4話 レナンディル
硬直する娘の枕元に置いてある名簿から、黒い渦巻きがふつりと消えた。
「いい感じですわ!」
「これは、いけるのでは?」
ゆえに太陽の巫女姫たちは、霊花が効力を発揮してくれたことを確信した。
それぞれが持つ植木鉢の中で咲いている白い花は、可憐で儚げな光を名簿にこぼしている。それはあたかも、羽ばたく妖精たちが羽から落とす鱗粉のよう。光を浴びた名簿はにわかに、ちりちりと神秘的な音をたて始めた。
「この霊花は、かつて白の癒やし手さまが、僕らの土地にもたらして下さったものです」
花売りの説明によって、姫たちの期待は大いに膨らんだ。
「天に浮かぶ島に咲いているそうで、金のりんごと似たような香りがするそうです。癒やし手さまはこの花がことのほかお好きで、トオヤと呼ばれる僕らの土地にも、その花畑を作りたがりました。由来はそんな無邪気なもので、僕の先祖は癒やし手さまを喜ばせたくて、花作りを始めたんだそうです」
美しく香り佳い花はたちまちトオヤの邑中に咲き誇り、ほどなく方々に売られるようになった。おかげで邑はうるおい大きな街に発展したのだが、事業を拡大するうち、この花から作った香油に不思議な効能があることがわかった。それゆえ花売り業はますます繁盛し、サンテクフィオンをはじめとするトオヤの花屋は軒並み、今のような大店となったそうだ。
「この白き霊花は、死者の魂を少しの間だけ、その亡骸に引き戻すのです」
いまわのきわの、ささやかな奇跡。天河に吸い寄せられる魂を地へ戻すその力は、遺族が故人と悔いの無い別れをするために使われる。
死者が事故などで予測できぬ急死をしたときとか。遠方にいる親族が死に目に間に合わなかったときとか。そんな痛ましいことが起きたときに、「蘇り」が切に望まれるらしい。
「人は死んだら、舟の棺に乗って天河へ昇らないといけません。でもこの花はいっときだけその力を消し去ってくれるんです。ですからきっと、名簿の吸引力も無効にできると思います」
抜けてしまった魂は、三日以内ならばなんとか引き戻すことができ、家族は死者と会話することができる。なれどもその効力は、たった数十分で切れてしまうそうだ。
それでも世の摂理をねじ曲げるのだから、すさまじいことこの上ない。花売り曰く、扱いはかなり難しく、天の島やトオヤのように地表よりはるかに高い処で育てないと花が咲かないという。
「仕様はそんな感じですが、スミコさんはまだ、亡くなってはいません。お体は元気なままですから、名簿から引き戻されたら万事元通りになるはずです」
ちりちり歌い出した名簿が、自ら光り出した。花の霊力が中に浸透したのだろう。
二人の姫はうなずき合い、祝詞を唱えて魂を呼んだ。すると――
「きゃあ?! な、なんて数! スミコ! スミコはどこ?!」
「まだ……出ていないようですっ」
中に封じられていたのであろうとおぼしきものがたくさん、するすると出てきた。
昏い影のような塊が、まるで芋づるを引くように次から次へと一斉に飛び出し、扉の方へと流れていく。
「とめどがありませんね。出るそばから蒸発していってますが、これは……」
「魂そのものではないようですわね。残留思念のようなものかしら」
まっとうなる魂は他に比べて重いのだろう。どうやら軽いものから先に、外に出てきているらしい。
ほどなく、怒濤の潮流の勢いが衰えてきた。そろそろすめらの星の魂が出てくるのではと、二人の姫が固唾を呑んだそのとき――それは、起こった。
「きゃあああ?! なんですのいきなり!?」「な……!? これは?!」
けたたましくも派手な音と共に、地下室の扉が突然吹っ飛んできたのだ。
木製の扉は真っ二つに割れながら宙を舞い、危ういところで硬直しているメノウの体をそれて、そのすぐ後ろに落ちた。あまりのことに二人の姫たちは植木鉢を抱えたまま、ぎょっと立ちすくみ、少しも動けなかった。
なんだおまえはと花売りの用心棒が怒鳴る声で、二人はやっとのこと、びくりとわなないた。
「何か、入ってきましたわよ?!」
「これは……霊体?」
落ちた扉のしたからするりと、どす黒い塊が現われた。
「それ」には実体がないようだった。中心部がゆらゆらと炎のように揺らぎ、大きくなったり小さくなったり、激しく収縮と拡張をめまぐるしく繰り返している。その塊の黒さに、姫たちが思わず息を呑んだ瞬間。花売りの背に負われている剣から、叫び声のようなものが放たれた。
『ぎゃあ?! 真っ黒クロすけ?!』
「ぺ、剣さん、あれって何?!」
『サンテクフィオン、こやつはまさしくクロすけです! 真っ黒のレ……レ……ああああなんでしたっけ、レのつく名前のやつです! い、いけません、私の体内の魔力計測装置が今、いきなり振り切れました!』
どういうことかと花売りが問うと、背中の剣は柄の赤鋼玉を激しく点滅させた。
『危険です! ただちに退避を!』
突然、あたりに甘酸っぱい果物の香りが漂ってきたので娘は驚いた。
これはそう、あのりんごの匂いだ。金に輝くおいしいもの。そういえば、これとよく似た香りの花もあった……
名前を呼んだから、記憶が呼び起こされたのだろうか?
こみあげる懐かしさが胸をついてくる。
しかし周りで舞い飛ぶ怨霊たちの気配がみるみる、上へ昇っていくのはどういうわけだろう?
一体何が起こったのかといぶかしみながら、娘は目の前のものに今一度呼びかけた。
「レナンディル……!」
「そう、だ。私は、レナンディルだ。レク、どこにいる? よく見えない」
「ここです。あたし、ここにいます! あなたのすぐ前に」
この人は本物? それとも……?
声はまごうことなく、黒髪様のものだ。とても透き通っていて、まるで水晶を打ち鳴らしたよう。
他の音は? 黒い衣はまとっていないのだろうか?
しゃんしゃんと衣が歌えば、きっと本物だと信じられるのに。
娘は耳を澄まし、「その気配」の匂いを嗅いでみた。
こおっと、吹雪のごとき凍気が顔を撫でてくる。相手の体はとても冷たそうだ。ほのかに漂いくる甘い匂いは、自分の涙が放つものと似ている気がする……
「きゃあっ……!?」
だが。伸ばした手で気配に触れたとたん、娘は悲鳴をあげた。鋭い痛みがびりりと、指先に走ったからだった。
「スミコ! いけません!!」
刹那、体が後ろへ引っ張られた。叫んだメノウが娘の上半身に腕を回して、異様な気配を放つものから引き離したらしい。
「待って! メノウさま待ってください、そこにいるのはあたしの――」
夫です。
指に走った痛みに困惑しつつも、そう叫ぼうとした娘の耳に、異様な音が入ってきた。
あろうことかそれは、懐かしむべき美声がびきびきと、無残にひび割れていく音だった。
「どこに……いる? 壁が厚くてよく見えぬ」
「レナ!? どうしたの?! なんて声を……!」
「レク……見えない……」
「スミコ! その黒いものは危険です! 人の形をしておりません!」
メノウが娘の肩を掴んで、前に出るのを抑えてくる。黒髪の人は偽物なのかと、娘は怯んだ。今の声は、いつものあの人のものとは違う。突然、割れた鐘のようなひどいものに変わってしまった。澄みきった美しい声が聞こえたから、きっと間違いないと思ったのに……
「だめです! 黒きものよ、お願いですから、その気配のまま近づかないでください! どうかこちらへ来ないで!」
メノウは娘を引っ張ってずんずん後退し始めた。黒いものは、よほど恐ろしい姿形をしているらしい。おののくメノウの囁きを聞くに、単に渦巻く影の塊というわけではないようだ。
「ああ、なんという異形……これは修羅? 頭に角が……牙……爪……なんと醜い……人ではない……これは……」
「待って、くれ……!」
ひび割れた声が追いすがってくる。それはまだかろうじて、美声の残滓をわずかに含んでいると、娘は思いたかった。また手を伸ばして触れてみたかった。なれど手練れの巫女は急いで祝詞を幾度も唱え、あっという間に分厚い結界を二人の周囲に張りめぐらしていた。
「スミコ、ここは形ある世界ではありません。ゆえに人が人ではない姿を取ることも、当然ありえるでしょう。でもあれは……あの黒いものは異様すぎます。人の魂の匂いがしません」
ばちりと、結界が痺れた音を出す。近づくものがくぐもった悲鳴をあげている。結界に触れて弾かれたのだろう。娘はまだじんじんしている手を胸の上に固め、ぐっと力を込めた。
「メノウさま、大丈夫です。あの人は人間ではないんです。龍蝶の魔人ですから、人間のようには見えないだけで……」
「魔人? いいえ。私が知る龍蝶の魔人は、このような魂の形はしておりませぬ。もとが人ならば、それとよく似た後光を放つはず。なのに、これはまったく違う。この気配は……」
結界が軋みだした。びりびりと激しい振動が襲い来て、体を揺さぶってくる。
黒いものが結界を何度もはたいてきているらしい。見えぬ、霧が邪魔してよく見えぬと、ひび割れた声が辛そうに呻いている。今一度祝詞を唱えて盾の厚みをさらに増やしたメノウが、娘のまん前に身を投げ出してきた。前へ行こうとする娘の胴を護るように抱きしめながら、無理矢理後退させる。
「め、メノウさま、あの人は決して怖いものじゃ……」
「いいえ! 今、あの者に近づいてはいけません! 未熟な巫女よ、この恐ろしい気配がわかりませんか?」
抗おうとする娘に、メノウは硬い言葉を怒濤のように浴びせた。
「これは、普通の生き物ではありません。そんな程度の低いものではない。もっと禍々しいもの。あるいは、神々しいもの。畏れてかしこみ、触れてはならぬもの……ああでも、これは黒い。どす黒くて、とても冷たい。燃えているのに凍えてしまう……!」
目の前のものは、会いたくてたまらない人。娘はそう信じたくて、揺るがぬ事実を思い起こした。黒髪の人が、橙煌石の冷気をまとっていることを。おのれのためにわざわざ手に入れてきて、聖印の炎を消して触れてきたことを。
「く、黒髪様はとても冷たいんです。橙煌石をお持ちだから、体が冷えてらっしゃって……」
「現世の持ち物のせいで魂が変質することなど、ありえませぬ。この者の冷たく燃える核は、あろうことか、偉大なるもののご神核とそっくりです。人に作られし神。大陸の国々を護りたもうたものの魂に……!」
「人に……作られし……?」
「ええそうです。すめらには、永らく国を護っておられたミカヅチノタケリ様のほかにもう一体、ひそかに偉大なるものが眠っております。私はかつてそれを封じている神殿にお務めしたことがありますゆえ、ご神核の形が分かるのです。ですから、まちがいありませぬ。この黒いものは……この醜いものは……魂燃ゆるこの核は……」
畏れのゆえか。硬い鋼のようだったメノウの声がふるふると震えた。
「これは、まったく何者にも制御されていない、野放しの……神獣です!」
「そん……な、まさか――」
だから触れてはなりませんと、メノウは娘を諭した。
気配をかすっただけで、そなたの手は痺れたでしょうと。
「人の魂ごときでは、あんな霊位のものに触れたら溶けてしまいます。力を封じなければ、接触は無理です!」
黒髪様は龍蝶の魔人であるはず。神獣であるなど、信じられぬ。
やはりこれは偽物なのだろうか。もしかして何かの由縁あって、名簿の中に封じられていたとか?
ざくざくと、メノウと娘が雪を踏みしだく足音が響く。
なれど相手のものはまったく聞こえてこない。宙に浮いているのかもしれぬ。
ああ、それにしても。
「待ってくれ……逃げないでくれ……!」
なんとかすれて、哀しげな声なのだろう……
「レナ……レナ……!」
呼び声にほだされて、後退する娘は思わず腕を差し伸べたくなるのをなんとかこらえた。止りたくて、足が鈍る。メノウはそんな娘をぐいぐい押して、迫りくる相手との距離をさらに開けた。
あたりに漂うりんごの香りが、むせかえるほど濃くなってきた。周囲にいた怨念たちの気配がすっかりなくなっている。どこへいったのかといぶかしんだ娘は、足もとに違和感を感じた。体が軽いと感じたとたん、踏み込んだはずの足から地面がなくなった。もう一方の足も、地を踏もうとして空を切る。
「浮き……あがった?」
驚く娘のそばで、メノウも一瞬言葉を失っていた。やはり同じく体が浮いてしまったらしい。これは黒いものの仕業なのだろうか。それとも……?
ふわりふわりと、体がさらに浮き上がる。結界ごと、上へ上へとなぜか昇っていく……
「待ってくれ!」
ギヤマンが引き裂き割れるような恐ろしい音が、あたりに響いた。ひび割れた声の主が、結界に爪を立ててひっついてきたらしい。
「そこにいるのか? レク……!」
「黒きものよ、落ち着きなさい! 今のままでは、わたくしたちはあなたに近づけません!」
メノウはぴしゃりと、結界にしがみつくものに言い放った。
「あなたの出力を下げてください!」
「出力? 何を言っている? 私はどこもおかしくない……」
「いいえ! あなたの霊位は高すぎます! あなたの神気に触れたら、私たちは冷たい炎に焼かれて蒸発してしまうでしょう。ですからどうか……」
結界が砕かれていくことにおののきつつも。メノウは声を張り上げた。
「気を鎮めてください! 神獣よ……!」
「神獣? いや違う。私は――」
割れた声が言いよどむ。
「私は……いや……ああそうだ……私は……そうだ……私は、思い出したのだ……忘れ去った我が力を……」
「レナ……?!」
「そうだ……思い出したのだ……遙かな昔、死にかけていた人間の子に宿ったときに……名も無き黒髪の子とひとつになったときに、私は自身の力を封じた……それを解放した……セイリエンを退けて、獅子の仔を屠るために。すまぬ……その力の扱い方を、すっかり忘れてしまっていたようだ……」
ぶつぶつと確かめるように割れた声が囁く。そうだ、そうだったと、ひとつひとつ記憶を喚起するように。
「私はわざと捕らわれた……いつか必ず獅子の仔が私の前にやってくる。そうなると読んで、囚人となって待っていた。予想通りにあの子はやってきたが……ひどく泣いていた。黄金のたてがみ振り乱すセイリエンは、あの子の前で私を三度殺した。獅子の仔は……あいつを止めるために黒獅子をくり出した。私とおなじ漆黒の影、神獣レヴテルニを。あの化け物のせいで大地が揺れて……金獅子州公の城の塔が毀たれた……」
娘は息を呑んだ。地震が起きた? このセンタ州の州公の城近くで? ということは、この人はごく近くにいたというのか。この人。言葉からすると、この人は間違いなく――
「レナ……なのね? あなたは、レナなのね。レナンディル……黒髪さま……!」
「セイリエンと私は、共に黒獅子に吹き飛ばされた……おかげで私を繋いでいた鎖が切れて、私は自由になった。獅子の仔は、その時私に教えてくれたのだ。君が近くに居て、危機に陥っていることを。だが……私が思い出した私の力が、あの子を屠ってしまった……情け容赦なく」
ひび割れた声がひどくか細くなる。その声は傷つけたものをひどく哀れんでいたけれど、後悔の色は、ほんの少しも醸していなかった。
「私はずっと望んでいた……我が伴侶を死に追いやったものを滅ぼすと。君を星船に乗せた赤毛の子だけでなく、その愚行を阻止できなかった私自身も、この世から消し去りたいと。だから私は、本当の私を思い出したのだ……我が願いは、これで成就される……」
か細い声の不穏な言葉に娘はおののいた。
この人は、何を望んだと? くれないの髪燃ゆる君の死。それから……
「あなたが死ぬなんて、嫌です……!!」
「私は龍蝶の魔人だ。だから我が魂も器も死ぬことはできない。君につけた加護も消えない。私はただ、私ではなくなるだけだ」
「レナじゃなくなる? それって……それってつまり……」
「私は、私を消去する。もはや、その作業は始まっている。私の姿は本来のものに戻りつつある……人の子とひとつになる前の姿に……」
「そんな……待って……嫌です!!」
「その気持ちはとても嬉しい。だが、伴侶を守れぬ魔人など存在してはならない。あの光っている子にも、しっかり贖わせる」
「つぐないなんか、いらないわ!!」
体が上昇する勢いがいきなり増した。ひしと娘を抱くメノウが安堵まじりの息を吐く。
神気放つものがやっとのこと出力を下げ、結界にすがるのをやめてくれたからだった。
空に亀裂ができていると、ひび割れた声が告げる。そこからどんどん、怨霊たちが出て行っていると。あれはきっと外への出口に違いないと。
「ここに飛び込んだとき、巫女たちが美しい花をかかげていた。君を助けるためにあの出口を開けてくれたのだろう。私は、ここに在る黒い大地を抑えよう。君を追いかける昏い記憶を君から切り離す。だからここで……」
「嫌です! 消えないで!!」
「さよならだ――」
「嫌ぁあああっ!!」
結界が消えた。相手の出力を見極めたメノウが消してくれたのだ。
しっかと肩や胴を掴んでいた腕も離された。彼の元へ行けと言わんばかりに、温かな手が娘の背中をそっと押してくる。
「レナ! レナ!!」
娘は必死に手を差し伸べた。ひどく冷たいものが、その手をぎゅっと固く握ってきた。
唇に氷のような感触のものが一瞬、触れてきたけれど。それはすぐに離れて、冷たい手もするりと抜けていってしまった。
直後、何もかもすっとんでしまうような強風が、その冷たい人から吹いてきて。娘は一気に高みへと飛ばされてしまった。
「嫌よレナンディル! やっとあなたの名前を思い出したのに!!」
娘はもがいた。下へ行こうと手足を必死に動かした。
なれど吹き上げてくる風はますます強くなり、娘の体をひたすら、上へ上へと運んでいった。
燦々と神々しい光が輝く、眩しいところへ。