8話 神の子
ちりちりさらさら。体をぐるりと、軽やかな音が囲んでいる。
まるで星たちがぶつかり合い、細かく砕けていくような。きらめきと輝きを飛び散らせるような。
なんと軽やかな囁きか――
「ここ……は? いつのまに?!」
まぶたを開けた九十九の方は、辺りの様子を目に入れるなり震えあがった。
この身が倒れていたのではなく、立っているのが、まず驚きだった。
夫の姿はどこにも見当たらない。独りで、とても狭い筒型の空間に直立しているのだ。
「うちは眠らされた……そうや、子守歌で意識を……」
白鷹さまに会いに行こう――
九十九の方を抱える州公がそう言聖所へ入ったとたん。美しい歌声がどこからともなく聞こえてきて、州公が口ずさむ歌と和合した。
なんとみごとな調和かと驚いた一拍のうちに、九十九の方の意識はことりと落ちてしまったのだ。あたかも、子守歌に誘われて眠る子どものように。してやられたと、口惜しい思いを噛みしめるひまもなかった。
「けったいな部屋や。なんと狭い」
途方に暮れてふりあおげば、天井は白くぼやけており、高さは皆目わからない。床は狭い円形で、空を切り取ったかのような蒼色のタイルが嵌まっている。かすかに振動しているその床に足が吸い付いていて、少しも動かぬ。
途方にくれてあたりをうかがえば、四方八方、細やかな砂のようなものがさらさらと流れ落ちている。ほのかに虹色を帯びており、その向こうは皆目見えぬ。おそるおそる伸ばした指が、一瞬折れ曲がるかと思われるほどの重量感に圧され、弾かれた。
痛い、ということは残念ながら、これは夢ではないのだろう。
ここに据え置かれ。立ったまま眠らされ。こうして目覚めるまで、どのぐらい時間が経ったか分からない。なれど「相手の都合のよい時」に起こされたのはまちがいないだろう。その気になれば白鷹さまはえんえんと、「子守歌」を歌い続けることができるのだろうから。
「白鷹さま。なぜにうちを、こんな……ところに?」
ここに閉じ込められたのは、お腹の子のせい。容易にそう察せたけれど、九十九の方は、何も知らぬようなそぶりで訊ねた。
宴の時に聞こえた「不吉な願い」。あの声の主が白鷹さまであってほしくないし、あんな言葉は何かのまちがいであってほしい。そんな一縷の希望が成した反応だったのだが。
『ソコハ、私ノ腕ノ中。私ノ声ヲオ聞キナサイ。白キ翼持ツ者ノ願イヲ』
なけなしの希望はあっというまに砕かれた。
頭上から降ってきたのは、宴の時に聞こえたのとまったく同じ声。まったく同じ言葉だった。
『ドウカソノ子ヲ、産マナイデ』
「し、州公閣下は、どこですか? 閣下は、白鷹さまが子どもを助けてくださるようお願いしてくれはると……」
『アレクサンドルハ、健ヤカニ眠ッテイマス。
私ガ慰メレバ、アノ子ハ赤子ヲアキラメルデショウ』
白鷹さまは夫を美しい歌で眠らせたらしい。慰めというのは、意志を封じる洗脳のことか。
夫婦二人で子を護るという願いは叶わなかった。努力は無駄だった……そう思いたくないが、それが現実ならば、嘆いているひまはない。
九十九の方はおのれを打ちのめさんとする絶望を、なんとか心の奥底に押し込めた。
独りでも戦うしかないと、子を護る母は気丈に、見えぬ天井を睨み上げた。
「白鷹さま、うちの子は呪われたんです。せやから白鷹さまにはお腹の子が、何か得体の知れぬ、おそろしいものに見えてはるだけなのです」
『イイエ。ソノ子ニハ、何モツイテイマセン。
パーヴェルノ魔力デハ、呪イハ呪イトナリマセンデシタ。
アノ子ノ力ハ、黒ノ導師ニハ遠ク及バナイ』
即座に、怜悧な声が落ちてきた。
パーヴェル卿が呪いを放っていたことは、九十九の方の推測通り事実だったようだ。
なれど……
「呪われていたのに、呪いが、ついていない?!」
そんなことはない、パーヴェル卿の魔力は黒の導師には及ばずとも、そこそこ強かったのだ。我が子は本当に呪われている……
調べ倒した事例でもってそう反証しようとした母に、声はきっぱり断じた。
赤子は、普通の者ではないと。
『アナタノ子ハ、パーヴェルガ放ッタ呪イヲ貪リマシタ。
ソレダケナク、私ノ加護サエ消シタノデス。
胎ヨリ出レバ、アナタノ子ハ、私ヲ食ラウコトデショウ。
飢エタ子ハ、私ダケデナク大陸中ノアラユル〈力〉ヲ食ラウデショウ。
デスカラ、今ノウチニ――』
「ま、待って下さいませ! なにゆえ、うちと閣下の子が、そんな神殺しの神力を?」
アリョルビエール家はほぼ、四塩基の人間の血を受け継ぐ家系だ。魔力が高い人間が生まれることはあまりない。
すめらの神官族は龍蝶の血がいくばくか入っていることもあり、総じて神霊力が高い傾向があるけれど、まさか神獣をしのぐような能力をもつ者など、生まれようはずがない。
「ありえへんことです! うちはアリョルビエールの家系をじっくり調べました。幾世紀もの昔から、白鷹の州公家はすめらの神官族との縁組みを何度も繰り返してはります。でもそんな神がかった御子が生まれた事例は、過去に一度たりともありまへん! 白鷹さまのような強い神獣を殺せるんは、神を宿した聖なる武器か、同じ神獣だけです!」
『太陽ト星ト龍蝶ノ血ヲ引ク娘ヨ。アナタノ血筋ニハ、何ノ卒モアリマセン。
アナタノ子ハ、我ガ子アレクサンドルヨリ、受ケ継イダノデス』
「我が子……? 受け、継いだ?」
夫をそう呼ぶ声が、なにを言いたいのか。九十九の方はたちどころに気づいて、神霊玉の力で真っ赤に染まった瞳を見開いた。
「まさか、それは……」
一般的には、加護を与えた子に慈愛をこめて、そう呼ぶのだと解するところだが。恐ろしい答えが、母たる人の胸中で弾けた。ばちりと音をたてんばかりに、火花を放ちながら。
「まさか白鷹さまが……閣下に子守歌を歌ってあげはったのは、閣下が、白鷹さまの実の……?! つまりうちの子は……いやそんな……そんな、ありえまへん! 閣下は、前正妃さまの御子であられるはず。母君さまの血筋はまちがいなく、黒龍州公家の御家系で、まごうことなく、人間……」
『前州公ハ、私ヲ誰ヨリモ何ヨリモ崇メマシタ。
ソシテ伴侶二、私ヲ求メマシタ』
冷たく機械的な声が言う。淡々と、信じられぬことを。
『ユエニ。私ハ前州公二、アレクサンドルトパーヴェルヲ与エマシタ。
二人ハ真実、アリョルビエールノ子デス』
「そん……な……!!」
九十九の方は言葉を失った。
姿形は人間そのもの。神気などほとんど感じられず、魔力もほぼないように見える夫が、巨大な鷹の実子であるなど、到底思えなかった。
たしかに記録などは、どうとでも改ざんできる。アリョルビエールの家では、神獣の加護ある子であれば、公子と認められるのだから。なれど、人間と巨大な神獣との間に子が成せるのだろうか?
すめらの守護神タケリさまは、もともと龍であったゆえ、同種であった花龍との間に子を成せたが……
「いったい、どうやって……?!」
『私ハ翼アル我ガ身カラ抜ケ出シ、前正妃トヒトツ二ナリマシタ。
スナワチ前正妃トハマコト、コノアリョルビエール二他ナリマセン』
「そ、それはすなわち……白鷹さまは、前正妃さまの体に乗り移った……と?」
『憑依デハ、アリマセン。
私ハ我ガ魂ヲ、前正妃ノ魂ト融合サセマシタ。
私ハ彼女デアリ、彼女ハ私デス』
「そんなことが……でき……」
『神獣ノ魂。スナワチ〈神核〉ニハ、魂同士ヲ混ゼ合ワセル力ガアリマス。
私タチハ、何ニデモナレマス。龍ニモ。鷹ニモ。人ニモ』
州公の母君は、前州公が病でみまかった直後、後を追うように急逝したと聞いている。
侍医の診断によれば、急な心不全であったそうだ。しかして魔力満ち満ちている神獣の魂を宿していれば、その体は大いなる神気に護られている。容易に壊れることはないはずだ。
(母君さまは、夫君の死に合わせて、祠の聖所にお戻りにならはったということか。人の体を捨てて、本来のお体の中に……)
「閣下やパーヴェル卿はこのことを……」
『知リマセン。母ハ前州公ト共二死ンダト、信ジテイマス』
「共に、亡くなった……」
『アレクサンドルトパーヴェルハ、私ノ神核ヲ受ケ継ギマシタ。
ナレド二人ノ神核ハ四塩基二抑制サレ、人ト変ワラヌ者トシテ生マレマシタ。
私ハ念ノタメニ加護ノ力デ、二人ノ、ナケナシノ神気ヲ消シマシタ。
私ハ予測シマシタ。
アナタノ赤子ガ、人トシテ生マレル確率ハ、九割、デシタ』
「なのに……う……うちの子は……神獣として、生まれる……と?」
たしかにそれは空恐ろしいことだ。
なれど白鷹さまを食らうとか、いずれこの世を滅ぼすというのは、どうにも信じがたい。
それはたんなる杞憂だと思いたくて、九十九の方は声を張り上げた。
「し、白鷹さま! 赤子が容赦なくパーヴェル卿を消し去ったことには、うちも大変驚きました。せやけどあれはおそらく、自分と母であるうちの身を守るためにやったこと。決してやみくもに発したものではないはずです! 将来白鷹さまを食らうなど、そんな力があるとは思えません! もしあっても、決して、無体なことはさせません! ですから――」
『イイエ。マダ胎二アル時点デ私ノ加護ヲ消スナド、大変危険デス。
私ノ神核ガ、狂ッタ変異ヲシタノ二違イアリマセン』
「う、うちの子は、そんな恐ろしいものでは……!」
『私ハ、大陸同盟デ第一級二認定サレタ神獣デス。
我ガ身ノ制御弁ヲ外セバ、コノ星ヲ半壊デキマス。
ソンナ私ヨリモ強イ神気ヲ持ツ神獣ハ、決シテ、世二生マレ出テハナリマセン。
ユエニ。マダ生マレヌウチ二、赤子ヲ封ジマス』
「ま、待ってください……!」
今こうして降ってくる声は機械的で、まったく感情がない。
それは白鷹さまが〈神〉であるからというだけではなく、夫君を亡くしたせいかもしれぬと、九十九の方はとっさに思い至った。
前正妃さまの御心は、愛する人の死と同時に砕けてしまって。それで人で居続けることができなかったのではなかろうかと。
それに。夫や死した義弟は、母のことを本能的に察しているかもしれぬ、とも思えた。
白鷹さまへの夫の崇敬は、まるで生母へ向ける愛そのものに見える。
おのれは不死身であると信じていたパーヴェル卿の傲岸さは、自身が神獣の子であると薄々感づいていたからこそ、湧いてきたものだったのかもしれない……。
(こん方はうちと同じ、母親やのに……!)
流れ落ちる砂の滝が、せばまってくる。九十九の方の肩に砂がかかってきた。
虹色の砂の中に、親子をすっかり埋めてしまうつもりらしい。
るるららと、美しい調べが流れ落ちてきた。白鷹さまの子守歌だ。
『白鷹さまは、優しいからね』
夫の微笑みが脳裏に浮かぶ。黙っていきなり埋めなかったのは。わざわざ起こして理由を語ってくれたことこそは、「優しい」彼女の、せめてもの慈悲なのだろう。
ああでも。
お腹から出してあげられないなんて、そんなむごいことを我が子に強いるのは耐えられぬ――
「し、白鷹さまは、もし閣下やパーヴェル卿が神核を発現させていたら、それがうちの子のように……は、破格の力であったなら、どうしはるつもりやったんですか?! 腹の子もろとも、死ぬおつもりやったんですか?!」
みるみる足を隠していく砂におののきながら、母たる人は必死に叫んだ。赤子の力がたいしたものではないことを。ただただ、神獣の杞憂であることを、切に願いながら。
「人を愛し、子を成したあなたさまに……うちと同じ、人の子の母たるあなたさまに、そんなことができますのんか?! わ、我が子もろとも、我が身を封印しはることが、できますのんか?!」
届いたのだろう。歌声が沈黙した。はあはあとおのれが吐く荒い息を、九十九の方はしばし聞いた。
そして――
『……我が子ヲ。殺すことハ、できまセン』
わずかに抑揚が生まれた声とともに、目の前を流れ落ちる砂が左右に割れた。
開けたそこに、輝く白い光の塊が立っていた。なんとも神々しく、背の高い女性の姿をとっている。
白鷹さまなのだろうその人は、とても哀しげな蒼い双眸をこちらにまっすぐ向けてきた。
『産めぬのは、悲シイ。とても、悲シイ。
でも、ユーグの地ヲ護るためナラバ、私ハ、我が子とともに眠るデショウ。
子ヲ宥めながら、一緒に眠るデショウ。だから、あなたもドウカ……。
ゴメンナサイ。この子が発生シタのは、私ノ、セイデス。
デモ、大丈夫。あなた方ヲ、死ナセはシマセン。あなた方ハ、私の腕の中で眠るダケデス。
私が、永遠に護――』
「……!!」
輝く女性が九十九の方の顔に手を伸ばしてきた。
とたん、カッと母たる人の腹が熱くなった。パーヴェル卿を溶かしたあの光がまた、勢いよく迸り――目の前の女性をあっという間に包んで焼いた。
「白鷹さま!!」
『ああ、止めて! 止メテ!! どうか、眠っテ……!!』
耳をつんざく悲鳴が、砂の滝の中をぐるぐるめぐる。
輝く女性が溶けていく。パーヴェル卿の時のように、どろどろと無残に。と同時に、積もりゆく砂の滝が停止した。四方が拓けてゆく。白い羽毛舞い散る広大な空間が現われる――
『いこう。いまのうちに』
口を押さえ、呆然とする九十九の方は、正体不明の声に襲われた。
その声はひどくはっきりと聞こえてきた。おのれの、体の中から。
――『おばあさまは、しばらくうごけない。にげよう、かあさま』
頬に光が当たった。とても熱いものだ。まるで体が溶けてしまうような、炎よりもまぶしいもの。
部屋に入ってくるなり、白鷹の後見人が杖を掲げて、魔力を全開にしたらしい。
魔法の気配がどんと降りてきて、その光に包まれた瞬間。クナの体は鞠のように弾んだ。
影を握る手に力をこめたけれど、影の手は彼の悲鳴とともにするりと抜けてしまった。
トリオンの杖の光が、いきなり彼を吹き飛ばしたからだった。
「何するの?! やめて!!」
挨拶どころかひとこともなく、クナの体を後見人が抱きかかえてくる。
部屋のすみでひぎいひいと、影がのたうちまわる気配が聞こえた。
「なぜ攻撃するの!? あれはレナンディルよ?! あたしの夫、あたしの伴侶!!」
「ちがう。あいつは危険だ!」
後見人を抱えた後見人は、再び杖を唸らせながら動いた。暖炉の暖気が遠のく。部屋から飛び出たらしい。
「放して! 黒髪さまは、全然危険じゃないわ!!」
「ああ、はじめは私もそう思った。君のそばにいるあれは、ただの残りカスだと。金獅子とレヴテルニ帝に力を削がれ、息も絶え絶えの、死にかけた神獣。あいつは君の前で消滅するつもりだと思っていた。そうして、君に対する贖いを完了させるものだとばかり……だが知恵をつけているようだと騎士たちから報告を受けて、もしやと思って来てみたら、この宿舎はおそろしい神気に満ち満ちているし、あいつは――」
花売りたちの短い悲鳴がすり抜けていく。後見人は、廊下をものすごい勢いで走っているのだろう。
クナは彼らに手を伸ばしたものの、その指先はみんなをかすりもしなかった。
「放して! あなたに、こんなことする権利はないわ! あたし、名前をちゃんと思い出したのよ! あたしの伴侶はレナンディル! マクナタラのあなたじゃない!」
「すめらの星、あいつは、レナンディルではない!」
この期に及んで、トリオンは何を言うのか。あれは黒髪さまでまちがいないのに。
敗北を認めたくないから口からでまかせをいっているのかと、クナは呆れ、歯ぎしりした。
「ごまかさないで! 嘘つき!」
「ごまかしてなどいない。真っ黒くろすけのレナンディルには角などない。牙も生えていない。爪もあんなに尖っていない!」
「容姿なんて、前と違ったっていいじゃない!」
「違う、見てくれの問題じゃない! 神核が変化したから、あんなものが生えたんだ。レナンディルでは、なくなったから……!」
「え?!」
「ここに漂う神気を私は知っている。過去に一度、遭遇したことがある。この神気は、魔道帝国の神帝が飼っていた神獣のものだ。すなわち……」
かかかと、後ろから軽やかな足音が響く。用心棒が追いかけてきてくれているようだ。
「レナンディルは食ったんだ。神帝陛下の、黒獅子を! だからもはやあいつは、あいつではない! あの黒獅子と黒すけの融合体なんて最悪だ。危険なんてものじゃない!」
「そんな……! 神帝陛下の神獣がそんなことになるはずは……だって、紅の髪燃ゆる君と護国卿は、大陸同盟会議に出席するって……二人ともご健勝だと、瓦版に……」
「会議に出るのは、護国卿が事前に用意していた替え玉だろう。あの二人は影武者をよく使うからね。十中八九、本物ではないよ」
では、神獣を失った神帝陛下と護国卿は今どこにいるのだろう?
紅の髪燃ゆる君は、無事ではないのだろうか?
「神帝陛下は、黒髪さまが神獣を食べたときに一緒に? やっぱり……殺されたの?」
「いや。たぶん護国卿が神帝を護って、どこかに退避でもしたんだろう。金獅子の神気は消滅していない。センタの空からかすかに感じられるからね。だが、神帝が黒獅子を失うなどゆゆしいことこの上ない。君の安全を確保したら、すみやかにレナンディルだったあいつをとらえて、封印する。あいつが、他の神々を食い始める前に」
「やめて! 大丈夫よ! 黒髪さまは、そんな危険なものじゃない!」
後見人はクナの言葉に耳を貸さなかった。階段は飛翔の技で一気に飛び降りて、そのままほとんど地に足をつけることなく、弾丸のように宿舎を飛び出した。
この状態で通りもひた走るのかと、クナがうろたえたとき。追いかける用心棒の舌打ちがすぐ後ろから聞こえてきて、後見人の飛翔が突然停まった。
「イチコさん!」
「はたからみると、少女誘拐犯にしか見えないのですが。それで合ってます?」
「合ってます!」――「違う! この鉄線をほどいてくれ!」
用心棒が後見人に足止めをくらわせたらしい。足に鋼の糸をからませたようだ。
「トリオン様、ご自分で足を斬りおとしたら、今度は首に糸をかけます。いかな不死身の魔人とて、首をおとされれば、しばし動けませんよね?」
「お願い、あたしを下ろして!」
用心棒の脅しに唸り、動きを止めた相手に、クナは願った。
「本当に、黒髪さまは大丈夫だから。メノウさまは、全然危険じゃないっておっしゃってたのよ? 警戒するほどの神気じゃないって。あなたは、黒髪さまをこわいものとして扱いたいから目を曇らせてるんだわ。あの人はおそろしいものだって、思い込みたいだけなのよ!」
「ちがう、そうでは――」
否定の言葉は最後まで続かなかった。
はるか頭上。宿舎の窓から、何かが後見人めがけて落ちてきたからだった。
「うあああああああああ!!」
悲鳴のような雄叫びのような、割れ鐘のごとき叫びとともに、それは後見人の背に降りてきて。すさまじい勢いで、雪積もる地に引き倒した。
「はなせ! あまいやつを! はなせ!」
「くそ! 髪を引っ張って倒すなど! 取り付くな、化け物!」
「はなせ!!」
後見人は影が落ちてきた衝撃に耐え、クナをしっかり抱きしめたものの。あおむけに倒され、杖を蹴飛ばされたので、それ以上のことはできなかった。
待てと用心棒が制する間もなく。クナのすぐ頭上で嫌な音が聞こえた。ざしゅりと何かを切り落とすような音が。
「が……!」
とたん、後見人の声が濁り、かぐわしく甘い匂いが鼻を突いた。
魔人の血が大量に流されたのだ。おそらく――離された首から。
「トリオン、さま……?!」
「あまいやつ! だいじょうぶか? おれの、あまいやつ!」
いまだしっかと我が身をとらえる後見人の腕を、影が猛然と振り払う。クナは長い爪が生えている手に腕をつかまれ、ぐいと引っ張り上げられた。
「ちくしょう、いたい。ちくしょう、ひとでなし。こんどこんなことしたら、くってやる」
割れた声を出す影は、ぐすぐす泣いて罵りの言葉を連発した。トリオンは相当ひどく、彼を吹き飛ばしたのだろう。しかし後見人はもはや、声を出すことがかなわない。首は……つながっているのだろうか?
おそるおそる安否を確かめようとしたクナはしかし、おのれをさらった人から引き離された。
「きけんだ、おれのあまいやつ。ここにいたら、だめだ」
クナは影に背負われた。用心棒がとっさに糸を出して、動きをとどめようとする音が聞こえたけれど。影はうさぎのように高く跳ねてそれをかわし、どこへともなく走り出した。
「ま、待って! どこへいくの?」
「わからない。でも、いこう、いまのうちに」
影はぐすぐす、鼻をすすりながら答えた。突然起こったことにとまどい、気が動転しているようだ。
とにかくこの場から離れる。危険なものから――
いまだ赤子のように無垢な彼の頭には、今はそれしか思い浮かばないようだった。
「あいつはしばらくうごけない。にげよう、あまいやつ」