8話 竜蝶の娘
ザッ。ザッ。
鬼毛の箒が、床を掃く。
箒を持つクナは、こふんと短く咳き込んだ。巻きあがった埃を吸いこんだのだ。
頭には三角巾。単の袖はたすきでたくられ、腰から下は短めの袴。かなり身軽ないでたちである。
「ほれ、はようこれを撒きやれ」
「はいっ、じょうろうさま」
背後から壷がすっと渡される。と同時に、漂いくる媚香。なんとも濃ゆい香りにまた咳き込みつつ、クナは壷からはらはら、湿った茶葉を床に撒いた。
たちまち茶葉が埃を吸う。なんとも香ばしくて清々しい匂いだ。すすんと鼻をすすりあげれば、濃ゆい香りに満たされた鼻が洗われるようである。
「丸く掃くでないぞ」
香り濃ゆい人はそれから怒涛のように、指図をずらり。
壁の際はとくに丁寧に。もっと堂々と掃け。次は窓拭きじゃ。たてたて、よこよこ、きっちりと。細かな格子一本一本、丁寧に。調度品は、固く絞った雑巾で拭くがよい――。
「ふむ、終わったか。では――」
「つぎはとなりのへやですね!」
「いや次は――」
「まかせてくださいっ」
「ちょっと待――」
「だいじょうぶです。そうじ、すきですから」
クナはささっと隣の部屋へ入り、床に茶葉を撒いて箒を動かした。やわらかな鬼毛の箒がさわさわ鳴る。
(あ。いいおと)
思わず微笑みながら、箒の音を聴く。拍子よく掃くと、とても小気味良い音がする。
香り濃ゆい人がおそるおそる、様子を伺ってきた。
「た、たのしそうじゃな」
「はい! ここがおわったら、むかいのへやもきれいにしますね!」
「そ、そうか。それでは、たのんだえ」
長そうな袴を優雅にひきずり、クナの教師は部屋の奥へと消えた。艶なる香りが長く長く、たなびいて薄れていく。
クナは掃いた。一所懸命、良い音を出そうと思いながら掃いた。
何かに没頭するのは、よいことだ。辛いことを頭の隅に追いやれる。
そうしたらいつかきっと。暗い哀しみは、消えてくれるだろう――。
一週間前。すなわち修行初日の日、クナはついにたまらなくなり、わんわん泣いてしまった。存分に感情を吐いたら、少しだけすっきりした。しかし落ち着いてあたりに耳を澄ませば、まぶたをこするクナの様子を、じいっと眺める気配がひとつ。
『なんじゃおぬしは? おしめもとれぬ赤子かえ?』
その気配に呆れられ、クナは蟻んこになるかと思うぐらい萎縮した。決まり悪げに「すみません……」と頭を下げれば、べしっと一発。香り濃ゆいその人に、頭をひっぱたかれた。
『たわけが。おぬしのたぁ様が、娘の髪を黒にしたがるは当然であろ!』
『た、たぁさま?』
『母親という意味じゃ。栗皮肌にみどりの黒髪。この色合いこそ最優秀。すめらの良き庶民の証じゃと、ものぐるほしき月神殿が毎日、民を教育しておるせいであろうに』
『も、ものぐるし?』
『頭がおかしいという意味じゃ。黒は理想の庶民の髪色じゃと、そうでなかったら染めよと、熱心に教え薦めておる。ほんに、あほらしいことよ』
香り濃ゆい人の声は、なにやら怒りを押し殺したよう。自分の髪をさらっと手で梳くような音を立てておられた。
『して、おぬしは菫の瞳にしろがねの髪。つまりなんじゃ、さがなしい月神殿は、竜蝶の娘をトウ家の姫の代わりに差し出したわけじゃな』
『さがな……りゅうちょうの、むすめ……?』
『さがなしいは意地悪で最低という意味じゃ。竜蝶は……む? おぬし、もしや』
盛大に首をかしげるクナに、教師さまは驚きの声をあげた。
『もしや、おのれの血筋がなんたるかを知らぬのか?』
クナがこっくりうなずくと、沈黙二拍。そして。
『ほーっほほほほ!』
わざとらしい笑い声が、修行部屋に鳴り響いた。
『な、なんじゃそれは。なんとまあおぬし、ど辺境どころか超ど辺境のところで育ったのじゃなぁ。いやはや、これは親も知らなんだのか、それともわざと黙っておったのか。どちらかわからぬが、でもひとつだけ、確たることを言うてやろう』
刹那言われた言葉の意味が、クナにはまったく、理解できなかった。
『竜蝶の娘は、月の娘の身代わりとしては、はるかに過ぎたものじゃ』
晴天の霹靂。いや、荒天に更なる稲光か。
思いもかけぬことを言われたクナは仰天。その場であわわとうろたえた。
クナの方が、トウのマカリ姫より価値がある? 小さな山奥の村の娘が、帝都月神殿の巫女さまより、はるかに?
(そんな……! じ、じょうだんよね?)
固まったクナがその場で必死に考えた末に出した答えは、この御方は月神殿がひどくお嫌いなのだろう、ということだった。
ずいぶん悪口めいたことを仰っていたから、たぶんそうであろうと。月の神殿の人々を、良くは思っておられないのだろうと。それでわざと、貶めているのだろうと。そんなふうに、理由をこじつけた。
『わらわは 、百臘越えの巫女。深い敬意をこめて、上臘さまと呼ぶがよい』
香り濃ゆい人は名を名乗らず、鼻高々にそう自己紹介なさった。太陽神殿からいらっしゃったという。
百臘というのは、たしか……
クナは、月の女性から一夜漬けで教えてもらったことを、頭から掘り起こした。
臘とは、神殿が独特に数える修行期間のこと。一年420日を四季で分け、105日を一 臘とする。神殿は年功序列を重んじているゆえ、この 臘を重ねた巫女ほど位が高い。
すなわち「上臘さま」とは、おのれよりはるかに年上で年季が入っている方、という意味であろう。
『あ、あのう、なんねんしゅぎょうしたら、ひゃくろうになるんですか?』
『ぬう。簡単な算術もできぬとは。しかしおぬしはまず、見られる姿にならねばならぬわえ』
かくして修行初日は、着付け教室となった。鬼火が持ってきた衣装を、上臘さまが細かく説明しながら、手際よく着付けてくださった。しかし床に長く伸びる長袴をはくや、クナはすってんころりん。袴の中で足袋がすべって立てない。ただの一歩も、歩けずじまい。
『おぬし、まさかこんなで、月の巫女を名乗るつもりだったのかえ?』
上臘さまは、実に呆れ果てたご様子であった。
『この張り袴は貴族の子女のもの。巫女のものはもっともっと長い。これしきでぶざまに転げておっては、神霊力をためるどころではないぞ』
単の上に重ねる衣は五枚。季節ごとにさまざまな色かさねがあり、衣を羽織る順番が決まっている。つまりは一枚ごと色が違う。さわってみれば同じ手触り。色の違いが分からないと訴えると、上臘さまはまたもや呆れておられた。
『使い女に手伝せたらよかろうが。しかしまあ、今回アオビは気をきかせたようじゃ。おぬしが今着たのは女郎花の色目。秋のかさねで、五枚とも黄の表地に、青の裏地をあわせた衣。つまりみな、同じ色じゃ。かさね色目には、そういうものもある』
最後につけられたのは、腰から長くたなびく裳。これは大人の女性の証で、目上の人に会うときには、必ずつけなければならないそうだ。
鉄錦よりはぜんぜん重くない。それでも一式まとうとずっしりだった。手も足もすっかり隠れて不便この上ない。そして長袴での歩行訓練は、まったくかんばしくなくて……
『あああ、まるでいも虫じゃ』
その日クナはずるずる階段を這いのぼって、なんとか梅の間へ帰りついた。
それから一週間、修行は着付け指南と歩行訓練に終始した。
五の間の部屋で、上臘さまはビシバシ。ものさしのような棒でクナの腰や足をはたきながら、張り袴の裾さばきを教えてくださった。
『人鳥のように歩くでない! 足をいったん横へ出して前へ進めるのじゃ』
『ひいい! す、すみません。たおれました。たてませんっ』
『まったく。ほれつかまれ』
『すみません』
『この調子では、いつまともに歩けるやら。しかしそなた、今日はちゃんと見られる姿で参ったのう。やっと使い女を雇うたか』
『いえ、ひとりできてきました』
『ほう? ひとりで?』
ひとりで「見られる姿」に身支度できるようになったその翌日。すなわち本日――。
『もうよい、今日は、掃除でもしてみやれ』
クナはようやく、次の段階に進んだようであった。
上臘さま曰く、巫女の力は心が澄み切っていないと高まらない、心をきれいにするには、おのれが住むところをきれいにするのが一番であるそうだ。
清掃中は裳と五つ衣を脱げとのこと。袴はありがたいことに、足がわずかに出る短いものを渡された。
『差し袴じゃ。この袴なら、すっころげぬであろ』
長袴は無理だと、見放されたのかもしれぬ。しかしこれならまともにすっすと歩けるので、クナは大喜び。身軽になったのが嬉しくてたまらぬと同時に、やる気がむくむく湧いてきたのだった。
「ああ、らくにあるける。ありがたいわ!」
ごめんくださいと断って部屋に入れば、たいていめらめら燃えるものがいた。彼らはびっくりして隅に寄るので、クナはどうか楽にしてくださいとお願いして、掃除をした。
燃える音のしないものがいる部屋もあった。それらは時折とぅるるるると、歌うような音を立てて喋りあう。
(ひとじゃない。なにかしら)
それらは墨汁の匂いをぷんぷんさせ、床にずらっと並んで書き物をしていた。クナは邪魔にならぬよう、音をひそめて箒を使った。
格子窓からごおんごおんと時鐘の音が流れてきても、クナは無我夢中。夕餉の刻を告げるその音に気づかず、熱心に掃除し続けた。
家では糸つむぎばかりさせられていた。ほかのこともしたいのに、つむぎ部屋に閉じ込められていた。だから体を動かすことが、心地よくてならなかったのである。
「ま、まだやっておるのかえ?!」
様子を見にきた上臘さまにびっくりされて、クナはようやくハッと手を止めた。
「そんなに掃除が好きとは……」
「あの、あしたもしたいです! させてくださいっ」
「そ、そうか。ならば、そうしたらよいわ」
そのようなわけで、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、クナは昼からひたすら掃除をした。
下層四階や下層五階。各階二箇所にある階段。厨房前の廊下などなど。指示されたところを、時鐘が鳴るまできれいにし続けた。
体はくたくた。だがよく眠れるし、心は日増しに活き活き、明るくなっていくように感じた。
楽しみができたことが大きいかもしれない。最近、午後が更けると、鬼火がそうっとお菓子を届けに来るのだ。餅や落雁、団子など毎日持ってくるものがちがう。しばし休憩してそれを食べると、なんだかとても幸せな気分になる。喉の奥からこみあげてきそうな哀しい気持ちが、すうっとひっこむのだった。
「じょうろうさま。きょうは、どこをきれいにしたらいいですか?」
「では……下層六階を」
修行を始めて二週間。その日もクナは、にこにこ顔で掃除し始めた。
(きょうのおかしはなにかしら)
楽しい想像をしつつ、箒を小気味良く鳴らす。しかし今までの階とはちがい、この階はずいぶんと埃がたまっている。だれの気配も、調度品もほとんどない。空き階なのだろうか。
と、思いきや。
奥部屋に進むと、びぃんびぃんと、何かの楽器の音色が流れてきた。
(わあ、きれいなおと!)
奥の方で、誰かが奏でているらしい。短く強く、一音一音が尖っている。
クナは鍵のかかっていない部屋を次々と掃除して、音がするところへ近づいた。
「ごめんくださいませ」
扉をこつこつ叩けばひとこと、「お入り」。しかし弾ける音色は鳴り続けている。
「おそうじを、させてください」
足を踏み入れるなり、ほのかに甘さびた香りが鼻をくすぐった。なんだかものさびしく、わびしいような。懐かしいものに会ったような。そんな気持ちにさせられるような香りが、部屋に染み出している。香炉でお香をたいているようだ。
びぃんびぃん。楽器を鳴らす人は、熱心に何かの楽器を爪弾いている。
(このひとは、にんげんだわ。それも、おんなのひと)
この美音に触れたら、糸はふるえるだろうか。おそろしくてふしぎな、あの気配は降りてくるだろうか。
クナは音色に合わせて、きゅっきゅと窓を磨き上げた。
きれい。
きれい。
なんと美しい音だろう……。
びぃん。びぃん。
几帳連なる黒檀の板間に、甘く艶やかな香気が漂う。
長い黄金の髪を裳に垂らした貴婦人が、垂れ下がる御簾の前に座し、琵琶を奏でている。
あでやかな色の頭髪とはうらはらに、婦人の五つ衣は「薄」のかさね。内から薄青、青、蘇芳の匂い。濃さの違う蘇芳色をかさねた、渋い色合いの装いである。
「竹の間の。もう一曲続けりゃれ」
「御意」
御簾の向こうにおわす人に命じられた婦人は、終音を弾かずに演奏を続けた。
弦を弾く手は白魚のよう。その手にふさわしく、顔はきりりと細長い。秀眉の下には切れ長の眼が光っており、まるで狐を思わせる面立ちである。そのするどい眼は時折、部屋のすみにある香炉を刺している。部屋にたちこめる、麝香まじりの濃ゆい香りが気に入らぬようだ。
「しろがねいろのイナカ・ムスメ……正しく、田舎娘であったわ」
御簾の向こうにおわす人が、どっとため息をついてきた。脇息に片ひじを置き、困った様子で頬杖をついている。
琵琶を奏でる婦人はこくりとうなずいた。
「さようであらしゃいますなぁ」
「おや?」
青い畳に鎮座する御簾向こうの姿が、ずいと前に迫る。ほんのりその御方の衣が見える。内は白く表は漆黒。まるで喪服のような、黒の薄様だ。
「竹の間の金女。おぬしもあの娘に会うたのか?」
「いえ。黒女さまほど、うちはひまやあらしません。使い女が見かけましてございます」
琵琶弾く婦人はしれっと答えた。
「うちの琵琶の弦の具合を確かめておりましたら、部屋に入ってきまして。突然、音に合わせてくるくる舞い出しはったそうですわ」
「はぁ?! なんじゃそれは。巫女舞か?」
「いえ。まるで仔狗が自分の尻尾を追いかけるような。実にけったいな舞やったそうで」
「仔狗……ああああ……あの子はな、すぐに鼻をくんくんさせるのじゃ。しかも毎日嬉々として、下女の仕事をやりおる。実に……実に正しく、田舎娘なのじゃ」
御簾向こうの人ががっくりうなだれる。琵琶弾く婦人はびぃんと、ひとつ大きく弦を弾いて、ひたと爪弾きを止めた。
「なれども。正しく竜蝶の娘であらしゃる」
「そうじゃ。しかもまったく自覚がない」
「おや」
婦人は狐目をひそめた。それはますますけったいなと、口に蘇芳色の袖を当てる。
「大方、親が隠しておったのであろ。髪を染めてまぎれておったか、隠れ里住まいであったかはわからぬが。目が見えぬのをこれ幸いに、世間一般と変わらぬものじゃと、教えておったそぶりであるわ」
「変わらぬもなにも。塩基の数からして……」
「教えてやった方がよいのであろうが、わらわの口からはよう言えぬわ。あの生き物の末路はひどいものぞ。伽をさせられ繭糸をとられ。最後は肉や骨をすりつぶされ……」
御簾の向こうから大きなため息がひとつ。琵琶持つ婦人は、袖を当てた口の中でつぶやいた。
「意外にお優しいんどすなぁ……」
「なんじゃと?」
「いえ。我が君は、もしやあの娘を今上陛下に?」
「その可能性は大いにあろう。我が君があの子を陛下へ差し上げれば、この家はさらなる勲位をいただくどころではなくなる。しかし……しかしな、この家から後宮に入れるのがアレでは、こっぱずかしいどころではなかろ? お家の恥じゃ!」
「たしかに。あれは繭糸をとるまでは、幾年も愛でて飼育されるもの。長いこと、宮中で暮らしはることになりますなぁ。ああ、それでおん自ら仕込みを? あらまぁ、うちはてっきり、黒女さまは自称月の娘をけちょんけちょんにしはるべく、直々にお会いにならはったのかと」
くつくつ。狐目の婦人は袖の中に笑いを仕込み、切れ長の眼を弓なりの糸にした。
「嫌やわぁ、うちときたら。黒女さまがひまつぶしに側室いじめしなはるなんて。なんて幼稚な想像しますのやろ」
「ほ、ほほ。そんなひまくさいことなぞ、考えぬわ。ほほ。ほほ」
黒の薄様の方は、せわしなく扇子を仰ぎ始めた。なにやら冷や汗を飛ばしているようでもあるし、狐目の婦人の方に、匂いを押し戻しているような手ぶりでもある。薄の五つ衣から立ちのぼる寂びた香気が、お気に召さないようだ。
「にしても、臭い。侍従は臭い。実にババ臭いのう」
すると狐目の婦人は楚々と袖で鼻を隠し、部屋のすみにある香炉を睨んだ。
「菊花の濃ゆさにくらぶれば、実に清々しいものやないですか?」
扇子がとまる。御簾を通してばちりと二人の婦人の視線がかち合い、沈黙が広がる。
「……」
「……」
「……」
「……」
しかしてその恐怖の緊張の間は、数拍も続かなかった。
――『おそれながら正奥さま! 急報にて、失礼いたします!』
黒の薄様の方のそばに在る大鏡が、うわんと声をあげたのだった。
『第十都護府、全拠点陥落! 不知火・針峰軍団、および火龍と地龍、魔道帝国軍に撃破さる! 属国「西郷」が、奪われました!』
「ぬぬ!」「おやまあ」
それはなんともゆゆしき報せ。
顔をこわばらせる二人の奥方の間に、蒼い鬼火の声が哀しく響いた。
『我がすめらの軍団は潰走! 魔道帝国軍、この黒の塔が守る国境線に迫っております!』
菊花と侍従:
いろんなお香を調合してつくる、練香の名前です。どちらも秋を象徴するような香り。
作中では十一月にはいったところなので、二人ともこの秋のお香をたきしめているようです。
二種とも六種薫物のお香として知られており、
ほかには、梅花(ばいか:春)、荷葉(かよう:夏)、落葉(らくよう:冬)、黒方(くろぼう:冬)、
があります。