幕間4 獅子の仔
今回は幕間、赤毛の子視点のお話です。
眠って……いたのかな。一日中うとうとしてるから、よくわからない。
俺は今日も、まっしろな寝台に転がってる。日がな一日、猫みたいに丸まってる。
ろくに動けないから仕方ない……
あ、大陸公報、読んでおかなきゃ。今朝、スメルニアで新しく、太陽の巫女の長が即位した記事だけ読んだけど。かの国はあいかわらずだね。即位万歳ばかり叫んで、ミカズチノタケリの敗北については、ひと言もなし。金銀きらめくすごい衣装をまとった巫女の長の姿絵が、でかでかと公報に載ってた。
スミコちゃん大丈夫かな……
あれ?
「ジェニ、どこ? お風呂いれにいったのかな。今、そういう時間?」
まぶたを開けると、水晶の伝信玉が、白い床に転がってるのが目に入ってきた。拾い上げて、電子箱に入ってる公報を呼び出して、ちらちら眺めて。すぐ飽きて。つるっとした壁を見上げれば、針で引っ掻いたような音をたてる金の振り子が、時計の針をゆっくり回してる。
ましろの壁面にはめ込まれたその時計は、俺のお気に入り。炎が燃え立つような枠に縁どられていて、中天に輝く太陽みたいで。螺鈿の板なんだろうか、虹色が波打つ文字盤が、不思議な輝きを放ってる。
そこをなにげに捉えた俺の義眼が、突然きゅるると音を立てて。
時計の文字盤の中央に焼き付けられている打銘を、視界いっぱいに拡大した。
「〈秘秘〉……なんで勝手に? あ……虫の知らせ、かな」
俺の新しい目、ずいぶん性能がいいみたいだ。
時計の黄金の針が、直角になった。文字盤の中央にある窓が開いて、中からくるくる回転する小さなウサギが現れる。
ロンド・ロンド・リム!
ロンド・ロンド・ピピ!
軽快な音が流れ出す。一緒に踊りだしたくなる、素敵な音色。
ウサギの人形は時折びょんびょん跳ねながら曲が終わるまで回り続けて、一歩足を下げてお辞儀する格好のまま、時計の中へと収納された。ぱたんと、かわいらしい小窓が閉まったそのとき。まっしろい部屋のまっしろい扉が、音もなく開いた。
「へいへいへいへい! 呼ばれて飛び出て、じゃじゃじゃじゃーん!」
予感的中。
部屋に入ってきたのは、壁よりまっしろなウサギ。時計の人形のようにぴょこりと跳ねて、俺がいる寝台に近づいて。手に持っている紙袋を、ガサガサ振りまくる。
「レヴテルニ神帝陛下の専属技師、灰色のピピでっす。ご招聘たまわり、恐悦至極! オレの奥さんが作ったニンジンクッキー、一緒に食べようぜ!」
「え?」
いらっしゃいって、言おうとして。半身を起こした俺は、盛大に首をかしげた。
「招聘? 俺、呼んでないよ? だってピピ様、今うちの帝都の時計塔に嵌める大時計作ってくれてて、すごく忙しいじゃない」
「いやその。俺が作ったあんたのその眼。昨日さ、金ぴかの護国卿が、宅配で済ませんな、ばかやろう! って、うちの工房に殴り込んできてさ。オレの両耳つかんで、あごひっつかんで、ガタガタいわせてきたの。初期不良あったらどうすんだ、確認調整しに来いって」
「え? 昨日、ジェニが……?」
そばにいろって、言ったから……ジェニは勝手に遠くへ行けない。昨日も、ずっとこの船に乗っていたはずだ。いつの間にウサギの工房に?
あ、もしかして……
寝台のわきに連なる、円いボタンを押してみる。音もなく壁の一枚がすうっと透明になって、壁の向こうにたちまち、まぶしい白雲の海が広がる。目に入ってくるそれは果てがなく、陽光を反射する雲は熱く燃えているようで、息を呑むほどの美しさだ。
新しい両目をしばたいて、空のまばゆさを散らす。まっしろな御座船の巨大な主翼が、雲海の上にあでやかに伸びている。そのすぐ隣に……
「うわ、やっぱり!」
一面ツタに覆われた、とてつもなく長いものが浮かんでる。ところどころに目玉のような真っ赤な突起がついているそれは、高い塔を横倒しにしたような形をしていて。お尻からぼすぼすと、色とりどりの煙を出してる……
「ピピ様の工房が来てる!! ジェニが無理やり呼びつけたんだ?! ご、ごめんなさいっ!」
ジェニったら、また無茶やって……!
古代の超技術を継承してる灰色衣の技師さまなんて、いまや大陸に数えるほどしかいないのに。このヒトがいなくなったら、ジェニの体調管理、いったい誰がしてくれるっていうの?
傲岸なスメルニアが、灰色の技師たちを、龍生殿っていうところにほぼ独占状態で抱え込んじゃってるんだから。かの国から引き抜くなんて、絶対無理なんだから。
「おいおい、そんな心配顔すんなって、くれないの髪燃ゆる神帝陛下」
雪玉のようにまっしろなウサギは、屈託なくひらひら手を振って、俺に紙袋を押し付けてきた。
「あんた、兵器作れなんて言わないし、経費底なしで好きなもんガンガン作らせてくれるし。ほんとにありがたい雇い主だよ。それにあぐらかいて、大丈夫だろう的思考になってたのは事実だからさ。こうして反省して、参上つかまつったの」
「忙しいのに……ありがとう」
「いいってことよ。さすがオレ、あんたの両眼はほんとに、全然まったく問題なしのようだな。でも……ちょっとなにそれ、あんたの魂。かなりやばくね? がっつりヒビ入ってない?」
きゅりきゅり、ウサギの真っ赤な瞳が奇妙な音をたてる。瞳孔が急激に広がったり萎んだり、激しい動きを見せている。この技師の片目も、俺の目と同じく多機能な義眼だ。
ウサギの赤い瞳に映る俺の顔はすごくやせ細ってて、頼りないこと極まりない。この上なく具合が悪そうだ。俺は力なく笑って、強がってみせた。
「そうだね。霊位も魔力も洒落にならないぐらい低下してる。でも、韻律や遠見は変わらず使えるよ。帰国しちゃったスミコちゃんは視えないけど、これは、俺が弱くなったせいじゃない。スメルニアの〈大長城〉がいつも通り、馬鹿みたいに強固な結界を展開してるせいだ」
「なるほどな。金獅子のご機嫌が、大陸かち割りそうなぐらい最悪な理由が分かったわ。あいつぎゃんぎゃんすごい剣幕で、方々に伝信で怒鳴りつけながら、光の柱に送り込む軍隊を集めてるぜ」
「うん……相方がこんな体たらくじゃ、イライラしちゃうよね」
「え、あ、いや、あの勘気はそういう意味のじゃなくて――」
「あの光の柱、すごくおいしそうだって……ジェニ言ってたよ」
えっ、食べる気なのかよと、ウサギはみるまに顔をひきつらせた。
「ま、まあ理論的には、不可能じゃない……のか。あれ、神獣だもんな」
「うん……」
神獣の戦いは常にそうなる。ジェニ曰く、食うか食われるかしか、ないんだそうだ。
俺も目の中に入れてた黒獅子を放して、厄介な人を食ってもらった。もしかして消化できなくて吐いちゃうかもしれないけど、それで命拾いしている。
「かわいそうにあの光の塔は、白鷹家の制御から完全に外れてる。飼い主がいないから、暴走しちゃってるんだよな。神獣って、制御を受けないとあんなことになるんだよ」
「制御……」
「しかしなぁ。あのタケリですら食えなかったのに。あれを食おうと思うなんて、さすが、大陸で五本の指に入る大神級の神獣だわ。でもさ。万が一あれの消化吸収に成功しちゃったら、金獅子は……規格外のものになっちゃうんじゃない?」
ウサギがしかめっ面でそう言ってくる。うんそうだよね。俺もそう思うよ。
でもたぶん……
たぶん……
「ジェニは……神獣以上のものになりたがってるんじゃない? 塔を食らって力を得て。俺との契約を解消して。きっと、自由になりたいんだ……」
「は? 契約解消? あはは、ないない、それだけはないわ。あいつ、あんたのことめちゃくちゃ気に入ってるじゃん」
「そんなことない……だって最近は、ろくにしゃべってくれないし。お仕置きだって、甘噛みだけで済んじゃったし……」
「おしおき……??」
ウサギの瞳の中の俺が震える。今にも倒れそうに頼りないそいつは……
消え入りそうなか細い声で、囁いた。
「ピピ様、あのね……俺、神獣の飼い主として……ジェニに、制御かけちゃった……そばにいろって、命令しちゃった……だからきっと、ジェニは俺のこと……」
したくなかったのに。
したくなかったのに。
制御、なんか。
「俺のこと……き、嫌いになったと、思う……」
「……は? 命令……しちゃった?」
ウサギはしばらく、硬直していた。なぜかしばし、彼岸の彼方に魂をすっこ抜かれていったような顔をしてたけど。突然ハッと我に返ってぱくぱく、口を開け閉めした。
奇妙な音をたてるその瞳に、同じようにまっ赤な目をした俺の姿が、映り込む。口元も、ぎゅっと紙袋を抱きしめる両の手も、ぶるぶる小刻みに震えてて。ひどく無様な有様だ……
「え? ちょっと待って? それ、いつのこと?」
「つい最近……一か月半ぐらい前に……やっちゃっ……た……」
したくなかったのに。
制御なんて。
そんな、最低なこと。
「や、やっちゃったって……え?! な、何言ってんの赤毛くん? 命令するのは、神獣の飼い主として、しごく当然のことだよ?? ていうか、制御は、飼い主の義務だよ!?」
ウサギが、信じられないって顔で俺にがぶり寄ってくる。真っ赤な目を、まん丸にして。
「え、なにその情けない顔、ちょ、ちょっと待って? いにしえの昔、神獣を造り出した灰色の技師の末裔として、確認させてもらうけど……あ、あんたもしかして、あの〈聖炎の金獅子〉を、それまで一度も、制御したことなかったの?! あっという間にこの星焼き尽くせる大神獣を、契約して以来、約八十年間、ただの一度も?!」
唇をきつく噛みしめて。俺はこくんとうなずいた。
「嘘だろ?! そんなの、マジありえないって! も、もしかして片目に封じてた〈闇炎の黒獅子〉も、単に解放しただけ?! 制御したこと、無し?! 赤毛くん、あんた一体何者なの?!」
「俺、ジェニを神獣として扱った。唯一人の伴侶としてじゃなくて。ヒトが扱う、モノとして……」
「あ、ちょ、ちょちょちょちょっと、泣かないでーっ?!」
ウサギがおろおろ取り乱して、飛びついてくる。ぼろっと涙がこぼれ落ちる俺の頬をびたびた、叩いてくる。俺は泣き声を殺しながら、まっしろなウサギをきつく抱きしめた。
「ぴ、ピピ様が作ってくれた卵……も、もう、成長できないかも。ジェニが協力してくれなかったら、とても……」
「それこそあいつに命令しろよ! 制御使えば一発じゃんかっ」
「やだ……! そんなの、ほんとの伴侶じゃない!」
「あ、赤毛くん……」
そばにいろって、命じたから……金の獅子はまだ、俺の保護者でいてくれている。
毎日、香り良い秘薬を湯に入れて、薔薇の花もたっぷり入れて。手ずから抱いてくれて、赤子を沐浴させるように薬湯に漬けてくれる。その薬効と獅子の神気によって、俺の体は老いることなく、十代の姿形を保てている。でもどこもかしこも、ガタが来てる。魂の傷が治るまでは、たぶんもたないだろう。
俺の魔力が今よりもっと低下したら。ジェニが今よりもっと、強くなったら……
「塔を食べたらきっと、ジェニは俺のこと忘れて、どっかにいっちゃう……」
「た、たしかに、捕食反動で忘却の可能性は……いやいやいやいや! だだだ、大丈夫だよ、ききききっと!」
ウサギが俺の胸の中に、もふもふの頭を埋めてきた。慰めるように優しく顔をすりつけてくる。
「あ、赤毛くん、伴侶がそんなに大事なら、それこそしっかり、手綱を握ってやらないといけないぜ? 神獣ってのはほんとに、飼い主がいないとダメなんだよ」
「でも……」
「そんなに自分を責めるなって。ごくごく普通の夫婦だって、相方が道を踏み外しかけたら、命がけではったおすもんなんだから。あんた、悩みに悩んだんだろ? それが最善だと、その賢い頭で計算して、そうしたんだろ?」
「…………したくなかったけど……そうするしか、なかった……」
「じゃあそれでいい。獅子のためを思って、出した答えなんだから。それ以外の方法なんて、なかったんだよ」
喉の奥から、泣き声が消えていく。不思議なことに、かつて飼っていたウサギのぬくもりが、腕の中に蘇ってくる。
俺がウサギ好きだからって、ジェニは人じゃなくてこのウサギを雇ってくれたけど。それって、大正解だって、いつも思う。
「まあとにかく。あんたのためにも世のためにも、金獅子には、光の柱を食わせない方がいいよ」
「そう、だよね……そんなことになったら、スメルニアが黙ってないし……」
「そうそう、万が一金獅子が変なモノになったら、あの魑魅魍魎の国が黙ってないぞ。災厄のどさくさにまぎれて、自国の帝を消しちゃったようにさ、あんたの保護者も一瞬で消し炭にしようとするんじゃない?」
ああ……あの「消去事件」は、えぐいなんてものじゃなかった。
半世紀前。星を落としてくる災厄を消そうと、「龍蝶の王」の力をもつ者が、名乗りをあげた。
世を救うべく立ったのは、白の癒やし手レクリアル。それからもう一人、時のスメルニアの皇帝が強引に、朕も行くと、自前の星船を繰り出して、レクリアルを乗せた星船についていった。
だがおそらくそれは、かの国の誰かの意志に反したんだろう。
スメルニアの帝は宇宙に繰り出すなり、星船ごと、かの国の、得体のしれない神獣によって消された。
あとかたもなく――
「あの帝国の真の支配者が誰なのか……推測はたててるけど、いまだもって断定できない……」
「俺にもわかんないわ。嘘つき大国だもんなぁ」
ウサギが肩をすくめる。
帝の暗殺の直後。スメルニアの月神殿はいけしゃあしゃあと、『これが正しい歴史です』っていうトンデモ本を、大陸全土にばらまいた。
当時大陸諸国は、それに突っ込むどころじゃなかった。レクリアルが我が身を犠牲にするまでにどこも少なからず被害を受けていて、復興事業に追われていた。それに歴史を書き換えるのは、はるかな昔から、あの国の常套だ。ゆえに大陸諸国のお偉方は、「ああまたか」と、冷めた目でちらちら見てみぬふりするという、いつもの対応で済ませた。
「ピピ様。俺の知る限りあの国は、王朝開闢以来少なくとも五回は、皇帝を自分の手で殺してるよ」
「うへえ。赤毛くんって、勉強熱心だね」
スメルニア。なにも見えない、恐ろしい国。
これまで打ってきて返ってきた手はみんな姑息で、ずいぶんと慎重で、老獪きわまりなかった。
かなりの年寄りで、超陰湿。そんな性格の奴と、チェスをしているように感じる。
でも、隙がなさそうなのに、時々ボケたことをしてくる。これは計算した上で、わざとそうしている気がする。人間のように見せかけようとしている感じだ。
これまで幾度となく足元をすくってきたり、煮え湯を飲ませたり、かなり痛めつけてきたはずなのに。それでもあいつは、まったく動じない。完膚なきまでに負かすのは、容易じゃない……
「ジェニを抑えたい。俺が捨てられるのはともかく……スメルニアを、刺激したくない」
「制御しろって」
「やだ。もう二度と、やらない。絶対に、死んでもやらない。一度だって、しちゃいけなかったんだ」
「いやだから。神獣ってのは、飼い主がぎっちり、制御しないといけないもんなの」
だってジェニと俺は、そういう関係じゃなかったんだもの。神獣とその主人じゃなくて。そういうんじゃなくて……
「ああああ! ななな泣くなよ!」
「ご、ごめ……あの、この案件……ピピ様に、お願いして……いい?」
「おっと。そうきますか神帝陛下」
ウサギはわかったいいぜ任せろと、小さな胸をどんと叩いて。湿った鼻をすすり上げる俺の膝の上に、ころんと寝転がった。
「えっと、金獅子が柱に近づけなくなるようなのを、オレが早急に、ちょちょいと造ればいいよな」
「うん……ジェニを止めて。あの光の塔を食べられないようにして。ていうか、ピピ様があの塔をなんとかして。魔導帝国の名のもとに」
「御意。勅命、しかと承った。じゃあ、冬季の賞与は三倍増しね」
「え、三倍?」
「いいだろー?」
ウサギは偉そうに足を組んでガサゴソボリボリ。鼻をすすり上げる俺から紙袋をひったくり、橙色のクッキーを出してほおばった。
レンディールで何千という人に配った、「ピピウサギとゆかいな仲間たち」のお面とか。
ジェニがいきなり注文した、銀時計とか。
スミコちゃんの舞姿をこっそり記録できるオペラグラスとか。
みんなオレが徹夜して作ってやったじゃないかと、ウサギは自慢げにうそぶいて。「便利な道具」の構造について、詳しく説明し始めた。普通の人には分からないような、数式と専門用語満載のそれを、俺は興味津々、一所懸命聞いた。ほんとに三倍ぽっちの増額でいいのかって、確かめながら。
「いいよぉ。俺、赤毛くんには大サービスしちゃう。あんたうちの工房で生まれる赤毛っ子たちと同じ遺伝子の体を持ってるからさ。他人のような気がしないの」
「有機人形……」
「おっと? そんな呼び方したら、まじで怒るぜ? あんたかつてそう呼ばれて、人に売買されたことあるんだろうけど。あんたは、俺のとこから盗まれた赤毛っ子の〈卵〉をベースにして生まれてる。あの子たちと全然変わりないんだから、妖精って言いなさい」
「妖精……」
ほんとに、そういうものだったらよかったのに。
寿命がなくて。永遠に、ジェニのそばにいられるようなものだったら……
「あれ? ジェニ……?」
突然ごうごう、すさまじい唸り声が白い壁を揺らしてきた。ウサギがびくりとわなないて、長い耳をそばだてる。誰に見られているわけでもないのに、嫌な悪寒でも走ったのか、白くて柔らかい技師様は、俺の膝からそろっと降りた。
「うわ、やべえ。船揺れてるぞ。なんであんたの大将怒ってるの?」
「招集かけてる同盟軍の集まりが悪いとか……かな」
「お? もしかしてあんた、なんだかんだ悩みつつ、根回し手回しやった? 軍隊、集まりにくくした?」
「うん。遅延工作、こそっとやった」
「時間稼ぎしてくれたってわけか。さすがだなぁ」
それから間もなく俺たちのもとに、金の獅子たる人がやってきた。
怒れる鬼神というか、今にも太陽や月を破壊しそうな顔つきで。
工作したのばれたかなって、俺はぎゅっと目をつぶって身構えた。でもジェニは、つかつか足音をたてて寝台に近づくと。ウサギのまっしろい首根っこをつかんで、彼を睨みつけた。
「くそウサギ。俺の子の眼の調整は、終わったのか?」
「はいい、全く問題ございません。視力調節に暗視、魔力計測ほかもろもろの便利機能、護国卿閣下を超絶かっこよく映す隠しアプリにいたるまで、すべて稼働良好でっす」
「そうか。ならば。廊下に伸びているおまえの師匠を回収して、とっとと出ていけ!」
「……は?! ししょー?!」
「薬湯を湯舟にはっていたら、超むさい髭ぼうぼうの男がいきなり入ってきて……いい匂いだなんだとはしゃぎ倒して、衣を脱ぎ始めやがった……!」
「ええええ?!」
うわ。ピピ様の師匠って、すごい人だってのは、聞いてたけど……?!
哀れにも、ウサギはジェニにあごをつかまれて。ぐわんぐわん激しく揺さぶられて。めいっぱい怒鳴られた。
「日帰り温泉最高♪だと?! ふざけるな! おまえ、あいつに一体どういう躾をしている!!」
「すすすすみまひぇん! ししし師匠はもうマジぼけてて……! ご招聘くだひゃったの、ご招待してくだひゃったんだと、勘違いしちゃったんじゃ、ない、ひゃと……! ていうかなんで、弟子の俺が、師匠の躾しなくちゃいけな――」
「黙れ!! 俺に汚いものを見せるな! くそウサギ!!」
「ぴぎゃー!!」
「ジェニやめて! ピピ様っ!」
止めに入るも、間に合わず。ウサギは開いた扉の向こうに投げ捨てられた。
ジェニは俺をかっさらうように抱き上げた。討ち死にした老兵のごとく床に突っ伏すウサギの頭を、げしりと踏みつけながら、ずかずか廊下を歩いていく。
浴室へ連れてくつもりなんだろうけど、すごい仏頂面だ。
きっとまた、ひと言もしゃべらないんだ。黙って抱きしめてくるだけで。ジェニは俺とはもう、まともに話してくれな……
「へ、へへっ、し、心配するな赤毛くん」
力尽きたウサギが、よろっと顔をあげて。にっこり微笑んできた。
「大丈夫だよ。大将はあんたのこと、すごく大事に思ってる。だって、今度のあんたの誕生日に、俺にすごいもんを注――」
「黙れウサギ! 余計なことを言うな!!」
え。誕……?
ジェニが足早に廊下を進む。ひらひら手を振るウサギから、逃れるように。
「ジェニあの――」
「……」
「ピピ様に、何頼んだの?」
「……」
「……やだ教えて……おねが――」
「制御で聞き出すか、ひと月待つか。どちらか選べ」
「制御なんてしない!! そんなの、もう絶対……!!」
叫んだ声がかすれて、ひゅうひゅうあたりに散った。肝心なこと言うときに声が枯れるとか。情けないにもほどがある。
金の髪が揺れる首に、両腕を回してしがみついたら。ジェニは俺の頭をぽんぽんと叩いて、ぶっきらぼうに囁いた。
「では、ひと月待っていろ」
「うん……待つ。俺待つよ。一か月だって、一年だって」
「……いい子だ」
獅子が背中に爪を立ててくる。俺は弱弱しい腕で、怒ってる人を抱きしめ返した。
あと一年生きるなんて。きっと無理だと思いながら。
……。
遺言……どうしようか。
もし、獅子を御しきれなくなったら。
俺は誰かに獅子を託さないと、いけないんだろう。
神獣は、人に飼われなければならないんだから。
でも、誰に託せばいいんだろう?
誰にもやりたくない人を、一体誰に……
わからない。
こんなこと考えたくない。今はまだ。あと、もう少しの間だけ。
考えたく、ない――
この世に、神さまなんていないのに。
俺は密かに天に願った。
揺れる黄金の髪を映す視界をぎゅっとまぶたで潰して、俺は切に願った。
せめて死ぬまでは。
どうか獅子が、俺のそばに、いてくれますようにと。