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10話 花園

 ザパド州への船旅は、気流の乱れも何の障害もなく。すめらの帝国舞踊団を乗せた船は翌朝、予定通りに州都の飛行場に降り立った。

 クナは松葉杖を使い始めるとめきめき、体が動かせるようになってきた。支えはまだ手放せないが、手足を持ち上げるのがだいぶ楽に感じる。アカシもずいぶん調子が良さそうで、二人は船内で仲良く歩行訓練にいそしんだ。

 そんなつつがなき旅だったとはいえ、残念ながら、クナはリアン姫に会うことがかなわなかった。巫女たちは朝晩の食事を船の食堂で摂ったのだが、姫は一度もみなの前に姿を表わさなかった。

 代わりに影の子がずっと一緒で、夜通し本やかわら版を読んでくれたけれど。船でも宿舎でもいつも同室で、クナのために外の景色を教えてくれたり、手を引いてくれたり。にぎやかしくもさりげなく助けてくれていたリアン姫がいないのは、ずいぶんとさびしいことだった。


「金獅子州公のお世継ぎが、部屋から一歩も出さないんですって?」

「そうみたい。お二人で貴賓室にお泊まりなんですってね。公子様の召使いたちが忙しく、二人分の食事だのお菓子だの、銀の茶器だのを運んでますもの」

「召使い十人、護衛兵三十人。とんでもなく大所帯よ。金獅子の公子さまってすごいわよね」


 若い娘たちでにぎわった食堂は、幸運な太陽の姫の話でもちきりだった。リアン姫は必ずや未来の金獅子州公の第三妃になるだろうと、誰もが信じて疑わなかった。

 なにしろ公子殿下は舞台にわざわざ駆け上り、ひしめく観客の前で声高らかに求婚し、こうして追っかけよろしく強引に押しかけてきているのだ。その上かた時も離さぬとなれば、熱愛も熱愛。

 かわら版はじめ各報道紙がこぞって書きたてることだろう。魔道帝国神帝に対抗して、金獅子州公のお世継ぎが名乗りをあげたと。


「今も一所懸命、口説いてらっしゃるんじゃない?」

「ザパドについたら、リアン様だけ泊まるところが変わるかもね」


 巫女たちの予想通りだった。下船するなり「すめらの星」は、公子と共に赤豹の紋がついた四頭立ての金馬車に乗せられて、ザパド州の迎賓館へと運ばれてしまった。

 公子の父君たる金獅子州公が、ザパド州を統べる赤豹州公閣下に直接、「息子が行くからよろしく」と伝信を飛ばしたらしい。金獅子家の世継ぎとその「婚約者」は国賓として、ザパド州随一の絢爛豪華な館に迎えられたのだった。

 

――「ためいきばかりだ」


 松葉杖をつくクナが、同じく歩行訓練中のアカシや、彼女らをさりげに支えてくれるミン姫と一緒に、暖かな宿舎に入るなり。クナは影の子に指摘された。

 

「おまえのかお、ずっとかなしそうだ」

「だって、リアンさまに会いに行けないんですもの」


 すめらの舞踊団は招致者である赤豹の州公閣下の計らいで、この州で最も由緒ある宿に入った。

 旧くは宮殿であったという、石造りの城を改築した建物である。公演場所の州立劇場は目と鼻の先。州都のほぼど真ん中に位置しているのだが、リアン姫が泊まる迎賓館はなんとこの都にはない。ここよりはるか南、美しき湖にぽつんと浮かぶ小島にあるそうだ。

 メノウ曰く、馬車や船を使うと半日もかかるという。しかし公子は、私用の気球船で毎日、リアン姫を劇場まで送迎すると請け負ったそうだ。


「公子様は大勢の召使いだけじゃなくて、高性能な気球船も飛空船に乗せてきたらしいの。空路なら一刻もかからないって言われて、メノウさまは全然文句がいえなかったみたい」

「公演に穴があかないことを祈るばかりです」


 ミン姫のつんとした声が、寝台に腰をおろしたアカシの気配のすぐそばから聞こえた。


「船から降りたとき、ようやく一瞬だけ公子様にお会いできましたが。まあなんですか、ひと言で言うと呆れました」


 その言はさもあらん。公子はいとしい婚約者を独り占めしたいのだろう。タラップから降りるないなやリアン姫を迎えの馬車に押し込み、だれとも話すことを許さなかったのだった。


「まるで私たちから隔離するかのようなあの振る舞い、むかつきます。それになんですか、あの下手くそな歌は? リュートを弾きながら片膝をつけて馬車に乗ってる恋人に歌い上げるとか、船から降りてくる巫女たちが見ている前でよくもまあ……しかも馬車に乗るなり、こっ……今夜君に童貞を捧げようなどと、大声で宣言を……!」

「ドウテイってなんだ?」

「分からないなら辞書で調べなさい!」

「……じしょ?」


 ミン姫がすごい剣幕で言葉を叩きつけたのでクナは縮み上がったが、影の子はきょとんとした。

 こふこふと、寝台に腰を下ろしたアカシがわざとらしく咳払いをする。


「な、なんというのか、金獅子家のお世継ぎは、目立つのがお好きなのですね」

「じしょ……?」

――「劇場型っていうんですかね。公衆にパフォーマンスするのがお好きなんでしょう」

「あら、花売りさん。荷物をすみません」


 花売りが苦笑いしながら、用心棒と一緒にごとごと、巫女たちの長持ちを運び入れてくる。舞踊団が雇った荷物持ちたちが船から運び出し、宿の廊下に置いていったものだ。「ほら店員手伝え」と用心棒が命じたので、影の子がぱたたと走り、慌てて社長を手伝いだす。

 それぞれの寝台のそばに荷物をどんどん積み重ねつつ、ミン姫以上に冷静な用心棒は、気にかかることを言ってきた。


「公子様におかれては、芝居がかった行動をする癖がついておられるのでしょう」

「お芝居?」

「人目をひいて人心を捉えるべし。日々、そう教育されているのではないですか? 支配者たるもの、安定して支持を得て、人気者でいなくてはなりませんからね」


――『姫よ! 愛している!』

 

 飛行場でクナが耳にした公子の声は、とても快活で明るかった。

 天照らしさまの光のごとくきらきらしているあれは、喉ではなく腹の底から発声していた。あたかも舞台で朗々とセリフを吟じる役者のように。人前で話すことが多いゆえ、俳優と同じような発声練習をしているのだろうか? とはいえ。


『誰よりも、君を愛しているー!』

 

 馬車に向かって叫んでいたあの言葉は、さすがに芝居ではないだろう。


「あのふざけた態度が、帝王学の一種だとは思いたくありません」


 ミン姫が珍しく用心棒に噛みついた。いつになく機嫌が悪いのは、仲良しの姫と少しも話せないゆえだ。リアン姫は公子のことをどう思っているのか、クナも知りたかった。姫の声がひとことも聞けなかったのが、かえすがえすも残念でたまらない……。

 

「歌ったり馬鹿みたいに花を注文したりするのは、まあ求愛の常套だとは思いますが、所作が大袈裟すぎます」

「あ、そうそう、大口注文がきたんでしたっけ」 

 

 花売りがまたぞろ苦笑いする。船内にいたとき彼は貴賓室に呼ばれて、金獅子家の公子にありとあらゆる花を注文されたのだった。迎賓館を飾る花、姫君に手渡す花、楽屋に贈る花、劇場にまき散らす花吹雪……とにかくありったけ欲しいと思し召したらしい。


「トオヤだけでなく、各地にある温室からかき集めないと。忙しくなるので、黒すけさんは昨日に引き続いてこれからしばらく、うちの店員になってくださいね」

「社長。正社員として扱うのは、花は食べ物ではないということを完全に理解させてからです」


 用心棒の突っ込みで、クナは昨日影の子、かなりの量の花を食べてしまったことを知った。船倉に積んでいた花入りの箱を、美味しい食べ物だと勘違いしたという。おいしそうな匂いがするからと、蓋をあけてむしゃむしゃやってしまったそうだ。


「そ、そんなことがあったんですか」

「はい。箱から船の食堂に飾る花を取ってくるよう言ったんですが、なかなか帰ってこないので見に行ったら、夢中になって食べてました。イチコさんが叱って止めましたけど、ひと箱丸々……損失分は、お給料から引かせてもらいますね」

「じしょ……」


 唖然としたクナは、くいくいと影の子に袖を引っ張られた。都合の悪いことは聞かぬようにしているのか、それとも気になりすぎてなにも耳に入らなくなったのか。人ならざる子は、自分のことを言われているのに気づかぬそぶりで聞いてきた。

 

「なあ、あまいやつ。じしょって、なんだ?」

 

  

 


 風の音が声をかき消す。だれかが、呼んでいるのに。

 

「……さま! ……さま! 奥さま……!」


 呼び声がびゅおうと消された。なれど九十九(つくも)の方はなんとかまぶたを開けた。

 周囲はまっくら。大きな木の洞はあたかも岩の洞穴のよう。壁である根っこは固く冷たい。

  

「奥様、日が昇りましたよ。外が明るくなってまいりました」

「アヤメ……?」


 大きな木の洞の入り口から、腹心の侍女の顔がちらりと見える。雪雲に阻まれた朝日に照らされ、ぼうっとうかびあがるその顔は、血の気がなくてまっしろだ。

 

「大丈夫です、ご安心くださいませ。アオビは必ずや、使命を果たすでしょう。いましばらくの、ご辛抱を」

「あ……そう、か……うちは……」


 身ごもっている人は、寝ぼけている頭をはっきりさせようとぶるぶる振った。


「うちの子が、白鷹さまにとんでもないことをした……から……」


 白鷹様にとらわれ、親子共々眠らされそうになったとき。御子が発した光が、輝く白鷹さまを傷つけてしまった――

 刹那、九十九の方は悲鳴をあげる白鷹さまの脇をすり抜けて、彼女の背後に伸びている通路のようなところをひたすら走った。


『眠らせるだけと、白鷹さまは言うてはったのに。うちらは死にはしまへんのに……!』


 永遠の眠りは、死ぬのと同義だ。そう思ったけれども、母はあえて子を叱った。やってはいけないことを教えなければと思ったからだった。


『たしかにずっと眠るんは、しんどいことや。せやけど、あんな風に人を傷つけたらあかん!』


 口はかように、思ったことを発したけれど。無我夢中であったから、周りがどんなであったかなど、じっくり見る余裕などなく。後ろをふり向く勇気もなく。ずいぶん長い坂道であったと感じるのが精一杯だった。

 そうして気づけば……びゅうびゅう寒風吹きすさぶ吹雪の中にいて、ましろの祠の壁を呆然と見上げていた。天は漆黒で、天照らし様はお隠れの時間。厚くたれこめた雪雲のせいで、月女様もすっかり隠されていたから、祠に雪が積もっているのか、壁がむき出しなのか、見分けがつかなかった。

 

「戻らないとと、思ったのに」

 

 冬用に仕立てられた裏地つきの寝着とはいえ、それ一枚きりではすぐに凍えてしまう。腹を護るように両腕を我が身に巻きつけ、九十九(つくも)の方は慌てて踵を返した。つるりと円みを帯びた祠の入り口は、すぐそこ。目をこらせば、おのれの足跡が積雪の上に刻まれていた。

 

「戻って、白鷹さまに赦しを乞おうと思ったのに……」


 なれど。


――『だめだよかあさん』

 

 頭にびんと声が響いて、足が固まった。少しも行きたいところへ進めない。なのに、ましろの祠から遠ざかる方向を向けば、すんなり足が出る。

 見えない壁が張られたわけではなかった。阻んでいるのは結界ではなく、体内から発せられる不可解な力だった。腹の子が、不可思議なる力で戻ることを阻止したのだ。

 青ざめ立ちすくむ母はほどなく、主人を探す侍女と鬼火が祠から出てくるのを見た。主人の着物や毛皮を山と抱えるアヤメとアオビは、ひどく慌てふためいていて。恐ろしいことが起こったと告げたのだった。


『州公閣下が大変取り乱されて、白鷹さまが、こ、殺されたと……!』

『白鷹様は、いまわのきわに閣下の夢枕にたたれて、御子に食われたと仰せになったそうです。奥様の御子に……神核(たましい)を割られて、力を吸われたと……。閣下は聖所の奥に降りて、夢が事実であることを確かめました。白鷹さまは本当に少しも動かず、干からびて……し、死んで、おられました!』


 まさかそんなと、九十九の方は我が耳を疑った。

 動けぬうちに逃げよう――御子はたしかにそう言った。結果が彼の言葉とは違ったものになったということは、力の加減がきかなかったということか。偉大な神獣を、永遠にうごけなくしてしまうなんて。まさかあの、たった一瞬のまばゆい光でそんな大事が起こるなんて。

 

『閣下は奥様をお探しですが、か、仇をとると仰せで……護衛兵を祠とその近辺に放っております!』


 とにかく御身の安全をとアヤメに言われた九十九(つくも)の方は、毛皮を羽織り、できる限り急いで祠から離れた。

 自身の身ではなく、夫の身を守るために――


 白鷹さまのことを母だと本能的に悟っている夫が、その死に衝撃を受け、殺めた者を決して許さぬと思うのは当然のことだ。

 正当防衛だったと面と向かって説明したいが、皮肉なことに今そうすれば、夫の命が危険にさらされてしまう。腹の御子はかならずや夫の怒りに反応し、我が身を護ろうとまたあの光を出してしまうにちがいないからだった。


「白鷹さまの死によって、閣下は神獣の加護を失いはったはず。神獣を殺すほどのうちの子の力なぞ、絶対に防がれへん。せやからうちは……あん人を死なせたくないから……」


 御子の力は無差別ではない。

 アヤメとアオビに対して、御子はあの光を出すそぶりが少しもなかった。

 母が叱ったのが効いたのではなく、母子を護ろうという思いをふたりから感じ取ったせいだろう。

 つまり、身を脅かすものにだけおそろしい力を放つ――きっとそうなのだ。

 赤子が力の加減を覚えるまで。もしくは父親の御心が落ち着き、子を理解し、救おうと思ってくれるまで、夫のもとへ戻ることはできぬ。

 それまでたった独り、だれにも接触しないで籠もれる場所が要る……


 かく考えた九十九(つくも)の方は、アオビを使者にたてて祠へ送り出したのだった。

 母子が白鷹さまに封印されそうになったこと。御子の力のこと。がたがた震えるアオビに洗いざらい話し、どうか怒りではなく慈悲と庇護をくださるよう閣下に願ってくれと頼んだのであった。


「奥様、祠には通玄先生がいらっしゃいます。アオビひとりでは無理でも、先生が口添えしてくだされば……」

「そうやね。先生はなにがあっても、うちらの味方やもの」

 

 アヤメとふたり、巫女の技を使って自分を探す兵たちから隠れ。腹をいたわりながらゆるりと歩いて森の中に入り。大きな木の洞を見つけ。そうして中で息を潜めて……

 

「何日、経ちましたんか?」 

「丸二日です。とっさに持ってきましたパンと茶菓子は、あと数日分ありますから――」

「あかん、あんさんの分はちゃんとあんさんが食べるんや。吹雪がやんだら、何か食べられそうなものを森で探しまひょ」

「でも奥様、お腹にご負担が……」

「いいや。動かなければ、眠り死んでしまいますわ」 

 

 天照らしさまが天のてっぺんに昇ったころ、風がゆるんだ。雪も小降りになったので、九十九の方は無理にならぬようゆっくり雪を踏みしだき、周囲になにかめぼしいものはないかと探して回った。なれど十二の月の北国には、木の実も芽も落ちていようはずもなく。動物たちは冬眠しているのか、目に見えるところからはすっかり姿を消していた。

 途方に暮れそうになりながら、九十九の方は甘い樹液を出す木を探し出して、分厚い樹皮を傷つけ剥いでみた。それでなんとか、とろりとしたしずくが手に少したまった。口に含むとさやかな甘みが広がり、なんとも生き返る心地であったのだが。パンがなくなったあとのことを思えば、それはまったくこころもとないものだった。


「奥様、洞窟があります! 入ってみましょう」


 他になにかないかと、雪のお化けのごとき木々が林立する森を探索するうち。アヤメが、木の洞よりもっと大きな穴を見つけてくれた。入ってみれば奥が深そうで、はじめは熊かなにかのねぐらかと思われた。しかし獣の匂いは匂ってこず、代わりに――


「なんてよい香り……! 奥様、ごらんください。なんと穴の奥に花がたくさん咲いておりますわ。それになぜか、とても暖かいです」

 

 暖気が頬に当たるや、九十九の方はさっと顔色を変えた。

 この洞窟は自然とできたもの。なれど人が利用しているものだと察したからだった。

 

「人が、いはらしまへんか?」

「いえ、だれもいないようですけれど……あちこちに、熱い灯り球が下がっておりますね。穴は数個あるようですが、どこも花でいっぱいです」

「なぜ、こんなところに花畑が……」


 おぼろな光に照らされて、淡い桃色の花がたくさん咲いているのが見える。真冬にこんなに見事に咲いているのは、暖気のせいなのだろう。

 なんと甘やかな香りか……

 ふららと、九十九の方は奥の穴へ足を向けた。かぐわしい花に引き寄せられる、蝶のように。


「奥様?」

「なんや……これ……」


 これは、甘い。龍蝶の甘ったるい香りになんだか似ている。これは、とても甘い――


「奥様!?」

「う……?!」


 摘みとる気など毛頭なかった。目鼻を近づけ、よく見たかっただけのはず。

 しかしアヤメに叫ばれた瞬間、九十九の方はハッと気づいて、口から花を離した。

 

「な? なんでうち、花を?!」

 

 ほろほろと両手から、いつの間にか摘んだ花が落ちる。口の中に残る甘みに震えつつも。また口に入れたいという気持ちがむくむくと湧いてくる。

 手が勝手に動く。落ちた花を拾い上げ、また口に持っていってしまう……。


「奥様、だめです! 毒があるかもしれませんから!」

「う……?!」

「妊婦は、何か特定のものを無性に食べたくなるそうですが……でもこれは食用ではなさそうですから、こらえてくださいませ!」

 

 慌てて止めに入ったアヤメの腰袋から、音がした。水晶玉の伝信だ。主人から花を奪い、取り返そうとふらふら伸ばされる手を申し訳なさそうにはねのけながら、忠実な侍女は水晶玉を取り出してのぞきこんだ。


『奥様! アヤメさま!』


 揺らめく蒼き炎が映ると同時に聞こえてきたアオビの声は。ごうごうと悲痛の叫びを燃やしていた。

 

『わたし、閣下に殺されました! 分裂して今、通玄先生と逃げてます! だめです! 閣下のお怒りと悲しみはすさまじく、まったく話を聞いてくださいません! 今はとても、対話可能なご状態ではありません! 不本意ながら、先生といったん退避します!』

 

 九十九の方はしゃがみこみ、両手で顔を覆った。目に涙がにじんできたけれど、目の前の花の匂いを吸うとなんとか、落ち着けるような気がした。

 毛皮の袖で涙を拭き取り、深呼吸して。母たる人はまた、美しい桃色の花園に手を伸ばした。

 また口に入れたい。

 なぜかそう思いながら――

 




 ザパド州での公演初日。クナはアカシと一緒に劇場の楽屋に入った。まだ松葉杖なしでは歩けず、舞うのは無理だが、リアン姫に会いたい一心で一所懸命杖を突いたのだった。

 有言実行。金獅子家のお世継ぎは、稽古場に入る時刻にきっちり太陽の姫を連れて来てくれた――ので、みな安心したのだが。


「すばらしい! もっと足を振り上げてくれ! ああすばらしい!」


 練習のときも楽屋で待機しているときも、公子殿下はリアン姫のそばからついぞ離れず。近づく娘たちをそれとなく追いやって、二人の空間を作るのに余念がなかった。

 だからクナに向かって放たれたリアン姫の言葉は、たったひとことだけだった。


「心配いりませんわ!」


 なんだか怒っているような口調だったけれど、助けが要る雰囲気ではなかったので、クナはとても安堵した。

 巫女たちがわらわら準備でごった返した楽屋は、幕が上がると打って変わってすっかり凪いだ。

 公子は貴賓席へと移動したので、アカシと二人きりになるかと思いきや。ほどなく花売りが影の子と用心棒を連れてやって来た。

 

「花輪は壁にずらっとかけて。花束は、個人個人の長持ちの上に。名前を書いたカードがついてますから、それと照合してくださいね」

「うー」


 彼らは花屋の商品を搬入しにきたのだが、影の子はなぜかぐすぐす泣いていた。


「それ、たべたい」

「だめだと言ったでしょう」


 涙の理由は、花だった。どうしても、甘い匂いのする花が食べたくて仕方がないらしい。しかしここに来るまでにとっくりと、冷静な用心棒に叱られたという。

 

「社長が辞書を買ってあげるから、我慢しなさいと仰ったではないですか」

「でもたべたい」

「たしかに食用の花はあります。給金で、今度うちから買って食べたらよいでしょう。ですが、これらは他のお客さまがご購入されたもの。決して損なってはいけません。はい、これはそこに置く!」

「うー」


 影の子がとくに食べたがった花は、花売りが北五州の各地の温室で、特別栽培しているもの。なんでも天然の洞窟を利用して、極力淡い光量で育てているのだという。


「社長は北五州の山々を相当数、所有しているのです。それにしても目が高いというか鼻がききますね。特別栽培の花を食べたがるとは」


 影の子はその晩、クナの隣の寝台で寝入るまで、ぶつぶつ未練がましくあの花を食べたかったと言っていた。花売りからもらった、分厚い辞書を抱きしめながら。


「あまいやつ、あのはな、おまえのにおいにそっくりなんだ」


 いわれてみれば、たしかに似ている気がしないでもない。

 その花は甘くて気分がおだやかになる、()い香りだった。


「名前は……『春の匂い』……だっけ」


 よい名だとクナは思った。たしかにあれは、はんなりとして優しい匂いだった。

 まるでゆっくり雪を溶かしていくような……

 そんなことを思いながら、クナはうとうと眠りに落ちた。

 窓の向こうではまた雪が降りだしていた。

 しんしんと、静かに。



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