2話 鷹の祠
雪がこんこん、とめどなく降ってくる。
夫が貸してくれた毛皮の外套の前を寄せ、九十九の方は薄い部屋履きで雪をみしみし踏みしめながら、祠への参道を慎重に進んだ。
夫の侍従と船員たちが露払いのごとく、目的地へと先導してくれている。皆一様に毛皮を着込んでいるが、肩をすごめて寒そうだ。
気球船での旅は思いのほか長かった。北から流れてきた雪雲が、意地の悪い風を叩きつけてきたからだ。雲の上に出るまで、風に煽られた船は少しも前へ進めなかったのだった。
「なんと日の短いこと……」
船上で明けた夜が再び訪れようとしている。空気は凍り、毛皮を羽織っていてもひどく寒い。
船から降りたところから続く参道は細く長く、巨大で真っ白な球型の建物へと続いている。その建造物は何の装飾もなく、ただただつるりとしていて、驚くほど巨大な卵のようだ。
「あそこに、神獣アリョルビエールがおられるのですか?」
息を呑んで問えば、妻の腕を支えて傍らを歩む夫はそうだとうなずき、いらいらと伝信用の水晶玉を腰の袋から取り出した。
「む……金獅子州公どのから伝信だと? 危急の用事? なんだ?」
白鷹の城にいる家令が、またぞろ伝信を取りついできたようだ。
「センタ州で地震が起こって、金獅子州公の城の塔が傾いた? 神獣が顕現したかもしれぬ? む……了解した。とりあえず、金獅子州公家に見舞の金品を送れ。目録については、センタ州に居る我が家の後見人にすべて任せ……」
点滅する水晶玉に耳を当てる州公の貌が、たちまち石のように硬くなる。
九十九の方の耳にも、困惑気味な家令の声がかすかに聞こえてきた。
『後見人様は本日、金獅子州公閣下に、〈あらたなるすめらの遠征軍のためにユーグ州は増援軍を送ります、貴殿の州軍もぜひにご参戦下さい〉とお勧めなさったそうです……』
「なるほど。増援派兵を、すでに既成の事実として金獅子州公に奏上したのか」
『御意。それと今ひとつ。〈我が君は今再び、第三妃様を将軍とし、戦地に派遣する所存でございます〉と申し上げたそうで……金獅子州公閣下は「姫将軍あっぱれ」と、お妃様をお褒めになる御言葉をお送りくださいました……』
州公の貌が歪む。トリオンは何をとち狂ったことを言っているのだと、彼は怒りの言葉を手に持つ水晶玉に叩きつけた。
「身重の妻をまた戦地に送る? そんなことさせられるものか! 我が妻がアリョルビエールの祠に籠もることを、後見人に伏せよ。第一妃と同じく、療養所にいると伝えるがよい。それから至急、三の妻の侍女たちをこちらへ寄こしてくれ」
急いで城から連れ出したゆえ、妻は寝着に夫の外套を羽織り、足には部屋履きという出で立ち。船に積み込んだ食料や物資などにも、あれこれ抜けがある。自ら厨房に立ち寄って、めぼしいものを袋に突っ込んできたらしく、缶詰はあれども缶切りを忘れた、ランプはあれども燃料の油壺を忘れた、といった具合だ。
思い込んだら命がけ。うっかりもはなはだしいが、州公は慌てていたがゆえ、九十九の方を護る鬼火やアヤメのことまで、頭が回らなかったらしい。
「無事御子が生まれるまで、三の妻は祠に籠もらせる。召使いたちだけでなく、衣装や化粧道具など、滞在に必要な品々もすべて取りそろえて送ってくれ」
『御意、閣下。御心のままに』
すまない、とにかくそなたの身柄を一刻も早く、安全圏へ移したかったのだ――
申し訳なさそうにそう言われたので、妻は夫の不手際を責める気にはならなかったのだが。大いに不安を煽る懸念が彼女のすぐ背後にあり、その奇声には思わず、身をすくめずにはいられなかった。
「Освободите меня!!」
ちらと後ろを見やれば、鎖で上半身をぐるぐる巻きにされた男が目に入ってきた。別の気球船で連れてこられたその者は、わざと土着の言葉でわめき立てている。
彼こそは州公の実弟にして大罪人たるパーヴェル卿であり、左右に二人ずつついている騎士たちにがっちり囲まれ、背中を押されて無理矢理歩かされているのだった。
「Почему я должен умереть? Для этой женщины!!」
「この期に及んで、我が妻を侮辱するな!」
州公が舌打ちして後ろへ言葉を投げた。パーヴェル卿の恨み辛みはやはりおのれに向けられているのかと、九十九の方は恐れを感じて肩身を狭めた。
「大丈夫だ。もうすぐ、あいつは二度と喋れなくなる」
輿入れのときパーヴェル卿に受けた仕打ちを思えば、彼に唾を吐いてもよいとは思う。
なれど、我が子のためにその命をもらい受けることになるとは――九十九の方はまったく思いもしなかった。
(あんな……怨嗟に染まりきった魂を神前に捧げて、大丈夫なんやろか)
すめらの神殿でも、神へ生け贄を捧げることは往々にしてある。しかして罪人が選ばれることはまず、ありえない。そうなるのは、権謀術数がからんだごくごく特殊な場合だけである。
本来ならば生け贄とは、心清い志願者から慎重に吟味されねばならぬもの。
穢れた者を神に喰わせるなど、神聖なるものに対する不敬もよいところであろう。
(心苦しいことやけど……もしここがすめらやったら、こういうときの贄には、志願した神殿の巫女はんたちが選ばれるか、あるいは、人柱と同等の権能のある、聖別された馬や牛のような獣が使われる……なのに白鷹の家のもんをわざわざ使うなんて)
つまりこれは、ごくごく特殊な場合。政治的な奸計に、当てはまるのではなかろうか。神獣アリョルビエールは、そんな生け贄をすんなり受け取ってくれるのか?
夫に問いただそうとした九十九の方は、伴侶の顔色を見るなりぐっとこらえた。
硬く口を引き結んだ州公は、すでに重々覚悟を決めていて、その意志はてこでも動かぬ雰囲気である。
なれどアリョルビエールは、この地の伝説では、史上最も高潔なる鳥として知られている。たとえ他の神々が堕落しようとも、独り孤空の高みにありて、正義を貫く者と讃えられている鳥だ。
(うちやったら、パーヴェル卿の魂は喰らいたくないわ。白鷹さまも、そう思いはるかも)
妻の懸念は的中した。
白い球形の祠に入った一行は、しずしずと中央にはまる透けた蒼い巨石へと近づいた。そのつるりとした平らな石面の下に何かが居るのが透けて見えたが、その中央にパーヴェル卿が据え置かれたとたん、大きな眼がぎろりと動いて睨み上げてきて――
コレハナンダ
びんと響く咎めの声が、一行をぶすりと刺してきた。
たしかにそこには、神獣が居た。石の中から醸される神気の、なんと重苦しいことか。
九十九の方は立っていられず、膝を折り、蒼い石面に手をついた。
同じく神気に圧されてひざまずいた州公は、怯みつつも白鷹の家に子が生まれることを告げ、そのための贄を捧げたいと頭を垂れた。
なれど石の中に在る者はただぐるぐる、不機嫌そうに唸り声を出すだけだった。
イラヌ。コンナ者ナド……!
「くく……くくく! ふはは! それみろ! Мне не нужно умирать! アリョルビエールは、贄など要らぬと言ってるぞ!」
「黙れパーヴェル! お前が邪悪すぎるから、白鷹さまはお気に召さぬのだ! だがお前の首をここで落とせば、渋々ながらも受け取ってくださるだろう!」
くつくつ勝ち誇った笑いをもらす実弟に、州公は呆れの言葉を投げ、騎士のひとりの腰から剣をすらりと抜き出して構えた。剣の先は小刻みに震えていたものの。しかし彼の頭上に持ち上げられた剣は迷うことなく、一直線に実弟へと振り下ろされた。
九十九の方は来たるべき一瞬を見るのを躊躇して、思わず目を閉じた。
「う……? これは……?」
なれどしばし経っても、肉を断つ鈍い音が耳に届いてこない。
どういうことかと目を開けた瞬間――
「ぐうっ! おのれ! 抵抗するかっ!?」
剣を持つ夫が何か不可思議な力で、おのがそばによろよろ押し戻されてくるのが見えた。
「ふは! ふははははは!! そんなモノで、俺を殺せるものか!」
パーヴェル卿がけたたましい笑い声をあげると同時に、彼を縛っていた鎖が木っ端みじんに砕ける。
彼の周りにひどく重たい、魔法の気配が降りてきた。
「実のところ、この時を俺は待っていた。ああ、待っていたとも。忌々しい結界が張り巡らされた白鷹の城から出されるのをな。しかもここは俺にとっては最高の場所だ。なべて白鷹の州公家の血を引く者は、神獣アリョルビエールの加護を受けられる。その膝元にいるのだから……!」
なんという力か。
パーヴェル卿を押さえ込もうとした騎士たちは、いきなり不思議な圧力に吹き飛ばされた。重い全身鎧をまとっているというのにたやすく宙に持ち上げられ、蒼い石面の外へ放り出され。硬い石の床にぐしゃりと叩きつけられた。
神聖なる石面から距離をとっていた船員や侍従たちが、悲鳴をあげながら祠から逃げていく。
「ふはははは! そうだ、逃げろ、逃げろ!」
狂った笑いを遮るように、九十九の方の眼前に夫が立った。おのれをかばってくれていることに気づいて、妻がそろろと石面から後ずさると、州公も弟を見据えながら後退した。
「大丈夫だ、妻よ。そなたの体内には、アリョルビエールの加護を受ける資格のある子が宿っている。ゆえにパーヴェルが放った今の力は、そなたには効かぬ」
「ああ、そうさ! だが、我ら三人を護る力は分けへだてなく全くの等倍。ならば、無いも同然! ゆえにクソ真面目に学園で修行し、魔道の技を鍛えたこの俺が、この場で一番優勢というわけだ! ふはははは!!」
「学園?」
「妻よ、不肖の弟が言う学園とは、とある職業訓練校のことだ」
剣を構え直した州公は歯ぎしりした。
「我が家の後見人があいつをそこへ入学させろと、我が父に奨めた。後見人自身が通った学園ゆえ、間違いは無いと」
「それであん方は、韻律の技を使うことができはるんですね?」
「我が州の大蔵を任せるために計理士の資格をとったはずだが、本当は黒き衣をもらえる法師の資格を取りたかったらしい。ゆえに韻律の技をそこそこ囓っていて行使できる。それを抑えるべく、結界の鎖でがんじがらめにしていたのだが……」
「ふははは! 馬鹿め! 子供だましの鎖など、アリョルビエールの加護で簡単にほどけるだろうが! さあ、かかってくるがいい。俺の首をとりたければ、己の力でなんとかしろ、愚かな兄上!!」
嘲笑が渦巻く。飛ばされた騎士たちはだれも起き上がれないようだ。白鷹の加護の力に完全に圧倒されているらしい。
石面の中央に立つパーヴェル卿は、いまや全身が淡く発光している。
ぴきぴきと髪を逆立てて、まるで鬼神のごとし。魔力を惜しみなく全開にしているようだ。
しかし魔道の力など恐るるに足らぬと、州公は騎士の剣を捨て、腰に挿している短剣を引き抜いた。
「ぬ? それは、我が家に伝わる護身の宝剣ではないか? だが白鷹さまの息吹がかかったそいつで、俺を傷つけることなど――」
「できぬが、わが拳ならば……!」
「ぐは?!」
パーヴェル卿のみぞおちに、州公が勢いよく伸ばした素の拳が食い込む。
それはまばたきする間もない一瞬のことで、妻の目にはまるで夫の姿が一瞬消えたように見えた。
「この宝剣は私の反射速度と敏捷性を引き上げてくれる。むろん、魔道結界などものともせぬ!」
「無駄だ! そのひよわな筋力で、俺を殴り殺せるものか!」
狂った大罪人の言った通りだった。州公は目にも停まらぬ速さで幾度も実弟を圧倒したものの、パーヴェル卿の体は少しも揺らがない。しっかと地に立っている。
「俺は軍人の訓練もちゃんと積んでいるからなぁ! 兄上のように蝶よ花よと大事に育てられていないから、打たれ強いのさ! そら!!」
野太い腕の張り手を受けた州公は、ふらりとその身をよろめかせた。素の腕力に加え、喚起された魔道の力が、狂える人の筋力を増強しているらしい。
なにより自分が足手まといになっていると、九十九の方は臍をかむ思いでさらに後ずさった。パーヴェル卿は再三さりげなく、九十九の方に突進しかけるような仕草をする。州公は逐一、その動きを全身で止め、妻を護っていた――
「閣下! さしでがましいことですが、ご容赦を! 加勢さしてもらいます!」
夫の背に庇われる九十九の方は、たまらず両手で印を結んだ。
天のまたたきに、かしこみ かしこみ
願い奉る――
声高らかに祝詞を歌い上げ、臘を重ねてきた巫女は、夫たる者に向かって神霊の力を放った。
とたん。パーヴェル卿が州公の脳天めがけて振り下ろした両の拳が、すんでのところで張られた結界にバチンとはじき返された。
「この……сукаが! 邪魔するな!!」
怒りで顔をどす黒く変色させ、狂える人が憤怒の雄叫びを放つ。
さても異様な力の凝縮に、相対する夫婦は息を呑んだ。めきめきと、蒼い石面に罅が入っていく。
妻は、おのれが成したことが逆効果であったことを悟った。
「あかん、火に油を注いでもうた……!」
「殺してやる!!」
野太い両の腕が魔力を貯めきり、ぎらりと輝いた刹那。
九十九の方が包んだ結界ごと、白鷹の州公はすさまじい勢いで真横に払われ、恐ろしい勢いですっ飛ばされた。障害を排除したとばかりに、パーヴェル卿がまっすぐ突っ込んでくる。九十九の方めがけて、鋭い槍の突撃のごとく。
「妻よ……!!」
(速い……! 逃げられへん!)
夫の悲鳴と同時にとっさに放った結界が、目の前で音をたてて砕かれる。ギヤマンが飛散したようなその音に、九十九の方は死を覚悟した。
ほのかに光る相手の腕が、迷わずおのが腹を狙ってくる。衝撃をくらわせ、子を流そうというのだろうか。母たる人は目を閉じて、とっさにしゃがみ込んだ。宿った子を護るため、我が身よ石となれと願いながら。
(あかん! 死なせたくない! うちの子を、死なせたくない……!)
輝く拳が鼻先に迫った瞬間――
「ぐああああああっ?!?!」
一拍の空白を置いて、恐ろしい絶叫があたりに轟いた。
「なん……やて?!」
九十九の方は驚愕して眼を見開いた。
予想された衝撃はこなかった。それどころか、我が身から――子が宿っている腹から、まばゆい光が流れ落ちている。なんとも白い、眼が焼けそうな光が。
しかして腹には何の痛みもない。
ただただ、恐ろしいばかりにまぶしい閃光が襲い来た者を退け、そして……
「熱い! ぎゃあああ! 熱いいいいいっ!!」
輝く腹を抱える九十九の方は呆然と、パーヴェル卿がのたうちまわるのを見つめた。
魔力に満ち満ちて光っていた体は、燃料が切れた灯り玉のように黒くなっていて、なぜか溶けていた。
これは閃光の力なのか。転げ回るうちに皮膚が剥がれ、肉がどろどろと液体のようになっていく。その体は、炎を点しきったろうそくのごとし。あっという間に溶け落ちて、原型を失っていった。
「なんやこれは……うちの神霊玉の力やない……! うちの腹から、なんでこんなものが……?!」
およそ信じられぬ光景に、九十九の方は今一度おのが腹に手を当てた。
まぶしい光の帯がそこから蕩々と流れ出している。だが、彼女にとってその光はただただ、単にまぶしいのみ。熱くも冷たくもなく、目を潰すほど輝いているだけなのだった。
「一体これは……何なんや……?!」
雪がこんこんと降っている。
孤児院の外に飛び出したその子は裸足のまま、積もる雪をざくざくと踏みしめた。
どこへ行けばよいのか分からぬまま、くんとあたりの匂いを嗅ぐ。
鼻を刺す凍気の中、温かみのありそうなものが、右手の先にあるようだ。ほのかに甘い、焼き物の匂いがする。
匂いをたどると、にぎやかな大通りに出た。雪を踏んでミシミシ回る車輪の音や、行き交う人々の足音が耳に入ってくる。
(おなかすいた……)
からっぽの腹を押さえるその子は、美味しそうな匂いのもとへふらふら、引き寄せられていった。
「おいしい栗だよ。甘い焼き栗!」
「あの、りんごは、ありませんか?」
するっと口をついて出たおのれの言葉に、その子は一瞬驚いた。
りんご。それが好きになったのは、いつのこと?
ああたしか、サーカスの見世物小屋にいたときだ。
曲芸師のおじさんが、おいしいよと言って、鉄格子ごしに手渡してくれたのだっけ……
「りんご? そいつはないな。栗を買ってくれ」
買えと言われて、その子はたじろいだ。
そういえば、物を買うにはお金というものが要るらしい。
幼い頃は母と二人きり、ヒトから隠れて過ごしていたから、そういうものは必要なかった。
母やかくまってくれたおじさんが龍蝶狩りで殺されて、サーカスの見世物小屋に売られたあとも、檻の中にじゃらじゃら投げ入られる小さな円いものが何なのか、よく分からなかった。
座長はその円いものがとても好きで、かき集めたそれを独り占めしていたから、おそらくよいものなのだろうとは思っていたけれど……
『あんたって何にも知らないのね』『こいつ、ばかじゃねえの?』
だから孤児院に入れられたとき、子どもたちからひどく笑われた。
あそこに送られたのは、まさに無知のせいだった。
優しくしてくれた曲芸師の人にこっそり連れ出されたとき、やらかしてしまった。
お店のものはお金を出して買わなければならないということを知らなくて、市場のりんごを盗んだと非難され、警官に捕まってしまった。りんごの匂いに惹かれて、ひとつ手に取っただけなのに。
孤児院でようやく、ヒトの社会のしくみというのをどうにか、子どもたちから聞いて覚えることができたけれど。院長と取引をすれば、パンや毛布と同じように銅貨というものがたまにもらえるということも、教えてもらったけれど……
(やだ……取引は、いや!)
龍蝶の自分だけではない。見目のよい子はみな、院長と取引を求められる。鳥肌が立つようなことをさせられるのだ……
「なんだよ、栗買わないならどっかに行きな。なにげにストーブに手をかざしてんじゃねえよ」
「ご、ごめんなさい」
――「見つけた! 逃げるんじゃねえ! レクリアル!」
背後から野太い声が襲って来たので、その子はひゃっと飛び上がった。
その声の主は孤児院に住む使用人のもの。その人は息を荒げて、その子のか細い腕を掴んできた。
「いやっ! 戻りたくない! 許して!」
「いいや、勘弁できねえな。院長様にきつく仕置きされるといい」
「レ、レナンディルを探してるんです」
その子はとっさにそう答えた。
「レナを見つけなきゃ――ひっ!」
「何言ってんだ。レナンディルだなんて」
呆れかえった声の主は、その子の頬を一発殴り、ぶるると馬がいななく荷馬車に押し込んだ。
「あー、そういや昔、そんな名前の子がうちにいたな。十五、六年ぐらい前か? 奇妙な奴だったが、やたら魔力が高いってんで、岩窟の寺院に送られたっけ。素質のある子どもをくれてやったら、あそこの魚喰らいたちから、たっぷり謝礼がもらえるからなぁ。でもおまえは、あいつみたいに外に出されることはねえだろうよ。龍蝶だし、魔力なんてからっきしだし。へへ、おまえが孤児院から出られるのは、院長様に飽きられて、くたばった時だけだろうさ」
だからあきらめろ。おとなしく院長に奉仕すればいい。
そうすれば、パンも毛布ももらえる。望んだものも、ほとんどは。
そう諭す使用人の腕から、その子は逃れようとしたけれど。
「いや! 戻りたくない! レナ……レナ……助けて!」
「ったく、うるせえな! 黙れ!」
勢いある拳が思い切り、その子の頭を襲った。
その子はがくりと荷台に倒れこみ、さらなる記憶の奥へと沈み込んでいった。
黒いものが渦巻く中へ――
その部屋に入るや、メノウは分厚い外套を脱ごうとした手を止めた。
「十分、冷えていますね」
きんと凍った空気が漂う中に寝台がひとつ置かれていて、そこに黒髪流す巫女が寝せられている。
彼女を案内した「花売りの護衛」と名乗る者が、痛ましい光景のわけを説明した。
「ホテルの方に頼んで、午後からこの氷室に移させていただきました。アカシさんが凍えてしまいそうでしたので」
「なるほど。ここへ来る前に、金獅子州公閣下のお城におわすトリオン様に会ってまいりました。昼までここに居らしたそうですが、ご多忙ゆえ、お城へいらっしゃらねばならなかったとか」
「ええ、そのようですね。忙しすぎて首が回らないとかなんとか言っていたような」
「太陽の巫女たちやトリオン様からざっくり、すめらの星の容態を聞いて参りました。イチコさんとやら、霊花はいつ届くのですか」
「社長が花を持ってくるのは、翌朝になるかと」
「そうですか……」
まぶたを開いたまま微動だにしない少女を見下ろしたメノウは、外套の内から巫女が使う鈴を取り出した。
「ではそれまで、この子の体をわたくしが護ります」
しゃりんしゃりんと鈴を鳴らし、厳しい指南役は歌い出した。
研ぎ澄ました針のような声音に秘められし力に、花売りの護衛は思わず息を呑んだ。
キンキンと、神霊力が飛び交う鋭い音が響き渡る。あたりが神気の気配に包まれていく。
「今こそ、借りを返しましょう。我が娘の命を救ってくれた感謝の念を、今ここに」
そうして動かぬ娘の体は、淡い光の中にすっぽり包まれた。
歌う者の、命の中に。