1話 孤児院
雪がちりちりさららと降っている。
白い空気に舞うのは細やかな粉雪。窓枠に積もった雪に鋭い輝きを添えている。
窓から見える空は真っ白だ。
暖炉の火が消されて冷え切った部屋の寝台に、目を見開いたまま硬直している巫女がひとり、寝せられている。取り囲むのは二人の太陽の巫女。隣の寝台からも、心配げに固まった巫女を見守るまなざしがある。
「昨夜の地震には、びっくりしましたね……」
床に臥しているその人――アカシは、怪我の痛みに耐えつつ、か細いため息を吐き出した。
昨晩この州都の大地はなぜか、ひどく揺れた。地の奥底から揺さぶられるような振動が二、三回続けさまに起こり、部屋においてある飾り壺が転げ落ちて割れたり、小さな戸棚が倒れたりした。
だがこの地の建物はしっかりとした石組みで、かなり頑丈らしい。このホテルや周囲の高層の建築物はとくに壁が分厚いのだろうか、崩れたりしているものは一棟もないようだ。
「今朝食堂に降りましたら、舞踊団の者たちも他の客も、その話でもちきりでしたわ。金獅子州公閣下の城内の塔が一本、傾いたとか……目立った被害はそれと、湖の水が少々、岸辺から漏れ出したぐらいらしいですわ」
太陽の巫女のひとり――リアン姫がおろおろと、固まっている娘のそばを右往左往する。
突如起こった天災よりも、娘の容態が気になって仕方ないようだ。
アカシは弱々しい声で二人の姫に訊ねた。
「何かの凶兆かと思いましたら案の定こんなことに……薬で眠っていた我が身の無力さが口惜しいです……スミコさまは、名簿の中に囚われたままなのですか?」
「はい。白鷹の後見人様が、名簿の中から魂を引き戻そうとしてくださったのですが。突如現われた金色の獣に引き裂かれて、それどころではなくなりました」
ミン姫が硬い顔で答える。
昨夜屋上で行った試みは、恐ろしい結果と成り果ててしまった。染めた黒髪を寝台に流している娘は、まったく微動だにしない。この体は、ただの抜け殻でしかないのだ。
件の名簿は娘のすぐそば。枕元に置かれているが、アカシが初めて見たときよりさらに黒ずんで見えている。
「トリオン様は、ご無事なのですか?」
「手足をもがれてしまいましたので、花売りさまたちがやむなく、吊り下げていた騎士さまたちを引き上げ、助けに入らせました。幸いあの方は不死身の魔人であられますから、そんな状態でも言動はしっかりしておられました……」
ミン姫の顔が、まるで幽霊でも見てきたようにひどく青ざめている。そのまったく血の気のない顔色から、アカシはその場の光景がどんなに恐ろしいものだったかを容易に想像できた。
一体何者が、あの魔力昂ぶる強者を追い込んだのだろうか。なれど龍蝶の魔人の生命力には、ただただ驚嘆するしかない。
「喋れる、のですか」
「はい、しっかりはっきり、いつもと変わらぬごく普通のご口調でした。曰く、名簿の中には非常に忌まわしい記憶が残っており、怨念化しているとのことです。ゆえに時を経て魔書の類いと化しているであろうから、決して中に入ってはならなかったのだと……。とにかく、名簿をスミコさまのそばから離さぬよう、体の劣化を防ぐため、部屋は決して暖めぬようにと指示されました」
「名簿から魂をすくい上げる手立ては……」
「花売りさまがお持ちになっている剣は、魂を食らう機能を持っているそうです。ですので、名簿にうずまく記憶ごと食らっていただき、スミコさまの魂だけを吐き出してもらうのがよろしいということになったのですが………」
黒い渦が渦巻いていた名簿は、並々ならぬ吸引力を持っているらしい。
花売りは何度も剣をかざして試してみたのだが、剣は名簿の渦を食べられなかったそうだ。
「こんなことは初めてだと、剣自身もおろおろしていると……花売りさまが仰っておりました。よって現在、トリオン様は屋上で騎士たちに囲まれつつ、スミコ様を救う手立てを考えながら体を再生なさっています。花売り様は試しにとっておきの霊花を使ってみると仰って、それを取りに本店へ戻られています」
「そう、なのですか。みなさま、手を尽くしてくださっておられるのですね」
冷静に説明するミン姫のかたわらで、リアン姫がどうしたらよいのと、口元をイライラと両手で覆う。その目にじわじわ涙がしみ出しているのを、アカシは痛ましい顔で見つめた。
クナが陥った事態により、太陽の姫たちとトリオンは一時休戦の体を約したらしい。
しかしこのままでは、公演に穴が開いてしまう。
花売りの本店はユーグ州の近くにある。つまり本日の公演が始まるまでに、霊花なるものを持ってくることは不可能だ。いや、よしんば幸運にも娘が復活したとて、すぐに舞えるほど動けるかどうかは大変に微妙である。魂が体から離れている時間が長引くほど心臓の鼓動は弱まり、手足は硬くなるゆえ、いきなり舞うことはできないだろう……
「メノウさまに……ご相談しないといけませんね」
観念したようにアカシがつぶやくと、二人の太陽の姫も不本意ながらうなずいた。
「あの御方は臘を重ねた月の巫女。何か有効な術をご存じかも知れません……スミコさまの状態を伝えて、指示を仰ぎましょう」
かくして。リアン姫とミン姫は戦々恐々としつつも、意を決して劇場の稽古場に赴いた。
メノウはいつものように誰よりも早くそこに来ていて、自ら見事なつむじ風の型を練習していた。
すめらに古来より伝わる古舞の方が好きだと言っていたが、新式の舞の方もなかなかの腕前である。二人の太陽の姫は、そのきんと張った型の美しさに一瞬息を呑んだ。
「昨夜の地震で都は大騒ぎですが、公演は予定通り行うことになりました。都の被害は、非常に軽微なものだとのことですので」
メノウの開口一番の言葉で、姫たちは公演が延期になるという一縷の望みを絶たれた。
ぱらぱらと他の団員がやってきて練習を始める中、恐る恐るすめらの星のことを話してみれば、鋭い視線がぐさり。舞踊団の指南役はいつもと変わらず厳しかった。
「つまり……すめらの星を護ろうとしたあなた方の儀式が、また失敗したというのですか? アカシに続いて、今度は護られる対象であったスミコ自身が意識を失ったなど……あなた方は、一体どんな術を行使しているのです?!」
屋上で行っていたのは、すめらの星を護るための儀式――姫たちがそう述べる建前の中にひそむ真実を見つけようと、きついまなざしが容赦なく姫たちを抉ったのだが。メノウはこふりと、疲れ切ったようなため息を漏らした。
「まったくこれだから、太陽の巫女の技は信用ならぬのです。太陽の巫女王も代々、無理に神託を引き下ろす強引さをお持ちであられますしね」
姫たちが、巫女王のことをなぜ引き合いに出すのかと首を傾げると、メノウは呆れかえったように肩をすくめた。
「太陽の巫女王のご神託のせいで、すめらの遠征軍がまた編成されたようです。団長様が昨晩月神殿よりその情報を取得しました」
「大姫さまが……!?」「なんですって?!」
たじろぐ姫たちをひと睨みして、厳しい人はきっぱり告げた。
「とにかくも。臘を重ねたわたくしとて、おそらくスミコの魂を取り戻すことはできぬでしょう。何かに囚われた魂を体に戻すことは、容易ではありませぬ。巫女王の力でもどうかというものゆえ、とりあえずは早急にできることをします。尚家のリアン、」
「は、はい」
いきなり名を呼ばれて声が裏返ったリアン姫は、思いもかけないことを命じられた。
「残念ながら、今いる月の巫女たちの中には、スミコの代わりに中央で舞える者はおりません。あなたが、すめらの星として舞いなさい」
「は……い?!」
「すめらの星についていた警護の騎士たちをそなたにつけるよう、白鷹の後見人に要請します。必要ならばすめらの警護兵もつけるゆえ、そなたは安心して、存分に職務に励みなさい」
「え、で、でも、メノウ様――」
「スミコのことは、花売り殿が用意するという霊花とやらに、まずは望みを託してみましょう。だめならば月神殿に奏上し、スミコを我が月の大姫様のもとに送致し、しかるべき処置を下していただきます。すめらの星は舞踊団にいるかぎり、月神殿の管理下に置かれておりますゆえ、太陽神殿には戻しません。よろしいですね?」
太陽の巫女王は今、不治の病で床に伏している。
病をおして神託を下す大技を使ったのであれば、ひどく消耗したことだろう。この上、すめらの星の所有権を主張して太陽神殿に身柄を戻し、魂を呼び戻す大技を行わせることは、著しく命を縮めることに他ならない。
ゆえに二人の姫たちは文句を言うこともままならず、有無を言わせぬ雰囲気のメノウの処断にただうなずくしかなかった。
「わ、わたくしがすめらの星に? す、すめらの星に……?」
「まあ、妥当かと思います。リアンさまが結構な舞手であることは確かですから。もしスミコさまがいなかったら、のっけから星の候補に挙がっていたのでは?」
すめらの星の様子を見に行くと言って出て行った指南役を見送り、ようよう稽古を始めるも。がくがく震えて怖じ気づくリアン姫を、ミン姫はごくごく冷静に励ました。
「メノウ様は私たちの力を正当に評価してくれたようですね。以前ならば、代役はあくまでも月の巫女から出したでしょうが……」
「で、できませんわよ、飛天なんて!」
「代役を務めたホン姫は、飛天もどきで乗り切りました。リアン様も、もどきでしのげばよいのです」
「人ごとだと思って……!」
「大丈夫です。リアン様にならできますよ。さあさっさと、それらしく見える型を練習するのです。ああ、まずはその髪を黒髪に染めないといけませんね。家格第一等の尚家の者が、見事な金髪を庶民の髪色に染めるとは、実に――ああ、続きの言葉は自重します」
「うううう……おぼえてらっしゃい、陽家の高慢姫!」
言葉を交わすうち、体の震えが収まりぷがぷが怒り出すリアン姫を、ミン姫は目を細めて眺めやった。
公演はなんとかなるだろう。問題は、すめらの星だ。
あの黒ずんだ名簿がそんなに危険なものだったとは。それが醸していたであろう異様な気配をまったく感じ取れなかったことを、陽家の姫君は心中痛く、後悔したのだった。
「修行不足……舞にかまけて、ずいぶん腕が鈍ったものです……」
「なんですって?!」
「独り言です。あ、腕の角度が違いますよ。飛天はもっと下から腕を振り上げるはずです」
「ああもう、分かってるならミン様が舞えばよろしいですわ!」
「世間様の脚光を浴びたいのはやまやまですが、私の舞はたしなみ程度ですので」
稽古場の窓から、雪が降っているのが見える。ミン姫はふと、どうでもよいことを考えて不安に満ちる気持ちを落ち着けた。
天より落ちる雪は、なんと白いのだろうかと。
寒気が漏れる窓から、ちりちりさららと音がする。雪が降っているようだ。
冷たい壁際にうずくまるその子は、膝を抱える腕に力をこめた。
尻を冷やす床には敷物がなく、固い石がむきだしのまま。芯から凍っていて氷のごとし。この部屋には暖炉もストーブもないのだろうか、吐く息が嫌に暖かく感じる。
周りにさわさわと、たくさんの気配が在る。話し声から察するに、ここにいるのは全部子どもで、男の子も女の子もかなりの数いるようだ。
かじかむ手に息を吹きかけて、一所懸命温めていると。
「さあ、ここで遊びなさい」
「は、はい、院長さま」
ねっとりした声にいざなわれて、女の子がひとり、冷え切った部屋にやって来た。
「わぁ、靴はいてる」
「その服お姫さまみたいじゃん。リボンいっぱいで」
「こいつ、お人形なんか持っちゃってるよ」
こつこつ中に入ってくる靴音と同時に、周りからうらやましげなため息が上がる。
親を亡くした不幸な子が、この孤児院に新しく入ってきたのだろうか?
いや。耳を澄まして聞いてみれば、そうではなかった。
「い、院長さまが、着ろって。お人形も、貸してくれたの……」
「ああ、なるほどね。おまえ今日、こっから出てくのか」
「はー、無視無視。おいだれか、おしくらまんじゅうでもしようぜ」
女の子は院長の思し召しで、どこぞの令嬢のような良い身なりにさせられたらしい。事情が分かると、子どもたちはあっという間にその子に構うのをやめ、部屋の隅へとばらけた。右から、数人がおしくらまんじゅうを始める物音が聞こえてくる。左からは手をこすりあわせたり、くるくる動き回ってなんとか寒さをしのごうとしている気配が流れてきた。
身なりの良い女の子はいたたまれなさそうにそわそわと、しばらくためらいの息を吐いていたけれど。
――「まあ……! なんてかわいい子なの?」
「本当だね」
ほどなく部屋にやってきた大人の男女に、たちまち声をかけられた。
「こちらへおいで。人形を持ってる子。そう、君だよ、さあ」
部屋の隅にうずくまる子は、鼻をくんとひくつかせて、おずおず動く女の子の気配を追いかけた。
固い靴音が入り口の方へ遠のいていく。その音をじっと聞きながら足をさすった。靴どころか靴下すらはいていない素足は冷たすぎて、もはや感覚があまりないのだった。
「本当にかわいいわ」
「そうだね。この子が一番いい。さっそく、手続きをしよう」
大人の男女は、女の子を連れて部屋から出て行った。その子がきゃっとかすかな悲鳴をあげたのは、男の人に抱っこでもされたからだろう。
彼らの気配が去ると、周りにいる子たちがひそひそ、しきりに囁きあった。
「ドレスにお人形じゃ、選ばれて当然よね。あたしたちはみんな、つぎはぎだらけのねずみ色の服だもん」
「いやちがうぜ、あいつがもらわれるって話は前から決まってたのさ。院長さまは、わざわざ感動的な出会いを演出したんだよ」
「だよな。今日のお迎えはコレで終わり?」
「どうだろ。もうひとりぐらい、ヤッカイ払いされるんじゃねえの?」
子どもたちの言った通りだった。ほどなくまた、ねっとりした声の主――孤児院の院長が、子どもをひとり、部屋に連れてきた。
「ここで遊んでいなさい」
こつりこつり、ためらいがちな靴音が中に入ってくる。その気配を一斉にうわっと囲んだ子どもたちによると、今度の子は無口な男の子。ひらひらの襟がついたブラウスにぱりっとした半ズボンという身なりで、絵本を持たされていた。
「やだ、あんたろくに字なんて読めないのに、笑える」
「おまえとろいし、使えない馬鹿だから、ここから出されるんだろ。それにしてもこの絵本、なんでかここにいっぱいあるよな」
「とりかえっ子のレナンディルの本よね」
「なんだよ、とりかえっ子って」
「あんた知らないの? あたしは知ってるわよ、死んだママが寝る前に読んでくれたもん。この本、うちにもあったわ」
レナンディルは妖精の子なのよと、知ったかぶりの子が得意げに話しだした。
真っ黒くろすけであんまり醜いので、レナンディルは木こりの家に生まれた赤子とこっそり取り替えられたのだという。
木こりのおかみさんは見目の悪いレナンディルがどうしても好きになれなくて、ある日森の奥に捨ててしまったそうだ。かわいそうなとりかえっ子は、人間や妖精や動物たちにいじめられながら逃げて逃げて……
「そしてとりかえっ子は、長い長い旅をして、自分のかたわれを探すのよ。何年も何年も。きっと自分を好きになってくれるひとがあらわれるって信じて」
「かたわれ? なんだよ、かたわれって」
「お嫁さんみたいものよ」
「ちがうよ、かたわれってはんりょのことでしょ」
「それ、お嫁さんと同じもんじゃないの?」
ひそひそざわざわ。子どもたちの声が周りではねる。
かたわれ?
部屋の隅でうずくまる子は、かすかに上げた首を傾げた。
真っ黒くろすけなレナンディルは、かたわれを探した? 長い長い時をかけて?
レナンディル。
レナン。
レナン。
うずくまる子は、その名を何度も頭の中でつぶやいた。
そのとりかえっ子のことをなんだかよく知っているような気がして、胸がぎゅっと痛んだ。
「出会えたの?」
痛みが心臓をえぐるようだったので、その子は思わず聞かずにはいられなかった。
「ねえ、レナンディルは、かたわれに会えたの?」
すると意地の悪い空気が部屋を染めた。
「へへ、字が読めない馬鹿がここにもいるぜ?」
「読めないの当然じゃない? この子まだ、学校行く前ぐらいのもんでしょ」
「いや、こいつ十年以上生きてるって、こないだ自分でいってたぞ」
「なにそれ、うそでしょ。どう見たって……」
「まあ見た目はすごく幼いけどさ。こいつほら、甘いやつだし」
「ああ、涙とかが甘い種族?」
「だからこいつって、院長さまのお気に入りだろ。出すもん全部甘いからさ」
嘲るような笑いがあがる。侮蔑や憎悪がじわじわこもるそのざわめきは、しかし突然、フッと途切れた。さっきとは違う大人の男女が、部屋に入ってきたからだった。
「そこにいるわ。素敵な子ね。この中で一番かわいいわ」
「とても賢そうだ。さあおいで」
案の定、絵本を持たされた男の子は夫婦であろうその二人に呼ばれ、凍てつく部屋から連れ出されていった。しばらくだれもがしんと押し黙っていたが、ふっと誰かが強がって囁いた。
「今日はコレで終わり? 追い出される奴、まだいるのかな?」
しばらく経って、どこかでごおんごおんと時を報せる鐘が鳴ったあと、部屋に足音が近づいてきた。靴底をこすりつけるような重い音がなんだかこわくて、部屋の隅にうずくまる子は肩を縮めた。
やって来たのはまたもや院長で、ぱんぱんと鋭く手を打ち、食堂へ行くようにと子どもたちに命じた。ここから巣立つ幸運な子は、今日はもういないようだった。
「ああレクリアル、おまえは行かなくていい。こちらへおいで」
子どもたちがわらわら動く気配の中。うずくまる子はのろのろ立ち上がり、呼ばれた方に歩いた。
院長ではなく、優しそうな夫婦においでと言われたい……
なぜか痛む胸を押さえ、そう思いながら。
「今日は二人捌けた。おまえたちは、実にいい子だ」
くつくつ、しのび笑いが降ってくる。
「みな、良い引き立て役だ。みすぼらしいから、着飾った子がとてもかわいく見える。引き取り手たちは大満足だったぞ」
肩にじとりと、院長の手が落ちてくる。薄い服がぐいと下に引っ張られる。暖かいところにいたのだろうか、あらわになった肩を撫で回してくる肉厚の手は、熱くて汗ばんでいた。
「孤児院の経営はきつくてなあ。兵舎にやるまで全員育てるなんて無理だ。子なしの夫婦がもっと来てくれたらいいんだが」
「あ、あの。服と本……本……ください……」
その子は震えながら言ってみた。
もらわれていった子たちのようになりたいと思ったから、口をついてそんな言葉が出てしまった。あの子たちのように、ここから出て行くのを許されたいと。どうか厄介払いされたいと願った。なぜならここは――
「く、ください……本……」
「欲しいならわしを満足させろ。だが、おまえをよそにはやらんぞ? かわいい混血」
汗ばむ手が腕を掴み、無理矢理引っ張ってくる。院長は凍てつく廊下を進み階段を降り、あっという間にねだった子を地下の部屋に押し込んだ。
「さあ、取引をしよう」
「や……やだ……やだ……!」
勢いよく閉められた扉に取りつこうとしたけれど、その子は無理矢理腕を引きずられ、ぼふりと弾力のあるところに押し倒された。分厚い手が、乱暴に服を剥がしてくる。荒くて臭い息が顔に降りかかってくる……
「やだやめて……!」
「本が欲しいなら、黙って足を広げろ」
「いや……!!」
股を押し広げようとする手を払いのけ、その子は必死に寝台から転がり出た。
「助けて……!」
床を這い、閉められた扉にすがりつく。開けようとしてノブをガチャガチャ言わせるも――なぜか扉は開かない。
「どうして開かないの?! どうして?!」
ここは部屋の内側なのに。鍵を回そうとしてもその鍵がない。
締めるものはなにもないはずなのに、開かない――
「お願い開いて! 助けて!」
背後に迫る荒い息に縮み上がりながら、その子は激しく扉を叩いた。ぐすぐすと泣き出しながら。
「助けて! 助けて……! レナンディル!!」
なぜか、知ったばかりのとりかえっ子の名が口から飛び出した。
そのとたん――
「……ひ!」
固く閉じた扉が、突然無くなった。前のめりに倒れ込んだその子はよろと立ち上がり、足首をつかもうとしてきた手を蹴り払って走り出した。壁に手をつけ、転ばぬよう注意を払いつつ、行き着いたさきにある階段をひたすら昇った。
逃げなければ。でも、どこへ? どこへいったらここから逃げられる?
途方に暮れつつもその子は急いで昇った。
すがりつくかのように名前を叫びつつ。休むことなくひたすら、上をめざして。
「助けて……レナンディル! レナンディル!!」