11話 二つの報せ
花を食べられなくてぶつぶつ。とても不機嫌だった影の子は、翌日けろりと機嫌を直した。
理由はまったく単純明快。花売りが買ってくれた辞書に、すっかり心を奪われたからだった。
「すげえ。ことばのいみが、のってる。すげえ。むずかしいことばも、がいこくごもわかる。すげえ」
気の利く花売りは、大陸共通語の後ろに、すめら語の対訳単語集がついているものを選んでくれていた。クナたちがふだん、共通語にすめら語を混ぜて喋るからである。
「どうていは……じょせいと、かんけいをもったことのないだんせいのこと? かんけい……ひととひととの、かかわり? ともだちのことか? リアンにひっついてるあいつ、おんなのともだちがいないのか?」
影の子はさっそく、辞書を思う存分使い始めた。知らない言葉を聞いたとき。クナのために瓦版や本を読むとき。それから。
「しんあいなる、アカシさまへ。グリゴーリ・ポポフキ……」
「そ、それは辞書で調べなくて結構です!」
雪降る夕刻、暖炉の炎でほどよくあたたまった部屋に、アカシの慌て声が飛んだ。影の子が目に留めたその手紙は、宿舎の従業員が、夕刊と一緒に届けてきたものだった。
「たかのもようの、きれいなふうとう。おまえそれもらうの、にどめ。むずかしいことばが、かいてある」
「難しい……ああ、これは、グリゴーリさまのご署名です。先日任命されたセーヴル州大使の他にも、いろいろ役職をお持ちだそうで。いつもきっちり、肩書きを全部お書きになるんです」
「おまえ、きれいなはこにしまうんだろ。おなじがらのふうとうがいっぱいはいってる」
「え、ええ。そうですね、箱に保管しております」
二通目というのは、影の子がやって来てから届いた数。実は前から、かなりひんぱんに恋文が来ていたらしい。指輪の前にまず手紙をと、若き男爵は思い直したのだろう。
リアン姫なら、そういうものが自分にきたら、きゃあきゃあ喜んで自慢するところだが。奥ゆかしいアカシは誰にもいわず、来たらサッとしまいこんでいたようだ。
「あら、その箱に入れていたのですか。それって香り箱ですよね。寝る前によく蓋を開けていたから、安眠剤として使っているのかと思ってました」
みなに落雁を配りながら、ミン姫がくすくす笑った。
扇の形をしていて口の中でほろっと溶けるそれは、彼女の父君が送ってきたもの。なつかしい、すめらのお菓子である。
「香りを嗅ぐふりをして、手紙をこっそり読んでいたのですね」
「ちゃ、ちゃんとお香も嗅いでおりますよ?」
「お返事に、こちらの状況をつらつら書いているのですか?」
「いえ、間諜のまねごとはしたくありませんから、文は送っておりません。温室でお花を育てるのがご趣味だそうですので、めずらしいお花の鉢植えをお礼に……」
白鷹の後見人に襲われたことを、アカシは伝えていないらしい。白鷹家に仕える者とお家の後見人との間に波風がたつのは、よくないことだと気をつかっているようだ。
仲間内では、かような遠慮は無用。手紙は堂々とお読みになればよいと、ミン姫は一の従巫女を促した。
「めざとく騒ぎたてるリアンさまも、おりませんし。私もちょうど、父上から定期連絡を受け取ったところです。ここで堂々と、目を通すことにします」
「おまえ、てがみもらったのか? いつのまに?」
影の子は興味津々。好奇心が勝って、苦手な姫にめずらしく声をかけた。太陽の姫は、つんとすまして答えた。
「密書ですから、どうやって手に入れたか教えるわけにはいきません。今回来たものは、すでに私の袖の中にあります」
壺や棗や錦のすきま。隠し場所はいつも違う。今回は菓子箱の中に入っていたのだろうと、クナは察した。
「巻紙が小さくて、字も読みづらいのですけどね」
「それがてがみ? むずかしいじばっかりだ。おまえよめるのか? じしょ、かしてやろうか?」
「私はそれなりに臘を重ねておりますので、辞書は不要です。それに書かれている文字は暗号……で……」
きちきち答えるミン姫の声が、突然安定を失った。声が尻すぼみになり、かぼそく途切れる。
「これは……まさか……」
「あの……なにか、由々しいことが? あの……」
おずおず訊ねたアカシの声も、なんだか様子がおかしい。封を開いたグリゴーリ卿からの恋文を、思わず握りしめたのか。紙が潰れる音がした。
「ミンさま? アカシさま?」
クナにおそるおそる聞かれたふたりは、一瞬息を呑んで沈黙したが。先にアカシが口を開いた。
「あの……のっけにお詫びのことばが……白鷹の州公家で由々しきことが起こったゆえ……グリゴーリさまは急遽、ユーグ州の宮殿に戻られたそうです。あの、州公閣下が、第三妃さまを……九十九さまを、廃位なさったそうで……近日中にそのことが、大陸公報で発表される……そうです……」
「え?! 廃……!?」
「なんですって?!」
アカシは震え声で、文面を伝えた。
「お家の機密に関わるゆえ、くわしい事情を伝えられぬことを、お許しください……突然のことで、廷臣団は当惑しています……これは何かの間違いにちがいないと、私も思っております……公報を耳にすれば、あなたさまは大変悲しまれるでしょう。ですが……」
その声はだんだん湿ってすぼみ、途中で消え入った。涙のせいで読めなくなったのだ。影の子がするっと動いて、続きをゆっくり読み上げた。
――「あなたへのおもいへのあかしとして、あなたがけいあいするおきさきさまをしんじ、おまもりすることを、われ、グリゴーリ・ポポフキンはちかいます」
「な……なぜ?! どうして、そんなことに? 九十九さまは、ご無事なの? まさか、どこかに閉じ込められたりとか……」
「わ、わかりません。くわしいことは、何も……」
「まさかあの方が、離縁されるなんて……これでは、大姫さまが浮かばれませぬ……!」
「うかばれ……?」
ミン姫が口走ったその言葉に、クナはどきりとした。今の言葉は、いったいどういう意味かと、おそるおそる太陽の姫がいる方向に顔を向ける。そこから数拍、ためらいの息がもらされたのち。おそろしい言葉が発せられた。
クナの胸にざわりと刺しこんだ楔はたちまち、クナの心をかち割った。無残にぱきりと。
「父上の密書によれば、大姫さまは……百臘の御方は、病が急変され……身罷られた……そうです……」
耳など、なくなってしまえばいい。
太陽の姫の言葉を聞いた瞬間、クナは壁が割れるような悲鳴をあげ、腰を下ろしていた寝台からころげるように降りた。床を這い、ミン姫にすがり。そしておろおろ、叫びたてた。
「百臘さまが?! うそ……! うそでしょ……!」
「いいえ……父上が私に、嘘の情報を送ることはありえません。いまわのきわの御言葉も記されてあります……我が家族が皆、幸せであるように……九十九の方は、御子にめぐまれますように……そう仰って、意識を失われたと……」
「お、お薬……あたし、お薬を、送ったのに……! ありがとうって返事がきて、それから……それから……!」
そうだ。あれからほとんど、百臘の方からは便りが来ていなかった。
それは何も問題がないからだと、クナはすっかり思いこんでいた。
トリオンの薬で、クナもアカシもめきめき回復した。だから百臘の方もきっと、ご病状が安定しているだろうと、信じていたのに……
「まさか、あのお薬が悪かったの?! どうして?! アオビさんたちは、なんで伝信をくれなかったの?! せめて、き、危篤とか、そんなときに、報せてくれたら……!」
「きっと大姫さまご自身が……連絡せぬよう命じていたのだと思います。私たちを、心配させないよう。すめらのために、つつがなく務めを果たせるようにと」
「そんなっ……! つ、九十九さまも、百臘さまも、どうして……どうしてっ……!?」
「あまいやつ」
影の子がするりとそばに寄ってくる。ひたとクナの手に触れてきたのは、巫女たちのあまりの乱れように驚いたからだった。
「だいじょうぶか、あまいやつ。おまえ、あっというまになみだぼろぼろだ。アカシも、ミンも。おまえら、なんでそんなにないている?」
「だって、百臘さまと九十九さまが……! とても大事なおふたりが……か、母さんとおんなじぐらい、大事なおふたりが……!」
「時を同じくして、ご不幸にあわれるとは……」
「ご婚儀の折に大変な目に遭われましたが、九十九さまはご夫君と幸せになれると、私たちは信じておりました……百臘さまもまさか、年内に身罷るなんて……」
「ミマカル……?」
ばらばらと、影の子は辞書をめくった。
「ミマカルは、スメルニアごで、えらいひとがしぬこと……。しぬ……。しぬとは……せいめいかつどうがていしすること。にくたいがほろぶこと。そうかいてあるが、しぬのは……そんなにかなしいことなのか?」
「…………っ…………」
クナの言葉は涙に呑まれた。アカシの言葉も。ミン姫の言葉も。
ただひとり、影の子だけが辞書をめくりながらぶつぶつ、何度もつぶやいていた。
「そうか。えほんでも、しろねこおうがしんだら、おひめさまはすごくないていた。なるほど。しぬのは、かなしいことなんだな。しぬのは……かなしい……」
クナたちが涙を止められず、眠れぬ夜をすごした翌日。すめらの舞踊団は公演が始まる前に、太陽の巫女王へ捧げる、特別な舞の儀式を執り行った。
今だ大陸公報では公表されていないが、月神殿にも、そして舞踊団にも、痛ましい訃報がひそかに伝えられたのだった。
しめやかな弔舞は神前で行うべきものだったが、ザパド州にすめらの神を祀る社はない。ゆえに由緒ある宿舎の講堂に、急遽、天照らしさまを祀る祭壇があつらえられた。
そこは宮殿として使われていたとき、太陽神を祀る礼拝堂だったという。天照らしさまと同じ属性をもつ神のご聖所があった処なので、祭壇を作るにふさわしいとみなされたのだった。
注連縄と巫女の神霊力によって、聖なる結界が張りめぐらされた。
亡くなられたのは太陽の大姫であるゆえ、月や星の巫女たちは海となりてあまり動かず。祝詞と神楽の音を出すのに専念した。
太陽の巫女であるリアン姫とミン姫が、聖別された祭壇の前で風となった。
一の従巫女たるアカシも、そしてクナも、しとどに濡れる目でメノウに願いでて。いまだ不自由な手足を懸命にうごかし、風の中を飛ぶ鳥となった。
「あなた方の見事な舞。太陽の大姫様はきっと、天河に昇る舟の中で、ごらんになられたでしょう」
自身もほとんどの団員も、月の巫女であるにもかかわらず。メノウはかような儀式を行ってくれたばかりか、わびしい声音で、太陽の巫女王の死を悼んでくれた。
「従巫女であるあなた方はすぐに帰国し、喪の礼に参列せねばなりませんね。元老院は、〈すめらの星〉の帰国だけは、まかりならんと命じてきておりますが……」
――「ありがたい! スミコは、北五州から去らなくともよいのだな?」
メノウは自分が泊まっている部屋に太陽の巫女たちだけを呼び、言葉を伝えたのだが。
あろうことか、金獅子家の公子殿下が戸口で聞き耳を立てていた。彼は突然、部屋の中に入ってきて、自分の「婚約者」を確保した。きゃっとリアン姫が声をあげたということは、強引に引き寄せたか、抱きしめたかしたらしい。
「もし帰国となれば、スメルニアへの親善大使として、かの国へ外遊しようかと考えていたところだった。だがかの国は、慣習も食べ物もまったく違う。実のところ、ものすごく不安だったんだ。ああ、よかった! 心より、偉い巫女どのへのお悔やみを言わせていただこう」
「ぜ、全然よくありませんわ! あたくし、一刻も早くすめらに帰りたいと存じます!」
「いや、どうかとどまってくれ、いとしい姫よ。君が舞台に上がらねば、大陸中の人々が涙を流す」
リアン姫はひどくいらついた息をもらしたけれど。そろそろ幕が上がるから劇場へ行こうと、若い突風に引っ張られ、あっというまに連れ去られてしまった。
公子はがっちり、「婚約者」を引き留めにかかった。幕が下りてから、リアン姫は楽屋でなんとか、公子を説得しようとがんばったのだが。
「いやだ……どうか去らないでくれ」
公子はしまいにずずずと鼻をすすり上げて泣き出し、ついには爆弾発言をかましたのだった。
「ひとりで寝る生活には、もう戻りたくない。き、きっと、君のお腹の中には僕の子がいる!」
妊娠なんていつわり、まっかな嘘。まだ膝枕しかしていない――
台風一過。
体から湯気を立ててぎゃんぎゃん怒ったリアン姫が、若き突風によって、小島に連れ去られてしまったあと。クナは独り、メノウが泊っている部屋に呼ばれた。
「リアン姫がお手つきになったかどうかはさておき。スミコ、本当の〈すめらの星〉はそなたです。回復具合からみると、最後の公演地では舞うことができそうですが……」
ほんものの星の進退をどうするか。
メノウはかなり迷ったようだったが、決断を下したのだ。その声は実に潔かった。
「私はそなたの飛天をまた見たいですし、来て下さった観客にもできれば、見せてさしあげたく思っております。ゆえに元老院の命令に従い、そなたを引き留めるつもりでおりました。なれど……儀式にて、大切な人のために崩れ泣くあなたや太陽の巫女たちを見て……今は全員、すめらに帰したいという思いを強くしました。金獅子の公子がいなければ、なんとかできたのですが……」
いったいどれだけ、自分はこの人に負担をかけただろうかと、クナは万感たる思いで彼女の言葉を聞いた。胸に満ちてくるのは、感謝だった。
厳しいメノウのおかげで、舞の技は飛躍的に向上した。名簿にとらわれたときには、助けにきてもくれた。不動で真面目で、頼れる人。思い返せば、よき師だった……
「おそらくリアンは公子に縛られ、帰国することは叶わぬでしょう。なれば、このままリアンが最後まで、〈すめらの星〉でいるのがよいと思うのです」
「あたしも、そう思います。儀式でも舞台でも、リアンさまの花音の風は、とても安定していました」
「ええ、舞姫としては十分に及第点です」
「でも、リアンさまの身の安全が気がかりです。金獅子の公子さまが、護ってくれるとは思いますが……」
「そうですね。困ったことにあの公子は、トリオン様の騎士たちが迎賓館への入館するのを拒否しました。劇場からも、彼らを追い出したがっています。でもトリオン様は、これ幸いとすめらのものから手を引くかもしれません。白鷹家は今なぜか急激に、すめらに対して冷たくなっていますから」
「冷たく……」
「すめらの遠征軍から、ユーグ州の同盟軍が一部、引き上げたと、間諜から情報がきました。白鷹様の地で、何かが起こっているようです」
帰国せねばならぬため、そして事情が皆目わからぬため、クナたちは九十九の方の無事を祈ることしかできなかった。
グリゴーリ卿が動いてくれて、「何かの間違い」が正される。そうなることを、願うしか。
(アオビさんみたいに、あたしも分裂できたらいいのに……そうしたら、百臘さまのもとへ帰る一方で、九十九さまを探しに行けるのに……)
影の子が足止めしてくれたおかげで、トリオンの気配はまだ近くにはない。
このまま帰国してしまえば、彼の手から抜けられるかもしれない。
でもなんとか彼に会って、九十九さまのことを助けてくれるよう、願うのがよいのではないか……そう考えてしまう。あの後見人はたぶん、見返りを求めてくるだろうけれど……
じわじわ目を湿らすクナの頬を、メノウはそっと拭いてきた。
「甘い涙は、体臭よりも強烈な芳香を放ちますよ。気をつけなさい」
「は、はい」
「そなたの所有者が変わりますね……次の巫女王が決まるまでは、ご隠居の大翁さまか、大神官の預かりとなるでしょうが……私は心より、願っています」
メノウの手は暖かかった。
そういえば名簿の中でしっかとクナを掴んで引き上げてくれたときも、この人の手は暖かかった。
「そなたが繭糸をとられることなく。いつまでも、舞えることを」
「メノウさま……」
「飛天はまだまだ進化できます。早く体を治して、修行に励みなさい」
クナはこみあげる嗚咽をかみ殺しながら、深々と頭を下げた。
「いままで……どうも、ありがとうございました!」
翌朝、太陽の巫女たちと影の子は、すめらの舞踊団から離脱した。
帰国する太陽の巫女たちは、メノウから今までの報償として錦を山と贈られ、厚くねぎらいの言葉をかけられた。
残念ながら、リアン姫は公子を説得しきれず。別れを惜しむ他の巫女たちと一緒に、クナたちを送り出す人になってしまった。
「大丈夫。あたくしのことは心配なさらないで」
劇場の稽古場で、姫は背後に立つ公子を気にしながら、クナたちひとりひとりをきつく抱きしめてくれた。
「公演がすっかり終わったら絶対、一時帰国してやりますわ。ほら! ミンさましゃんとして。あなたが帰ってくるころには、私は大姫になってますね、おほほほ! ぐらい言っておゆきなさいよ」
「リアンさま……」
「あたくしの見事な金髪、大姫さまに捧げてちょうだい。お願いしますわね」
かくしてミン姫は、リアン姫から彼女の髪をひと房預かった。口調はあいかわらずだが、リアン姫の声は鼻が腫れてつまっていた。悲しみと憤りで一晩、泣き明かしたのだろう。
そしてありがたいことに。今回も花売りが、みんなに希望をくれた。
あっというまに決まった帰国と巫女たちの事情を聞いた花売りは、太陽の巫女たちの荷造りを手伝ってくれ、なんと用心棒を護衛につけてくれ。そして――
「僕は社長で超多忙なので、北五州から離れられませんが。仕事がてらユーグ州に飛んで、白鷹家の事情や第三妃さまのご様子を探ってみますね」
「花売りさん……! 感謝のことばも……」
「泣かないで下さい。僕の方こそ、感謝しないと。僕の店、巫女さまたちのおかげで本当に儲かってるんです。想像もできないぐらい、ウハウハなんですよ」
白鷹の後見人が来たら、また影の子のことをどうにかするかもしれない。
だから会わずにいた方がいい。お妃さまを助けてくれるよう、僕がお願いしておくから――
剣を背に負う花売りはそう請け負って、クナたちの背を押した。
「実を言うと、トリオン様のことは、剣がぶうぶう警告してきてますので。とにかく、何か分かったらすぐに、イチコさんを通して連絡しますね!」
旅船はいつも乗り込む船よりごくごく小さく、速度も劣るもの。それでも五日後には、すめらの宮処へつくという。
船室は多いがとても狭く、クナは影の子とふたりで一室を借りた。船は浮き上がるなりずいぶん揺れた。船窓が開いているらしく、見送る花売りの声が聞こえた。
ぴーぴーがーがー、雑音混じりの、変な音も。
『おきを、つけて。我が主。またすぐ、お会いしましょう。なにか、ご用命は――』
「花売りさんを守って!」
クナは迷わず叫んだ。離れ行く剣に届いたか分からなかったが、どうか加護あれと祈った。
優しい花売りが、どんな不幸にも遭わぬようにと。
「すげえ。とんでる。すげえ」
興奮しているのか、影の子はしばらく、窓枠をばしばしと叩きながら、空の景色を眺めていた。
「きれいなそら。きれいなくも。ふう。あのけん、やっとはなれた。めちゃくちゃ、うるさかった」
「声が、聞こえてたの?」
「ここであったがひゃくねんめって、どういういみだ? いしのうえにもまんねん、いしのいわもになってこけむしたって、どういういみだ?」
「……よく、わからないけれど。ことわざ、のようなもの?」
今度、ことわざ辞典を手に入れてあげようか。
影の子のことは、大翁さまに相談するのがいいだろう。所有者を失ったクナともども、快く庇護してくれそうな気がするから。
すんと鼻をすすり、クナは小さな座席に腰を下ろして松葉杖をわきに置いた。杖はまだ必要だ。でも宮処の太陽神殿に帰りつくまでに、もっと動けるようになっていたい。昨日の儀式の時よりもっとましな舞を舞って、百臘の方を……
「送る、なんて……」
「あまいやつ。なみだ、たべていいか?」
「え?」
「おまえ、なみだ、ですぎだ。たべていいか?」
影の子にいきなり聞かれて、クナはとまどった。
「た、たべるって。だめよ、あたしの涙は、甘露だから……あ、でも、黒髪さまはもう魔人だから、甘露が入っても大丈……」
返事を待たず。濡れる頬に、フッと冷気が当たってきた。とても冷たいものが、目のすぐ下を触れてくる。それはちゅると、涙を吸い取った。
「え……今の……くちびる……?」
「あまいやつ。おまえのかなしい、くってやる」
クナの頬がまたもや冷たいものに吸われた。とたん、強烈なまどろみがぐるぐると頭の中を襲ってくる。とろりとした眠気がたちまち、まだ不自由な四肢を支配して――
「あ……」
どさりと、クナは座席に倒れ込んだ。手足を動かさなければと思ったけれど、指先とてぴくりともせず。クナの意識はあっというまに薄れていった。
まるで、空気の中に溶け込むように。