17話 まことのすめら
「無理ですそんな……!」
鏡の言葉を聞いたとたん、クナはびっくりして叫んだ。
「あたしは龍蝶です。すめらでは、人に飼われるもの。マユの糸をとられて、殺されるもの。このすめらでは、人間ではないもの……です!」
龍蝶とはどういうものか。
山奥の村から出てそれを知ると同時に、今までずいぶん、大変な目に遭ってきた。
家族として匿ってくれ、優しくしてくれる人たちがいる一方で、情け容赦なく家畜として扱ってきた者たちがいた。糸を取られる哀れなるものだと、憐憫の情を垂れる者たちもいた……。
クナがきゅっと唇を噛むと。ふつふつ雑音を紡ぐ鏡は、クナの言葉をもっともじゃと肯定してきた。
『そうじゃのう。たしかにそれは、残念ながらまことのことじゃ。今のすめらにおいて、龍蝶は〈人〉ではない。龍蝶を知るすめらの者だけではなく、そなた自身も、妾たちから教えられ、敵に虐げられ、そう思い込んでしまった。何人たりとも、うかつに入ってこれぬ安全圏、妾がいる太陽神殿に戻ってきたというのに、髪を黒く染めたままでいるほどにな』
「あたしは本当なら、人の目にはふれてはいけないのでしょう? だから……」
髪の染め粉を洗い流さないまま、クナは年を越した。由々しき事態の連続で、自分のことにかまける余裕など、もとよりなかったのだけれど。
「白い髪に、もどさないほうがいい……そう感じました。みなさんの目ざわりになると、思ったんです」
『ほう?』
帝都太陽神殿の者たちはみな、クナが後宮に捧げられた龍蝶であることを知っている。
前の大姫が勝利に酔って意気揚々と、贅を凝らしてクナを「輿入れ」させてから、まだ一年と経っていない。きらびやかな牛車で送り出した娘が、ほかの龍蝶の繭の中に閉じ込められ、かろうじて百臘の方に救われたということは、まだみなの記憶に新しい。
かわいそうな、出戻り娘。
帝都太陽神殿の者たちのクナへの認識はなべて、そんな同情的なものだ。あわれと思いこそすれ、厭う者はおそらくいないだろう。
とはいえ、クナは公けにされるべき存在ではない。
生き永らえた龍蝶が大姫の従巫女となれたのは、「権力ある飼い主」の思し召しであったからだ。普通ならば、クナは巫女として在籍できるかどうかもあやしい身分なのだった。
「舞踊団のご指南役、月のメノウさまは、あたしが龍蝶であることを見抜いておられました。だからはじめ、とても冷たい態度であたしに接してきました。それに、すめらの外でも龍蝶は……とても特異なものだということを、知りました」
西方の国の人々は、龍蝶から繭糸を取るなどということ非道なことはしない。だが、甘露の効果は危険なもので、〈警戒するべき生き物〉だと認識している。
クナにとっては心が痛むことだが。それが、世の常識だった。
「正体をかくすことは、とても心苦しく思います。でも……」
すめらの当局はついぞ、すめらの星の素性を開示しなかった。おかげで公演中はクナ自身もしばしば、自分が何ものなのか、忘れてしまうことがあった。
我を滅して舞っているときは、特にそうだった。隠さねばならないという憂いを、忘却が消してくれたとき。とっぷり心地よい湯に浸かったような感覚に包まれた。
何も考えなければ、心はずいぶん楽になる。あの奇妙な安心感に、ほっとしたことは否めない……
「黒い髪は、すめらのよき人民の証です。かあさんは、あたしの髪はまっくろだって、いつもいっていました。あたしはふつうの子。どこもおかしくないと。たぶん、そうであればいいと願っていたんじゃないかと思います。普通の人間だったら、よかったのにと。だからあたしは、もうこのまま、黒髪のままでいるのがよいかもと……」
『ふむ。母が望んだとな。そのようなものまで持ち出すか』
「はい……あたしには、これ以上のことはとても望めません……」
クナがとんでもないとかぶりを振ると。ふつふつぴゅうぴゅう、変な音が鏡から流れてきた。何か考えているのか。何かを嘆いているのか。それとも、怒っているのか。しばしその機械的な音だけを、鏡はまるで歌うように外へと出した。
そうして。不思議な音を出す人は、なるほど、と、静かに呟いた。
『……〈スミコ〉を、連呼しすぎてしまったのじゃなぁ』
「はい……?」
『そなた自身が、龍蝶は哀れなる生き物と信じ込んでしまったのでは、万事休す。たとえ妾が背を叩いて押したとて、万が一にも大姫になることは叶うまい。しかしそなたがそうなってしまった原因は、ほぼほぼ、妾たちのせいじゃ。何も知らぬそなたに龍蝶とはなんたるかを教え、隠すのが最善と思うて、細工をしてしまった。なんとも、すまぬことをしたわ』
「すまないなんて、そんな! 昔からゆるがない事実にあらがって、大姫さまはじめ、黒の塔のみんなも、太陽の姫たちも、全力であたしを守ってくださいました。大恩ある人たちの上に立つなんて、土台そんなこと、絶対無理ですっ」
クナは深々と鏡に頭を垂れた。今こうして命があるだけでも、奇跡のようなもの。
鏡になった人が無理を通して助けてくれなかったら、自分はこうして生きてはいなかったはずだ。
『昔から揺るがぬ事実? ふむ。昔からのう……』
しかし鏡はぶつぶつ、雑音と一緒にクナの言葉を繰り返して。それから、声をきんと鋼のように硬くした。
『しろがねの。立派な家畜根性を育んでしまったそなたに、いまさら何を言っても無駄かもしれぬが。妾の言葉に、少々耳を傾けてみるがよいぞ』
その声は威風堂々、少しも揺るぎなく。まるで厳かに神託をくだす、神のごときであった。
『すめらに在りしひとつの真実を、今ここに述べてやろう――
大スメルニアは万世一系の皇統を保つ大帝国なれば、帝の御代は千代に八千代に数えらるるもの。きらびやかなりし王朝は、一万二千年の永きに渡りて、大陸の東部一帯を治めておる。
その偉大なる帝国の、いと高き頂において。
今上陛下は龍蝶。皇后陛下も龍蝶。三色の大神官も龍蝶。そして、三色の巫女王たちもすべて龍蝶。かつてのすめらには、そんな時代が在った』
「え……? 帝室も……三色の神殿の長も……?」
『そうじゃ。嘘ではないぞ。そんな不可解千万という顔をせず、耳をかっぽじって、よくよく聞くがよい』
今の言葉は幻聴かと、我が耳を疑ったクナに鏡は告げた。今はすっかり秘められてしまった、すめらの史実を。
『実はの。災厄が襲い来る以前のすめらは。たった半世紀前のすめらは。龍蝶のものであったのじゃ』
その日の午後。クナたち太陽の巫女は、露天の舞台で稽古始めを行った。
天照らしさまに奉納する儀式のひとつで、ゆるりとした巫女舞を一斉に練習するものだ。
十五歳以上の成人の巫女、のべ二百余人。整然と並び立つ巫女たちがもつ神楽鈴から生まれた音は、まるで生き物のようだった。互いに手を伸ばし合い、肩を寄せ合い、徐々に中央に寄り。みるみる、一本の大木のような柱を成していった。
できあがった鈴の音柱は、ぐるぐるうねって回転し、あでやかに舞った。だが、いよいよ回転が速くなり、あと一息で終わるというころ。突然、太い音幹からひと筋、音の血脈が分かれて落ちた。こぼれた音は地に触れたまま。終わりまで迷走して、ついに音柱に戻ることはなかった。
―――「ちょっとしろがね! なんですの今のは!」
終音がすっかり消えた直後。リアン姫がぴしゃりと雷を落としてきたので、隣にいたクナはびくりと飛び上がった。魂を留めている精霊の鎖が、悲鳴のような鈴の音に同調して、しゃりんと震えた。
「す、すみません、ついぼうっとして――」
「曲がりなりにも大姫の従巫女だったというのに、これでは周りに示しがつきませんわよ? 修行が足りませんわ、修行が! あたしはどじでまぬけでのろまな巫女ですごめんなさいって、天照らし様に謝る祝詞を、毎朝百回詠唱したらどうかしら!」
「わ、我、粗相ものにて、うつけの極みにありし、鈍重なるしもべにして――」
「ちょっ、あたくしの話、ちゃんと聞いてまして? 今唱えろとは言っておりませんわーっ!!」
鏡に召されて、驚愕はなはだしいことを告げられたその日。クナはすっかり動揺してしまって、およそまともに動けなかった。
稽古始めはこの通り。従巫女の部屋から普通の巫女部屋へ移ったときには、抱えて運んでいた箱の山を廊下に落とし、中身をばらまいてしまった。ちらばった装身具や足袋や帯玉を慌ててかき集めるも、ころげてほどけた帯に足をからめてすってんころりん。頭を打って、たんこぶを作った。
廊下の清掃では水桶につまずき、今度は水をぶちまけた。夕餉の豆粥はのどを通らず、湯のみはこけた。散々な一日だったと深く反省しつつ、床に入ろうと着替えたけれど。袴の帯はいつまでも解けなくて、こんがらがる始末であった。
「あまいやつ、どうした? ころんであたまがこわれたか?」
おかげで影の子がとても心配してきて、べったりひっついて離れなくなった。大丈夫だとクナは力なく笑ったが、悪い一日の締めにふさわしく、不用心に前へ出したつま先が布団のへりにひっかかった。無様に倒れかけた体を、するんと影の子の腕が支えてくれた。
「だいじょうぶか? からだがうごかないのが、あっかしたのか?」
「すみません。そういうわけではないんですけど……」
消灯時間になっても、影の子は部屋から出ていこうとしなかった。使用人部屋で寝るようにとアオビが叱って無理やり引っ張っていったのだが、こっそりするする戻ってきた。
しかし彼はすぐにするんと、部屋の隅に置かれている長持ちの中に隠れた。
アカシと、リアン姫とミン姫。もと従巫女たちが連れ立って、クナの部屋にやってきたからだった。
「とにかく、がっつりお眠りなさい。きっと寝不足なんですわ」
「そうです、きっと徹夜が祟ったのでしょうね」
「どうか安眠を」
熱い甘茶に、懐紙に包んだ落雁に、暖かい湯たんぽ。差し入れ物を置いていった三人が、それぞれの寝床へ行くと。影の子はするるとクナのそばに戻ってきた。
「なあ、どうしたんだ? おまえふるえてるぞ」
「言っても、くろすけさんに分かるかどうか……」
「おれ、じがよめる。じしょも、もってる」
「そ、それでも、難しいと思うんですけど」
「いいから、いえ。しゃべるとすっきりするって、おとぎばなしでよんだぞ」
影の子は、クナの手をきつく握ってきた。ぐっと力をこめたそれは、慰めるというより脅してきているようで、とても痛かった。どかりと重みのあるものをすぐそばに置いてきたが、たぶんそれは、花売りに買ってもらった自慢の辞書だろう。
押しの気配に圧されたクナは、仕方なくおずおずと話し出した。
「……鏡姫さまがあたしに、とても信じられないことを教えてくださったの……」
鏡になってからというもの、百臘の方は、大翁さまとしばしば伝信波で交信を交わしているそうだ。太陽の神官族の元締めとして、いまなお強大な権力を誇るこのご隠居のおかげで、鏡は様々な処に手を伸ばすことができるようになった。
すなわち。元老院や内裏の記録庫を、こっそり覗けるようになったというのであった。
『どちらの記録庫にも、膨大な数の引き出しがある。むろん、どれにも厳重に強固な鍵がかけられておって、ちょっとやそっと引っ掻いた程度では、開けることはかなわぬ。じゃが、大翁さまはなんとも太っ腹なことに、帝都太陽神殿に関する記録が入っておる引き出しの解除暗号を、妾にお教えくださったのじゃ。そなたの処遇をどうしようかと思い悩んでおった妾に、答えにつながる道を示してくださるためにな』
まるで天つく塔の中にひしめく、書庫のような記録庫。そのほんの一角の、とても小さな引き出しに差し込まれた鍵なれど。開けてみればそこには、膨大にして第一級の機密たる記録が眠っていた。
それは大翁さまご自身がとりまとめ、秘中の秘として封印したものであった。
『半世紀前。すなわち災厄直前に帝位にありしすめらの天子は、陽成帝であられた。すめらの公式の歴史書には、そう記されておる。その御代は災厄が起こる十年前より始まり、二十五年にわたったとな。しかし、その記録はまっかな嘘。災厄の後につくられた、いつわりの歴史なのじゃ。妾はほんものの歴史を知った。〈旧史・開封厳禁〉との題名をつけられて、引き出しの奥の奥に眠っておったその記録こそ。まことのすめらを語るものであったのじゃ』
旧史によれば。災厄前後のすめらの帝は、まったく別の人。龍蝶の帝であったそうだ。
『その御方は災厄が起こる六十年前に即位し、災厄が起こった当年まで、龍の玉座に在られた。しかしてそのおくり名はない。歴史より消されてしまったからじゃ』
龍蝶の帝は、即位するやすぐに飛竜船なる古代の船を復古させ、自ら西の国に攻め入った。残念ながら遠征の結果はかんばしくはなく、帝の御代はいったん、遠征半ばで終わってしまったのだが。当時、巨大なる船を浮かべたすめらの力に、大陸中が度肝を抜かれたという。
太陽神殿はその船の建造に幾年もかけた。失われし太古の超文明の技を復古させ、街ほどもある巨船を異国へ飛ばす――そんな大事業を可能にするため、龍蝶の帝は、太陽神殿に腹心の部下を置いていた。
『その者こそは、巫女王に昇りし、龍蝶の娘。帝の御子にして、おのれの実力でまっとうにその位を得た、太陽の巫女。名を、白蜜姫という』
白蜜姫はその強大な権威をもってして、遠征の失敗で廃位された父君の復権を成した。
そればかりではなく、神託によって龍蝶である生母を皇后とし、実の姉妹を、月と星の巫女王に据えた。かくて龍蝶の三姉妹は、さらに一族の栄華を極めんと、自らの神殿に龍蝶の大神官を登用するに至ったのである――
『さてこれが、災厄以前のまことのすめらの中枢であったのじゃが。このおくり名のない帝の御代がなぜに公式の記録から消され、人間の帝の御代で上書きされたのか。いつからその、いつわりの歴史書が、民を教え育てる月神殿にて語られるようになったのか。残念ながらその詳細は、〈旧史〉にまったく、記されておらぬ』
さらなる秘密を知るには、別の引き出しを開ける鍵が要る。元老院や内裏の記録庫の、奥の奥を暴く暗号を手に入れなければならない。しかしそれは大翁さまにすら、手を出せぬところに封印されているという。
『ゆえに、委細は不明なれど。すめらには、龍蝶の巫女王がいた。これが事実じゃ。のう、龍蝶の娘よ。どうしてそなたの種族がこんなことになったのか、知りたくはないか? もし巫女王となれば、それが叶うかもしれぬぞ。巫女の頂点に立ち、白蜜姫のように父君を復位させるに匹敵する力を行使すれば、そなたを苦しめたものの正体が、分かるやもしれん。そればかりでなく、今の世を変え、龍蝶を家畜ではなく人に戻すことも、可能となろう。いや……今のそなたには、あえてこう問おうとするかの。
しろがねの。そなた、母の素性を知りたくはないか?』
――「ちょっとまて、わからない。おかあさん??」
クナの話をさえぎって、影の子がばららと辞書をめくった。なんだそれはと、呟きながら。
「かがみが、すめらのくにのひみつをほんのすこし、てにいれたことはわかった。れきしがかきかえられたことも、わかった。それであまいやつらが、すめらのれきしからけされたのも。おまえがおおひめになれば、そのりゆうがぜんぶわかるかもしれないっていうことも。でも、ひとつだけわからない。おまえのおかあさんのすじょうって、なんだ?」
「それは……」
クナはうなだれ、腹帯の隠しに手を入れた。糸巻きの先が、指先に触れる。黒髪さまの遺言が入った、とても大事なものだ。するりと指を動かすと、今度はつるりとした時計に当たった。こわい護国卿がくださったものだが、これもとても大事なものだ。中には、黒髪さまの髪がひと房入っている。
それからもうひとつ。決して無くしてはならないものがある……
「首にかけたり、ここに入れたりしてるんですけど。あたし、かあさんの形見を持ってるんです」
クナは小さな布袋を取り出し、中身を出してみせた。
「ぬのの、きれはし?」
「これは、龍蝶の繭糸から織られたもので……月の大姫さまの衣だったらしいんですけど……かつてこれを九十九さまに見せたとき、言われたんです。すめらにはかつて、龍蝶の巫女王はひとりもいなかったって。だからあたしのかあさんは、この衣の持ち主に飼われてて、親しいだれかを殺されたせいで、逃げ出して。山奥の村に身を隠したんじゃないかって、思ってました。でも、今伝わっている歴史が、嘘だってわかったから……」
かつて、龍蝶の巫女王が存在したというのなら。しかも、この太陽の神殿だけではなく。月の神殿にもいたのなら。
「この聖白衣は、かあさんの飼い主のものじゃなくて。かあさん自身のものかもしれないっていう、可能性が……」
「するとなんだ? おまえのかあさんが、つきのおおひめだったってことか? それならおまえは……」
「わ、わかりません。あのかあさんが実は皇女さまだったとか、全然信じられないし。本当の歴史っていうのも、ほんとに本当なのかどうか……」
鏡姫が嘘をつくとは思えない。だがあまりにも、内容が内容だ。
クナを奮起させるために、わざわざ紡ぎあげたもの。そう感じてしまうが……
クナは布の切れ端をにぎりしめ、言葉を呑んで押し黙った。そして、鏡があえて、母のことを出してきたことをまた考えた。言われてからずっと、頭から離れなかったその問いを。
『今のそなたには、あえてこう問おう』
髪を黒いままにしておく理由として、クナは母のことを持ち出した。ゆえに鏡の問いは、その仕返し。
すめらの龍蝶として躾けられてしまったクナには、もはや大志は抱けまい。自分だけでなく、龍蝶すべてを救う者とはなれぬ。世を変えることなどできぬ――鏡姫は、そう諦観した答歌を返したのだろうか?
(あたし、百臘さまに、見限られた? でも、あたしは……あたしは……)
どうしたい?
己れに問うて、クナはしばし待った。心の声が。本当の望みが。心の内に、湧き上がってくるのを。
「かあさんのことは、もちろん知りたい。今のすめらだって、変えられるものなら変えたい。あたしはとても恵まれてるけど、でもやっぱり……やっぱり、ちゃんと、人として扱われたい……それから……」
クナは素直に、湧き上がってきたものを読み上げてみた。
「正直に言うと、百臘さまの期待に叶う子になりたい。世界を救う、そんなたいそうな志を持つような意志の強い人になりたい。九十九さまを今すぐ助けたいし、もう間に合わないかもしれないけど、百臘さまの体を取り戻したい。もっと舞がうまくなりたいし、アカシさんとグリゴーリさまを、結婚させたいし。リアン姫にまとわりついてる公子さまに、いーってしかめっ面してみたいわ。あとそれから、嫌いな人を、思いっきり叩いてみたい。ああ、もっといろいろいっぱいあるけど。でもやっぱり一番したいのは……黒髪さまを、完全に蘇らせることよ……だってあの声をもう一度聞きたいの。水晶を打ち鳴らしたような、きれいな声を」
「おれはいますぐ、にわのはなをくいたい。さいだんのはなもうまそうだからくいたい。はやくイチコからきゅうりょうをもらいたい。それではなをいっぱいかって、たらふくくいたい」
影の子がくそ真面目に言ったので、クナはぷっと吹き出した。
「ああもう、あたしたちって。欲にまみれてます」
「そうだな。やりたいことがたくさんだ」
「すめらを変えるような人って……もっといい人じゃないと、だめですよね?」
――「いや。君なら、善き女王になれる」
えっ、とクナは顔をこわばらせた。影の子の声が突然、変わったからだった。
割れ鐘のようだったざらっとしたひどい音が、急になめらかになり。みるみる透明になって。クナの耳に入ってきた。
ちりちりさやさやと囁いてくるような、しろがねの月の。とても美しくて、とても聞きたいあの声に。
「だからどうか、なってほしい」
「黒髪……さま?!」
聞き間違いではなかった。一瞬の夢幻などではなく、たしかに影の子の口から、あの人の声が出ていた。神獣に食われて、もう二度と聞けないと思っていた美声が、しっかりと。
「うそ……ほんとに? ほんとに、黒髪さま、なの?!」
そうだ、という肯定の言葉をクナは待った。息を呑んで、影の子に向かって身を乗り出して。一瞬にして心を一色に染めたその望みが叶うのを、ひたすら待った。
どくりどくり。静寂が下りて、自分の心臓の音が聞こえてくる。
答えが出されるまでのわずか数拍の間。クナは永遠の中をえんえんと彷徨ったのだった。
あたかも、時に冷たく無視された不死の人のように。