に関係があるのは確かだ」
「?」
「何でも、西の森の魔術師は人の心についての研究に熱心らしい。記憶に関する魔術にも長けているとか」
その一言ですぐにシエルは合点がいった。
つまり、騎士隊長はキールの記憶を取り戻す手がかりを掴むためにその魔術師の所へ行けと言いたいのだろう。今まで崖から落ちて頭を打ったという外的要因ばかり気にしていたが、今度はキールの潜在意識、内面からもアプローチしてみようと考えたのだ。
「向こうにも書状で話は通してあるから、明日にでも行ってこい」
騎士隊長のその言葉を最後に、その場はおひらきとなる。
隊長室を後にして、人気のない廊下を二人で並んで歩く。
「…………」
「…………」
互いに口をつぐんだまま、会話はない。
シエルは普段からよく話す方ではないが、記憶をなくした後も変わらずお喋りであったキールがここまで黙っているのは珍しい。
それほどまでに、キールも真剣に考えているということだろか。
「……なぁシエル」
「……何?」
しばらくして、遠慮がちにキールが口火を切った。
「記憶をなくす前の俺って、どんな感じだった?」
「…………」
「シエル?」
「……別に、今のあんたと変わらないよ。お調子者で単純で体力だけ人一倍ある馬鹿」
「なっ、ひでぇな! シエルお前、俺のことそんな風に思ってたのか⁉︎」
「……なによ、今の方がカッコいいとでも言って欲しかったの?」
「ばっ、そういことじゃ……」
「変わらないよ」
強い口調でシエルは言う。
「今も昔もあんたは変わらない。キールはキール……でしょ?」
「……お、おう……そっか、そうだよな」
「そうだよ」
「……俺は俺、だよな」
「うん。キールはキール、他の誰でもないよ」
シエルの言葉に安心したようにキールが息をふっと吐く。
きっと不安だったのだろう。そりゃそうだ、目が覚めたら知らない人達に囲まれて、向こうは自分を一方的に知っていて、怖くないわけがないのだ。
実際、キールの性格は記憶をなくす前と何も変わらない。ただ、記憶がそれに追いついていないだけだ。
(……キールは変わらなくていい。変わらなくちゃいけないのは、私の方だ)
たとえキールが記憶を思い出せなくても、シエルはそれを受け止めなければいけない。過去のことなど、忘れてしまえばいい。
忘れて、しまえば。
◇
翌日、さっそくシエル達は西の森の魔術師に会いに行くべく、日の出と共に城を出た。
「……西の森の魔術師ってのは、ずいぶん辺鄙なところに住んでるんだな」
キールのぼやきに、シエルも全力で同意する。
随分と早くに王城を出たはずなのだが、やっと西の森の付近に着いた頃には既に昼を過ぎていた。
付近に住むの人の話によれば、魔術師の家はここからさらに奥まった場所にあるという。
「……ちゃんと帰り道わかるかな」
「目印にパンでもちぎって置いて行くか?」
「ばか、パンならさっき全部食べたでしょ」
そんな軽口をたたきながら二人は森の中を進んでいく。
鬱蒼と茂る木々たちが陽の光を遮ってしまって、森は少し薄暗い。目的地までは一本道で迷う心配はなさそうなのが、せめてもの救いだった。
「それにしても、西の森の魔術師ってどんな人なんだろうね」
「さぁなー、滅多に森から出てこないらしいからな」
「隊長も手紙のやりとりしかした事ないって言ってたし……」
騎士隊長が会いに行くのを勧めるくらいなのだから、決して悪い人物ではなのだろう。しかし、情報が少なすぎるような気もする。
シエルが一抹の不安を覚えて眉根を寄せる一方で、後ろを歩くキールはあまり気にしていない様子だ。
「実は、すげーおっかない魔術師だったりしてな」
「いい加減なこと言わないでよ、失礼でしょ」
シエルの非難の声も何のその、背後のキールがニヤリと笑う気配がする。表情こそ目で見て確認していないが、この声色の時のキールは大抵ろくでもないことを考えているとシエルは知っていた。
「いや、もしかしたらこの道も罠だ――」
罠だったりしてな。そう続くと思われたキールの声が突然途切れる。
「……え? キール?」
後ろを振り返って、シエルの喉がヒュッと鳴った。
キールがいない。代わりにあるのは大きな穴。
状況からしてその穴に落ちたのだと理解した瞬間、シエルは無我夢中で穴に駆け寄って叫んだ。
「キール⁉︎ キール!!!」
「いてて……何だこれ? 落とし穴か?」
穴の中に落ちたキールは、始めこそ驚きはしたものの、至って冷静であった。
落とし穴といっても、それほど深さはなく、子ども騙しのようなものだ。相手の不意をつくためだけに作られたようで、キール一人でも這い上がることができそうだった。
穴の外からシエルの必死な叫びが聞こえる。
「キール! キール! 返事して!」
「おうシエル! 俺は大丈夫だ! 今上がるから待ってろ!」
「キール! キールっ……!」
「……シエル?」
シエルの様子がおかしい。だが、下からだと上の様子が見えない。
何かよくないことが起こっている予感を振り払うようにして、急いでキールは穴から抜け出す。
それからひょっこり顔を出し、外にいるシエルを安心させるため歯を見せ笑ってみせた。
「シエル! ほら、俺はこの通りピンピンしてるぜ!」
「キール! キール!」
「シエル……? お前、どうした?」
上がった先にいた、シエルは号泣していた。
既にキールは穴から這い出たというのに、今もなお、誰もいない穴に向かって泣き叫んでいる。
「シエル! 俺はもう大丈夫だぞ!」
「キール! 死なないで! お願いキール!」
「シエル、シエル、落ち着け。こっちを見ろ」
「おねがい、おねがい……死なないでキール……」
困惑と焦りに支配されそうになる頭を何とか働かせ、キールはシエルの両肩を持って彼女の身体と向き合う。
だが目線を合わせようとしても、合わない。そもそも焦点があっていない。どこか遠くを見ているような、幻覚を見ているような、そんな目をしている。
頰を流れる涙を何度拭ってやっても、一向に止まる気配はない。
「死なないで……死なないでキール……」
「大丈夫だシエル、俺は死んでない」
「キール、キール……私のこと忘れないで……」
「シエル? お前……」
シエルのその呟きを拾おうとした時、しゃがれた声が響いた。
「――何じゃ何じゃ、尋常でない悲しみを感じて来てみればこの騒ぎは」
「っ⁉︎ 誰だお前!」
声がする方に居たのは、白いフサフサの髭を生やした老人だった。キールは咄嗟にシエルを腕に抱いて庇う。
そんな様子を見ても老人はめんどくさそうにボリボリと首を掻いている。
「お前の方が誰じゃ若造。断りもなく人様の森に入りおってからに」
「俺はキール・ジャンナー、こっちは仲間のシエルだ」
「……キール? キール? はてさて、どこかで聞いた名前の気がするのぅ」
「城の騎士だ! 今日、西の森の魔術師を訪ねると書状で伝えてあるはずだ!」
「おお〜! そうじゃったそうじゃった! 訪問者リストにそんな名前があったなそういえば」
ぽんっと手を打つと、「最近忘れっぽくなっていかんわい」と言いながら老人はまた首をボリボリと掻いた。
その呑気な様子に苛立ちを覚えながらも、キールは確信をもって言った。
「あんた、西の森の魔術師だろう?」
「いかにも。わしが西の森の魔術師トレハースじゃよ。いやぁ〜すまんのぅ、来客があるとすっかり失念して防犯用の罠を解除するの忘れとったわい」
「今はそんなことどうでもいい! それより、助けてくれないか。仲間の様子がおかしいんだ」
「ほぉ〜ん、どれどれ」
トレハースが杖をつきながら、キールの腕の中のシエルを覗き込む。
「キール……キール……」
シエルは未だ泣き止まず、うわごとのようにキールの名前を繰り返し呼んでいた。
それを見たトレハースが沈痛な表情で優しく声をかける。
「おお、おお、可哀想に。辛いことを思い出したんじゃな。娘さん、今楽にしてやるぞ」
トレハースがシエルの額に手をかざして何かを唱えると、彼女がフッと意識を手放した。
警戒を緩めないまま、キールがトレハースに問う。
「……今のは?」
「少し眠らせただけじゃ。といっても、しばらく目は覚めん。今まで溜まっていた悲しみが一気に溢れてしもうたからな」
「悲しみが溢れた……?」
「心が限界を迎えたということじゃ。ほれ、ついてこい。詳しい話は私の家で話してやる」
古びた杖をつきながらトレハースが先を行く。
「シエル……」
涙で濡れたシエルの頬をキールはもう一度優しく拭ってやる。先ほどの取り乱したシエルの様子が、絶望に染まったようなあの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
(……俺、シエルのあんな顔、前にもどこかで……)
そこまで考えて、キールは切り替えるように頭を振る。
腕の中のシエルをもう一度しっかり抱き直して、トレハースの後に続いた。
◇
トレハースの家に着くと、彼は居間のソファを顎で指した。その拍子に長い髭がひょこひょこと揺れる。
「ほれ、娘さんはそこのソファに寝かしてやれ。ベッドもあるんじゃが、ジジイのは嫌じゃろうて」
その指示に従い、キールはそっと優しくシエルをソファに横たえた。それから自分の上着を脱いでシエルの身体に掛けてやる。
「若造、お主はこっちじゃ」
「いや、俺はいい。それよりも爺さん、シエルのことを早く助けてやってくれないか」
ソファの後ろにある食卓に座るように促されたが、キールはきっぱり首を振って断る。
その断りを気にした様子もなく、トレハースは卓上のカップに湯を注ぐと口を開いた。
「まぁそう焦るでない。物事には順序というものがある。順番を誤れば余計に複雑になるだけじゃ」
「そう言ったってな爺さん……!」
「まずは、お主がここに来た本来の目的を果たさねばならん。娘さんはその後じゃ」
「…………」
確かに、ここへ来た本来の目的はキールの記憶を取り戻す手がかりを掴むためだ。今、シエルのことをなんとかできるのは目の前のトレハースしかいない。その彼の言うことに大人しく従うしかない無力な自分に、キールは内心舌打ちした。
トレハースはお茶を啜りながら、ジトっとした視線をこちらによこす。
「おーおー、悔しそうな顔をしよってからに。わしだってむさ苦しいお前の相手なんてしたくないわい。早くあの娘さんのところに行きたいんじゃ」
「……俺は何をすればいいんだ?」
「お主はじっとしておれ。ふむ、まずは頭の中を見てみようかの」
ぎしりと木製の椅子を軋ませて席を立つと、トレハースはキールに近づいて彼の額に手をかざした。それから何か、呪文のようなものをブツブツと呟いている。
キールは正面に立つ老人を訝しげに見つめた。
「こんなので分かるのか?」
「うるさい、黙っとれ。お主のような単純明解な馬鹿と違って、わしの魔術は複雑なのじゃ」
「……そーかよ」
トレハースの無遠慮な物言いにムッとしつつも大人しくされるがままになっていたキールだが、ふと、額の方に暖かい何かに触れられる感覚があった。
「おっ、あったあった。……ふむ、ほぉ〜ん……成る程」
「なんか分かったのか⁉︎」
「ええい、黙っとれ。落ち着きのないやつじゃ」
「…………」
そのまま数分経った後、トレハースは額にかざしていた手を下ろした。
そして、なんでもない事のように冷静に言う。
「よし、分かったぞ。お主の記憶、元に戻る」
「なっ、本当か⁉︎」
「うむ」
興奮した様子で詰め寄るキールに、トレハースは深く頷く。
「そもそも、お主は記憶を失ってなどいない」
「……何だって?」
「何かの弾みに記憶に鍵がかかってしまっただけじゃな。分かりやすく言えば自分で自分の記憶を封じたといったところじゃ」
「俺が自分の記憶を封じた……?」
「通常であれば、何か辛い経験や恐ろしい思いをした時、そういうことが起こるんじゃが、お主の場合は違うぞ」
「どういうことだ」
「お主の場合は、ただの偶然じゃ」
「……頼む、もう一度言ってくれ」
「だから、ただの偶然じゃ」
「…………」
キールは黙って目の前の老人を見る。白髪から覗く瞳の色は、嘘を言っている人間のものではなかった。
「……ふざけてないよな?」
「当たり前じゃ! むしろわしが聞きたいくらいなんじゃぞ! こんな馬鹿みたいな理由では、わしも立つ瀬がないわ!」
「つまり、崖から落ちた弾みで、俺は自分で自分の記憶を閉じ込めたっていうのか?」
「そうじゃ。おそらくぶつけ所が悪かったのじゃろう。頭の中の記憶を司る部分が狂ったんじゃ。その証拠に、全て忘れているのではなく、断片的にポロポロと思い出すこともあったのではないか?」
そう言われてみれば確かに。自分のことや家族のこと以外、友人に上司や同僚、仕事のことの記憶は曖昧だったはずなのに、何人かに一人は顔を見たことがあったり、名前だけ知っていたりと断片的に覚えていることはあった。
「それに一番は、あの娘さんに対するお主の態度じゃ。書状には付き添いとして同僚が同行すると書いてあった。あの娘さんのことだろう?」
「あ、ああ……シエルは俺の同期だ。俺はまだ記憶が曖昧だから、一昨日から一緒に行動して色々教えてもらってたんだ」
「ふん。記憶がないくせに、お主の彼女を見る目は一昨日知り合った同僚を見る目ではない。愛しい者を見る目じゃ。……恐らく感情が記憶を追い越しておるんじゃな」
「感情が、記憶を……」
ソファで眠るシエルに視線を投げる。
泣き腫らした顔を見ていると胸が痛んで、もっと笑った顔が見たいと思う。シエルの笑顔を見ると、何故だかホッと安心するのだ。
「さて、そこでようやくあの娘さんのことじゃが」
トレハースの言葉に、我に帰ってキールは視線を戻す。
「やっとか! シエルを早く助けてや――」
「ええい! 話は最後まで聞け! いいか、お主の記憶の鍵はおそらくあの娘さんじゃ」
「シエルが俺の記憶の鍵……?」
「そして、お前が記憶を取り戻さん限り、あの娘さんの心はまた壊れるぞ」
「…………」
「根本的なところを解決せねばならんのじゃ。ある意味、お前よりも娘さんの方が重症かもしれんな」
黙り込むキールを横目に、トレハースはまた茶を啜った。「喋りすぎると喉が渇くわい」とボヤく。
「まず状況の確認じゃ。森に入るまでには娘さんには何の異変もなかったのか?」
「……ああ、普通に会話も出来た。疲れた様子はあったが、それは長時間の移動によるものだと思う。おかしくなったのは……多分、俺が落とし穴に落ちてからだ」
「……待て、穴に落ちたのか?」
「そうだ。けど、子供騙しみたいな穴だったし、第一あれを作ったのは爺さんじゃないか」
「今は穴のことはどうでもいい。お主が何かに落ちたという事実が重要なんじゃ」
「俺が落ちた事実?」
「……ふむ、お前が崖から落ちた時も、娘さんはその現場にいたか?」
「ああ、同じ班に所属して行動を共にしてたらしい。確か、俺のことを一番最初に知らせたのもシエルだったそうだ」
「……成る程な、ではその時もきっと娘さんはお主が崖から落ちたのを見たんじゃろう」
トレハースは自身の豊かな髭を触りながら言う。
「お主が穴に落ちたことで、娘さんはお主が崖から落ちた光景を思い出したんじゃろうな。そして、それがギリギリの所で保っていた娘さんの心を壊すきっかけになった……まあ、こう考えるのが自然じゃろうて」
「シエルは、そんなに傷ついていたのか……?」
「この大馬鹿者! 好きな男が死にかけた上、自分のことを忘れていたんじゃぞ! そりゃ傷つくに決まっとるわい。……よくもまあ、これほどの悲しみを今まで誰にも悟らせなかったものだ」
「……分かるのか」
「抱えきれなくて身体から滲み出ておる。負の感情は周りに蔓延しやすいでな、わしも魔術師のはしくれ、人のこういった感情を感じるのじゃ」
「……そうか」
キールは短くそう返事をして、きつく唇を噛み締める。
それからソファに横たわるシエルに近づくと、その手をそっと握った。小さくて、それでいて少しかさついた、剣ダコのあるこの手は、彼女の日頃からの努力を思わせた。
……この手を、ずっと前から自分は知っている。
(……シエル、ごめん。俺のせいで、お前を苦しめている)
決して握り返されることのない小さな手を自身の額に当て、キールは目を閉じた。
数秒の沈黙がおりた後、藍色の瞳は再び姿を現し、強い光を宿して立ち上がる。
「シエルを助けたい。記憶を思い出したいんだ。……俺はどうすればいい」
「ふむ、そうじゃな……少々荒くなるが、手っ取り早いのは娘さんの記憶を見ることじゃろう」
「そんなことできるのか?」
「できる。わしを誰と思うておるのじゃ。しかし、見るのはお主が事故に遭った後の記憶のみじゃ。それ以上はお主にも娘さんにも負担がかかり過ぎる」
「なんでもいい、思い出せるのなら! シエルを助けることができるのなら!」
「結構な心がけじゃが……いささか暑苦しいなお主」
トレハースはひとつ小さく息を吐くと、シエルのそばに近づいた。そのまま額の上に手をかざしてブツブツとまた何か呪文を唱え始める。
しばらくして、その彼のこめかみに玉の汗が滲み始めていることにキールは気がついた。
「苦しいのか? 爺さん」
「……人の記憶を覗くのじゃからな、抵抗がきついのじゃ」
「俺の時は平気そうだったが」
「お主は単純馬鹿じゃからな、つくりもシンプルで抵抗らしい抵抗もなかったぞ」
「…………」
それが良いことなのか悪いことなのかは、キールは敢えて聞かなかった。
「……よし! 見つけたぞ! わしの腕を掴め!」
言われるがまま、キースはトレハースの腕を掴む。薄い膜のようなものに包まれる感覚がした次の瞬間、何か強い力に勢いよく引っ張られる。
反射的に閉じた目を瞬いて開くと、激しく打ち付ける雨が視界に飛び込んできた。しかし、身体が雨に打たれている感覚はない。
『――キール!!!!』
自分を呼ぶ声が耳に飛び込んできて、キールは弾かれたようにその方向を見て驚愕した。
『キール!! キール!!』
ずぶ濡れのシエルが地面に這いつくばり、崖の下に向かって何度も叫んでいたからだ。
「なっ……シエ――」
「呼んでも聞こえんぞ」
気がつけば、こちらの思考を見透かすようにして、トレハースが隣に立っていた。キールと同じく、雨に打たれている様子はない。
「あくまでもこれは過去の記憶。わしらは居ないものであり、干渉もできない。ただ、見つめ続けることしかできんのだ」
「…………」
「……どうやらここはお主が崖から落ちた直後の記憶らしいな」
叫び呼びかけるシエルの周りに人が続々と集まり、崖から落ちた自分を救助する支度を始めている。
『班長! キールが!』
『分かっている! 地面に足をとられたんだ!』
『他の班にも救援を!』
自分自身を助け出す用意が迅速に進められているのを、どこか歯がゆい気持ちでキールは見つめる。たとえ記憶がなくとも、落ちたのは自分だ。皆の手を煩わせている。その事実が悔しかった。
「……娘さんは、最初こそ取り乱しておったが、その後は思ったよりも冷静じゃな」
トレハースの客観的な意見にキールは頷く。
「……シエルは、いつだって冷静であろうとするんだ。どんなに動揺しても、どんなに傷ついても、人前では平気そうな顔をする」
「……ほお」
トレハースの物言いたげな視線を感じる。何か言いたいことがあるなら言えと、キールが言葉を紡ごうとした途端、ぐにゃりと視界が揺れた。
「なんだ⁉︎」
「おそらく次の記憶に移るんじゃ、備えろ!」
「ぐっ……」
ぐらぐらと揺れる、目眩のような感覚を覚える。
一瞬の暗闇の後、今度はまばゆい光に包まれた。その光の先をよく見ようと目を凝らそうとすると、気づけば白い部屋の中にいた。
「……ここは、医務局か?」
次の記憶は、どうやら城の医務局の小さな病室のようだった。先ほどのまばゆい白は病室の壁と床の色だったようだ。
「見ろ、娘さんがおるぞ」
示された先にいたのは、白いベッドの脇に立ったシエルと、そのベッドの上に横たわったキール自身だった。
どうやらここは自分が助かった後の記憶らしい。
病室は個室なのか、小さな部屋に病床はひとつだけだった。
『……キール、早く目を覚まして』
シエルがぽつりと呟く。か細く弱々しくて、ほんの一瞬でも気を抜いてしまえば、聞き逃してしまうような、そんな声だった。
『キール……死なないで……』
騎士服を身につけた肩が震えている。その光景を見ていると、落とし穴を上がった先で見たシエルの泣き顔がキールの脳裏によぎった。
胸が痛くて、今すぐ走って行ってあの小さく寂しげな背中を抱きしめたい衝動に駆られる。
「……なぁ爺さん」
「なんじゃ」
「シエルに近づいてもいいか?」
「……触れられんぞ」
「分かってる。……ただ、近くにいたいんだ」
トレハースが無言で頷いたのを合図に、シエルのそばへと近づいた。
彼女は眠る男の手をそっと両手で包み、しなやかな指で手の甲を何度も何度も優しく撫でていた。
今の自分が触れたくてやまない彼女にこんなに気遣ってもらっているというのに、微動だにもしない過去の自分に対して、理不尽な苛立ちが込み上げてくる。今すぐボコボコに殴り倒して、「起きろ!!」と怒鳴りつけてやりたい。
『……キール、私の告白の返事、任務が終わったら聞いてくれるんじゃなかったの』
「!」
拳を握りしめていたキールの耳に、そんな言葉が届く。
その言葉は、ぽつりと泉に落とされた一滴の雫のように、キールの全身に波紋となって広がっていく。まるで霧が晴れていくような、頭が鮮明になっていく感覚があった。
(そうだ、俺は任務の前日シエルに告白を……!)
どんどん記憶が頭の中に流れ込んでくる。
前々から機会を伺っていたのだ。あの日は夜の巡回で、偶然二人きりになった。今しかないと思った。そう思ったら気づけば想いを口に出していたのだ。
夜空を背に、驚いた顔をするシエル。それから、呆れた顔でこちらを見るシエル。それもそうだろう、告白の返事の保留なんて、普通はされた方がするものだ。
けれど、その呆れた顔がいつもより赤い気がして、少し、いや大分期待したのだ。
……それだというのに、自分は一体彼女に何をした? どんな思いをさせた?
どうして、こんな大事なことを今まで忘れていたのだろう。
『私も、キールのこと――』
シエルが、ゆっくりと口を開く。
その時、視界がぐにゃりと歪み出した。
「――時間じゃ! 次の記憶に移るぞ!」
叫ぶトレハースの言葉とともに、目の前の光景が――シエルがどんどん遠ざかっていく。それが過去の記憶であることも忘れて、夢中でキールは彼女へと手を伸ばした。
「待て! シエル! シエル!」
「馬鹿者! あれは干渉できんと言うておろう! おそらく次で最後じゃ、備えろ!」
「クソッ……! シエル!」
叫び虚しく、シエルの姿は闇の中に消える。キールは伸ばした手を力なく下ろした。トレハースは静かな目でただそれを見つめる。
「……思い出したか」
「……ああ。多分、もう全部……」
「じゃが、娘さんの記憶はまだ終わらんぞ」
「え……」
「次で最後と言うたじゃろう、ほれ」
顎でしゃくられた方向を見た瞬間、キールはまたしても病室に立っていた。先程と全く同じ部屋だ。
「戻ってきたのか……?」
「時間が進んだのじゃ。ほれ、娘さんの格好がさっきと違うじゃろ」
確かに、シエルの格好が騎士服から私服になっている。おそらく非番の日に来てくれたのだろう。
何より、シエルの様子が先程より明るいように見えた。
『あ……! キール? 起きたの?』
柔らかいシエルの声が病室に響く。彼女の口から告げられたその言葉に、キールは驚いた。
「どういうことだ……?」
「ほー、どうやらお主が目を覚ましてから数日経った頃の記憶のようじゃな」
フサフサとした髭を触りながらトレハースが言う。
シエルに声をかけられた記憶の中のキールは、ベッドの上で少し身じろぎした。
『ゔ……』
『よかった……三日前に目を覚ましたって聞いてたんだけど、私が来た時はいつも寝てたから……』
シエルは心底安心したような様子だ。嬉しそうに笑う彼女を見ながら、キールはどこか胸騒ぎのようなものを感じていた。
(そうだ……)
この続きを、自分は知っている。
『なぁ……』
『ん? 何?』
この言葉の先を、知っている。
「――やめろっ!! 言うな!!」
『なぁ……あんた誰だ?』
『……え?』
シエルの、動きが止まる。浮かべていた笑みが固まって、そして儚く消えていく。
少し掠れた、気怠げな声で過去のキールは言葉を続ける。無知という愚かさで、目の前の大切な存在を傷つける。
『……見たことない顔だが、もしかして昔会ったりしてたか?』
『…………』
『……悪い。……俺、慣れない人の顔と名前覚えるの苦手でさ』
『……そう、ですか。こちらこそ、馴れ馴れしく、すみません』
シエルの瞳から光が消えていくのを、希望が絶望に変わる瞬間を、キールは歪んでいく視界の中で確かに見た。
「ああ……! シエル……シエル……」
「……時間じゃ。戻るぞ」
ぐにゃりと足場が歪んでいく。
それが記憶の世界によるものなのか、自分自身の目から溢れ続ける涙のせいなのか、キールにはもう分からなかった。
◇
部屋に戻ると、シエルは変わらずソファの上に横たわっていた。
暖かく小さな彼女の手を、何も言わずにキールは握った。この手に触れらることが、どれだけ尊いことなのかを痛感する。
「シエル……シエル、俺はお前をたくさん傷つけた」
懺悔でもするかのように、シエルのそばにひざまづいて俯くキールに、トレハースは静かに告げる。
「……時期に娘さんは目を覚ますじゃろう。おそらく、お主が穴に落ちた後のことは覚えていない。心に負担がかかりすぎたからな」
「…………」
「その後どうするかは、お主たち次第じゃ」
「……色々と、ありがとう。爺さん」
「……ふん、娘さんを早く安心させてやれ。……わしは奥の部屋にいるから、話終わったら呼ぶんじゃぞ」
「ちょっと力を使い過ぎたわい」と呟きながら、トレハースは奥の部屋に消えていく。
しんと静まり返った部屋の中で、ソファの上のシエルが大きく身じろぎした。
思わずキールは身を乗り出す。
「う……」
「シエル……!」
「ん……ここは……?」
「西の森の魔術師殿の家だ。シエル、辛くないか?」
「あれ? 私、どうしてここに……って、え……! どうしたのキール」
「なんだ?」
「あんた、泣いてるじゃない」
シエルは驚きながらも、指でキールの頬を優しく拭っていく。それが心地よくて、キールは目を細めた。
「……ああ、俺、また泣いてたのか」
「“泣いてたのか”って、そんな他人事みたいに……」
「そんなことより、シエル」
「ん? 何?」
「抱きしめていいか?」
「ええ? ……わっ! ちょっと!」
返事を聞く前にキールは勢いよく、シエルの腕を引いて抱き込んだ。はじめは何が何だか分からなくて、もがいていたシエルも遂には観念したのか恐る恐るキールの背に手を回した。
それから困惑したような声を上げる。
「どうしたのキール。あんた、さっきから変だよ。それに、何で私ここにいるのかいまいち分かってないんだけど」
「シエル……シエル……ごめん、シエル……」
「だから、何言って……」
「今まで辛い思いさせて、ごめん」
「……キール?」
「崖から落ちて、死にかけて、心配かけてごめん。ずっと目を覚ますの待っててくれたのに、……シエルのこと忘れてごめん」
「待って。……もしかして、記憶が戻ったの?」
「ああ、戻った。全部」
「本当に?」
「ああ」
「……本当の、本当に?」
「ああ」
「……うっ、そじゃ、ない?」
「ああ。嘘じゃない。……だから泣くな、シエル」
キールの肩に顔をうずめて、しゃくりあげるシエルの背中をもう一度強く抱きしめる。
「シエルには、笑っていてほしい。……言っただろ? シエルの笑顔を見ると安心するって」
「ば、か……私がっ、ずっと、どんな思いで……」
「シエル……俺を見捨てないでくれて、ありがとう」
「ばかっ、ほんと、ばか……私があんたのこと、見捨てるわけないでしょ……」
向かい合って額を合わせる。泣きながら見せたシエルの笑顔は、この世のどんなものよりも美しく見えた。
「……シエル。今度こそ、返事を聞かせてほしい」
「……ばか、もう言ったよ」
「知ってる。でも、もう一度ちゃんと聞きたいんだ」
「……しょうがないな」
シエルがキールの耳にそっと唇を寄せる。
「私も、キールのことが好きだよ」