18話 書庫
『賢君の誉れ高き陽成帝の治世においては、天照らし様の加護の大いなること、かつての天子の比にあらず。その加護はすめら百州に津々浦々広がりて、疫病の類は一切なく、穀物の実りもまた、大豊作が打ち続き……』
陽家のミン姫が、隣の部屋で史書を朗読している。クナの部屋と隔てるものは、さほど分厚くない木の壁一枚。聞こうと思えば、なんでも聞こえてしまう厚さだ。
千早を脱いだり、床台を敷いたりする気配も。灯り球に火を灯す、かちかちという音も。ちょっと気をつければ、容易に耳に入ってくる。
代々、太陽の大神官を務めてきた陽家の姫は、とても勉強熱心だ。日がな一日巫女たちは修行をするけれど、それでも飽き足らぬと言いたげに、毎晩、夜が更けるまで本を読んでいる。
「またよんでる」
読み物が好きな影の子は、はじめ興味津々で、隣の部屋で読み上げられるものに耳をそばだてていた。アオビに叱咤されて使用人部屋に連れていかれるまで、粘りに粘る。だが幾日もたたぬうち、彼は姫に対抗心を持つに至ったらしい。
「わ、くろすけさん? またこんなにいっぱい巻物を……」
「おもしろそうなの、さがしてきた。よんでやる」
影の子は毎日、神殿の書庫からどっさり巻物を借りてきて、クナに読んで聞かせるようになったのだった。書庫にはすめら語だけでなく、共通語でしたためられたものもかなりあるらしい。
たぶんに、なにかを読みたいという一心であっただけ。それでも、できるかぎり頭に知識を詰め込まなくてはならなくなったクナにとっては、大いなる助けとなっていた。
「やっぱり、歴史の本はぜんぶ、書きかえられてるのね。ミンさまが読んでらっしゃる本にも、龍蝶の帝のことは出てこない……」
「そうみたいだな。こんやは、どのまきものにする? れきしか? てんもんがくか? それともいじんでん?」
「歴史で、おねがいします」
「おまえ、そればっかりだ」
「もしかして、ぽろっとどこかに、龍蝶の帝や大姫さまのことがのってないかと思って」
「ないとおもうぞ? ここのしょこ、すめらでつくったほんしかない」
クナは正座して、ぐっと唇を噛んで気合を入れた。こわい顔だと影の子が笑うも、その表情を崩さぬまま、じっと耳を澄ます。
なにもかも、覚えなければならない。巫女の技だけでなく、ありとあらゆる知識を。
『ほう、決めたのか。では、これから死に物狂いで勉強するがよいぞ。おのれの力不足を補うは、知であるからの』
母のごとき鏡が、そう教えてくれたから。
『それとわかっておるじゃろうが、くれぐれも、妾がそなたに話したことは、広めぬようにの。なんの権威もなく、証拠をつかまぬうちに騒ぎ立てれば、頭がおかしゅうなったと思われる。それだけならばまだよいが、たぶんに元老院あたりから、刺客の類が放たれて来るかもしれぬ。用心するのじゃぞ?』
『はい……』
すべてを知るには挑戦し、昇りつめなければならない――
『では、申し込みを、してまいります!』
一の月の八日。御所と同じく任官位が告示された日に、クナは、巫女王の選抜戦への出場を決めたのだった。
「たいようのしんかんぞくの、なだかき、ごさんけのれきし」
ひび割れた声が、一度もつっかえることなく、太陽の御三家の系譜を読み上げる。
この耳障りな声が突然、黒髪様の美声に変る――
あの奇跡から幾日も経ったが、奇跡再びは残念ながら起こっていない。黒髪様なのかと必死に影の子に問うた夜、答えとして返ってきたのは、どことなくいびつないびきだった。
影の子はなぜか深い眠りに落ちてしまって、いくら揺さぶっても朝まで起きてくれなかった。まるで一服薬でも盛られたかのような昏睡であったので、ひどく心配したのだが。翌朝彼はまったく何事もなかったかのように、元気に目を覚ました。
『君なら、なれる。どうか、なってほしい』
あの言葉は、夢まぼろし?
いや。決して、聞き間違いではない――
母の素性。すめらの歴史の謎。鏡から提示されたものは、たしかにクナの心を引いたけれど。クナの意志を固めたのは、あのひとこと。黒髪様の、美しい声だった。
聞いた瞬間、クナの心は大きく揺れた。しかしどうするかきっぱり決めてしまうと、あたかも魔法の力で呪いを解かれたおとぎ話の姫のように、不思議な安心感と幸せに満たされたのだった。
(黒髪さま……あなたが望んでくれるなら。信じてくれるなら。あたしは、巫女王になりたい……!)
かくて来月一日の選抜の儀まで、クナは名乗りをあげた他の巫女たちと同じように、学問と技の鍛錬を始めた。
他薦自薦どちらでもよし。二十臘以上。または従巫女を経験した者。龍蝶は参加するべからず、という規定はなかったので、クナの申し込みはいちおう、受理されたのだ。しかし――
「従巫女だったとはいえ、あなたまだ臘が全然ですものね? 無理ですわよこれ。ほんと無理。龍蝶だっていう以前に、神霊力的に、全然無理!」
「リアン様同様、私もそう思いますが。手加減はいたしませんので、そのおつもりで」
「は、はい、リアンさま、ミンさま。手合わせのときには、よろしくお願いします!」
御三家の姫たちは舞の技こそ一歩クナに譲るものの、それ以外では決して負けぬと豪語してきた。
二人の言う通り、クナの取り柄は舞だけだ。歌も奏楽も祝詞の詠唱も、そして学識も、なんとか卒なくできる程度。臘の重ねが少ないゆえに、底が浅い。
ひと月あるかなしの間に、不自由な体は完全に回復するだろう。だが、姫たちをまともに相手にできるほどの技力を得るのは、到底無理なことのように思えた。
しかも。本当なら毎日一心不乱に朝から晩まで修行に打ち込むべきこのときに、北五州の光の柱が、しばしばクナの集中を削いできた。
『多国籍軍、一時撤退』
『塔の高さ、三千キュビドに』
日々、東からもたらされる公報は、柱がますます巨大で堅固なものになったことを伝えてきた。
もはや一個の生き物とは思えぬ構造をなし、はたからみるとあたかも、城塞のようであるという。
塔の頂にはアオビを巨大化したような大鬼火が燃え上がっており、それがぎょろぎょろとあたりを監視するかのように周囲を見渡しているそうだ。
大鬼火のふもとには玉座のごとき玉が据えられ、それがすっぽり、塔の頂を隠しているらしい。
ユーグ州に散った狂暴な鬼火たちは、ユーグの州軍や多国籍軍にあらかた掃討されたものの、塔の周りではまだ増殖生成され続けていて、彼らはいまや、塔を守る衛兵となっている。
塔はまだまだ、成長を止める気配がない。
下火になったとはいえ鬼火たちはいまだ根絶されておらず、ぽろぽろ被害者が出ている。屠った者の御霊はふらふらと塔へ導かれ、吸収されていく。それがゆえに、以前ほどの爆発的な成長は見られなくなったものの、塔はいまだに少しずつ、天へ向かって伸びているのだった。
『ふう。やっとタケリさまが投入されるぞ』
一の月の半ばをすぎたとき、鏡姫がそんな情報をもと従巫女たちに教えてくれた。
『元老院の内部でのすったもんだが、ひどすぎるわ。議会の様子を読めるのじゃが、色違いの相手の悪口ばかり言うておって、ちっとも肝心の議題が進まぬ。しかもタケリさまは、今すぐ帰国したいとだだをこねておったそうでの』
「遠征で、お疲れになったとか?」
『いや。制御の鍵をもつ龍の巫女王が、無理無理聞き出したところによると。しろがねが、すめらに帰ってしまったからだそうじゃ』
「え……?」
『どういうわけだか、タケリさまには、しろがねの居所がわかるようじゃわ。遠征軍に投入されたとき、どえらくやる気になったというのも、しろがねが北五州にいたゆえらしくてのう……まったく、困ったものじゃ』
神獣を戦地に投入するには、大陸同盟の承認が要るらしい。手続きが大変に質めんどくさいので、元老院はタケリさまに神気を隠す皮をかぶせて、普通の龍として遠征軍に加え、最後の切り札としたのだそうだ。その隠蔽投入のおかげで、すめらの遠征軍はみごと戦果を挙げられたのだという。
『まあそんなわけで。しろがね、そなた近々、大神官どのに呼ばれるぞ』
鏡に予告された通り、その晩クナは第一位の大神官の部屋に呼ばれた。
陽家の当主にしてミン姫の父君であるその方は、半ば困惑した声音で、クナに声と姿を幻像玉に入れこむよう命じてきた。
「タケリさまが、ご所望であられるらしい。龍の大姫どのは制御の鍵を使われたが、それでも帰国の意志は消えずであるそうだ。ゆえに大姫どのはそなたの幻像を送るからそれで我慢せよと、タケリさまを説得なさったらしい」
当惑しつつもクナが、渡された玉に「どうかがんばってください」と言葉を吹き込むと。大神官は重苦しくため息をついてぶつぶつぐちた。
「龍蝶にまどわされた神獣とは……まったく厄介なものだ。タケリさまもいずれ、黒龍さまと同じことになろうぞ……」
(黒龍さま?)
クナは聞き返さなかった。大神官の声は口の中で囁かれたもので、たぶん普通に聞けば聞き取れないものだと気づいたからだった。
(黒龍さまって……なに?)
クナに疑問を与えた大神官は、こんどははっきりとした声で、ミン姫のことを頼むと朗らかに言ってきた。
「あれはそなたを気に入っているようだ。飼い主となればきっと、悪いようにはしないだろう。だから安心して、我が娘に力添えするといい」
たしかにミン姫は、次代の最有力と言っても過言ではない。たぶんまともに手合わせすれば、勝てないだろう。
「あの。公演中に、お菓子をたくさんいただきまして、ありがとうございました」
クナはそう礼を言って頭を下げ、大神官のもとを辞した。
数日後、すめらが大々的に大陸公報を出した。ミカヅチノタケリの使用が大陸同盟に承認されて、光の柱を破壊するために投入されること、それは必ず成功するであろうことが、勇ましい文体で報じられていた。
破壊という言葉にクナは不穏なものを覚えたけれど。九十九の方を塔の中から救い出すには、もはやその手段しかないのだということは、うすうす感じ取っていた。
「幻像玉が効いたようですな。しろがねどの、あなたはなかなかに、役立つ人なのかもしれませぬが……」
公報のことを考えつつ、廊下を掃除し始めたとき。クナは第二位の大神官に声をかけられた。尚家の当主にして、リアン姫の叔父君だ。
「神獣が龍蝶に操られるとは、なんとも情けない。龍の大姫どのは何をしておるのやら。もっときつく制御すればよいものを」
「制御……」
「でないと黒龍さまのようになりますぞ」
(あ、また……!)
クナはまた聞き返せなかった。黒龍さまのようになる。その言葉だけ、二位の大神官は口の中でもごもご、誰にも聴き取れぬようにしゃべったからだった。
(その御方は龍なの? それとも……)
クナは大神官がもっと何か語ってくれないか期待しながら考えた。
(それとも……タケリさまと同じような、神獣なの?)
「まあともかく、姪は今度こそとはりきっているのでな。くれぐれも、足を引っ張らないでほしいのだよ、しろがねどの。姪には金獅子州公家の公子妃になる道もあるのだが、一族の繁栄をかんがみれば、大姫になる方が大変よろしいのでね」
(黒龍さま。その人のことは? もう喋らない?)
「姪は君のことを気に入っているようだから、決して悪いようにはしまい。だから安心して、協力してやってくれ」
これ以上は聞き出せないような雰囲気だったので、クナは深々と頭を下げて廊下を拭き、大神官から離れた。そしてさっそくその晩、本を読みに来た影の子に聞いてみた。
「こくりゅう? なんだそれ」
「言葉にはしなかったの。でも、記憶を掘り起こす感じというか、何か思い出しているような感じで、そう言ってて……」
「そいつは、しんじゅう?」
「わからないわ。でも、書物や記録に何か残ってないかしら」
じゃあ神獣について書かれた本を読んでみようと、影の子はするっと書庫に走って、またぞろ大量の巻物を抱えてきた。
「これ、みんなしんじゅうのはなしのほん」
「どそどそって、すごい音ね。どれだけあるの?」
「とりあえず二十巻。まだまだあった」
歴史の本は飽きていたのだろう、影の子は嬉しそうに神獣の本に手をつけた。
「いにしえのむかし、しんじゅうは、はいいろのころものぎしたちによって、つくられました。いちばんはじめにつくられたのは、ろくよくのじょおうとよばれる、おおきなとりのしんじゅうでした……」
まるでおとぎ話のような話を、クナは正座しながら一所懸命聞いた。
はるかな昔。大陸が統一されるまで、あまたの国が神獣を駆使して、戦ったこと。
所有者たる国や王家は代々、制御の鍵でもって、神獣を従わせてきたこと。
灰色の衣の技師たちは、人々に求められるまま、何体も神獣を作ったこと……
「さいせいきには、ごひゃくをこえるしんじゅうがいました。かれらはたいりくのはけんをあらそうために、たたかわされました……」
影の子はたくさんの神獣の名前を読み上げた。その中には、金の獅子や白鷹さまの名もあった。
とくに北五州の神獣たちは、タケリさまと同じぐらい、古くて強いものらしい。
しかし北五州は五つあるはずなのに、紹介された神獣は四体しかいなかった。
「あら……? どうして? まって、ええとユーグ州は白き鷹のアリョルビエール、センタ州は金の獅子のレヴツラータ、ヴォストーク州は蒼鹿のアリン、ザパド州は、赤豹のレオパルド……セーヴル州だけ、神獣をもってなかったの? それとも、州自体が、当時まだなかったの? あ、でも、あの州の州公家ってたしか……」
クナは自分が公演したところを次々思い出して、ハッと気づいた。
「黒龍家。そうよ、セーヴル州の州公家って、たしかそういう名前だったわ。ドラ……ドラク……ああ、共通語でなんて言うんだったかしら。でもすめらの言葉では、黒龍の州公さまって呼んでたわ」
「あ、そのしゅうのことはかいてある。いちばんうしろのたいりくちずに、のってるぞ。でも、しんじゅうのことは、かいてない。それにこのほん、とてもあたらしい」
「え?」
これも。これも。ああこれもと、影の子は何かにとりつかれたように急いで巻物を確認し始めた。手にとってはしゅるっと開いて、年月日をつぶやき、次々閉じていく。
「あまいやつ。ここにあるほん、どれもふるくない。はなうりがふるほんやでかったおれのほん、ひゃくねんまえのとかあったのに。ここのは、よねんとかごねんとか……ふるくても、にじゅうねんまえぐらいのしかないぞ。もしかしたら……」
「くろすけさん?!」
影の子はクナの手を引っ張り、神殿の書庫へと連れていった。大祭壇のごく近く、ほぼ脇にあるそこは広々とした板間で、手で探ると、びっしり巻物が積み上げられた棚が嵌まっていた。
「すごくいっぱいあるけど……え? くろすけさんまって、なんでいきなり、巻物を落としてるの?」
「たしかめてる。かかれたとし。いそいでるから、おちる」
ぽいぽいころころ、がさがさごろごろ。影の子はえんえんと巻物を検分し始めた。
クナは慌てて、床に落とされた巻物をかき集めた。かび臭いような気もするが、ずいぶんきつくお香が焚きしめられていて、紙の古さはどの程度なのか、よくわからない。
「はなうりがいってた。イチコも、いってた。としょかんっていうところには、なんびゃくねんもまえのほんがたくさんあるって。でもここのはやっぱり、ふるくない。いちばんふるいのは、よんじゅうねんまえのがひとまき……これよりふるいのは……くそ、ひとばんじゃしらべきれない」
めらめら燃えるアオビが自分を探している気配を察して、影の子は悔しそうに巻物を棚に押し込んだ。
就寝時間をはるかに過ぎているのに、クナの部屋に二人ともいないのを、鬼火は心配したらしい。
明日また来ましょうと、クナは影の子をなだめて、アオビに彼を引き渡した。
「ちょっとくろすけさん! いくらご主人様を内蔵してるからって、時間を守らないのはだめですー!」
もうひとりのアオビに部屋まで送ってもらったクナは、床に入りながらふつふつ、影の子が何を知ろうとしていたのか考えた。
(本が書かれた年……とても古いものがない……それって……)
文字が書かれたものなど、今の今まで気にかけたことなどなかったのだけれど。
(昔の本は、処分されたってことなの?)
翌朝、影の子はクナが起きだす前に書庫に入り、一日そこに入り浸っていた。
禊や祝詞の詠唱、神楽や舞の稽古。クナはやきもきしながら、なんとか一日の務めをこなした。
やっと暇を見つけて様子をうかがいにいくと、影の子はアオビに怒られながらも調べ物を続けていた。
「ああもう、こんなに散らかして。いけませんです! ああもう!」
「うるさい、ひょろひょろ。はんぶんいった、あとはんぶんだ」
「あの、アオビさん、あたしも片づけ手伝いますから」
「とんでもありません、ワタクシあと三人ほど、ワタクシを呼んできますのでっ」
ということで、影の子が巻物を放り出すそばから拾い上げる鬼火たち、という一団は、その日と次の日いっぱいかけて、書庫の「煤はらい」をした。蔵書を点検するのは使用人の仕事であるので、影の子の行動は鬼火たちにとってはまあまあ、許容できるものであったらしい。文句をたらたら垂らしつつも、最後の方では調子よく影の子に巻物を手渡す係ができていた。
「やっぱりない。とてもふるいのは、そんざいしない」
そうして出した結論は、クナの予想とほぼほぼ同じ。やはり歴史は書き換えられているのだと、確信したくなるようなものだった。
「せいかくには。ごじゅうねんよりふるいものは、ない。さいやくがおこるまえのものは」
(やっぱり、処分してしまったんだわ。古いものは、ひとつ残らず……)
「こくりゅうさまもとりあえず、ざっとさがしたけど。みあたらなかった」
黒龍さま。
それが重大な鍵というか、閉じられた扉を開くための大事な呪文のような気がして。
クナは何度も、頭の中でそれを唱えた。
(黒龍さま。黒龍さま。黒龍さま……あなたはいったい、だれなんですか?)