6話 影の子
ぱちぱち、暖炉の中で薪が勢いよく燃えている。
寝台に横たわるクナは、ほっと息をついた。安堵したとはとうてい言えない心境だが、日が変わらぬうちに無事宿舎に戻ってこれたので、わずかながらも気持ちが落ち着いたのだ。
けれども。
――「なんだこれ、うまそうだな」
なけなしな心の平穏はすぐに、ぶっきらぼうなかすれ声に砕かれた。
「お待ちなさい、それは食べ物ではありませんわ。植木鉢に植わっているでしょう?」
慌てるリアン姫のそばで、ミン姫が「これは花です」と落ち着きはらって説明する。
でもうまそうだと、冷気を放つ気配がむっつり答える。食べたことがある匂いだと、ぶつぶつひそひそ。そうだリンゴだと、口の中でつぶやいている。
「はらへった。なんかくわせろ」
「もう少し、丁寧な口調で喋ってくださいません?」
「うるせえばばあ」
「ちょ!? なっ!? 今の暴言は何ですの?!」
「そこの黒い方、そんな口をきいてはいけません」
「いてっ! ちっ……この――」
冷静なミン姫がげんこつでも落としたのだろう、異様な気配は舌打ちしてまたぶつぶつ、何かわけの分からない言葉を呻いた。どこの国の言葉なのか、まったく分からない。ずいぶんおどろおどろしくて、気味が悪い語感だ。
宿舎の寝台に横たわるクナはうろたえながら、隣の寝台に顔を向けた。
「アカシさま、あの……」
隣で養生している怪我人におそるおそる訊ねれば。かつて黒の塔に住まっていた彼女は呆然と息を呑み、言葉を詰まらせた。
「口調が……まったく違いますが、お声には名残が……どす黒い影のようなお姿も、以前と同じで、変わりありません。でも背がだいぶ低いですし、頭にあんな角はありませんでしたし……」
「くいものくれ。はりがねみたいなやろうが、なんかくれるっていうから、ついてきたのに」
ひんやり冷気を放つ気配が、低い声でぼやく。
「あ……胸に何か埋まっていますね。石のような? そこからこの、冷たい空気が流れ出ているのですね」
ああ、やはり。アカシの言葉を聞いて、クナは観念したかのように確信した。
「橙煌石、だわ……」
暖炉をがんがん焚いているのにうすら寒いのは、熱を吸い取る石のせい。とすると、この「影」はまごうことなく――
(黒髪さまで、まちがいないのね)
金獅子州公の敷地内で出会ったこの「影」は、花売りの用心棒によれば、髪も肌も漆黒で宵闇のごとし。今は十代半ばほどの少年の輪郭を保っているという。
警戒心が強く、クナが手を伸ばして触れようとすると、するりと逃げる。クナのことをまったく覚えていないどころか、他の記憶もすっかり消えてしまっているようだ。気づけば暗い地下の通路をとぼとぼ歩いていたとそうだが、それまでのことはまったく思い出せないという。
用心棒が食べ物を餌にして城壁の外に連れ出して、花売りの車にみんなと一緒に乗りこんで宿舎に来たけれど、人にはまったく関心を向けてこない。今にもふらっと、どこかに行ってしまいそうな雰囲気だ。
(背丈が縮んだのは、記憶を失ったせい? それとも、ひどく体をそこなったせい?)
「影」を見つけたとき、用心棒は祠の階段を降りていき、中がどうなっているかざっと調べてきてくれた。
あそこは金獅子州公家の墓地であるらしく、地下へ降りる道がえんえんと続いていたそうだ。地震のせいで壁や床はところどころひび割れ、天井の一部が滑落しているところが多々あったのだが、生き物がひそんでいる気配はなし。しかして、「影」のものとは明らかにちがう強い神気が、色濃く残っていたらしい。
(きっとあそこで、地震が起こったんだわ)
黒髪様は、くれないの髪燃ゆる君が神獣を出して、地震を起こしたと言っていた。それから、〈金のたてがみのセイリエン〉に三度殺されたとも。
(セイリエンって、大翁さまと探ったときに視えたものかしら? たてがみ荒ぶる、輝く獅子……。あれは、護国卿が飼ってる何か? それとも、護国卿その人?)
いずれにせよ、護国卿は不死身の黒髪様を苦しめるため、あらゆる手を使ったのだろう。再生を阻害する傷とか、徹底的に負わせていそうだ。
「くいもの、ほしい。はやくくれ」
「花売り様たちが急いで調達しに行かれました。しばしお待ちなさい」
「ほんとにこれは、くえないのか? どうみてもリンゴだぞ」
「いいえ、どうみても花です! 食べられませんったら!」
「ちっ……くそばばあ」
「はあああ?! またそれを言いやがりますの?!」
「リアンさま、口調が乱れてきてますよ」
「だ、だってミン様、この神獣、いやしすぎますわ!」
神獣――。
「影」が花売りの車に乗り込んだとたん、リアン姫もミン姫も、とっさに祝詞を唱えて結界を張ろうとした。宿舎に戻ったとき、アカシを見舞っていたメノウも同じ反応をした。
その冷気もさることながら、「影」がびりりとしびれるような神気を漂わせているからだ。
タケリ様のように大きくはないし、神々しい眩しさなどまとっていない。神代に作られし偉大な守護神たちとは、およそ同じものとは思えない。なれどかような動かぬ証拠を醸しているとなれば、名簿の中でメノウが見立てた通り、「影」は……すなわち黒髪様は、神獣の一種でまちがいないのだろう。
『私たちったら、つくづく、神獣と縁がありますのね。タケリ様といい、この黒いものといい。それに、トリオン様を襲ったあれといい……』
宿舎へ戻る帰り道、リアン姫とミン姫は、クナに恐ろしい出来事を教えてくれた。
『金色の獣が、トリオン様を襲ったんですのよ』
『あれもおそらく、神獣ではないかと思われます』
姫たちから一部始終を語られたクナはひどく驚き、心を痛めた。
金の獣は白鷹の後見人を切り裂いたのち、金獅子州公の城の方角へと一直線に走り去っていったそうだ。疾風怒濤のそれは宿舎の屋上にびんびんと、大量の神気を残していったという。
(金色の獣。それってもしかして、〈金のたてがみのセイリエン〉かしら?)
白鷹の後見人は、背が縮んだりなどしていないだろうか?
「あの、メノウさま。トリオンさまの、お具合は、どうでしたか?」
後見人に会ってきたというメノウに容態を聞いてみれば。しごく元気そうだったという返事が返ってきたので、クナは胸をなで下ろした。
「仕事が片づいたらまた、こちらに見舞いにいらっしゃると仰っていました。地震や遠征軍のことでずいぶんお忙しいようです。わたくしの方からあの方に、あなたが目覚めたと連絡しておきましょう」
いや。おそらくすでに、護衛の騎士たちがトリオンに報告しているだろう。
クナが目覚めたことも、用心棒に抱えられて外に出て行き、黒いものを連れて戻ってきたことも、もれなくすべて。
メノウの意向でトリオンは渋々、騎士たちにすめらの星の代役を護らせることにしたらしい。だが、公演時間以外は実質なにも変わらない。クナとリアン姫は同じ部屋に泊まっているから、騎士たちは変わらず、宿舎の廊下やロビーにたむろしていて、クナたちをさりげなく監視している。
弱っているクナには感知できなかったが、花売りが車の後ろに二人ほど、騎士たちがこっそりついてきていたと言っていた。
夕刻に目覚めて、今は真夜中近く。トリオンが飛んで来ないのは、忙しいのもさることながら、黒髪様の名前を得たクナに、きっぱり引導を渡されたくないからかもしれない。
「影」と対面したら、彼は一体どんな反応をするだろう?
「それにしても本当に、あの黒いものを探し出してくるとは。これがそなたの……?」
「はい、メノウさま。たぶん、まちがいありません」
「そうですか。ともかく、そなたはじっくり養生なさい。この神獣の神力はさほどではなく、危険ではなさそうですから、わたくしは自室に戻ります。これから急いで、代役のリアンに無理なく舞わせるため、難易度を下げた構成を作ります。今日の公演はもう、心臓に悪いなどというものでは……」
硬いメノウの声に深いため息が混じる。
「あたしを、引き戻す、大技を、使ったのに……お疲れでは、ないですか?」
「大丈夫です。そなたたちが戻るまで、暖かい部屋で十分休みましたから」
厳しい人はカツカツと規則正しい靴音をたて、部屋の入り口へと向かった。しかし廊下へ出ようとした矢先、さっと軽やかな足さばきで室内にあとずさった。
――「お待たせしましたっ。お宿の厨房から、余ったパンを分けてもらってきましたっ」
花売りが帰還したからだった。こうばしい香りが、部屋の中に入ってくる。
「今夜当直の料理人さんが、とても親切な方で。丁寧に窯で温め直して下さったんですよ。ぱりっぱりの焼きたてみたいになってま……うわぁ?!」
刹那。ビリビリ袋が引き裂かれて、中のものが床に落ちる音と、花売りの悲鳴が響いた。
「影」が飛びついたらしい。その物音に、寝台に収まるクナの体はびくりと竦みあがった。部屋にいる巫女たちも皆びっくりしたのだが、花売りに続いて部屋に入ってきた針金足の用心棒だけは、しごく落ち着きはらっていた。
「……なぜ、たたき落として奪うのですか?」
「こいつ、きがかわるかもしれないだろ。そのまえに、おれのものにするんだ。かくじつに」
ばりばり、奪いとったものを噛み砕きながら「影」がつぶやく。花売りが買ってきたパンを、急いで口に押し込んでいるのだろう。声がすっかりくぐもっている。
「牙が生えてますね」
ミン姫が嫌悪もあらわに囁くのと同時に、リアン姫がもう我慢ならぬといった様子で声をあげた。
「ちょっとスミコっ! 本当にこれが、あなたの夫なんですの?!」
「は、はい……そう、です」
鼻孔を冷やす魔石の冷気に、クナはぶるっと身震いした。
「とても希少な、橙煌石を、つけて、らっしゃるから、まちがいなく……この人は、黒の塔の、主人。黒髪の柱国さま……です」
口はまだ、自由に動かない。手足もずっしり重たいままだ。舞台に立てるぐらい回復するまでには、何日もかかるだろう。
でもいつかきっと、体は治る。いつかきっと、この「影」も警戒を解いてくれて、そして……
「そう、ですよね? あなたは、黒髪さま……レナンディル、ですよね?」
「これ、うまいな」
パンを食べながら、冷気を放つ「影」は答えた。クナの問いを無視して、にべもなく。
「もっとくれ」
『むかしむかし。
ある森に、木こりの夫婦が住んでおりました――
すてきに晴れたその日、木こりのおかみさんは暖炉の前でにこにこ。
鼻歌まじりにおなべをかきまぜて、おいしいスープを作っておりました。
じきに赤ちゃんが生まれるので、とてもたのしみでしかたがなかったのです。
おかみさんは赤ちゃんのために、ぶあついおくるみやあったかいくつしたを編みあげて、だんなさんがトントンカンカン庭で作ってくれたゆりかごの中に入れていました。
「あらまあ、なんてすてきなくつした」
とつぜん、せなかのうしろでしゃがれた声がしたので、おかみさんはなにごとかとふりむきました。
居間においているゆりかごのそばに、なにかがいます。
まっくろい影のような、ちいさないきものです。
「あなた、いつのまにそこに?」
「すてきな歌にさそわれてきたのさ。ねえ、赤ちゃんが生まれるのかい? あたしもそうなんだよ。あたしはとてもちっちゃいけど、だんなさまは、とても立派なおひとだよ。でもねえ、あたしの手には指がないから、こんなにすてきなくつしたは、編んであげられないんだ。こいつをあたしにくれないかい? 代わりに森の木の実をどっさりあげるよ」
「悪いけど、木の実はまにあっているわ。自分でたっぷりひろったから」
「川の小石はどうだい? 暖炉にくべたらあったまるよ」
「悪いけど、うちにはたくさん炭があるから……」
突然あらわれたものがこわくて、おかみさんはしりごみしました。
赤ちゃんのために心をこめて作ったものを、えたいのしれないものにあげてしまうのもいやでした。
だからうまくいいくるめようとしたのですが、真っ黒いものはすぐにぷんぷん怒りだして、木こりの家を飛び出していってしまいました。
おそろしい、のろいのことばを残して。
「おぼえておいで! あんたの赤ちゃんはきっと不幸になるよ!」
おかみさんはふるえあがりながら、きよめのお塩を家中にまいて、戸口にひいらぎのはっぱを下げました。まっくろいものの頭には、角のようなものがついていたように思ったからでした。
「きっとあれは、お山の奥に住んでる人食い鬼にちがいないわ」
変なものがきたのはその一度きりで、毎日はいつものようにとても平和にすぎていきました。
お山に初雪がふったころ、おかみさんはとてもうつくしい、玉のような子をうみました。
赤ちゃんは澄んだ青い目をしていて、くるくるの巻き毛は金髪で、親だけでなくだれがみても、世界で一番かわいいと断言してしまいそうな、すてきな子でした。
木こりの夫婦はとても幸せでした。
その子がうまれた、その日までは――
北五州のおとぎばなし・とりかえっこの妖精より』
ぱちぱち、暖炉の中で薪が勢いよく燃えている。
暖かな部屋に、歓喜の声が響く。
「なんて、かわいらしいんだ!」
夫がとても小さな靴下を手に取り、破顔している。九十九の方は微笑みながら、喜ぶ夫の腕に手を添えた。
「気が早いかもしれませんが。糸つむぎの侍女たちがおりますんで、毛糸をぎょうさん紡いでもらって、それで編んでみました」
「スメルニアの足袋ではなく、ちゃんと西方風の形だね」
「第二妃さまがお茶会に呼んでくれはりまして。そのとき、編み方を教えてくださいました」
ああ、マルガレーテはとても気がきくんだと、白鷹の州公はますます顔を歓喜で染めた。
「おくるみや産着も、ゆっくり作ろうと思います」
「かわいいものが、どんどん増えるのだね」
「はい。お色は青系のものにしようかと。なんだか、男の子が生まれるような気がしますんで」
「それは巫女の予知なのかな? 当たれば実に素晴らしい」
夫がこの上もなく上機嫌なのを確かめた妻は、今が話を切り出す好機であろうと判断した。
寝る間も惜しんでこの数日、神獣と州公家の血統を徹底的に調べあげた。その合間に、夫に子どもへの愛情を育んでもらおうと、かわいらしい物を作ったのだ。
そんな下心があったのだけれど、靴下を作るのはとても楽しくて、心がウキウキとした。これをはいている子を想像すると、顔が自然に笑顔になる。
(どうか、うちの子の味方が増えますように)
まだ幸い、白鷹さまは夫に警告を送っていないようだから、先手を打てる。
九十九の方は、慎重に話を切り出そうとしたのだが。
『失礼します! ご無礼をお許し下さいませ。急ぎのご報告です!』
残念ながらその機会は、しばし延ばされてしまった。
夫の水晶玉が、大音量で家令の音声を伝えてきたからだ。入ってくる周囲の物音が何やらさわがしい。廷臣団と共にいるのだろうか、一斉に皆が歓声をあげて拍手しているようだ。
もしかしてこれは――
九十九の方は顔に笑顔を貼りつかせたまま、夫が水晶玉をのぞき込むのを見守った。
『白鷹家に栄光あれ! 閣下、本日の日没直後、スメルニアと我がユーグ州の兵から成る遠征軍が、オニウェル国境を破るべく総攻撃を敢行いたしました! 新しく投入されました龍と新兵器が活躍し、遠征軍は見事、国境を突破した模様です!』
州公が歓声をあげる。思わず地元の言葉で万歳と叫んだから、よほど嬉しかったのだろう。たちまちその端正な顔に、興奮の色が混じってきた。
「素晴らしい! さすがすめらの龍だ。新たな兵器も活躍したのだな。ときにそれは、どんなものだ?」
『緑の輝く球が出る大砲です。魔道帝国が先の国境戦で使いましたものと、同じものであるそうです』
「魔道帝国の兵器だと? すめらの軍は、それをどうやって手に入れたのだ?」
『その点の詳細は不明で、現在調査中でございます』
九十九の方は驚きのあまり息を呑んだ。
輝く緑の弾は先の戦いで、すめらの兵や船を軒並みなぎ倒した。
緑色なのは、翠鉱を使用しているからだ。しかしその鉱物は魔道帝国が産出鉱山を独占しているし、製法も明らかにされていないため、すめらの兵器工廠で作り出すことは不可能である。
(魔道帝国の兵器を売る、ヤミ商人が現われましたんか? あの護国卿が目を光らせてはる国で、そんな……)
「信じられまへん……せやけど国境を破れば、オニウェル政府は縮み上がって、色々譲歩してきはるでしょう」
「そうだね。こたびの遠征は、勝利したも同然だ。見てごらん、家令が遠征軍から来た幻像伝信を中継してくれたよ」
九十九の方の鼻先に、州公は嬉々として水晶玉を突き出してみせた。
「すめらの龍が映っている。すごいな」
柱国将軍が飼っていた龍たちはこの一年で次々と戦死した。なれど花龍の子たちはまだまだ、たくさんいる。その中から適当に選ばれたのだろう。
そう思いつつ水晶玉を受け取り、のぞき見たとたん。
「これは……!」
九十九の方はさらなる驚愕に襲われて、危うく玉を床に落としかけた。
「ものすごくまぶしいね。光龍と光量が段違いだ。もしかして、タケリ様ご本人かな?」
「え?! いえ、そ、それはありえまへん」
夫の無邪気な冗談を、九十九の方は慌てて否定した。
光り輝くミカズチノタケリは、悋気激しい花龍によって封印された。嫉妬深い雌龍はもう二度と、夫を外に出しはしないはずだ。
「こ、この龍はたしかに、タケリ様に瓜二つですが、それはたぶん親子であるからで――」
兵士たちの鬨の声が、耳に飛び込んできた。
幻像には映像だけでなく、ちゃんと音声も入っているらしい。勝利を得てわーわーと最高潮に盛り上がっている歓声を一色に塗りたくるように、龍の咆哮がかぶさってくる。
その雄叫びを訊いたとたん。
「え……!?」
九十九の方は、呆然と口を開けた。
『メーシーコォォオオオオオオッ!!』
それはまごうことなく。
『ドコニイルウウウウウウッ!! メシコォオオオオオッッ!!』
あのタケリ様の、咆哮であった。
「……うそ……や……」
ありえない――
「か、閣下……こ、この龍は……その……」
言葉を失った九十九の方は、腰が抜けてしまったように寝台に手をつき、よろりとしゃがみ込んだ。
百臘の方が、龍生殿に何らかの働きをしたのは分かっていたが、まさか。
何かを代償にして花龍に龍を出させた結果が、これだなんて。
あの雌龍にこれだけのことをさせるには、ごく普通の取引ではかなうはずもない。
(すめらを護ってきた無敵の守護神を……正真正銘、本物の神獣を顕現させるなんて! 百臘はん、あんさんは一体何を、あの雌龍に差し出しましたんや?!)
「大丈夫か? また吐き気が?」
「いえ、体調は安定してます」
九十九の方は動揺を押し隠し、なんとか気を落ち着けようと息を整えた。
アオビを急かして探らせているけれど、太陽神殿にいる鬼火たちからは、何の情報も返ってこない。大姫さまがご神託を降したゆえに、遠征軍の増援が出立した、との一点張りだ。
百臘の方はこちらに心配をさせまいと、戒厳令でも敷いているのだろうか。たぶんに、そんな気がする。
「大丈夫ならよいのだが。無理をしないで休むといい。私は白鷹さまに戦勝報告をしてくるよ。ユーグ州の子らが、立派に戦ったとね」
「お、お待ちください。私も一緒に参ります」
タケリ様の件はひどく気になるが、ひとまず置いておかねばならぬ。今、早急に手を打たなければならないのは、自分のお腹にいる子どものことだ。
(百臘はん、堪忍や!)
内心、友に謝りつつ。九十九の方はおのれの声音に細心の注意を払いながら、夫に切り出した。
「閣下、聖所に行く前にどうか、うちの話をお聞きください。わたしたちの子のことです。この子は今……大変な危険にさらされています」
子どものことと聞いて、州公の顔がたちまち真顔になる。
「危険? それは、どういうことだね?」
九十九の方は慎重に言葉を選んだ。
「わたしたちの子は今、白鷹さまの加護を、受けておりません」
「加護が、ない? いやまさか。お腹の子の加護が、パーヴェルを見事に退けたじゃないか」
「はい。あの、残念ながら、あれ以来消えてしまったようなのです。いえ、おそらく……消されて、しまいました」
「……だれに? ……なぜ?」
州公が問いを放ってくる。みるみる、顔を青ざめさせて。
九十九の方はわざと、答えるまでに間をあけた。
だれにという疑問が出れば。そして加護が消えたのが、この祠に入ってから起こったことなのだとすれば。
出せる答えはほぼ、ひとつしかないからだった。
「まさか……もしかして……」
「はい……恐ろしい韻律使いが、わたしたちの子の加護を消してしまったのだと、思います。すなわち……」
夫の目をじっと見つめながら、九十九の方はゆっくり答えを紡いだ。
彼が頭に浮かべたものを読み上げるように。
「わたしたちの子は、呪われたのです。……死んだあなたの弟に」