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3話 願い

 青白い燐光が雪を焼く。

 兎が跳ねるような動きで、蒼い鬼火がましろの祠の中へ飛び込んできた。

 白い鷹がおわす聖所に、ひときわ大きな燃焼音が響きわたる。


「お待たせいたしました! アオビ、参上つかまつりましたっ!」

「奥様!」


 跳ねる鬼火の後ろから、茶色い毛皮の外套を羽織ったアヤメが入ってきた。その腕には、まばゆい白さを放つ貂の毛皮の外套がある。

 駆け寄るアヤメを迎えた九十九(つくも)の方は、白くけぶる安堵の息を吐き出した。


(ああ……あれから丸一日……経ったんや……)



 我が身から出でたあの恐ろしい光を思い出すと、足がすくむ。

 腹から出たまばゆい光は、「敵」を焼き尽くすと自然に消えていった。今、その残滓のようなものは聖所のどこにも見当たらない。胎の中も、今はまったく静かだ。まだ胎動は感じられぬ月齢ゆえそれが当然であるのだが……


(なんてことや。我が子のことを不気味に思うなんて)


九十九(つくも)の方は着ていた外套を脱いで、騎士のごとくそばに立つ夫の肩にそっとかけてやった。代わりに着込んだましろの毛皮は、つい先日夫から贈られたものだ。城からここに至るまでアヤメにずっと抱きしめられていたのだろう。ほのかなぬくもりがあった。


「奥様、出がけに白鷹の城に情報が入って参りました。すめらの増援軍が駐屯地に到着しまして、遠征軍と合流したそうです。龍生殿から来たりし新しき龍が、郡内の士気をこの上なきほど上げております。それはとてもまばゆく美しく、到着早々咆哮ひとつで丘をひとつ削り、あっという間に陣地を築きあげたそうです」

「そんなにも強い龍がまだ、龍生殿にいはったんか……って、待ちやアヤメ。これは……」


 鬼火と腹心の侍女に続いて、大小さまざまな箱が運び込まれて来た。参拝者のための寝所へと入っていくその行列の長さは、大陸を貫く街道のように延々果てしなく、最後尾がまだ見えない。

 一体どれだけあるんやと、九十九(つくも)の方は目をみはった。

 大量のお菓子と茶葉。幾種類ものパンや干し肉。香りよい果物。それらを淹れたり盛ったりするための美しい銀器――

 城から送られてきたのは物資だけではなかった。なんと料理人と給仕たちも帯同しており、彼らはいそいそと寝所の裏手にある中庭に、簡易の厨房を作り始めた。


「姫さま、お加減はいかがですかな?」

「通玄先生!」


 茶器や学術書がごっそり詰まった箱は、茶の師を先頭とする教師たちの列がうやうやしく捧げ持ってきた。愛用の琵琶が入っている箱、それから北五州の貴婦人がなべてたしなむ竪琴などの楽器類は、妃専用の食堂でいつも楽を奏でる小楽団が持ってきた。

 糸車や機織り機といった手仕事用の機械も運ばれてきたが、それらを抱えてきたのは、いつも第三妃に一緒に糸を紡いでいる侍女たちだ。運び手たちの私物もあれよあれよと大量に持ち込まれたところをみるに、彼らも妃につきあって祠に滞在するつもりらしい。


「アヤメ……」


 箱だらけの寝所に入った九十九(つくも)の方は、長持ちから主人の衣装をひっぱりだしてしわを伸ばすアヤメにおそるおそるたずねた。


「なんしかこれ、小宮廷の(てい)になってまへんか?」

「第二妃さまが、奥様が住まう階にあるものを、ひとつ残らず持って行くようにとお命じになったんです。白鷹家の妃が住まうのだから、何不自由ないようにしなさいと。だから召使いたちは、奥様がいつも使っておられる卓や椅子まで運び出して参りました。ああほら――寝台が来ましたよ」

「なんと……」

「マルガレーテは気が回るからな。私の至らぬところをよく補ってくれる」


 数人がかりで寝所に運びこまれた象牙彫りの寝台に、州公がにこにこ顔で腰を下ろした。彫りの深い顔立ちの中に嵌まる大きな目がきらきら輝いている。まるで珍しい蝶や甲虫を見つけた少年のように溌剌としているのは、我が子の命を脅かした者がこの世からすっかり、消えてなくなったからだろう。

 彼は上機嫌でアヤメに言葉をかけた。


「忠実なるスメルニアの娘よ、そなたの主人を誇りに思うがよい。白鷹様は、子を身ごもりしそなたの主人を我が家の一員と認め、護ってくださったのだ。不届きな反逆者は、もはや跡形もない。あやつは白鷹様の光で焼け溶け、すっかり蒸発してしまった。白鷹様は、我らに偉大な御技を示されたのだ」

 

 加護の光はすさまじい熱さであったと、州公が誇らしげに自身の腕を指し示す。

 眩しさからかばうべく顔を覆ったのだが、その両袖は焼け焦げていて、ひどい匂いを放っていた。それを見たアヤメは急いで別の箱を漁り、繻子(しゅす)織りの分厚い上着を出して、州公にうやうやしく差し出した。


「服が焦げるなんて……奥様は、大丈夫だったのですか?」

「ああ、全くなんともなかった。妃と我が子、二人分の加護が重なっていたからであろうな」

 

 州公曰く。パーヴェル卿が溶けたのは、白鷹様に見限られ、加護の力を消されたからであるという。

 蒼い石面の中におわす巨きな獣は、しきりに呆れかえったようなため息をついていた。ゆえにそれは事実なのだろう。なれど、パーヴェル卿を溶かした光は、白鷹の力ではない……

 九十九(つくも)の方は夫の隣に座りながら、心中ひそかに彼の言葉を否定した。

 

(うちの下腹から出たあの光……あの恐ろしいもんは決して、神獣が発しはったものやない……)


 白鷹様は無反応だ。州公の言葉を肯定も否定もせず、蒼い石の中でだんまりを決め込んでいる。もしかすると、あの光が一体であったのか、白鷹様にも分からないのではなかろうか? 無知をさらけだしたくないがゆえに、偉大な鳥は黙しているのかもしれない。

 

「物も人もそろったことだし、今宵はここで、白鷹様を讃える小宴を開こう。アオビよ、ここに来てくれた皆に、さっそく準備するよう伝えてくれ」

「御意! お任せを!」


 おのれの家とその守護神を崇敬する夫は、最高潮に盛り上がっている。頬を紅潮させ、いまにも白鷹様のおわすところに頭を打ち付けて拝み倒しそうな勢いだ。

 今ここで水を差すのは、野暮というものだろう。なにより、不確定な懸念など口にしたくはない。

 ゆえに九十九(つくも)の方は、夫に真相を告げることができなかった。

 我が子が、とてつもなく恐ろしいものかもしれない……ということを。

 




「晩餐には、柑橘類をふんだんに使用いたしました。つわりによく効く果物でございます」


 給仕係に気遣われつつ始まった宴は、寝所の裏手にある中庭で行われた。

 そこはどの部屋からも繋がっている広場で、大理石に縁取られた小さな泉がひとつ、中央にある。そばには天をつくような高さの大樹が、ギヤマン貼りの天井に向かってそびえている。 

 この樹は、白鷹様が幼鳥であったとき過ごした場所。すなわち、卵から孵ったところであるという。

 

「てっぺん近くに大きな鳥の巣があるだろう? あそこで聖なる母鳥が、白鷹様を育てたそうだ」


 聖なる樹の前に据えられた席にて、州公は隣に座す九十九(つくも)の方の手をそっと握ってきた。

 

「体調はどうだ? 加護の力で、つわりも和らいだかと思うが」  

「ええ、大丈夫です」

「卓に並んでいるのは、マルガレーテが妊娠中によく食した料理だな。当時は私もつきあわされて、よく食べたものだよ」


 なんとここに送られてきた料理人は、第二妃が身ごもったときに彼女の願いでわざわざ雇い入れた人であるそうだ。


「たしか、母体や赤子によいとされる料理を作るのに長けていると聞いた。男子が生まれやすくなるスープだのなんだの、そういうものもあったな。残念ながらマルガレーテにはその効果は出なかったが、お産自体はとても軽く済んだ」

「第二妃さまがご配慮くださったのですね。何から何まで……」

「マルガレーテはそなたのことを、かけがえのない家族だと認めているのだろう。嬉しいことだ」

「光栄でございます」


 樹のそばに小楽団が並び、品の良い曲を奏でている。先ほどアヤメや侍女たちがその曲を伴奏にして、優雅な踊りを披露してくれた。食後にはきっと通玄先生が、締めとしてまろやかなお茶を点ててくれるだろう。

 上機嫌な夫に微笑みを返した妻は、鷹が生まれた大樹を惚れ惚れと眺め上げた。

 なんと立派な木であることか。その太さは大人が五、六人手を広げてつないでも、まったく囲むに足りぬほどだ……


――……ソノ……ナ……


「おや? 今のは……?」


 突然。見つめる先――はるか頭上にある鳥の巣から誰かの声がこぼれ落ちてきたので、九十九(つくも)の方はいぶかしんで耳を澄ました。

 

――……イデ……ソノ子ヲ……


「子どもを?」


 あたりを見回す。夫も給仕係も、侍女たちも、他の人々もみな、樹にまなざしを投げていない。あそこから声が降ってきたことに、まったく気づいていないようだ。

 なれど九十九(つくも)の方の耳にはまたはっきりと、誰かの囁き声が聞こえてきた。

 

――ソノ子ハ……恐ロシイ……


(……誰?!)


――州公(アレクサンドル)ヲ護ルノデ精一杯ダッタ。パーヴェルハ守レナカッタ。恐ロシイ。


(……! まさか、この声の主は……でもなぜ、聖所ではなくあそこから? 魂が抜けて、こちらに来てはるの?!)


 鳥の巣から降りてくる声が震えた。


――ソノ子ハ、私ガ与エヨウトシタ加護ヲ弾キ飛バシタ。

  ソノ子ハ、白鷹ノ家ヲ滅ボス。

  ソノ子ハ、ユーグノ地ヲ血デ染メル。

  ソノ子ハ、ナニモカモ破壊スル。

  大地ヲ。海ヲ。空ヲ。ナニモカモ無クシテシマウ(チカラ)ヲ持ッテイル。

  ユエニ……

 

 声が、命じてきた。


――ドウカ


 否。その口調は命令ではなく、完全に懇願そのもの。

 弱きものが強きものへひれ伏しつつ訴えるような、「願い」であった。


――ドウカ、ソノ子ヲ生マナイデ。オ願イダカラ生マナイデ……

 

(な……どうして!?)

 

 九十九(つくも)の方は思わず口を押さえ、漏れかけた悲鳴を抑えた。隣の夫は通玄先生と歓談していたが、先生がこちらを気遣う視線を送ってきたのですぐに気づいてくれた。優しくも手を強く握り、顔色をうかがって来たけれど。妻は恐ろしさのあまり、言葉を出すことができなかった。

 

「どうした? 大丈夫か? 顔が真っ青だ……」 

「すみ……ませぬ。あの、急に気分が……」

「わかった。では宴は、そろそろお開きにしよう。無理せず休むとよい」


 席から立ち上がった夫の腕を、妻はひしと掴んで支えにした。


――ドウカ……ドウカ……


 大樹から降りてくる声が、背中に追いすがってくる。それはとめどなく何度も何度も、願いを唱えてきた。あたかも、瞳をしとどに濡らしているような哀しい声で。



――ドウカ ソノ子ヲ 

  生マナイデ クダサイ





 りりん りりん

 冷え切った地下室に絶え間なく、澄んだ鈴の音が響き渡る。


「かしこみ……かしこみ……」


 横たわる娘のそばで鈴を鳴らす人は、もはや声にならぬ声で祝詞を唱え続けていた。

 眼はしっかと娘を見据え、鈴の動きも変わらない。しかし顔色はひどく蒼く、すっかり血の気が失せ、その体はゆらゆら前後に揺れている。

 

「昨晩から飲まず食わずで、ずっとあのように……何かの結界を張っています」


 戸口に控える花売りの用心棒が、様子を見に来た二人の太陽の姫――リアン姫とミン姫に囁いた。

 二人の姫は今宵の公演を終え、宿舎に帰ってきたばかり。特にリアン姫は実に疲れ切った顔をしている。

 

「今日は稽古場にいらっしゃらないと思ったら、まさかここでずっとご祈祷なさっていたなんて……」

「てっきりひと晩でお帰りになるとみておりましたが、違ったようですね」

「霊花の到着が遅れているからでしょう」


 花売りの用心棒が、二人に向かって肩をすくめてみせる。 

 

「花が来るまで、あの巫女さまの体を護ると仰ってましたので」

「それであたくしは、命拾いしたわけですのね」

「はい? それはどういう意味ですか?」

「あ、いえその、なんというかその」

――「昨日も今日も見事にコケました。でもメノウ様は舞台を見ておられなかったので、怒られずに済みます。以上」

 

 にべもなく横槍を入れてきたミン姫を、リアン姫はふくれっ面で睨んだ。

 

「ちょっと、ここで話さないで! すぐそこにいるのに、聞こえてたらどうするのよっ」


 土台無理なのよ、飛天なんて無理なのよと、頬をますます風船のごとくにして、リアン姫がそっぽを向く。どうやら昨日今日とすめらの星の代役を務めたものの、かなりの失敗をやらかしてしまったらしい。

 

「着地失敗をうまくごまかしたのは、お見事でした」

「それ褒めてるんでしょうけど、ぜんっぜん嬉しくありませんわっ」

「尻もちついて、衣装がすっかりめくれあがるとか、もう……実に素晴らしいカンカンでしたね。妖艶な足芸に、皆様息を呑んでおられました」

「だだだだから、ここで話したら、あそこのメノウ様に聞こえてしまいますってば! それに今話題にするべきは、スミコの容態よ! 花はまだこないの? 花はっ」

――「すみませんー! お待たせしましたー!」

 

 リアン姫が力任せに床をだんと踏んだそのとき。廊下の向こうから両手に大きな籠を掲げた花売りが息せき切って駆けてきた。それを見た用心棒が肩の力を抜き、細い針金のような腕をホッと下ろす。


「社長、お待ちしておりました」

「ごめん、なんかね、本店の温室が調子悪くなって凍結しちゃったんだって! 花株が軒並みやられて大惨事になってた! とりあえず無事だった花をかき集めてきたよ」


 籠の中には何かの果物に似た芳香を放つ白い花が、植木鉢に植えられたまま数株入っている。

 二人の姫はその花株をそれぞれ捧げ持ち、祝詞を唱え続けるメノウのそばへと近づいた。

 

「メノウ様、これを……」「霊花が参りましたので、もうご祈祷は……あの、メノウ様?」

 

 姫たちは今一度、厳しい指南役に声をかけた。しかし彼女は微動だにせず、機械のように等間隔で鈴を振り、祝詞を唱え続けている。すめらの星を見下ろすその眼を伺うや、ミン姫は息を呑んであとずさった。


「なんてこと。魂が……体から……」

「待って! まさか、抜けているっておっしゃいますの? でも体は動いて……」

「これは……永続運動の術をお使いのようですね。意志を殺して体を自動的に動かす技ゆえ、魂が体内になくとも……」

「な……ではメノウ様も、あそこに行ったというの?!」  

 

 二人の姫は恐怖に満ちた目で、娘の枕元にある黒い名簿を見つめた。

 ほのかに、おどろおどろしい黒い渦を放っているものを。


「一体どれだけ吸引力がありますの? と、とにかく花を近づけましょう。この名簿に……」

「ええ。今はこれにすがるしかありません」


 二人の姫は願いを込めた祝詞を唱えながら、芳香よろしい花株を名簿に近づけた。白い花からこぼれるかぐわしい香りが名簿の上に流れ落ちると、黒い渦の回転が如実に遅くなってくる。


「もっと近づけましょう。もっと……!」


 黒い渦の中にほのかに光る筋が見えてくる。

 香りが具現化しているのだろうか? その筋はゆらゆら揺らめきながら名簿を包んでいった。

 まるで大きな手が優しく、包み込むように。

  




 ここはどこだろうと、娘はよろと身を起こしながらあたりを伺った。

 やっとのこと孤児院を抜け出せたと思ったら、ひどい目に遭ってしまった。

 たぶん連れ戻されてしまったのだろうが、ここはとても寒くて、周りにはなんの気配もない。

 時折頭上から子どもたちの声が聞こえてくる。

 どうか許してくれと、どの子も泣き叫んでいる……

 

「よくも逃げたな」


 三日? 四日? パンも水ももらえないで何日か経ったあと。ようやくのこと、狭いこの場所に院長が入ってきた。


「さあ服を脱げ。その体に嫌と云うほど、鞭を叩き込んでやる」

「い、いやです。ここから、出してください」

「恩知らずが。今まで何度、おまえにパンをくれてやった?」


 鞭が体を斬ってくる。娘は悲鳴をあげて狭い部屋の隅にあとずさった。


「とり、取引は、もういやです……! どうか……」

「黙れ。たっぷり仕置きを受けたら甘露を出せ! 足の間にいいものをねじこんでやろう!」


 びしりびしり、石の床に鞭が打ち付けられる。


「そ、そういうことをするなら、ど、どうか……どうか、」


 娘は血を吐くような思いで願った。


「どうか、あいして。ほ、ほんとの、恋人に、して――」


 どうしてそんな言葉が口をついて出たのか、よく分からなかった。たぶん飢えていたからだろうと思うが、よりによってこの人を選ぶなんて馬鹿げている。

 こんな人の心が欲しいだなんて。

 取り消そうか迷ったそのとき、けたたましい嘲笑が降ってきた。

 

「愛する? おまえを? 混血のおまえを? そんな者、この世にいるものか! 思い上がるな、忌まわしいメニス! わしが甘露に溺れたと思ったか? おまえの代わりなど、いくらでもいるわ!」


 衝撃がこめかみを襲って来た。

 鞭ではなかった。

 それは骨を砕くほど硬い拳で、渾身の力が込められていた。

 ああそうだと、娘は部屋の壁に打ち付けられながら思い出した。

 ここで嫌というほど殴られたのだっけ……ぐっと握られた拳でだけではなくて。たしか――


「ひう!」


 頭をかばった腕がばきりと折れる。思い切り蹴られたようだ。

 

「ふざけるな! おまえはわしを愛しているとでもいうのか?! ふざけるな!!」


 そうだ。

 ここで何度も蹴られたことを、娘は思い出した。甘い香りが満ち満ちるほど、延々と。悲鳴が出なくなるまで、怒れる院長はレクリアルをいたぶっていた。

 

(ああ、そうだった。レクはここで……)


 床に突っ伏し身を縮めながら、娘は思い出した。


あたし(レク)はここで、死んだ(・・・)……死んで孤児院の外に出されたあと、息を吹き返して……ああ、痛かったわ。とても、痛かった……)

  

 たしか最後にひどい一撃をくらったのだ。院長が胸ぐらを掴んできて、問うたときに。


「この気狂いが! こうなってもまだおまえは、わしにあの言葉を言うのか?! どうだ?!」


(そう。あたしは願う。いまわのきわに、か細い声で。どうかほんとに……)


「どうかほんとに……」


(あいしてくださいと)


「あいして、くださ……」

「黙れ!!」


 体がまた壁に飛ぶ。蹴られて倒れたのだ。院長が腕を振り上げる気配がする。

 これが終われば楽になれると、娘は刹那にやってくる衝撃を覚悟した。

 

――「だめ!! その子から離れなさい!!」


 しかし致命の一撃は、突如降ってきた怒鳴り声に遮られた。たちまち、院長の気配が消え失せる。背中にあたる冷たい壁も。あたりに充満していた、甘い血の匂いも……


「スミコ!」


 ここに在ることはありえない声が耳に入ってきたので、娘はぽかんと口を開けた。


「何をぼうっとしているのです? 黒い影に囚われて身動きがとれなくなるなんて。それでもそなたは巫女ですか?」

「あ……あの、あたし、は」

「そなたはスミコ。すめらの星。そうでしょう?」

「あ……そう、でした」

  

 娘はくらくらする頭を振って立ち上がった。


「そうよ、あたしはもうレクじゃない……レクだけどそれだけじゃない……で、でもどうして、メノウ様が?」

「体の劣化を防ぐために、そなたの体に入ろうとしたのですが……名簿のすさまじい吸引力にやられました。まあなんとかなるでしょう。出口を探しますよ、スミコ」

「は、はい!」


 暖かな手が手首を掴んでくる。メノウはせわしない様子で前へ進み出した。慌ててついていく娘は、彼女が時折力強く祝詞を発して、何かを追い払っていることに気づいた。

 

「まったく……ここは怨霊ばかりですね。うるさいことこの上ありません」

「あたしったら、簡単にとりつかれて……」

「修行不足のなにものでもありませんね。戻ったらしっかり臘を重ねなさい」

「はい!」


 娘は頼もしい人に導かれ、一所懸命足を動かした。どうやら長い回廊のようなところにいるようで、かつりかつり、二人の足音がえんえん響く。影たちは捕らえた魂を惑わせようと回廊を迷路のようにしているらしい。メノウはイライラと何度もため息をついて立ち止まっては、祝詞をあちこちに放った。


「まったくせわしないこと。一体どれだけいるのやら……うじゃうじゃ、うんざりするほどです。ああまた、まん前に真っ黒いものが」


 メノウが前方に手を伸ばす気配が聞こえた。力の波動が目の前を飛んでいく。

 しかしその障害物は他のものとは違い、一発で逃げてはいかなかった。


「少し骨のあるものが出てきましたか」


 メノウが今一度祝詞を放つ。しかし目の前のものは微動だにしない。

 何度やってもそれは消えず、そろりそろりと近づいてきた。

 

「く……引き返せと? なんと黒い……まさかこやつは、ここにいる怨霊の主なのですか?」


 メノウが娘をかばって前に出る。じりりとあとずさる二人に、目の前のものが声を発してきた。


――「そこに、居るのか?」

 

 声を聞いたとたん、娘は驚いて後退するのを止めた。


「よく見えない。そこに、居るのか? 菫色の魂の子」

「スミコ、なぜ止まるのです!?」 


 実際のものよりは幼い。けれどそれは、あの人のものだとすぐに分かる美しい声だった。


「獅子の仔が、レクはここにいると教えてくれた。おそろしいものに囚われていると。どこにいる?」


 信じられない言葉に娘は震えた。

 これは本物? 怨霊たちが作り出したまがいものではないのか?

 確かめたくて、娘はメノウの腕の制止をかいくぐって前へ出た。目の前に居るものがどうか、この名簿の中に居る霊ではないことを――ただの幻ではないことを祈りながら。


「レナ……!」


 願いを込めて、娘は手を伸ばした。

 おのれの感覚を信じて、ふつふつと異様な雰囲気を放っているものに。


「レナンディル……!!」  





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