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12話 飛翔

 くすくす。くすくす。

 だれかが笑っている。くすぐられたのか、おかしなものを見たのか。

 ひどく楽しそうだけれど、静かにしなくてはならないところにいるようで、声を出すのを我慢している。


「レ、レナ、もうむり」

「だめだ、もう少し我慢してくれ」

「でもむり。あはは!」


 声が漏れてはじけたとたん。あたりから一斉にきんきんしゃりしゃり、何かが舞い上がった。

 きゃあとだれかが、嬉しそうに悲鳴をあげる。

 

「ああ、精霊が逃げた。君が辛抱しきれなかったから」

「だって、全身くすぐってくるんだよ?」

「光の精霊は音に敏感なんだ。声をあげたら逃げてしまう」

「花の香りの軟膏を体に塗りたくるだけで、あんなに集まってくるなんて……」

「なんとか捕まえて繋げれば、便利なものができたのに」


 あたりにそよと風が吹く。かぐわしいりんごの香りが匂ってくる。

 ああ、二人はあそこにいるのだと、クナは気づいた。

 天に浮かぶ島。金のりんごがあるところだ。

 知ったとたん――だれかの声は、クナの声になった。 

 

「でも、ボクにはレナがいるから。精霊を捕まえなくて大丈夫だよ」

 

 クナの口からするりと、かわいらしい声が出た。

 

「だから、無理に作らなくてもいい……」

「では、ずっとそばにいないといけないな」 

「うん。そばにいて」 


 唇が、しっとり暖かいもので塞がれた。肩からするりと衣が落とされる。

 そっと倒された背に、柔らかな毛布が当たった。


「花の香りを醸す君は、どんな味がするのかな」

「あ……レナ……レナ……」


 美しい声の人が、毛布に埋まった体に唇を這わせる。

 クナの胸は、たちまち燃えた。足の間も熱く、しとどに湿って……

 

「レナっ……!」

 

 すっかりとろけてしまいそうになったので、クナは愛してくる人にしがみついた。

 

「レナ、離さないで。ずっと離さないで」


 願うクナの頭を、美声の人は優しく撫でてくれた。甘い囁きが耳もとで響く……

 

「ああ、離さない。ずっとそばに――」



――「スミコさん!!」



 突如、雷落ちるような轟音が全身を打ってきた。クナの意識は、ふわふわ暖かいところからぐいと引き戻され、地に落ちて。甘い浮遊感からすっかり覚めた。

 地を打つ稲光りのような音は、だれかの叫び声だった。

 

「しっかりしてください!! 起きて!!」

「あ……あの……?」

「意識がありますか?! 大丈夫ですか?!」

「あ……イチコさん? は、はい。あたし、おきました。あの、ここは」


 身を起こすと、頭がぐらりと揺れる。立ちあがれなくて、クナは頭から寝台に倒れた。

 ここはさっきまでいたところと違う。天の浮き島ではない。ずいぶん固い寝床だ。

 ここは……ここは……


「あ……れ? どこ、でしたっけ?」

「うう、一体どこまで忘れたんですか?」

「忘れ? た?」


 用心棒に肩をつかまれ、助け起こされたクナは、慌てて記憶をたぐった。

 たしか……センタ州での公演を終えて、ザパド州へ行く船に乗ったところではなかったろうか。

 影の子がごねたから別の宿に泊まって、舞踊団の巫女たちより少し遅れて飛行場について。それから船に乗ったのだ――


「ザパドへ行く船の中ですよね? ごんごん、船の機関の音が聞こえますし、揺れてますし。あら? なんだか、船室が狭いような……」

「な……三日以上食われてるじゃないですか!」

「は? 三日? 食われ……?」  


 用心棒がしゅんと音をたてる。針金のような細い腕を振ったのだ。とたん、ひぎゃっと子どもの悲鳴が船室に響いた。


「な、なぐるなちくしょう」

「殴らいでか! 今すぐ吐き出しなさい!」


 吐き出す?

 きょとんとするクナの前で、用心棒はえらい剣幕で影の子をひっぱたいた。

 

「ひ! なにする! はりがねばばあ!」

「吐き出せないなら、切り刻んで絞り出します。今すぐ、食べた記憶をスミコさんに返しなさい!」

「い、いやだ。あまいやつは、かなしいだったんだ」

「だからといって、人の記憶を食べてはいけません。悲しみを癒やす方法は、他にあります。それを教えますから、とっとと――」

「いやだ。あまいやつのなみだ、みたくない」

  

 ぐすぐす泣きながら抵抗する影の子に、クナは唖然とした。

 記憶を食われた? いつのまにそんなことをされたのだろう?

 

「あの、そんなに怒らないでください。あたし、頭はくらくらしますけど、別になんとも……」

「いいえ、とんでもない状態になっています。異様な神気が漂ってきたと思って見に来たら、くろすけがあなたの上に馬乗りになっていて、魂をわしづかみにして引っこ抜いて、むしゃむしゃ食べていたんですよ? くろすけ! さあ!」


 どすりと鈍い音がしたとたん、影の子はうげえと何かを吐き出した。

 用心棒の鋭い針金の手で、体を突かれたのだろう。お腹か背中か、どちらかを。巫女の技を会得している用心棒は、すかさず呪言を唱えて、あたりに神霊の気配をおろした。

 

「くろすけから菫色の魂のかけらが出てきましたので、繋げます。まったく……」

「いやだやめろ! あまいやつが、またなく」


 なぜ泣いてしまうのか。忘れさせたいほど哀しく、恐ろしいこととは一体? とまどうクナはかけらも思い出せぬまま、大丈夫だからと影の子をなだめ、そっと手を握ってやった。


「ありがとう、心配してくれたのね」

「おまえ、だいじょうぶじゃない。またなく」

「な、なかないわ。ほんとに大丈夫だから」


 相手を安心させるために、クナはそう返したけれど。心の中は疑問符でいっぱいだった。

 

(あたし……いったい、何を忘れてしまったの?)

 




 ごんごん、すめらへ帰る船が揺れる。

 ひと騒動のあと、クナは固い寝台の上で猫のように丸まり、顔を両手で隠して過ごした。


「あまいやつ、ないてるか?」

「泣いてません! お仕事に戻ってください」


 巫女の技を会得しているイチコのおかげで、食われた記憶は無事戻ってきた。けれど……

 百臘(ひゃくろう)の方と九十九(つくも)の方のご不幸は、クナの心を再びひどく打ちのめした。泣かずにいることなど到底できなかったが、涙を見せれば、影の子がまたぞろ心配する。何をやらかすか分からないため、クナは彼に顔を見せないことにしたのだった。


「ほんとに、だいじょうぶか?」 

「大丈夫です! イチコさんのところに行ってくださいっ」


 イチコは「サンテクフィオン商会すめら支店」の開店準備をしなければならないと宣言して、影の子を船室から引っ張り出した。だが影の子はクナのことがとても気になるようで、ことあるごとに様子を見に来ては、用心棒に叱られて回収されていくのだった。

  

「くろすけ、発注書の書き方を練習しなさいと言ったでしょう?」

「でも、あまいやつが……」

「つづり方を覚えなければ、いっぱしの社員にはなれません。 早く、文字の練習帳をなぞってきなさい」


 こうして影の子は用心棒に、ぎっちりつづり方を仕込まれた。

 夕餉の時間に、まだちょっとしか覚えていないとぼやく教師から解放されると。彼はクナの様子を何度も問いただしたあと、すとんと眠ってしまった。頭を使ったので疲れたのだろう、すごい寝相だと、様子を見に来たアカシやミン姫は苦笑いした。

 聴けば影の子は、苦手なミン姫を日がな一日必死に避けていたらしい。イチコから「悪事」を聞き及んで、ひどく叱ってくると思ったようだ。


「それにしても、イチコさんの技は相当なものですね。一体何臘重ねているのでしょうか」


 技冴え渡るイチコは、夜にクナの様子を確かめにきた。


「具合はどうですか? 急いで繕いましたが、頭がぐらついたり、吐き気などは?」

「ありません。でも魂を食べられてたあいだ、なんだか不思議な感覚に包まれて……」


 クナはイチコに、夢を聴いていたことを話した。 

 詳しくは言えず、顔をほのかに火照らせながらであったが、この上もなく嬉しくて、幸せな気持ちに満たされていたことを伝えた。


「あたし、精霊を集めていました。精霊たちを繋いだら何か便利なものができるって……夢の中に出てきた人が言っていました」

「精霊を繋ぐ? それは結界の一種ですね。網というか加護というか」


 イチコは難なく、クナの夢をひもといた。

 

「神楽で作る聖結界は物質に作用するものですが、精霊の鎖は精神に作用します。すなわち、魂を捉える……体につなぎ止める力を持つのです」

「魂をつなぐ?」

「以前、体調がもどったら、魂が抜けていかない方法をお教えするといいましたけど」

「あ……もしかして……」

「そうです。精霊の鎖を魂に巻き付けるというのがそれです。光の精霊をまとえば、重い注連縄を腰に巻く必要がなくなりますよ」


 

 クナは驚いて息を詰めた。おのれが聴いた夢はもしかして、「予知夢」の一種だったのだろうか?

 以前も、前世の記憶のごとき予知を経験したことがあった。たしかタケリさまの褥で聴いたのだ。

 今回のあれもそうだったのだろうか?


「光の精霊を繋いだら、魂が飛ばなくなる……飛ばなく……」


 我が身のことを振り返ったクナは、アッと気づいてイチコに願った。


「そうよあたし、飛べるんだったわ。体はふたつに裂けないけど、いますぐ、九十九(つくも)さまのもとへ飛んでいける。でも長いこと抜けたらまた体がおかしくなるから……イチコさん、あたしの手綱を握ってくれませんか?」

「なるほど。重しをつける前に、飛んでみますか?」

「はい! 白鷹の城へ飛んで、九十九(つくも)さまのご様子を視てきます。抜けたままにならないよう、根っこを押さえててくださったら、危険なことにはならないかと」

「分かりました。では、へその緒を繋ぎましょう」


 クナはアカシとミン姫も呼んで協力を仰いだ。当然ふたりは心配してきたが、クナは躊躇しなかった。

 魂だけの身では、何をすることもできないだろう。抱きしめることも、声をかけることも無理だ。なれど九十九(つくも)の方ならば、クナの気配に気づいてくれるのではなかろうか。苦境にあるあの方に添いたいと、胸を痛めて案じるこの気持ちが少しでも伝われば……ほんのわずかでも、慰めとなれれば……


「いってきます!」


 かくてクナは、イチコや太陽の巫女たちが神霊の気配をおろすなか。どそりと、重い注連縄を落とした。

 とたんにするりと抜けた魂はたちまち、巫女たちが作ってくれた〈道〉を捉えた。

 イチコがへその緒と称したそれは、雨露に濡れてきらめく細い糸のごとく、淡い輝きを放っていて、ふわりと船窓の外へ伸びていた。イチコの力が。アカシやミン姫の思いが。離れ行く北五州へ向けて、糸を伸ばしたのだった。 

 

「糸を巻き付けて飛んでください。何かあればすぐに、たぐり寄せます」

『はい! ありがとうございます!』


 おのが魂にしっかと糸を巻き、クナは船から飛び出した。

 あたりにみるみる光が広がり、はてなき世界の気配がはっきり視えてくる。

 ながれる大河。たゆたう湖。ざわつく森にそびえる山……


九十九(つくも)さま、今行きます!』


 クナは両翼を広げて飛ぶ鳥を思い浮かべて、魂を飛ばした。

 ひたすら一路。ユーグ州の、白鷹の城をめざして。

 




 ざくざく、踏みしだく雪がとても固い。半ば溶けて氷の板となっている。

 ましろの息を吐きながら、九十九(つくも)の方は慎重に足を運び、凍てついた雪面を越えた。

 さららと流れるきよらな小川にしゃがみ、両手ですくうかたわらで、アヤメが桶にいっぱい水を入れる。

 

「御髪を洗うには、少々足りませんが。手足を拭うには事足りると思います」

「髪はここで濡らしていきますわ。禊ぎと思えば、冷たさに耐えられます」


 白鷹さまの祠から逃げた当初は、どうなるかと思ったが。

 洞窟の近くに清水を見つけられたので、迷い込んだ花園は、居心地のよい隠れ家となった。

 調べれば、穴のひとつに人が使うものがいくばくか置いてあった。寝台代わりに使える大きな木箱や、灯りを放つ灯籠箱。たらいや桶。干した果物もいくばくかあって、腹の足しになった。

 人が使うものはあれど、人はいない。何より汗ばむほど暖かなのがありがたく、寝床としては申し分ない。問題なのは食べ物だけだった。

 九十九(つくも)の方は、かぐわしい花を食べたくて仕方なかったけれど。


「では奥さま、行って参ります。お花には手を出さないでくださいね」

「おおきに、アヤメ。修行と思うて我慢しますわ」 


 しっかり者のアヤメは花園の入り口に結界を張り、主人の奇行を止めてくれていた。そればかりか今から、近くの村落に身を隠した通玄先生のもとにこっそり会いに行こうというのだった。


「無事先生に会えることを祈ります。いざとなったら、うちのことは構わず逃げるんや。ええな?」 

「まさかそんなことできません。必ず奥様をお救いします。先生が村で食糧を調達してくださってますから、どうか今しばらく、お待ちくださいませ」


 水晶玉の伝信によると、祠から退避した茶の先生と鬼火は、行商人に身をやつしたそうだ。

 先生は若々しい商人に、アオビはかわいらしい女の子に変じており、親子という触れ込みで村の宿に泊まっているという。


「先生は仙術に長けておられるから、アオビのように映し身をまとうことがでける。やはり、すごいお人や。うちもそんな技が使えればよかったんやけど……」

 

 ユーグの兵は州公の厳命で、九十九(つくも)の方をくまなく探している。人目にこの身をさらすのは極力避けた方がよい。

 心乱す夫は、もはや他人と成り果てた。

 アオビが伝信にて、由々しき情報を伝えてきたのだ。州公閣下は第三妃を公に廃したという。

 ゆえに先生は、九十九(つくも)の方にひそかな出国を奨めてきていた。


『州公閣下はすめらの遠征軍から同盟軍を退かせ、その兵たちに姫様を探させておりまする。今の閣下を説得するは、不可能でしょう。生まれし御子が大陸に光を照らすものとなれば、奇跡が起きるやもしれませぬが……今はとり急ぎ、すめらの隠密軍を大翁様より手配していただき、御身をすめら属州の島に隠されるがよろしいと存じます』


 九十九(つくも)の方は先生の進言を呑み、祖父に救援を乞うた。

 伝信がつながるのにかなり時間がかかったものの、霊光殿の大翁様は、逃避行を助ける一団を送ると伝えてきた。

 すぐにと仰ってくださったが、助け手がユーグ州の兵の目をかいくぐり、ここに無事来たるまでには日数がかかるだろう。

 

「もともと政略結婚だったんや。せやから……」


 子を成さんと、ふたりで励んだあれは、愛ではなかった。

 哀しくそう思いながら、九十九(つくも)の方は、雪つもる森を果敢に抜けんとする侍女の身を案じた。

 村まではおそらくかなりの距離がある。灯りをつけたろうそくが何本か消えたとき、ようやくアヤメから連絡が入った。

 

『行商人の親子にお会いできました……! パンにチーズに火酒。それから塩漬けの魚をいただきました。湖が近くにあるんです。あと、伝信用にこの水晶玉も渡されました。ああもう、リボンをつけたアオビの、かわいらしいことといったら』


 クスクス笑いが水晶玉から聞こえた。だから女主人はホッとして、アヤメは無事に帰ってこれると信じた。空腹が襲いきて、侍女が張っていった結界を砕いて、花を手に取りたい衝動にかられているけれど。もうじき帰ってくると思えば、我慢できるだろう。


『奥様……!』


 なれど九十九(つくも)の方の願いは、水晶玉から聞こえた悲鳴によって潰された。

 

『申し訳ありません……白鷹の騎馬兵に見つかりました……! わたしの目くらましの結界が効かな……みなさま、目明かしの護符をお持ちで……おそらくトリオンさまが、配られたのだと……』

「アヤメ!?」

『できる限り、奥様の洞窟から引き離します……!』


 アヤメはもうずいぶん走っているようで、息が切れていた。追われていると気づいた女主人はみるまに血を凍らせて、水晶玉に叫んだ。

 

「アヤメ! 無理はあかん! すぐに降って、うちのところへ兵たちを――」


 水晶玉の向こうから、魔女めと罵る怒号が聞こえた。

 鎧がすれ合う音。しゃりんと刃が抜かれる音。そして、悲鳴……。


「アヤメ……!!」


 九十九(つくも)の方は、洞窟の入り口へ走った。兵の怒鳴り声に染まる玉を両手でぐっと抱きしめ、侍女がかけていった目くらましの結界をあっという間に砕いて、外へ飛び出す。主人の居所を吐けと迫る兵士の声に、九十九(つくも)の方は叫びを落とした。


「ここや……! ここにいる! 洞窟に! せやからそん子は放し……! ああっ!」


 おそろしい物音がぶちりと切れた。アヤメがとっさに回線を切ったのだ。奪われて履歴を探られないよう遠くに放り投げるか、とっさに砕くかもしれない。隠密として動いてきた彼女なら、きっとそうするだろう。

 九十九(つくも)の方は、捕り物の現場はどこかと森の中を見渡した。


『奥様! アヤメさまに渡した水晶玉から、救難信号が入りました……! ワタクシ、ただちに奥様のもとに向かいますので! どうか動かずにいてください!』


 突如アオビの伝信が入ってくるも、隠れなければならない人はあきらめきれなかった。

 

「うちは大丈夫や! それよりアヤメを! ああ……どこや……どこや……!」


 うろたえながらも、木の陰から影へ。気配をひそめながら、九十九(つくも)の方は無我夢中で兵に捕らえられた侍女を探した。

 雪積もる森の中、いつまでも。いつまでも――



 


「どこ……どこにいるの?」

 

 目の前にそびえる、天突く巨大な山のごとき影。

 体から抜け出したクナはその影の中をくまなく視て回りて途方にくれた。

 ここは白鷹家の宮殿だ。少しの間滞在したから、間違えようはずがない。

 少し念じただけで、おのが魂はあっという間にここに飛んで来られたのだが。

 しかし妃たちが住まう階にも、他の階にも、そして地下の牢にも、九十九(つくも)の方はいなかった。

 第二妃はご自分の寝室におられて、なぜか伏せっておられた。

 どうしてこんなことに……と呻く影はとても哀しそうで、今にも羽ばたき落ちて死にそうな蝶のようにみえた。

 爆破された本宮殿はまだ完全に直っておらず、閣下の家族は正妃さまを除いてここにいるはずだ。

 九十九(つくも)の方の私室には、調度品が何も残っていなかった。椅子も卓も寝台もすべて、運び出されてがらんどう。

 もしかして、別の処に連行されてしまったのか?

 離宮とか、幽閉所とか。そんなところに……

 クナはおろおろ動揺し、部屋に残った九十九(つくも)の方の気配の残滓を必死で探った。

 

九十九(つくも)さま……九十九(つくも)さま……! どこですか?!)


 わずかな気配を追って宮殿を取り囲む湖上に舞い上がると、湖を横切る飛行船が近づくのがみえた。湖上に移る鳥のような形で、そうだとわかった。甲板に、花売りの影が立っている。彼はクナたちを見送ったあとさっそく、白鷹の城を目指してくれたらしい。

 ふわとおぼろげに人型をとったクナは、腰に巻いた糸を握りしめ、花売りに近づいた。

 

(花売りさん……! ありがとう!)


 ああ、やはり自分の声は声ではない。花売りはまったく、クナに気づかなかった。

 花売りは宮殿の人々から、様々なことを聞き出してくれるだろう。

 だがクナの思いは、九十九(つくも)の方その人に向いた。

 かすかな気配を頼りに、クナはびゅんと湖を越えた。ひとつ。ふたつ。みっつ…………

 この地にはどれだけ湖があるのだろう。そこかしこ、光る穴だらけだ。

 穴という穴が、空に輝く天照(あめて)らしさまを反射して輝いている。


「こっちはまだ、日が沈んでいないのね」


 道は、正しいようだった。

 たどる気配がわずかながらも、濃くなってきている。このままいけばきっと。

 

(大丈夫、きっと会えるわ)

 

 クナは両腕に翼を生やして、思い切り飛んだ。

 次の瞬間には、会いたい人の影が()に映るようにと願いながら。


(九十九さま……! 絶対見つけます!)

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