23話 まことの名
その晩、九十九の方の眠りはひどく浅かった。
なかなか寝付けず、横になると気持ち悪いので、クッションを重ねて上半身を斜めにしてうとうとしていた。だから扉が勢いよく開かれた音は、そこはかとなく感じとったのだが。まさかそれが夢ではなく現実のことで、揺り起こされるとは露ほども思わなかった。
「な……!?」
肩をいきなり掴まれた九十九の方は、仰天してまぶたを開けた。
小さな島にそびえる城の最上階近くの寝室にて、州公の妃にそんなことができる者は、ただひとりしかいない。相手の手をとっさに払うのをこらえた妻は、眠りを破った夫にたずねた。
「閣下? 今宵は、第二妃さまのところにお渡りだったのでは?」
白鷹の州公閣下は、婚儀をあげてからしばらく、九十九の方のもとに毎晩渡ってきた。しかし彼女が遠征より帰ってきてからは、「家族」に対してしごく平等に振る舞っている。
病気療養中でサナトリウムに居る第一妃のところには、週末二日かけて見舞いに行き、第二妃と九十九の方のもとには週に二度ずつ渡る。そして週に一日だけ、独りで眠る。
新婚の妻のところに一定期間入り浸ることも、その期間がすぎたら妃と週に二日ずつ過ごすことも、州公家の伝統的な習慣らしい。
州公閣下はかくも家の伝統を遵守する人であるし、赤子の公女はとてもかわいらしく、第二妃は美しく優しい人だ。よもや習わしを破り、妻子に飽いて夜のうちにこちらへ移動してくるなど、ありえないはずなのだが――今宵は異常なことが起こったらしい。
「センタ州にいる後見人から伝信が入った。緊急では無かったから明朝確かめようと思ったが、そなたの子に関することとあったので見てしまった。マルガレーテも、きっと懐妊発表の日時を問い合わせてきたものにちがいないと、喜んでくれたのでね……」
正式な診断結果を得た州公閣下はさっそく、家族の慶事を第二妃に知らせたようだ。
先輩妻が自分の懐妊を祝ってくれるとは、なんとありがたいことか。
数日おきに茶会をするほど彼女とは親密になっているけれど、九十九の方はそれでも躊躇してしまって、お腹に子が居ることを自分では報告できなかった。
ここでもすめらの後宮と同じように、よくよく注意しなければ、嫉妬されたり確執が生まれると思ったからだ。
第二妃は子をお家にとられたくない、生まれた子が女の子でよかったと常々口にするけれど、それは嘘では無く、本当に野心がないのだろう。夫に愛され民に尊敬されるがため、世継ぎを産まなければと意気込む者よりも、はるかに穏やかで寛容であるように見える。誰に対しても人当たり良く、茶会のようなごく親しい友人しかいない場でも、悪口や文句を口にすることなどめったにない。
「閣下、お顔のお色が……」
そんな第二妃のご好意が潰えたというのか――
血の気のない夫の顔から、九十九の方はたちどころに事の次第を悟った。
「まさか後見人様は、公式発表を……」
「……できぬと、伝えてきた」
押し殺した声が夫から漏れたとたん、重い鉄槌が下されたかのような感覚が九十九の方を襲った。震える肩をつかむ夫の手に、じわじわと力がこもる。
「では……うちの子は、つまり……無事には生まれへんと、後見人さまは予見しはったと……」
「そのようなことは信じたくない。信じるものか!」
怒りと哀しみがないまぜになった叫びと共に、白鷹の州公閣下は九十九の方を寝台から引きずりだした。何をと驚く間も、薄い寝着の上に何かを羽織る暇もなく。身ごもった妻は裸足のまま、暖かな寝室から城の屋上へと引っ張りだされた。
「すまぬ、これを。焦りすぎた」
びゅうびゅう雪風が吹きすさぶところにでて震える妻に、夫は自分が着ていた暖かな毛皮の上着をひっかぶせると、屋上の平らな広場に降り立っている真っ白な気球船に近づいた。
「今すぐ我が家を守りし神獣、アリョルビエールの祠へいこう。白鷹様の慈悲にすがれば、私の子はきっと、命見守りし月の女神の加護を受けられる。白鷹様が、女神の力を運んできてくれる」
祠に籠もれというのか。そこで祈りを捧げるべしと。
後見人がそう促してきたのかと問えば、夫は押し黙って答えず、九十九の方をガスの炎燃え立つ船に押し込んだ。
「絶対に不幸な結果など認めぬ。白鷹家は、そなたとそなたの子を守ろうぞ。私もこれより三日間、祠にこもる。身代わりの生け贄を捧げ、我が家が必ず、御子を得るようにする……!」
「み……身代わり?!」
――「金さま!」
夫の不穏な言葉に妻が眉根をひそめたそのとき。寝着の上に毛皮の外套を羽織った婦人が、屋上に現われた。それはまごうことなく第二妃で、ざくざく屋上に積もった雪をふみしだいて駆け寄ってきた彼女は、九十九の方に羽ペンに使われるような大きさの、煌めく白い鳥の羽を握らせた。
「神獣アリョルビエール様の羽です! これはわたくしが身ごもったとき、閣下からいただいたものですの。閣下の母君がお持ちであられた、安産のお守りですわ。どうかこれをお持ちになって」
夫をこの世に生み落とした方のもの? そんな大事なものをとたじろぐ九十九の方は、第二妃にひしと抱きしめられた。
「いつもわたくしの娘をかわいがってくださって嬉しいわ。今日も見事なすめらの織り物を、娘の服を仕立てるようにと贈ってくださいましたわね。女の子だというのに、こんなに気にかけていただいて……その羽がきっと、我が家の願いを白鷹に届けてくれます!」
「我が家の……?」
「そうです。夫と第一妃さまと、この〈小さき星〉とあなた。子を望まぬ家庭がどこにありましょう?」
「第二妃さま、その名は……」
マルガレーテという通名とは違う。今口にしたのは、大人になったときに与えられた、彼女のまことの名前ではないのか? 家族以外には秘められしものでは?
夫の真名は結婚したその晩、そっと耳に囁かれたけれど、まさかこの人が名を教えてくれるなんて――息を呑んだ九十九の方は、道中気をつけてと第二妃にそっと背を押された。
「妊娠なさったこと、どうしてあなたの口から教えてくれませんでしたの? ご遠慮なさらないで。わたくしたちは『家族』ですのよ」
「第二妃さま、うちの名は――」
「さあ、お急ぎになって。あなたの真名はあとでゆっくり、お聞きしますわ。かわいい御子と、この城にお戻りになったときに」
「妻よこちらへ。船を出せ!!」
州公閣下が急いで招集したのだろう、気球船にはすでに船員が幾人も乗り込んでいた。
寒風吹き付ける座席にはすでに、小さな毛皮の天幕が作られていて、夫は九十九の方をその中へと引き入れた。
船の中央でぼうぼうとガスの炎柱がいくつも燃えたち、ぱんぱんに膨らんだ気球をいくつもつけた船が浮かび上がった。大丈夫だ心配ないと、夫は励ますように妻の肩を抱いたけれど。確たる希望の手立てがあるなら、なぜこんなに顔を蒼くしているのだろう?
震える夫をいぶかしんだ九十九の方の耳に、しゃがれたわめき声が飛び込んできた。
「放せ! 俺を誰だと思っている!!」
聞き覚えのあるその声は、屋上の隅から飛んできた。二度と会いまみえたくない者が発していると気づいて、九十九の方はたちまち、背筋をぞくりと凍らせた。
「あれは……あん方は閣下の弟君……パーヴェル卿では……」
「牢から出した。後続でついてくる気球船に乗せ、祠へ運ぶ」
「運ぶ……?」
「大逆罪を犯したあれは、我が州の法院より死刑を宣告された」
「はい。遠征より戻りましたとき、そうお聞きいたしました」
「処刑の方法は私の一存で決められる。最後の最後、我が家のためにその命が役立つこととなれば、家名を汚した恥ずかしき不名誉も、いくばくかは拭われよう」
その命を役立てる? ということはまさか、州公閣下はあの弟君を御子の身代わりに捧げるというのか?
「閣下それは――」
「よいのだ。これでよい……これであれの不祥事は、償われる」
この人は本当にそれでよいと思っているのだろうか。我が子が人の命を――実の弟の命を糧にするなんて……
戦慄する妻の隣で、夫はぴかぴか光る水晶玉を腰に下げた袋から取り出した。
「後見人からの着信は今、拒否しているはずだが……まさか魔力でそれを破ったか?」
警戒の色をかもして玉を睨んだ顔がたちまち、緊張を解いてゆるむ。
伝信を送ってきたのはトリオンではなく、臣下団に名を連ねる大臣のひとりであったようだ。
水晶玉に耳を当てた州公閣下は、力強い励ましを受けたかのように口元をほころばせた。
「我が妻よ、これは吉兆であろう。そなたの故国の元老院が、オニウェルを狙う遠征軍のために援軍を送ることを決議したそうだ」
「な……ほんまですか?!」
それはようよう叶わぬことだと思っていたのに。太陽神殿はこれ以上はない劣勢にあるはず。増援を得られる可能性など皆無に近いと、九十九の方は読んでいたのだが。
「いったいなぜ、そんな風向きに……」
「龍生殿と太陽神殿の巫女王どのがご神託を下されたゆえ……だそうだ」
「龍生殿!?」
龍を殺されて憤っていた花龍たちがなぜ、太陽神殿側についたのか。
(両方の神殿の巫女王が神託を出しはった?! ということは、百臘はんが、何かしはったんか?!)
龍生殿の巫女王は、百臘の方の実の妹だ。仲が悪いし、妹の方が巫女としては永らく地位が高かったが、今は等位。そして血族内に限れば、姉妹の序列は天地がひっくり返っても永遠に変わらない。
百臘の方は、「姉」として「妹」に何か特別な働きかけをした――そうとしか思えない。しかし一体何を代償として、この事態を起こしたのであろうか? 石化の病はずいぶん進行しているはず。もはや神託を降ろすことも容易ではないだろうに……。
「増援軍には、龍が一体加わっているそうだ。龍が居れば、遠征軍はなんとか立て直せよう。我が州もいくばくか兵を送るよう、臣下団に命じることとする。ゆえに安心してくれ、我が妻よ。軍の采配はすめらと我が州の将軍たちに任せ、そなたは無事に子を産むことに注力してほしい」
「は……はい……」
龍生殿はなぜに動いたのか。百臘の方は一体何をしたのか。
ああそれに。
我が子のために、生け贄を受けてよいのか……
今にも混乱しそうな気持ちを落ち着けるべく、九十九の方は手の中にある白い羽を握りしめた。
『夫と第一妃さまと、この〈小さき星〉とあなた……』
名前という、命そのものを預けてくれた人の笑顔を思い出しながら。
――『わたくしたちは、『家族』ですのよ 』
(うちの家族は黒の塔の……いやもう、うちの家族は……寄るべき家族は……)
水晶玉の中の光が力なく明滅して消えゆくのを見て、白鷹の後見人は弱々しくため息をついた。
「着信拒否されたか」
第三妃に関することを伝えてから何度か、白鷹の州公に直接伝信を送っているが、相手が反応する気配はない。
いつものように単刀直入に答えてしまった。
懐妊の発表は本当にできないから、「できない」と、正直に答えただけなのだが。
「認めたくないのだな……その親心は分かるが、閣下は優しすぎる」
いや、自分が冷たすぎるのか。
第三妃がその身から恐ろしい赤子が出てくるのを見ることのないよう、共に死なせてやるのがよいと思ったのだが。残念ながら、赤毛の神帝は彼女を殺してくれなかった。くれないの髪燃ゆる君は何でも見通す神眼の持ち主だと評判だが、まことの予知はできないのだろう。
「もし未来が視えていれば、あいつも私と同じ考えに至ったと思うのだがな」
くすりと後見人は口の端を引き上げて笑い、光の消えた水晶玉を黒き衣の袖になんとかしまいこんだ。左の手で左の袖に入れるのは意外に至難だ。しかし右の腕は、右の袖ごと肩先からちぎれてしまっている。ぎゅるぎゅると周囲に細胞のかけらをまき散らしながら、猛烈な勢いで組織が再生されているが、指が生えてくるまでにはまだ数日かかるだろう。
しかし。完全再生を待っているひまはない――
壁にたてかけた銀の杖を取り、後見人はすめらの巫女たちが泊まっている宿舎の屋上へ至る階段を急いで昇った。
てっぺんにある扉は施錠されていて、かなり強力な結界がかかっていた。右手がなければ韻律は使えない。そのことをよく知るいまいましい剣が彼の右腕を吹き飛ばしたが、幸いそれに変わるものを持っている。
「降りよ音の神」
左手に持つ銀の杖をちぎれた右腕の先に差し向けて、後見人は魔法の気配を降ろした。
はじけよという韻律の言葉と共に、広がる気配が閉じた扉を吹き飛ばす。
とたんにごうと、雪交じりの風が襲ってきた。
屋上は降りしきる雪で真っ白だ。このぶんでは朝までに相当積もるだろう。
白く吹雪いている屋上の奥から、すめらの巫女たちの叫び声が聞こえる。
「スミコ! 戻ってきて! 早く!」
「いけません……魂が名簿に吸い込まれたまま浮かび上がってきません! このままでは……」
後見人は哀しげに眉を下げた。
花売りと彼の用心棒が扉がなくなったことに気づいて、それぞれの武器を構えるのが見える。人より腕の多い用心棒がもつ鉄糸が、ぴんと左右に張っている。何かに使用中だから、今のままなら攻撃されることはないだろう。花売りの剣は龍蝶の魔人であるこの身を裂くのに多大な力を消費したから、いまはへろへろ。力を放つどころか話すこともままならない状態のはず。
後見人は瞬時にそう判断し、雪が積もりだしている屋上に足を踏み入れた。
黒ずんだ名簿を炎にさらす巫女たちは、祭壇に近づく者に気づいて血相を変えた。
「トリオン様が来てしまったわ! スミコ! いますぐ出てきなさい!」
「後見人さま、名簿を処理するのはしばしお待ちください! この中にスミコさまが……!」
二人の姫の足下には、倒れている黒い髪の娘がひとり――
「遅かった……」
後見人は哀しげに囁き、黒ずんだ名簿を見つめた。
「すめらの星は彼女の過去に囚われた……だから、焼いてしまいたかったのに」
もう無理だと、彼の口から恐ろしい言葉がぽつりと漏れ出た。泣くのをこらえるようなうめき声が。
「無理だ。レクはもう、戻ってこれない――」
頬に優しい愛撫が降りてきたので、赤毛の少年は寝顔のまま、満面の笑みを浮かべた。
大きな手のぬくもりはここの――白い船の白い褥より柔らかくて心地よく、ウサギの絆創膏を貼った頬が自然に赤く染まる。
「ジェニ、いつの間に?」
少年はゆっくりまぶたを開き、褥に入ってきた人の姿を捉えるべく、真紅の義眼の焦点をきゅるりと合わせた。
「この船って今、西の果ての海のど真ん中にいるはずだけど。北五州の海岸線を大回りして、ヴォストーク州に行くんだよ。トリオンの警戒網がバカみたいに強いから、センタ州に行くのは泣く泣く諦めて……ねえ、今までどこにいってたの? 寂しかった……」
スミコという名も舞踊団のぶの字も口に出さなかったが、相手は少年がセンタ州へ行きたがった理由をしっかり察したようだ。片肘をついておのが美顔を支えるその人は、獅子のたてがみのような金の髪をしゃらと鳴らし、あさっての方に視線を投げた。少年と同じ色合いの瞳が、怒っているように燃えている。問いに答えるつもりはまったくないらしい。
「よく眠れたか? 俺の子……」
「うん。ほっぺた怪我してから毎日ちゃんと、霊薬飲んでるから。以前にも増して猫みたいに、一日の半分以上眠ってるよ」
「それは知っている。聞いているのは寝心地だ」
「ここ数週間サイアク」
頬を撫でてくる大きな手にそっと触れつつ、少年は口を尖らせて即答した。
「だってジェニ、ずうっとそばにいなかったもん。ジェニと一緒じゃないとよく眠れない」
獅子のような人のまなざしが戻ってくる。一瞬その顔にえもいわれぬ優しい微笑が浮かんだが、それは幻であったかのようにすぐに消え去り、いつものきつい勘気を帯びた貌が現われた。
「ぬいぐるみを買ってやる。見事なたてがみのついた、でかい獅子の奴を」
「なにそれ。やだよ、本物のふさふさがいい」
「俺は忙しい。おまえの顔を見たら、用事ができた」
「え……待って。ちょっと」
獅子のような人は少年の額にさっと口づけを落とすと、背を向けて褥から降りた。
「ウサギの絆創膏などでごまかされるものか。Lサイズだと? 治療しているのに傷が広がっているなどありえない」
「かっ……かすり傷だよ。眠れば治るから――」
「魂についた傷をさらに悪化させることができるのは、傷をつけた本人か、そいつと同じものだけだ。つまり、おまえの傷に塩をすり込んだひどい人でなしは、あのクソトリオンだな?」
少年はぐっと言葉を呑み込んだが、その沈黙は何の役にも立たなかった。ちらと背後を一瞥することなく、獅子のような人は褥から離れた。
「あいつは今、センタ州か……殺しに行ってくる」
「待ってよ!!」
少年が掴もうとした大きな手がするりと逃げる。めげずに伸びた手が黒服の袖を掴んで引っ張ったが、獅子のような人はその引き留めをそっと外した。
「独りにして悪かった。すぐ戻る。眠っていろ」
「やだよ行かないで! もうだれも、殺しに行かないで! ねえ、いなくなってたの、黒髪の人をまた殺しにいってたんでしょ? 何度も何度も心臓をえぐって、また殺してきたんでしょ?! そんなこと、もうやめてよ!!」
黒服に包まれた体が前進を止める。だがまなざしが戻ってこないので、少年はどもりながら叫んだ。
「い、言うこと聞かないなら、め、命令するよ?! こ……刻印で……!」
「……やれるものならやってみろ」
扉を見据えたまま、獅子のような人が唸る。う……とか、あ……とか呻きながら、赤毛の少年は胸にさがる真っ赤な瞳のウサギの銀細工を握りしめ、がくがく震えた。
「汝に刻みし我が名にかけて……ど……」
真紅の瞳にじわじわ涙が浮かんでくる。続きの言葉を言おうか言うまいか。しばしためらい躊躇したあと、少年はついにその言葉を絞り出した。
「どこにも、いく、な……! 俺のそばに、いろ……!!」
「俺の子……」
ぱりんと、獅子のような人の頭部あたりでギヤマンが砕けるような音がして、空中に何かが浮かび上がった。それはきらめく光輪で、輪を成しているのは炎のように燃え上がる文字だった。
「刻印……俺を縛る名前が現われたか」
獅子のような人はゆっくりきびすを返し、はあはあと肩で息をする少年をようやく視界に入れた。
「……初めて、俺に命じたな」
「ごめなさ……ごめなさい……許して……ごめんなさい……ごめんなさい……」
震える少年の瞳から、涙がこぼれ落ちる。一粒。二粒。いや、とめどなく。
「こんなことしたくな……でもジェニ、いてくれないから……そ、そばに、いてくれないから……ぱ、パパみたいに、ほほ笑んでごまかして……俺の傷、見ないようにして……眠らせて……い、いなくなっちゃうから……」
――「俺はあいつとは違う!!」
部屋を揺るがすほどの咆哮が轟いた刹那。赤毛の少年は獅子のような人に喉を掴まれて、恐ろしい勢いで褥に押し倒された。
「我が子にして我が伴侶よ。命令通り、未来永劫決して離れずそばにいてやろう! だがこれ以外の『命令』は、決して聞かぬ。おまえを傷つけるものは許さない。黒髪もクソトリオンも、殺す!!」
浮かび上がる光輪の文字がかっとまばゆい光を放つ。熱い炎のように赤々と。
「どんなに刻印を出しても、俺を止めることはできぬぞ、〈ジェニスラヴァの紅蓮の花〉!! こいつに俺を縛る効力などあるものか! この俺が、おまえにこの真名をつけたのだからな!!」
「ジェ……ジェニ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「名前」を呼ばれた少年は、ばちばち勘気を放つ人の首に腕を回し、きつく抱きしめた。
幼い子どものようにしゃくりあげながら、でもどうかやめてと呻き、懇願する。けれど獅子はもう少しも、聞く耳を持たなかった。
「さあ、共に来るがいい! おまえが見ている前で、許されざる者どもを切り刻んでやる! あいつらの脳を砕き目玉を潰し、肉を潰す有り様を、俺が慈悲によりておまえに見せまいとしてきたものを、俺が贈ったその瞳に刻みつけるがいい!!」
「……っ……!」
獅子のような人は泣きながらしがみつく子を乱暴に抱き上げると、右手を扉に向かって突き出した。
とたん、黄金色の神気がほとばしり、分厚い扉が木っ端微塵に砕け散る。
赤く燃える刻印の名前が怒りの光に焼かれて悲鳴を上げ、千々にちぎれて消えゆくなか。獅子のような人は希薄な残滓と化したその縛めを振り払い、船の寝室から飛び出した。
哀しみの色がほのかに混じる怒号と共に。
「決して許さぬ!! 黒髪もクソトリオンも……俺自身も……許さぬ!!」