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22話 時起こし

 花売りが呼んでくれた医者の腕は確かであったようで、臥せるアカシの体内に入っている薬がほどなく、彼女の息を穏やかなものにした。意識を眠りに追いやる薬効なのか、それとも単に痛みを止めるものなのか。息の深さや規則正しさは普段と変わらぬように思えたので、クナたちは胸をなで下ろした。


「スミコ、あなたの火傷はどうなの?」


 リアン姫に聞かれたクナは、少しひりひりするだけだと答えた。傷はうっすら皮の表面が焼けた程度。舞踊団が常備薬として携帯している軟膏を塗ってもらっただけで事足りている。

 しかしなぜ、トリオンの力が黒髪さまの加護の力を越えたのか。あの人にとっては加護が鉄壁でもなんでもないことが分かって、クナは空恐ろしい気分になっていた。

 巫女たちに投げてきた重圧。炎のように熱い手。たぶんあれでも、手加減はしてくれたのだろうけれど、今度会ったときには、こわくて震えてしまいそうだ。

 

「時起こし……アカシさまの仰る通りです。その技ならばきっと……さっそく試してみましょう」


 かつて学んで得た知識を脳裏に反芻しているのだろう、ミン姫がぶつぶつ低い声で何かをつぶやきつつ、みなを屋上に誘った。巫女たちは鳥船からここに帰ってきたとき、ごまかしの祈祷のための祭壇を片付けたが、灯り玉や結界を張るために清めた縄など、道具類はまだ置いたままで残している。すなわち、巫女の技を行使する準備は万全だった。

  

「聖結界を張って、その中で始めましょう」


 ミン姫が発した声が途中で方向を変え、クナの背後に飛んだ。部屋を出るなりクナについてきた護衛騎士たちに向いたようだ。とたんに、リアン姫がなんとも朗らかな声をあげた。


「今宵もご祈祷をしなくてはなりませんの。ですからみなさま、ここから出てくださいませ。どうか踊り場でお待ちくださいね」


 いつもより数倍も高い、かわいらしさを強調した声だ。もしかしたらミン姫は、分厚い鎧を貫くような視線で騎士たちを睨んでしまったのか。それでリアン姫は場を繕ったのかも知れないとクナが思った矢先、彼女の悲鳴が屋上に響いた。


「ちょっと! なにをしますの?! 腕を掴むなんて、無礼千万ですわ!」

「すみません。たった今水晶玉が光りまして……後見人様から伝信が入りました」

「失礼、私の水晶玉にも伝信が。すめらの星より、名簿をもらい受けよとのことです」

「なんですって?! そ、それは承諾できませんわ!」

「巫女様方、申し訳ありませんがご了承ください」


 騎士たちの気配が緊張してこわばっている。やっとのこと動けるようになったトリオンが、指示を飛ばしてきたようだ。

 彼はいまどこにいるのだろう? エルジから大急ぎで、こちらに戻ろうとしているのだろうか?

 

「少しお待ちになって! 時起こしが終わってからなら、お渡しできますわ!」

「後見人様は今すぐと……」

「きゃあ?! ちょっと、あたくしを押しのけないで!」


 リアン姫の悲鳴にクナは身を縮め、その場にしゃがみ込んだ。名簿をしっかと抱きしめるも、その周りをかしゃかしゃと、騎士たちが囲んでくる。五人いるどの騎士たちも、分厚い鎧に身を包み、剣を帯びている。みなで風を起こせば多少は時間が稼げるが、経験ある騎士たちは韻律系の技を破る術を知っているだろう。力勝負となれば、まったく歯が立たない相手だ。

 ああ、もうだめか――

 そう思ったとき。

 

「お待ちください!」


 扉のところから、頼もしい声が響いてきた。


「花売りさん……!」

「騎士様たちはここから外へ出てください! 巫女様方は用が済めば必ず、名簿をあなた方にお渡しします。それができないと仰るならば、」

――「いいから迅速に排除しましょう、社長」


 柔らかな花売りの言葉に冷たい一撃が挿す。花売りのそばに居る気配が発したものだが、優しい助っ人はあわわとたじろいだ。

 

「い、イチコさん、ちょっと待――」

「社長、あなたはいつも相手に温情をかけ過ぎです。それで何度死にかけたことか。そのナマクラ剣がなかったら、少なくとも十回は絶命しております。とにかく、ここから騎士を取り除けばよろしいようですので、失礼いたします」


 花売りの返事を待たずに気配が動いた。たじろぐ社長から離れたと思いきや、ひと呼吸する間もなく騎士たちからうめき声が上がる。

 なんだこれは見えない、速すぎると、驚愕の声がほとばしり、空気を裂くようなすばやい音がびんと響き渡ったとたん。なんとクナの周囲から、騎士たちの気配がそっくり消え去った。

 

「な……これは、糸?! ていうか、あなた蜘蛛?!」


 リアン姫の叫びに、助っ人が至極冷静に答える。


「蜘蛛ではありません。人より少々腕の本数が多い、単なる糸使いです。標的を金属の糸で絡めまして、まとめて屋上から吊しました。普通はバラバラに切断するのですが、鎧が厚いので矯正排除だけということで」

「でも騎士五人って、相当な重量のものを一瞬で……」

「糸は知り合いの技師に特注で作らせたもので、ナノミクロンの反重力装置と制御用の人工精霊が内蔵されております」

「なのみく……?!」

「ここから落っことすのはやめて!」

「了解、社長。では首を絞めて即死させ――」 

「だめだめ、殺さないで! しばらくぶら下げとくだけでいいです!」

「では念のために電流を流して気絶させておきます」


 花売りが連れてきた助っ人は恐ろしいほど強くて、人の命をなんとも思わぬ輩のようだ。

 相当の手練れであることを匂わせる冷静な態度には、一分の隙もない。

 トリオンと互角に渡り合えるかもしれないが、そうなる前に急いでやるべきことをやらなければなるまい。騎士が役に立たないと知れば、おそらくトリオンは、急いでここをめざしてくるだろう……

 花売りと助っ人が見守る中、巫女たちは急いで時起こしの技を始めた。

 

「スミコは祭壇の前に座って、読み手(・・・)になりなさい。ミンさま、祭壇とスミコを注連縄で囲みましょう」

「了解です。祭壇には香木を積みます」



 時起こしの技は、もっぱら老衰した霊鏡に対して使われる。

 第一級品の霊鏡ならばおいそれと壊れることなく、膨大な記録を蓄積することができるが、それでも何世紀にもわたりて使用できるものは大変まれだ。二級以下の鏡となれば十年たてば劣化は免れず、もって半世紀。鏡の面が暗くなり、中に入っている情報を映し出せなくなるらしい。しかも残念なことに、一度暗くなった鏡面を修理することはかなわない。

 時起こしは、そんな鏡の記録が失われぬよう拾い上げる技である。

 

「鏡が持っている記憶を、巫女の神霊力をもってして感じ取る……ということですよね?」

「そうですスミコさま。この世に在りしすべての物には、私たちと同じように魂が宿っています。生きてはいないもの、人に作られしものもまたしかり。大きな山にも、一日で干上がる小さな水たまりにも、御霊は例外なく宿ります。人はそれをつくも神とか精霊などと呼びますが、それらもまた、人と同じように記憶を蓄積するのです」

「文字が書き込まれたとき。読まれたときの思い出。それを感じる……」

「そうです」


 それはすなわち、物の魂と同化するということだ。

 

「やり方は二通りあります。名簿の中へ飛び込むか、名簿から魂を剥離させて自身の中に取り込むか。どちらもむずかしいですが、後者の方が簡単です。幽体離脱を行うのは至難ですから」


 まずは名簿の御霊を外へ出そうと、三人の巫女はクナの周りを小さく囲った結界の中で祝詞を唱え始めた。

 

 目覚めませ そのこころ

 まぶた開けませ そのいのち

 たえなる息吹をわがもとに 

 かしこみ かしこみ

 願いたてまつる

 

 リアン姫もミン姫も、相当な神霊力の持ち主だ。ふたりが両手に鈴を持って簡易な神楽を奏でだすと、たちまちあたりにキンキン重い気配が降りてきた。

 

「名簿から御霊(みたま)を押し出しましょう」

「スミコ、ぎっちり押して!」

「はい!」


 クナは名簿を抱きしめた。どうか御霊がこぼれるようにと、まるで中にある湿ったページを絞り出すように、力を込めて抱きしめた。

 鈴が取り始めた拍子がどんどん速くなる。それに合わせて、祝詞の調子も上がっていく。

 

 しゃんしゃん たまえたまえ

 しゃんしゃん たまえたまえ……

 

 神楽はいつしかぐるぐる回転し、小さな結界の中で渦巻いた。

 小さくも勢いよろしいつむじ風が吹く。

 風がクナの頬をしたたかに打ち付けた、そのとき。

 リアン姫の衣の袂が激しく動いて、ぼぼっと火がつく音がした。

 

(焚きあげの火が上がったわ……!)

 

 これは類感の術といわれるものだ。クナは立ち上がり、すぐ前の祭壇に据えられた、香木が燃えるところに名簿をかざした。あたかも荼毘(だび)に付すごとく火に当てることで、御霊が体から離れることを促すのだ。つまり、疑似の葬送を行おうというのである。


 しゃんしゃん たまえたまえ

 しゃんしゃん たまえたまえ……


「う……」


 香木から上がる煙がかぐわしい匂いをあたりに放つも、鼻に入るとかなりきつい。

 クナはこらえて、名簿を香りよい炎にさらしたが。

 

(だめ? 出てこない?)


 しばし待っても、名簿の中から何かが出てくる気配はなかった。 

 

「……だめですわ!」

「まさか御霊が抜けている? 死んでいるのでしょうか? スミコさま、何か波動が手に伝わってきませんか?」

「い、いいえ何も」


 ミン姫の言葉にクナはどきりとした。 

 死んでいる――

 たしかに、潰された金庫から床に投げ出されてだいぶ経っている。おそらく半世紀。

 御霊はこの重い紙の塊から飛び去って久しいのだろうか?

 

「まだ形を留めているのなら、御霊が残っているはずですが……」

――「それ。ずいぶん重そうですね」

 

 結界の外から見守る花売りのそばで、強い助っ人がつぶやいた。どうやらこの人の目には、普通とはちがったものが映るらしい。


「実に重い……重量がありすぎます。しかも、とても黒い……」

「重すぎて出てこれない? それならあたし……行ってみます」


 クナはごくりと息を呑み、名簿を足下に置いて腰の注連縄を解いた。

 

「スミコ?! あなたそれを外したら――」

「あたしの魂は抜けやすくなってるままだと思います。だからもうひとつのやり方を試してみます。名簿の中に飛びこみます」


 たぶん大丈夫だ。トリオンは憑き物をとってくれているから、失敗してどこかへ飛んでしまっても、だれにも迷惑をかけることはない。

 どそりと縄を解いて置くなり、クナは浮遊感に襲われた。

 今まで巻いていたものはそれなりに重かったが、それだけではない。やはり(いかり)がないと魂が体に留まってくれないのだろう。

 

(ああ、暗い空に、なにかがピカピカ光ってる)


 急激に上昇する感覚と共に、あたりの世界がみるみる(ひら)けてきた。

 闇の中に無数の輝きが浮かび上がっている。ああ、これはまたたき様だと気づいたときには、クナは宿舎の屋上からだいぶ昇ってしまっていた。注意を向けたところに飛んでいってしまうのも、相変わらずのようだ。

 美しき星海から下方へと、あわてて注意の方向を変えてみれば。祭壇とおぼしき四角いものの輪郭が、はるかなる下界でぽつんと、ぼんやりうっすら浮かび上がっている。その中央できらきらぱちぱち、音たてて燃えるきらめきがある。あれは香木の小山だろう。 

 祭壇の脇には二つの影。花売りと助っ人だ。助っ人の影は異様に背が高い。リアン姫が驚いた通り、両腕の下にもう一本ずつ、腕とおぼしきものの影が見える。足下まで長い髪がなびいていて、その姿形は針金のように細く、とても優美だ。

 名簿は……


(あったわ!)


 祭壇のまん前に三つの人影がある。

 真ん中のひとつが倒れていて、そのそばにぐるぐる渦巻く黒点がある。

 それが目指すところに違いないが、どろっとした昏さにクナは一瞬たじろいだ。

 

(なんて深い闇)


 暗すぎる。またたき様が降ってきそうな闇色の空も、屋上も、自分たちの影も、こんなにおどろおどろしくない。でも、怖じ気づいている場合ではない。

 クナはなんとか恐怖をおしのけ、闇色の小さな渦巻きを凝視した。

 刹那ぎゅうんと、視界がそこへと近づく。


(中へ。中へ。この中へ……あっ――!)


 粘り気のある渦がクナを捕らえた。

 ぐらりゆらり。ゆらりぐらり。

 クナは回転しながら、おそろしい勢いでずぶずぶ沈んでいった。

 死の匂いを漂わせるものの中に。

 落ちる。落ちる。落ちる……

 一体どこまで沈むのか。底というものはあるのだろうか。

 あまりの回転の強引さに意識が遠のく。

 かび臭い匂いが鼻をついてくる。

 これはふやけてしまった紙の匂いか。それとも、漆黒の死の香りか。

 あたりの景色は闇色一色。ふだんの「みえない視界」より、とてつもなく暗い。

 なにもかもがどす黒く塗りたくられている中で、びしり、びしりと、何かを打っている音が聞こえてきた。空気がうねり、鋭利な刃となってかすめ飛んでくる。打つ音に合わせて、小さなかまいたちが起こっている……


『ごめんなさい……ごめんなさい……ゆるして』

 

 かすかに、か細い声が聞こえる。これは誰の声だろう?

  

『なんでもします。なんでも。でもそれだけは……』

 

 死にかけたヒナのような、弱々しい泣き声。あたりに響く打音がたわんで、涙混じりのそれをズタズタにした。


『きゃああああああ!!』


 衣裂くような悲鳴が長々と、昏い空間に染みていく――


(これは……誰かが、何かで打たれているの?!)

 

 クナは硬直した。息を締めるような悲鳴は苦しすぎて、自分も窒息してしまいそうになった。

 突然ずきりと、どこかが痛む。今は魂だけだから、実体はないはずなのに。ずきずき、痛みはどんどんひどくなりだしたので、クナは震えてその場にしゃがむかのように小さく縮こまった。

 

『ここにおいてください』

『追い出さないで』

『パン、ください』

『寒いです……』


 悲鳴と共に、どっと声が襲って来た。ひとりのものではない。あたりから悲壮な声が次々と沸き起こり、重なっていく。どれもみな哀しげで、怯えている。

 

『いやよ! こんなこと!』

『ママ! 助けて!』『痛いよ! 痛いよ!』


 何かを打つ音が激しくなってきた。悲鳴と泣き声よりもその音は大きくなり、ぐさりぐさりと刺さってくる。


(いたい……どうして?!)


 これはたぶん、名簿が聞き取ってきた光景なのだろう。

 それが置かれていた部屋で起こったことに違いない……


(孤児院のこどもは、誰かに傷つけられていたの? どうして?)


 悪いことをした罰だろうか。だから子どもたちは、鞭のようなもので打たれているのだろうか。

 誰に? もしかして名簿の持ち主――院長に? それともだれか別の人?

 哀しい声しか聞こえてこないのは、名簿がいたその部屋が、お仕置きを受ける場所だったとか?


『――名前は?』

 

 突然。弱々しい悲鳴の中にずぶりと、太くて尖ったものが突き立った。

 

『親にもらった名前は? 何というのかね? エルジ王立孤児院へよくきたね。ここに書き記すから、名前を言いなさい』


 野太く、どことなく粘り気のある声。けれども悲鳴と泣き声はおさまらない。

 哀しい嘆きに入り混じって、問いの答えがうわっとクナを襲って来た。


『……ステノ・フォン』

『メリド・クール』『マイア・ノエミです』

『ロッソ……』『マーニ……』

『メリド・ウェル』『ワコン』『ドード!』

『レーチェ……レーチェ・トリストバルロ』


 涙に溺れる無数の答えを、クナは必死に聞き取った。レナで始まる名前が聞こえないかと、もしくはあの、大好きな声の片鱗を持つあどけない声が聞こえないかと、そこかしこから上がる悲鳴におののきながら耳を澄ました。


『レナリス……』


 この子だろうか? いや、違う。その子は女の子のようだった。人形のようにかわいいと、問う人がくつくつ笑ったし、声も少年のものとはちがった。


『あの……わたし、名前知らない』

『ああ、哀れな子よ。なんという不幸の中に生まれたのか。では私がつけてやろう』


 中にはそんな子もいた。

 名前のない子。問う人は、そんな子には適当に名前をつけたようだ。


『ふむ。6と3が出た。では歴史人名辞典の、六十三ページにある人名から選んでやろう。これがいいな。ロザリンド。実に色っぽい名前だ』

 

 どうやら開く頁数は、骰子(サイコロ)か何かで決めたらしい。

 

『あの……』

『おや、自分の名前を知らないのかね』


 ああ、この子もだ。おどおどしているこの子も、親から幼名をもらえなかったのか……


『あの……俺は、チビ……』

『はは、それは人の名前ではなかろう。まあ君みたいなのはたまにいる。ほら、歴史人名事典だよ。ふむ……五と四が出たから、五十四ページの人名から選んでやろう。どれがいいかな』

『レ、レナ……!』


 突然、名前のない子がうわずった調子でそう発した。


(あ……!!)


 ついに見つけた? クナは悲鳴と涙をそっと押しのけて、その声に集中した。

 その音質は、夢で見たキラキラの子どもの声とそっくりだった。


『レナン……ディル……』


(ああ……!) 


『レナンディル。なまえ。レナンディル、です』


(見つけたわ……! 見つけたわ! きっとこの子よ!)


『ははは。それはおとぎ話の妖精の名前じゃないか。全然売れなくて、うちにバカみたいにたくさん寄付された絵本の……おまえもどこかで読んだのかね? まあいい。それがよいなら、おまえの名前はそうしよう。レナンディル・ヴェクセバルク(取り替えっ子の)……と』


 問う人――たぶん院長である人は、小馬鹿にするように鼻で笑ったけれど。クナの心は、かっと燃えて熱を放つ朝焼けのような喜びに満ちた。


(レナンディル……レナンディル・ヴェクセバルク……! レナ、ついに見つけたわ! あなたの名前!!)


 忘れない。

 もう絶対に忘れない。

 さあ、この宝物を胸に、自分の体へ戻ろう――

 漆黒の闇から浮かび上がろうと、クナは上を向いた。しかしあるべき星空はどこにもなく、頭上にはただなにもない闇ばかりが広がっていた。

 どこを向けば飛び上がれるのか。そういえばここに入ったときからまったく浮遊感がないことに気づいて、クナはたちまち心細くなった。

 

(どうしよう、飛べないわ。あたし動ける? どこかへ移動できる?)


 だめだ。絶え間ない嘆きの洪水は、クナの魂を沈めたどころか、がんじがらめに絡みついてしまったのだろうか。飛ぶために目標となる一点を定めようとクナはもがいた。とりあえずそこへ動いてみようと、すぐ横に注意を向ける。なれど景色は全然かわらない。自分が移動できたかも、よく分からない……

 ここはとても重い。外に御霊を取り出せなかったということは、いったん吸い込まれたら――

 悪い予感にとらわれつつあるクナの耳に、その時信じられない声が飛び込んできた。

 院長に問われておずおずと答える、か細い声が。


『おまえはなんというのかね?』

『レク……』

 

(えっ?!)


『レクリアル……』 


(うそ……!? こんなことって。まさか、あたしも(・・・・)あの孤児院にいたの?!) 

 

 同じ名前の別人?

 いや。この声は聞いたことがある。

 黒髪様からいただいた赤い糸巻きにこめられていたあの、願いの歌声。

 あれと今聴いた声は、そっくり同じ――


『レクリアル・ノーンです……』 

『ほう……メニスの混血か』

 

 問う人がくちゃりと、口の中でいやらしい音を立てた。震える弱々しい声を舐るように。


『美味しそうだ――』 







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