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7話 呪われ子

 呪いの言葉というのは、どの国のどんな言語であってもおどろおどろしくて、耳障りなものだ。


「Падение в ад!」


 夫の口から弾丸のように飛び出た叫びを聞くや、九十九(つくも)の方の肌に鳥肌が立った。

 地獄へ落ちろと、夫はそんな意味の言葉で死者をなじったのだった。

 しかし一瞬の間をおいて、「もしそれが本当ならば!」と、語気鋭く共通語で付けくわえた。

 予想通りの反応を見た九十九(つくも)の方は、本を積み上げている卓上から分厚い本を一冊手に取り、しおりをはさんだところを開いてみせた。

 

「どうかご覧くださいませ。不安にかられ、心休めようと宮殿から送っていただきましたご本を読んでおりましたら、とても気になる記述が」

「む? これは、我が家の系譜が記されている本か」

「はい。白鷹さまの加護についても、くわしく述べられているのですけど。白鷹さまの加護を受けられるのは、州公さまと妃の間にできた御子だけ。庶子には、与えられへんのですね」

「うん。偉大な白鷹さまとて、一族全員の面倒をみるのはさすがに大変だからな。そういえば……だいぶ前に、この本を読んだことがあるぞ。子どものころに、家庭教師に読んで覚えなさいといわれたんだ。表紙の裏のこの落書きは、私が描いたものだよ」

「まあ、そうやったんですか。犬? 猫? えらくかわいらしいですね」

「ウサギだ。幼い頃読んだ絵本の影響だろうな」


 かつてちらとでも目を通したことがあるのなら、話がしやすい。説明を重ねるのではなく、相手の記憶を喚起するだけで済むならば、大げさでわざとらしい論拠とは思われないだろう。

 九十九(つくも)の方は、うっすらと鉄筆で線を引いておいた文を指し示した。


「ここに、わたしたちの子と似たような事例が書いてあります。正妃さまの御子から、ある日突然、白鷹さまの加護が消失してしまったと」

「む。待ってくれ。たしか……」


 州公は黒い文字を目で追い、頁をめくってまたじっくりと読み進め、何度もうなずいた。


「そうだ。当時の後見人が、御子を呪ったせいで、加護が消えたのだったな」

「そうです。原因は、〈呪い〉です」

 

 系譜の書は語る――


『世継ぎの御子を不幸にした黒幕は、第二妃であった。

 我が子を世継ぎにしたいと目論んで、後見人に御子を呪うよう願い、。「正妃は不義の子を産んだ」と、糾弾させたのである。

 この後見人は、第二妃の実兄であった。兄はかわいい妹の望みをどうしても、かなえてやりたかったのである。


 後見人の様子がおかしいことに気づいた当時の白鷹州公は、北の果てにある岩窟の寺院に密使を送り、黒の導師の長たる最長老に透視を依頼した。

 偉大なる予言者、〈すべてを見通すレヴェラトール〉は、世継ぎにかけられた「呪い」をたちまち看破して、恐ろしい陰謀を打ち砕いた。

 黒幕の第二妃は白鷹家の城にて。呪いをかけた後見人は寺院にて。それぞれ裁かれ、処刑された――』



「ああ、ここを読んだ時のことを思い出したぞ。私もこの世継ぎのように狙われるかもしれぬと、ひどくこわくなった覚えがある」

「おいたわしいことです。正妃さまとお世継ぎの名誉は護られましたが……失われた加護は、終生戻らなかったと……」

「うん。おそろしく思ったのはそこだ。黒き衣の導師の呪いは強力無比。魂に刻み込む、恐ろしいものなんだそうだ。だから呪いは終生消すことがかなわず、この公子は州公の座につけなかった。父君は彼を哀れんで、南の平野に彼を封じた。我が臣下団の一員である、グリゴーリ・ポポフキン男爵。彼の家は、こうして興ったと聞いている」

「ポポフキン……」


 不幸な公子を高祖とする家の名は、この本に記されていない。名指しをわざと避けたと思われるが、州公はするっと口にだした。別の本に書かれているのか、あるいは教師から直接、口頭で教えられたのだろう。夫がかつて世継ぎとしてみっちり教育を受けたことに、九十九(つくも)の方は深く感謝した。

 

(うちは、引き出しを指し示すだけで、いいかもしれへん。それですべて、願い通りに……)


 それにしても件の男爵というのはたしか、巫女のアカシを見初めた御仁ではなかったか。

 「呪い」は不幸な本人だけに影響を及ぼし、子孫には遺伝しなかったと、この本には被害者の子孫を気遣うかのように記されている。本の記述通りであればよいと、九十九(つくも)の方は願った。


「なるほど。つまりこの事例のように、パーヴェルも我らの子を呪ったというのだな。いまわのきわに、あいつがそんな芸当を……」

「閣下、たぶんあの方はもっと前から、呪ってはったのではと思うのです。あの方は本物の導師ではありまへんから、一回では効き目が現われず、何度も繰り返して……そうしてうちを直接襲ったあの時、ついに効力が顕現したのではないかと思うのです」


 手のひらが汗ばむ。

 御子にはえたいのしれない力があると、認めるわけにはいかぬ。パーヴェル卿を溶かしたあの力はあくまでも、夫が信じているとおり、白鷹様の加護の力でなければならない。

 これはそのために導き出した、ひとつの推測。もっともらしい答えだ。


「パーヴェル卿はうちと出会った時から、敵対心を少しも隠しませんでした。執拗に絡んできて、隙あらばと何度も殺そうとしてきました。韻律を使えるあの方が、導師が使うもっとも有名で効果的な技を――〈呪い〉を駆使しない、ということはないように思えるのです。牢屋に入れられていたがゆえ、物理的に距離が離れていても手を下せる方法を、使ったのではないでしょうか」


 幸い、この答えを裏付けることができる事象がある。

 

「すなわち、わたしたちの子はすでに呪われていた……それゆえに、トリオンさまは懐妊の発表をしてくれなかったのではあらしまへんか?」

「ああ……そうか、それで後見人殿は渋っているのか」


 州公は本を持つ手に力を込めた。


「家の内紛で呪われた子か。たしかに外聞が悪い。神獣の加護を持たぬ子は、公子や公女として認知することができぬ。公にするどころか、隠さねばならぬ。いやむしろ……」


 州公は喉の奥から登ってきた言霊を呑みくだして、きつく唇を噛んだ。

 生まれなければ、それにこしたことはない――みるまに青ざめるその顔から、そんな恐ろしい考えが一瞬頭をよぎったのは明白だった。

 

「お家を護る後見人の立場からすれば、厄介ごとをもたらす妃など、言語道断。面倒なお荷物です」

「いや、それは……」


(そうや。うちが呪われた子ごと戦場で死ぬことが、トリオン様にとっては一番簡単で楽な結末やったんや。空いた第三妃の座には、すめらからまた、適当な巫女を迎えればええ。つまり……)


「子どもだけではなく……うちも呪われたかもしれまへん。これから一生、加護を受ける御子を生むことは叶わぬように、されたかもしれまへん。もしそうであれば、うちは妃の位を辞する覚悟でおります。でも、すでにこのお腹の中に居るこの子を……わたしたちの子を産むことだけは、どうかお許しくださいませ。白鷹さまはお見捨てになるかもしれません。この子を産むなと、仰せになるかもしれません。それでも……」

「まさか、そんなことは」

「似たような事例は、他にもここに……!」


 必死に調べた。神獣の加護が消えた御子のことを、つぶさに。

 念のために、アオビにもっと史料を宮殿から取り寄せるよう言いつけてある。

 九十九(つくも)の方は卓上の本をかき集めるように抱えて、夫の胸におしつけた。


「しおりを挟んだところをご覧下さい。加護を失った御子は他にもいらっしゃいます。みなさま、追放されたり、処刑されたりしておられますが、慈悲をいただいて、ポポフキン様の先祖のように領土を与えられた御子もおられます。閣下の父君さまも、かつて加護を消されかけて、宮廷から追放されそうになったことが……!」

「私の……父が? 命を狙われたことは幾度かあったと聞いているが」

「年代記にその事件の記述がありました。この本です。どうか、ご覧になってくださいませ。どうか……」

(ジン)姫……」


 本を持とうと動いたはずの夫の腕が、ゆっくりすり抜けた。

 どさどさと、本が床に落ちた。それがとてもぼやけて見えるので、九十九(つくも)の方はおのれの目に涙が浮かんでいるのだと気づいた。

 いや、泣くのはまだ早い。涙ながらに懇願するのは、父君のことを詳しく説明してからだ。これではじっくり考えた段取りと違う。でもなぜか、止められなかった。

 焦る我が身を、州公の両腕が抱きしめてきた。九十九(つくも)の方は反射的に、ひしと相手の胸にすがりついた。手のひらだけではなく、いまや全身汗びっしょりだ。それに……


「かわいそうに、こんなに震えて」

「震え……ああ、うちは……閣下、うちは……」

「よく、打ち明けてくれた。加護が消えたなど、口にするのも恐ろしいことを」

「あ……」


 悲壮だけれど優しさを込めた声に打たれて、妻は言葉を詰まらせた。


「か、閣下……ど、どうか……」


 ちゃんとした言葉が出ない。気を張って崩れないようにしていたけれど。おのれは大丈夫だと思っていたけれど。まるで針に突かれた風船のように、必死に堰き止めていたものが決壊してしまったようだ。


(どないしよう、百(ろう)はん……! うち、あかんようになってしもうた……!)


「大丈夫だ、我が妻よ。私たちの子を救ってくださるよう、一緒に白鷹様にお願いしよう」


 幼い娘を宥めるかのごとく、夫の手が背中をとんとん叩いてくる。九十九(つくも)の方は夫の胸に顔を埋め、こぼれ落ちる涙を隠した。


(独りが、こんなに怖いなんて。百(はん)はんや娘たちと一緒にいたうちは、ほんまに幸せもんやったんや……)


 どんなにもっともらしい論拠を重ねても、心の内の不安と心細さはぬぐえない。胸がはりさけそうだ。でも新しいこの家でもようやく、「家族」と思える人ができたかもしれない。

 何かと気を遣ってくれる第二妃。そして、優しく抱きしめてくれる夫。アヤメやアオビもいる。

 暖かな抱擁が心地よくて、九十九(つくも)の方は一瞬、ほろりと溶けてしまいそうになった。

 けれども――


「善は急げだ。さっそく、白鷹さまのもとへ行こう」


 次に夫の口から出てきたのは、「愛している」という言葉ではなかった。


「え……あの、今すぐに、ですか?」

「パーヴェルごときの呪詛など、本物の導師のものと比ぶべくもない。偉大な白鷹様がきっと、なんとかしてくださるだろう。大体にして白鷹さまは、ご自分の加護が盛大に発動したところを間近でごらんになっている。胎児に送っていた加護が感知できなくなったからといって、にべもなくそっぽを向かれるはずがない」

「ま、待ってくださいませ」


 九十九(つくも)の方はみるみる顔色を失い、困惑した。


(これではあかん……!)


 白鷹さまは絶対的な味方だと、夫はまだ、固く信じたままでいる。これではだめだ。

 必ず子を護る――神獣と相対するのは、夫にそう誓ってもらってからでなければならない。

 神獣の思し召しよりも家族を優先する。最悪、白鷹さまに逆らうことになっても、母子を護る。

 そんな意志を持ってもらわなければ危険だ。

 だから、これからじっくり時間をかけて話しあい、「夫婦の絆」を築きあげるつもりでいたというのに。夫婦二人でもっとじっくり事例を集めて研究して、神獣の状態も見極めて。万が一に備えて、ここから逃げる算段をたてられればよいと、思っていたのに……


(まさかこんなに、白鷹さまに心酔してはるなんて)


 まるで魅了の術にかかっているようだと思い至った瞬間。九十九(つくも)の方はハッと目を見開いて、すぐ頭上にある夫の顔を見上げた。


(うちに語りかけた白鷹さまが、この方に語らないはずがない……もしかしてもう、すでにこの方は白鷹さまに意志を……封じられてはるんじゃ……!)


「閣下、い、今少し、時間を――」

「大丈夫。白鷹さまはとても優しいんだ。幼い子に、子守歌を歌ってくれるぐらいね。私たちの子も、きっとかわいがってくださるよ」


 九十九(つくも)の方の体がひょいと浮いた。州公が抱き上げたのだ。妻の不安を削ごうとしてか、彼は足早に部屋の外へ出ると、少し調子の外れた歌をゆっくり歌い始めた。

 それは神獣が歌ってくれたというものにちがいなく、とてもやわらかで美しい節だった。なれども九十九(つくも)の方は落ち着くどころか、背中に冷たくざわりとしたものが走るのを感じた。


「か、閣下、せめて正装で……着替えますので、アヤメとアオビを呼ぶことをお許しください。身なりを整える時間を……しばし時間を」

「大丈夫。心配することは、なにもない」


 うろたえる妻の望みは却下された。州公は突然歌うのをやめて立ち止まり、おのれに言い聞かせるようにきっぱり断じた。薄暗い廊下の先の聖所を、どことなく焦点の合わない瞳で、熱っぽく見つめながら。


「すべて白鷹さまに任せれば、間違いない――」

 




『……こうしてお姫さまはだまされて、美しい神獣の前に引き出されました。

 お姫さまは白い羽もつ大きな鷹に、とても責められました。

「わたしの尾羽をぬすんだのはあなたでしょう? さあ、いますぐ返しなさい。」

 でもぬすんだのは、悪い魔法使いなのです。

 お姫さまは絶体絶命。こわい鷹に睨まれて、どうなるのでしょう……』




 ばたんと勢いよく本が閉じる音がしたので、寝台でうとうとしていたクナはハッと目を覚ました。

 リアン姫がとてもめんどくさそうに、部屋の隅にいるものと話している。


「はい、今夜はここまでですわよ。さあ、そこのソファでお眠りになって。朝までぐっすりと」

「それ、まだおわってない。もっとよめ」

「いいえ、これとっても長いんですの。全部読んだら、朝になってしまいますわ」

「いいからよめ」

「命令しないでくださいます?」

「……けちばばあ」

「それ言いやがるのやめましたら、あと三行だけ読んで差し上げますわ」

「……わかった、やめる」


 本が開かれる音がする。


『お姫さまは命からがら、白い鷹のおやしろから逃げ出しました。

 逃げて逃げて逃げて、でも追い詰められてしまったので、ついには泉に身を投げてしまいました。  

 泉はお姫さまを優しく包み込んで、果てなき花園が広がる楽土へと、運んでいったのでした……』


「つづき、ききたい。よめ」

「あのね。あたくし、あなたの乳母ではないんですの! 気が向いたら、明日の晩に読んでやりますわ!  気 が 向 い た ら!」


 暖炉の前にいる姫はまた本を閉じ、どつんと卓上においた。

 黒い影ははじめひたすら食べてばかりで、だれにもなんにも興味を示さなかったのだが。リアン姫が毎朝クナのために瓦版を読みあげる姿を見たとたん、反応が豹変した。文字が書いてあるものに興味を示しはじめたのである。 


『おい、あまいやつ。これよめ』


 まずは宿舎のロビーに置いてある無料の瓦版を軒並み持ってきて、クナに読んでくれとせがんだ。

 そのときはちょうど太陽の姫たちが、公演のために部屋を空けていたからだ。

 クナの目が見えないことにそこでようやく気づき、「ごめん」とひとことあやまって、アカシにねだってえんえん、読んでもらった。

 午後になると、宿の売店で売っている雑誌や本を勝手にどちゃっともってきたので、様子を見に来た花売りが慌てて数冊だけ買ってやり、残りをなんとか返却させた。

 読み手は女性がよいようで、花売りが申し出ても知らん顔。ずっとアカシに読ませていたけれど。


『怪我人を酷使してはいけません!』


 夜になって公演から戻ってきたミン姫に、影はまたぞろ、げんこつを食らった。

 それからは、朝はおとなしくリアン姫が瓦版を読むのを聞き、日中はしぶしぶ花売りに、夜は戻ってきたリアン姫に、よめよめ攻撃をするようになった。

 しかしなぜか用心棒とミン姫には決してねだらない。この二人はどうも苦手なようで、話しかけることも近づくこともしない。

 人のよい花売りが図書館からどっさり借りてきたり、ただ同然の古本を買ってきてやった結果、部屋は現在、本だらけ。絵本が多めなのは、影がひとりで楽しめるようにという配慮からだ。

 実際、日が経つにつれひとりで絵本をぱらぱらめくって見ていることが多くなっているが、リアン姫にだけはまったく遠慮しない。夜はこのように、がっつりねだる。

 たぶん母親のように世話を焼くからだと、アカシは笑って言っていたけれど。


「はい! ほら! 寝着にきがえて、毛布をかぶって。歯は磨きまして?」

「うん」

「では目を閉じて。おやすみなさいですわよ!」

「うん。おやすみば……」 

「今、ばばぁって言おうとしましたわね?!」

「し、してない」


 たしかに、なんだか親子のようでほほえましい。


「あ、長持ちに荷物を? 荷造り?」


 納戸のそばでミン姫がもくもくと動いている。その気配を聞きとったクナは、舞踊団の日程を思い出した。


「センタ州の公演が終わるのね」

「ええ。明日が最終日です」


 メノウが大幅に構成を変えたおかげか、リアン姫は問題なく、クナの代役を務めている。次の公演地でも彼女がすめらの星として活躍するだろう。

 しかし結局――それとなく待っていたものの、トリオンはついぞ、姿をみせなかった。代わりに、まるで詫びるかのように大、アカシ宛てに傷薬や包帯、クナ宛てに薬湯が送られてきただけだった。

 やはり、クナに引導を渡されることを避けているのだろうか? 

 アカシを傷つけた張本人の薬を使うのは気が引けたけれど、賠償金と同じようなものだから割り切って使えばよいと、用心棒が助言してきた。花売りもあの人の薬はまちがいがないと奨めるので、アカシもクナもおずおず使ってみたら、なんともよく効いた。

 アカシはゆっくり歩けるぐらいまで回復したし、クナは半身を起こせるようになった。たぶん松葉杖を使えば、自力でなんとか飛行船に乗り込めるだろう……





「『国境会戦大勝・快進撃のスメルニア軍、オニウェル政府と交渉へ』。今朝の瓦版の一面記事は、みんなこの話題でしたわね。帝都太陽神殿はお祭り騒ぎかもしれませんわ。それじゃあ、行ってきますわね」

「センタ最終日、気合いを入れて済ませてきます」


 一夜明けた翌朝。リアン姫とミン姫が、公演のために部屋を出て行くと。


――「おはようございます! 杖と松葉杖、持ってまいりましたよ」

 

 ほどなく花売りが用心棒と一緒にやってきて、では始めましょうかとアカシの手をとり、寝台から引っ張り出した。昨夜ぽろっと欲しいものを口にしたら、花売りが快く請け負ってくれたのだ。


「ちょっと練習してみましょうか。まずはアカシさんから。ゆっくり廊下を往復してみてください。僕とイチコさんが左右から支えます」


 花売りたちがアカシを廊下へ連れて行く。かつりかつり、杖突くアカシの足音は規則的で、かなり早い。よかった、大丈夫そうだとクナが喜んでいると、すぐ近くからぺしぺしと物を叩く音が聞こえた。この部屋にすっかり居ついた影がそわそわ、巫女たちの長持ちに触れているようだ。


「あまいやつ。これ、どうするんだ」

「飛行船に乗せるんです。あたしたちもみんな移動します」


 身を起こしたクナが説明すると、影はますます落ち着きをなくした。


「おまえら、いなくなるのか?」

「あなたも一緒です、黒髪さま」

「そうか。よかった。じをよんでくれるやつがいなくなるのは、こまる。もっとおぼえたいからな」

「はい?」

 

 紙がめくれる音がした。すぐそばにするりと、影がやってくる。


「『きんしししゅうこう、とうのしゅうりにちゃくしゅ』。ほら、おれよめる。おぼえた」

「瓦版の見出しですね。すごいです」

「『すめらのぶようだん、センタでのこうえんは、ほんじつかぎり』。でっかいじで、かいてある」

「それはきっと、すめらの国際新聞ですね。すめらのことをいつも、大きく取り上げるから……」

「すごくちっちゃいじも、おれよめる。『くれないのかみもゆるきみ、ごこくきょうとオムパロスへ。おふたりで、たいりくどうめいかいぎにごしゅっせき』」

「紅の髪燃ゆる……」

「となりに、ちっちゃいえがついてる。あかときんいろのあたまのにんげんが、ふたり」


 クナは深く、安堵の息を吐いた。黒髪さまは、神帝陛下を屠ってしまったといっていたけれど……


(ご無事だったのね。よかった……!)

 

 実のところ、リアン姫がいつ『魔道帝国神帝崩御』のニュースを読み上げるかと、こわくてならなかった。これが姫の目にとまらなかったのは、ごくごく小さな記事だから。それに今朝は、すめらの遠征軍の快進撃に興奮して、その関連記事ばかり探していたからだろう。


「このきんぱつやろう、きにいらない」 


 印刷された絵をながめているのか、影はぶうとぶすくれた。


「みるとからだが、いたくなる」

「それはたぶん……」


 殺されたことを、体が覚えているから?

 そう言おうとしたクナは、口をつぐんで耳をすました。杖突くアカシの足音が止まっている。

 廊下にいる彼女の口から、短い悲鳴のような物が漏れ出るのが聞こえたとたん。クナはぎゅっと毛布を握って身を固くした。



――「トリオンさま……!」



 やっと、来るべき者がきたらしい。


「どうした、あまいやつ」 


 影がびくりとする。クナが思わず、反射的に手を伸ばして、影をつかんだからだ。でも、彼は出会った日のように逃げようとはしなかった。


(あたしのこと、今どんな風に思ってるのかしら。知ってる人? 友だち?)


 とどまってくれたことをひそかに喜びつつ。クナは影に願った。

 勇気を得るために。


「お願い。そばにいて、黒髪さま」






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