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7話 梅の間

  おびただしい数の赤い鬼火が、黒壁の円部屋に浮かんでいる。

 湾曲した壁には、水晶玉が置かれた台座がずらり。八つある玉が、美しい紫の明滅を放つ。


「磁風平速。水晶伝信、感度良好。帝都大衛府、本刻もつつがなし」

「直下駐屯第七都護府、本刻も敵影なし」

「赤塔より伝信! 直下の不知火(しらぬい)第一軍団、と魔道帝国軍と会戦。第十都護府第四拠点を放棄。第三拠点へ撤退。不知火(しらぬい)将軍さま、帝都より現地へ急行中! いまだ第十へ至らず!」

 

 玉に寄り添う赤鬼火たちが、明滅を読んで報告する。

 部屋の中央でそれを聞くアオビは、こおっと青白い炎を吐いた。


「なんと、撤退ですと?」


 青い鬼火たる彼は、この黒き塔の家司(いえのつかさ)。帝国防衛というこの塔本来の業務をこなす赤鬼火とは、まったく違う仕事を担っている。

 しかし外の戦況は逐次、把握しておかねばならない。


「緑塔より伝信! 第十二都護府の針峰(しんほう)第一軍団、第十都護符よりの援軍要請受諾。進軍開始しました! 針峰将軍さまは、いまだ帝都! 緊急打診中!」


 この黒の塔は、すめらの本国国境線〈長城〉を守る、守護の塔のひとつ。

 巨大な砲台であり、黒髪の柱国将軍が率いる五万の軍団の、司令塔でもある。

 そのため、直下の軍やほかの守護の塔、そして帝都の大司令部と、常時通信し合っているのだが……。


「赤塔よりさらに伝信! 第十都護府第三拠点、敵軍に包囲さる。撤退軍、第二拠点へ進路変更!」


 どうも、ゆゆしき状況のようだ。

 都護府とは、属国に置かれている防衛基地のこと。第十都護府は属国「西郷」に在り、不知火(しらぬい)将軍の軍団が駐屯している。その地が現在、敵の大侵攻を受けているらしい。

 不知火(しらぬい)将軍の軍を統轄する赤塔は、大わらわのようである。


「わが黒髪の軍団は、どうですか?」

「駐屯先の第七都護府は平時体制だ。主さまが『屍龍、第七都護府入り』との広報を大々的に流されたからだろう。帝国最強の龍がいると宣伝しているところに、侵攻するバカはおるまい」


 アオビの隣で真っ赤な鬼火が、身を長くして答える。この鬼火の名はアカビ。赤い鬼火たちを指揮する戦司(いくさのつかさ)である。


「さすが主さま」


 アオビは誇らしげに、青白いおのが身をゆらゆら。満足して部屋を辞しかけたが、「待て!」と、赤く燃える(つかさ)に睨まれた。


「アオビよ、すめらの帝国は属国をぐるりとまとっている。すなわち属国を盾として、おのが身を守っている状態よ。もしこのまま属国『西郷』がとられたら、どうなるかわかっておるか?」

「は、はい。ええと、西の本国国境線が、外敵にさらされることに?」

「その通り。この黒の守護の塔が、自ら敵に火を吹くことになる」

「な、なんとそれは」


 最近つとに、魔道帝国なる西の大国の攻勢が激しい。太陽神殿は柱国将軍たちを都護府に配して、鉄壁の守りを成していた。しかしこの大侵攻である。

 アカビの声は硬かった。


不知火(しらぬい)さまの火龍が都護府におれば、このような侵攻は受けなかったろう。敵は、龍たちが一斉に帝都に集まる時宜を突いてきたのだ」


 八人の柱国将軍は、それぞれ龍をお飼いである。

 龍は巫女を食らって得た神霊力で、敵軍を蹴散らす。

 炎の咆哮、嵐の咆哮。毒の息吹。いにしえの神獣に匹敵する威力をもち、ほぼ無敵なのだが。


「龍がいなければ、すめらの軍はかようにもろい。不知火(しらぬい)さまが間に合えばよいが…」

「あの、敵は龍が帝都へ集まる日を知っていたということですか? でもそれって、第一級機密ですよね? 龍はこっそり、都護府を離れてますよね?」


 アオビの蒼白いふるえ声に、アカビがおのれの赤い吐息を重ねる。


「魔道帝国の皇帝……紅の髪燃ゆるレヴテル二帝は、赤鋼玉の瞳を持つお方であるそうだ」


 真紅の炎がいらただしげに、あたりに燃え散った。 


「すなわちその神力、並ならず。生贄受領の日を、神眼で読んだのかもしれん。アオビよ、我が黒の塔、即時戦時へ移行できるよう、よくよく準備しておく。ぬしも覚悟しておけよ」





 しばし水晶玉の通信を聞いたアオビは、ふわり司令室を出た。

 

「しかし不知火(しらぬい)さまの到着遅延の理由には、びっくりしましたよ……」


 赤塔からの伝信によると。

 なんと不知火(しらぬい)さまは、ロンのトワ姫を火龍に食わせず、御領地の大殿に連れ帰ったらしい。かの柱国さまはこれまで生贄を一人残らず、火龍に食わせてきた。まさか目こぼしするとは、驚くべき事態である。

 緑塔からの伝信も意外なものだった。

 女嫌いの堅物で知られる針峰(しんほう)さまが、帝都にある別荘になんと、生贄の巫女姫を連れこんでいるという。かの御方は餌の質にうるさい。あまり力のない巫女はいらぬと返却する。しかしご自分の愛妾になさったことは、ただの一度もなかった。

 お二人とも月の姫をはべらせ、それぞれの褥に入り浸っていた――

 というのが、情報が飛び交った末の、暗黙の見解である。

 このお二人だけではない。ここ数日の伝信のやりとりからすると、柱国将軍八人中四人までもが、どうもそのような「ふぬけの状態」であるらしい。

 月の巫女姫たちは命を奪われるまいと、媚薬の秘法を行使したのでは。

 太陽神殿は、そんな疑惑を持ち始めているようだ。


「やはり月を食らうは、ひとすじ縄ではいきませなんだか」

 

 もし帝国が属国を失えば、こたびの不知火将軍の到着遅延は、大問題となろう。

 そもそも、龍が一斉に帝都へ集まるというこの事象。防衛線からたのみの龍がすべていなくなるというのが、問題であるのだが。もし大事となれば、柱国さまも太陽神殿も責任を回避すべく、月神殿を責めたてるのが目に見える。


「生き永らえた姫に、罪がかぶせられるのでしょうねえ……くわばらくわばら」


 螺旋階段をふわふわ下りながら、アオビは内心考えた。

 現在窮々であろう不知火(しらぬい)将軍にくらぶれば、わが黒髪の柱国さまはまったく卒がない。

 生贄受領の夜、連れてお帰りになったあの「しろがねの奥方」。あの方はまちがいなく、龍の生贄。

 なれど主さまは、八人中四人の「ふぬけ」の中には入っておられないのだ。

 いつものように、生贄は屍龍(シーロン)に喰わせたと、太陽神殿に報告している。入塔記録には、あの生贄の姫のことを「トウのマカリ姫」とは記していない。

 半日経たぬうちご出塔し、今は第七都護府におられる。

 微塵も隙を見せず、事実を秘匿。実に完璧なのだが……


「なぜに、(さい)?」


 出塔なさるまぎわ。連れてきた方の入塔記録を記されていかれた主さまの、御顔といったら……

 思い出すだけで身が縮む。はるか遠くから見ても震えてしまうほどおそろしい、鬼の形相。鬼気迫るその勘気に、近づく者は皆無であった。


『婆を殺すか、橙煌石を手に入れねば……』


 主さまがおどろおどろしくつぶやき、龍に乗ってご出塔なさったあと。書き込まれた記録をのぞけば、なんとそこには。



『トリ・ヴェティモント・ノアールの妻として入塔せり』



 アオビは大変困惑した。すめらの国で(さい)と呼ばれるは、正式な婚姻を成したご正室のみ。主さまには、そのご正室がすでにおられるというのに。

 まさか主さまも月の姫の魅了の技に落ちたのか?

『とりあえずは、側室として接するべし』――

 一抹の不安を抱えつつ。アオビはおのれの配下、蒼い鬼火たちにそう命じた。

 部屋は中層の「梅の間」に用意した。ご正室さまが住まう「松の間」。そのひとつ下の、第二室さまが住まう「竹の間」。そのさらに下にある部屋である。

 正奥さまは家司(いえのつかさ)と直接やりとりできる、「大鏡」をお持ちだ。先日、アオビが鏡の間からその「大鏡」へ、おそるおそる梅の間が埋まったことを報告すると。


『いったい何人目じゃ?』


 鏡の向こうの正奥さまは、またかと高笑いなさっていた。


『我が君さまはお優しいからのう。でもまたすぐ、ご領地送りになるであろ。ほーっほほほほ!』


 主さまも針峰(しんほう)さまと同じく、餌の質にこだわる。

 神霊力が微妙な巫女は龍に与えず、ひそかに塔に持ち帰る。そして正奥さまのおっしゃるとおり、ほどなくご領地の城に送ってそれきりである。そんな彼女らはおしなべて、入塔記録に「使い女」と記録されてきた。つまり侍女の扱いだ。

 しかし今回は、いつもと違う。はっきり「(さい)」と書かれるとは、尋常ではない……。

 だがアオビはこの件については、固く黙っておくことに決めた。ご正室さまの心を痛めるなど、まったくしのびないことだからだ。

 正奥さまは当然のごとく、根掘り葉掘り。新しい側室のことを聞いてこられた。


『はぁ? 巫女の修行をしたいじゃと? なんじゃそれは』

『配下の鬼火どもが申すには、どうも、シーロンさまに喰われたがっているそぶりで』

『ほほほ。おおかた餌にならぬと判断されたのが、悔しかったのであろ。月の女は気位が高いからのう』

『修行のために、部屋とお師さまを御所望です。しかし側仕えはいらぬと仰せで』

『ほぅ? それはまたずいぶんと、強気な』 

 

 鏡の向こうの正奥さまは目を細め、にやりと引き上げた口を黒い袖で隠しておられた。


『ではわらわが、よき師を紹介してやろう』


 正奥さまは、もとは帝都太陽神殿の巫女。ゆえに古巣に太いつてがある。

 しかし月の巫女とは、修行体系が違うのでは?

 アオビの不安げなゆらめきを、正奥さまは笑い飛ばした。

 

『心配するな。太陽も月も、さして変わらぬわえ。さしてな』


 甲高い笑い声に混じる低い呪詛に、アオビはぶるぶるおののいたものだ。


「さ、さてもさても! 本日も主さまのご無事を、奥様にお伝えいたしましょう」


 アオビは気を取り直して大鏡への回線をつないだ。

 主さまの武運長久を祈りながら。





 青草の香りがする、四角く薄い台座。

 そこにぽつねんと正座するクナは、力なく櫛で頭を梳いた。

 のろのろ腕を動かすたび、雅びな衣ずれの音がする。鼻をくすぐってくるのは、ほんのり甘い香り……。

 側室。

 渡された衣が香っているのは、その身分のせいか。おのれには、ひどく過ぎたものとしか思えない。

 この「梅の間」に案内され、はや三回ほど朝餉と夕餉をいただいた。

 白穀の椀とおかずが三品。汁物ひと椀。なんとも豪勢な食事が、塗りの食台に乗せられてくる。肉に魚に和え物。どれも今まで食べたことのない、上品な味付けだ。

 部屋はとても広く、どうにも落ち着かない。

 幾枚もつらなる格子窓。壁際に連々と置かれた、たんすや長持ち。大きく広げられた屏風。連なる几帳……

 実家の糸つむぎ部屋の、いったい何倍の広さだろう? 続きのご不浄部屋も、つむぎ部屋より広くて、クナは口をあんぐり。しばし言葉がでなかった。

 ひとつ上の階には第二室さまの「竹の間」。さらにその上にご正室さまの「松の間」があるという。

つまりクナは、第三番目の奥さまにされたらしい。

 即刻その身分から辞したいのだが、主さまはまだ、ご帰塔ならず。鏡曰く、はるか遠くの属国の地を守っておられるという。

 もやもやして仕方ないが、しばらくは待つしかないようだ。

 

『とりあえず、うえのおくさまがたに、ごあいさつしたほうがいいですよね?』


 気になって鏡にきくと、こちらから勝手にお伺いしてはならないという。向こうから召されなければ、直接会うことはかなわないそうだ。

 ご挨拶としては、何かお品を贈るのがよろしい。そう言われたがクナはなにも持っていない。途方にくれると、鏡は心配いらぬと請け負った。


『奥さまがご入用とされるものは、(シェン)家の大蔵が支度いたします。ですから奥様は何を贈られるか、お申し付けくださるだけでよろしいのです』

 

(ちゅうこくさまのざいさんをつかう? そんなおそれおおいこと)


 申し付けろといわれても。何を贈ったらよいか、まったくわからない。

 クナはふるえながら、鏡に任せた。すると鏡は今朝、正奥さまに華山の錦を二反、二の奥さまには一反贈ったと報告してきた。


『これで大丈夫です。完璧です』


 鏡はそう言う。しかし実際に手に取ったことのないものが、見も知らぬ相手に届けられるとは……奇奇怪怪。なんとも不可思議な心地だった。 

 鏡はクナが座す台の隣、専用の台座にしっかりはまっている。朝昼夕の三回、それはすうっと床の中へ沈み、家司(いえのつかさ)とやりとりしてくる。


「ただいま戻りましてございます、奥様」 


 今日も昼のやりとりを終えた鏡が、すうっと床から登って帰ってきた。


「大変おきれいですよ。一糸乱れずつややか。もう十分です」


 帰ってくるなり、やわらかな口調の指摘。

 しかしクナは髪を梳く手をとめなかった。まるで塗りたくるように、えんえん櫛をすうっ、すうっ。

 何度も何度も頭の中で唱えながら梳いた。


(このかみは、くろ。くろ。くろいいろよ……)


「奥さま。もう梳かずとも大丈夫ですよ」


(くろ。くろなの……)


 困ったように一瞬黙った鏡は、話題を切り替えた。


「おそれながら、本日より、巫女修行の教師からご教示を受けることができます」


 ぴたり。クナはくしけずる手を止めた。ほんのり頬を火照らせ、両手をついて鏡に這い寄る。


「ほ、ほんとうですかっ?」

「はい。下層三階『五の間』にて、教師とご対面ください」


(やった。やったわ!)


 うれしかった。この三日というもの、鏡という話相手はいたけれど、糸車はないしふわふわの綿も細いちょ麻もない。やることといえば髪を梳くことだけ。実に手持ち無沙汰で、何かしたくて死にそうだった。

 

「ありがとうございます!」

 

 それからほどなく、「梅の間」のぶ厚い扉が開かれた。

 めらめら燃えるものが、四方にぴたとつく。クナは手探りで階段をおりて。おりて。おりて――狭い部屋がたくさんある階へいざなわれた。


「ごめんください。おじゃまします」


 そうして期待に胸を奮い立たせ、案内された部屋にそろっと入ると――。


「ひ?!」


 奥にいる気配がたじろいだ。教師であろうその人は、声の様子からすると少々年配。女性のようだ。


「な、な、な……」 


 その人は息を呑み。そそ、と衣を引き。そして。


「なんという格好をしておるのじゃ!」


 甲高い声で叫んできた。

 

「は、袴はどうしたえ?!」

「あ、えっとその」

 

 召使いをつけてもらうのは恐れおおい。クナは固辞したが、渡された衣をひとりで着るのは難儀した。

 裳着の儀式を思い出しつつ、襦袢(じゅばん)(ひとえ)は手触りと鏡の指示で判別。なんとか身につけた。しかし袴は、足が出ぬほどくそ長い。芋虫のようにごそごそもぐってもうまくいかない。


「というわけで、はくのはあきらめました」

「はぁああ?! 裳はともかく、上衣はどうしたえ? 一枚も羽織っておらぬなど!」 

「そでがながくて、てがでなくて、かみをとかせないから……」

「な……こ、これは袴帯じゃぞ。(ひとえ)帯ではないわ。あああ、足が見えておるっ」

「ふえっ?!」


 クナは教師に腕をつかまれ、ひっぱり寄せられた。とにかく足は隠せと帯をほどかれ、(ひとえ)の形をぱぱっ。手際よく修正される。

 クナは衣と一緒に運ばれてきた四角い平箱から、適当に帯になりそうなものをとって腰に巻いていた。顔ばかりみせ、全身は鏡に映さなかった。見せて教えてもらえばよかったかも。そう反省するクナの前で。


「ひっ! 素足に草履? うううアオビ! アオビぃいいっ!」

 

 うろたえる教師は誰かを呼ばわった。


『なんでございましょうか』

「下層三階五の間に、おなごの着替えを一式届けよ!」

『は、はい、かしこまりました』


 相手の声はいったいどこから? 

 クナが鼻をくんくんさせて探ると、教師はさらにおののいた。

 

「な、なんじゃそなたは! 犬ころか?!」

「あ、あたしはトウのマカリです、先生。どうぞよろしくおねがいしま――」

「トウ家!? なにをばかなことを! そなたのようなものが、月の第一級の家柄の姫であるはずがないわ! 月の神官族はみな、藍色の髪じゃぞ。こんな……」


 教師はぐっと、クナのこめかみにたれる髪をつかんできた。

 

「こんなまっ白しろすけの、婆のような髪ではないわ!」

 

 瞬間。


 クナは石のように固まった。

 たっぷり十拍経てのち、やっとぎくしゃく手を動かし、おのが頭をぺたりとさわる。ちがいます、としぼりだした言葉は、がちがちに固かった。


「ち、ちがい、ます。くろい、です。あたしの、かみは、く、くろ……」

「はぁ? 何を言っておる、真っ白ではないか」


 ああ。やはり。そうなのか。


 声に刺されたクナの顔がぐしゃりとゆがむ。鏡に聞いたときも同じように言われた。

『雪のように真っ白です』と。

 

「で、でも、くろ……いんです……くろ、なんです……かあさんが、かあさんが……そういって……」

「う?! ちょ、ちょっと待ちや。ちょっと――」


 がしりと、教師のむなぐらを両手でつかんだクナの目から。


「そ、そういって……」


 大粒の涙がぼろぼろ、ぼろぼろ。零れ落ちた。


「く、く、くろ……くろいってええええ……」

「ひいい!? なにをする! は、離れやこの! この!」

 

 教師がばしばし肩を叩いてくる。しかしクナはしっかりぎっちり。相手の幾重もある衣の襟をひっつかんで、泣きだした。相手の胸に顔をおしつけ、幼い子どものようにわんわん。声をあげて。


「くろいってぇ……うああああああん!」


 久しぶりに人に会い、ホッとしたせいなのか。

 クナは決壊してしまった。どうにも泣き声がとめられなかった。鏡に聞いて以来じっとこらえていたものが、否、売られて以来心の底におさえつけてきたものが、どっと一気にあふれていた。

 熱いものが喉からこみあげ、とまらない。

 どんどん外へ流れ出て行く。とまらない。とまらない……。


「かあさああん! かあさあああああん!」


 本当にこわくて。おそろしくて。哀しかった。

 売られたことが。ここに連れてこられたことが。

 そして。


『肌は栗皮。髪は墨汁。みんなと同じだねえ』 


 かあさんに、嘘をつかれていたことが。


「は、離せ! 離せというにー!!」

「うああああああん! かあさああああん!!」


 とても、哀しかった。





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