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20話 呪詛

 降りた格子の四角い隙間から、白い寒気が忍んでくる。

 百臘(ひゃくろう)の方は綿布を裏打ちした(ひとえ)を羽織り、我が身を刺してくる冬の気配を遮った。

 今年の初雪はずいぶん遅かった。冬将軍は紫明(しあ)の山に来るのをうっかり忘れていたらしい。十一月の半ば、ようやく降ったと思ったらどかっと積もって、宮処(みやこ)は真冬のごとし。雪をまとう将軍は、忘れていた分をありったけ落としていったようだった。

 それからはほぼ毎日、雪がちらついている。


「ずいぶんと肉が落ちたのう。しわだらけじゃ」 


 百臘(ひゃくろう)の方は、ほほっと自嘲をこめた苦笑をもらした。

 夜色にしずみ、灯籠にほんのり照らされた部屋の中。じんわり熱を放つ火鉢にかざした手の、なんと醜いことか。皮がはりついたそれは、老いさらばえた婆のものとしか思えない。

 いっときは、春までもたぬかもと覚悟した。幸い病は小康状態になったものの、一日起きていられることはまれだ。薬茶の副作用で食欲がなくなり、体の肉はすっかり削げ落ちた。

 手がこんなであれば、当然顔も恐ろしいことになっているはず。ゆえに鏡は台に伏せたまま、まったく見なくなって久しい。化粧は、アオビたちに任せている。


「アオビの世辞がこたえるわ……おきれいでございますなど、あれはほんとに律儀じゃの……」


 厚化粧にしろと命じて、なんとか体裁を整え神官たちに会っているけれど。鬼火たちの支えなくば、祭壇まで行き着けない。声はかすれてしまって、儀式ではろくに歌うことができなくなった……。だから最近はやむなく、(ろう)を重ねた大巫女に神降ろしを代行させている。

 太陽の大神官はこのことを決して外に漏らすまじと、神殿内に緘口(かんこう)令を発した。巫女王(ふのひめみこ)が務めを果たせぬなど、大ごとである。本来なら退位すべきだが、そうすれば月神殿が、「かように短期間のうちに病におかされ退位を余儀なくされるは、神罰に相違なし。天照らし様が、無様な遠征をした太陽神殿に罰を下したのだ」と突いてくるは必至である。

 現在、太陽神殿は少しの隙も見せられない。

 これ以上、威信を落とすわけにはいかないのだ――

 




 オルキスでの敗戦は、太陽神殿にとって痛手どころではなかった。すめらの軍団はいまだユーグ州にいるが、同盟国も元老院も増援を渋っている。進軍ままならず、駐屯の費用だけかさんでいく日々である。

 元老院では、なぜに姫将軍は玉砕しなかったのかという糾弾が噴出した。龍生殿も主従そろって、なぜに龍を死なせたかと憤り、太陽神殿に噛みついてきた。

 太陽神殿はもろもろの非難をかわすべく、泣く泣く軍部の中堅神官たち数人に「罪」をなすりつけ、公開処刑で首を斬り落とした。血の色の禊で仕切り直し、増援をなんとか送り出して仕切り直そうと奔走中であるが、所々の反応は冷たい。

 対して、舞踊団を抱える月神殿への賞賛と期待はうなぎのぼりだ。北五州の人々を魅了している舞姫たちは、「三十万の大軍団に勝る」と絶賛されている。


(月の大神官……トウイどのは今頃、高笑いであろうの)


 こたび舞踊団の公演を招致したセーヴル州は、すめらと軍事同盟を結ばんと使者を送ってきた。

 センタ州では、すめら派の貴族たちが舞踊団に一縷の望みを託している。

 第三妃をすめらの巫女から選出させようと、すめら派の貴族たちは、月神殿と一致団結しているようだ。候補に推されるのは当然、月の巫女たちに違いない。すめらの星は大事な広告塔ゆえに手放すわけにはいかぬし、色違いの太陽の巫女たちの候補入りなどは、論外であろう。

 月光の輝きは増すばかり。

 そして今日。月の勝利を決定づけるかのような一報が入ったのだ。


湖黄殿(こきでん)の女御さま、 ご実家の産屋にて皇子をご出産――』


(はぁ……なんとまあ、望月の冴え冴えたることよ)

  

 トウイの「養女」コハク姫は、先月より出産のため、帝都月神殿へ里下(さとお)りなさっていた。


 御子が生まれぬよう。せめて男子であらぬよう――


 懐妊が発表されて以来、(ヤン)の大神官は祭壇にて呪詛を飛ばすのに注力していたが、その神霊力は月神殿の固い守りを貫けなかったらしい。

 

『大姫様もご祈祷(・・・)をよろしく頼む』と太陽の大神官に度々願われた。だが百臘の方は病を盾にして、その要請を断ってきた。

 

(まったく、さすがは(ヤン)の当主じゃわ。赤子の命を脅かすなど、ようやりおる。わらわには絶対無理なことじゃ……)


 無事生まれるようにというご祈祷であれば、百臘(ひゃくろう)の方は喜んで引き受けたであろう。寝ぼけた冬将軍と呼応しているかのように産気づくのがだいぶ遅れたというから、母となった人はいかほど、我が子を心配したであろうか。


「どうか健やかに。ただただ、健やかに」

 

 流れずこうして誕生までこぎ着けたのだから。

 それだけでも、ありがたい奇跡なのだから。

 命に願うことはただこれしかなかろうと、百臘の方は手をあわせて祝福の祝詞をぶつぶつ、口の中で唱えた。


「いとけき御子に、幸せを。この世の穢れよ、近づきたもうな……」


――「大姫さまこんばんはでございます。霊光殿より文が参りました」


 そのときアオビのひとりがすうと部屋に入ってきて、漆塗りの盆に載せた折文を捧げてきた。


「おや……」


 細く折られた文を広げ、百臘(ひゃくろう)の方は、そこにしたためられた字を目で追った。

 読むうちそのしわだらけの手が横に伸び、錦にくるまれた小さな瓶を撫で始める。

 今朝方はるばる西方から届いた、石化病の特効薬だ。ありがたくも、わが子と思う龍蝶の娘が送ってくれた。『白鷹の後見人が調合したものです。どうかお試しください』と、アカシが代筆した手紙に書いてあったのだが……


「……アオビ、この瓶の中味を、わらわの毒見役に調べさせよ」

「検分を? しかしそれは、従巫女さまが送ってきたものでは……」

「大翁様が、西よりの届け物に警戒せよと仰せになってきたわ。配膳時に口に入れる者の他に、食材を吟味する者がおるであろ。搬入される食べ物ひとつひとつ、いろんな薬で害のないものか調べてから調理させておる。その吟味役に、この薬を確かめるよう命じるのじゃ」

「は、はい!」


 鬼火がばちばち、うろたえながら部屋を出ていく。

 この帝都太陽神殿は、幾重もの結界で守られている。しかしそれでも、(ヤン)家のご隠居の眼を遮断することはできぬらしい。

 恐ろしいことだが、結果次第では、ありがたきことと思わざるをえないかもしれない。

 くらりと目眩を覚えて、百臘(ひゃくろう)の方は(ひとえ)を重ねた床に身を横たえた。

 

「疑ってすまぬ……」


 龍蝶の娘は藁をもすがる思いで、薬を送ってくれたであろうに――

 どうかその思いが通じるようにと、病身の人は切に祈った。

 ろくに動かぬ我が身ではなく、我が子と思う娘のために。

 




「結構雪が積もっておりますわ。スミコ、足もとが滑りますわよ」

 

 暖かな手が腕を掴んでくる。

 冬の夜気に頬を冷やしていたクナは、そろりそろりと冷たい雪を踏んだ。


「あうう。うえええ」


 すぐ前で、花売りがうめき声をあげている。船に乗って酔ってしまった、というわけではない。


「すみません。少々手荒な真似をしてしまいました。お許し下さい」


 そばでアカシがしきりに謝っている。ミン姫とふたり、花売りの背中をさすりながら――

 


 快速の鳥船のおかげで、一行はエルジに一刻足らずで着いた。

 道中、四人全員で船に乗って大丈夫だったのかと、リアン姫はそわそわ。無人になる屋上のことを心配していた。しかしアカシが自分たちの力を信じるべきだと、皆を安心させた。


『リアンさまもミンさまも、巫女王候補となるにふさわしい力をお持ちです。きっと大丈夫ですよ』


 巫女たちは設置した祭壇に、言霊をたくさん置いてきたのだ。ちりちり燃えながら花の香りをかもす灯り玉に、娘たちはおのれの歌声をこめてきたのである。

 灯り玉にこめられたそれは、一晩中、灯りがつきるまで厳かな祝詞を屋上に流し続けるだろう。

 それに扉にかけた結界は、そうそう破れるものではない。

 船は大人数乗れるが、さほど巨大ではないらしい。花売りはエルジ上空に至ると、得意先だという高層ホテルに船を横付けし、一行をその屋上へと降ろした。しかしみなはしばらく、そこで立ち往生することになった。


『すみません、とりあえずなじみの処に降りてみましたが、剣の声が雑音に阻まれて……この都のどこへいけばよいかよく聞こえません。トリオン様は僕にも、妨害電波のようなものをおつけになったのかも』


 クナの妨害波は騎士たちで構築されるものだが、花売りのものはそれとは違っていた。

 

『騎士様を連れ出した時えらく怒られましたが、そのとき、変な味のつるんとした玉を飲まされちゃいまして……』


 すめらの巫女が呑み込む神霊玉のようなものか。

 トリオンはそれに、剣の声が聞こえなくなるまじないを込めたようであった。

 

『後見人様は、剣がスミコさんに協力するのを警戒したのだと思います』

『ふうん? つまり大変怪しい玉のような物が、お腹の中にとどまっているんですのね』

『はい、おそらくそうです、リアンさま』

『体内の神霊玉を強制的に吐き出す方法がありますが。それにはあるものが必要ですね』

『え。神霊玉? それはなんですかミンさま』

『すめらの巫女が体内で日々育んでいるものですよ。ふむ、その方法を試してみましょうか。必要なものはあります。スミコさま、リアンさま、ミンさま、ご準備を。さっそく試してみましょう』

『えっ、アカシさま?』


 太陽神殿で修行したとき、クナはちらと、神霊玉を抜く方法を聞いたことがあった。

 召喚した小精霊を数体、対象の体内に入れるというものだ。小精霊たちは臓腑に入っている玉をつかみあげて、対象の口から外へと引きずりだす。

 しかし修行で力を貯めた神霊玉を取り出すということは、巫女の力を奪うということである。

 すなわちこの方法は、罪を犯して巫女の身分を剥奪される者に対して行われる、恐るべき「制裁」とされているものだ。 


『小精霊手那豆智(テナツチ) 、ここにございます』


 驚いたことに、アカシはその小精霊を身につけていた。代々一位の従巫女に与えられるかんざしの石の中に、制裁用に使われる精霊を封じていたのである。手の形のような羽をもつ、小さきものたちを。


『これは九十九(つくも)様のご婚儀に付き添う時に、百臘(ひゃくろう)様からいただいたものです。つまりその……みなさんが万が一、出向先で取り返しの付かない罪を犯しましたら……一位の従巫女たる私が、責任を取らねばと思いまして……』


 クナはアカシが負っていたものの重さに息を呑んだ。鎧を着込んだ九十九(つくも)の方と同様、アカシもそれなりの覚悟をして、すめらを出てきていたのだ。


(まこと、第一位に在るにふさわしい巫女だわ。大使様のお家でも、きっとすばらしい巫女団長(おくさま)になられる……!)


 精霊を使った抜き取りには、かなりの時間を要した。

 本来ならば、これは神前で行われるべき儀式。ゆえに巫女たちは祝詞を唱えてその場を清め、小祭壇を作ることから始めたからだ。

 しかし一行は、苦労に見合うだけの成果を得ることができた。エルジの夜空に一瞬、花売りの絶叫が響きわたり――奇妙な玉は無事、彼の体から抜き取られたのだった。

 

「もっぱら、巫女の極刑の前に行うものと聞いておりますが。それを応用いたしました」

「あ、アカシさん、こわかったです……ぞ、臓腑を掻き出されるかと……うええええ!」

「すみません花売り様。少々吐き気が続くと思いますが、本当に、命になんら別状はございませんので」

 

 出てきたのは、ほのかに甘い匂いのするもの。ぬるぬる光っていて色は白いと、リアン姫が声をひそめてクナに説明してくれた。

 玉を抜かれた花売りは、たちまち剣の声が聞こえるようになった。時折えづきながら、彼は剣の声を実況し、四人の巫女たちをとある場所へと導いてくれた。


「スミコ、そこ凍ってますわよ。はあ……それにしても、ここはおどろおどろしいですわね」

「そうですね。屋根の骨組みが、あばら骨のようです」

 

 リアン姫だけでなく、ミン姫の声もこころなしかこわばっている。花売りの鳥船は、広く陥没した野原に取り残されたかのように在る、とある遺構のそばに降り立ったのだった。


「このあたりはその昔、エルジの中心部だったそうです。建物がひしめいていたそうですが……半世紀前の災厄のとき、落ちてきた星のかけらの直撃を受けて破壊されたと……かろうじて残っているこの建物の骸は、孤児院であったと……剣が言っています」


 すっかり朽ち果てているらしいここに、何があるのか。問うてみれば、この遺構には地下室があるはずだと剣は答えた。


「……昔々、この孤児院の院長の隠し金庫が、地下室にあったと言っています」

「地下に金庫……!」 

「まさかそれが、今もあるとおっしゃいますの?」 

「つまりその中に……何かの手がかりがあるんですか?」

「なんという情報の精度。まるで実際にここに住んでいた人のようですね」


 ミン姫の鋭い指摘に花売りが一瞬黙る。しばらく背中に負う剣の声に耳を澄ました彼は、神妙な声で皆に伝えた。


「……剣は昔、黒髪の人に憑依して記憶を食べたことがある……そうです。だから黒髪の人が体験したことは、あらかた知っていると……」

「はあ?! 記憶を食べた?! それじゃ、名前なんてすっかり知ってるんじゃないんですの?! こんな回りくどいことしないで、詳しく話してくれれば……!」


 リアン姫は大変憤慨したのだが。花売りは剣をかばい、皆にすみませんすみませんと慌てて謝ってきた。


「思い出したくないって言ってますが、あのたぶん、実のところはそれは強がりで、ほんとは思い出せない(・・・・・・)のではないかと……。この剣、自分の名前もすっかり忘れてしまってるほど、すごい年寄りなんです。時々、冗談じゃなしにすごくボケますから……」

「な……もうろくしてるってわけですの?!」

「忘れて……いる……!?」


 クナに憎まれ口を叩いていたのは、自分の衰えを隠すため?  ここに導いてくれるほど鮮明に記憶を呼び出すことができるのに、肝心なことは抜け落ちている? まるで虫に食われた穴のように? 

 とすると、名簿のありかを教えてもらったことは、大いなる僥倖(ぎょうこう)と言えるのかもしれない。


「ほ、本当にすみません。とにかくここを調べてみましょう」


 果たして遺構の隅には、地下室への降り口があった。そこは雑草と雪に埋もれ、誰かに教えられなければ決して気づけないものだった。階段は半ば崩落しており、巫女たちは下へ行くために祝詞で風を起こしながら、我が身を少し浮かして飛ばねばならなかった。


「湿ってますわね」


 かび臭い匂いが鼻をつく。壁面には、粘菌の類がびっしり生えているようだ。

 破壊されたとき、ここはいったいどれだけの衝撃と振動を受けたのか。地下室の入り口は瓦礫で埋もれていて、かろうじて空いていた隙間は、人ひとりがようやく抜けられるぐらい。

 やっとこ入り込んだそこの天井が落ちていなかったのは、奇跡といえるだろう。

 隠し金庫なるものは、もはや隠されてはいなかった。

 もとは壁の中に埋められていたのであろうそれは、半ば潰れて室内に飛び出ていた。

 花売りが携帯の灯り玉で照らす中、巫女たちはその金属の箱だったものを詳しく調べた。

 

「見事にぺちゃんこですけど」

「中から何かはみ出てますわね。……箱?」

「出してみましょう。そっと引っ張れば……」

「剣曰く、名簿と札束と幻像集を……院長は金庫に入れていたそうです……」


 花売りの言葉に、クナはひくりと肩をふるわせ反応した。


「名簿……!」


 もしやそこに、探している名前が記されている?

 ということは、黒髪様はこの孤児院にかつていらっしゃったのだろうか。 

 このエルジが、あの御方の故郷であるのだろうか。

 身寄りのない子が住んでいたのであろう、この場所が……


「名簿……これ……でしょうか? 分厚い皮の表紙で守られていて、原型を留めていますが……だいぶ黒ずんでいますね。中が読めるかどうか……スミコさま、宿舎に持ち帰って詳しく調べましょう」


 アカシがクナの腕の中にずしりと湿ったものを渡してくる。

 クナはそれをひしと抱きしめた。この中にたぶん、あるのだ。きっと求めていたものが。

 思わず歓喜のため息が出る。クナの声は、元気よく弾んだ。

 

「ああ、黒髪さまの名前がここに……! あとのものも、参考に持って行きますか?」  

「あのええと、なんだかぶつぶつ早口で、剣が……幻像集はひどくいかがわしいものだと……」


 突然花売りがうろたえだしたので、巫女たちはくすくす笑い出した。


「ああそれって、男性がよく隠れてこそこそ見る類いのものですのね?」

「大丈夫ですよ、そういうものがあることは私たち、存じ上げております」

「あ、あの、剣が言うには、院長が自分で撮って……」

「は?」


 突然。

 ぼんと、小さな爆音がした。

 反射的に悲鳴をあげた巫女たちは、直後めららという、鬼火の燃焼音に似た音を聞いた。燃える熱の匂いがクナの鼻をくすぐってくる。

 とたん、ずんと地響きをたてるようなひどい重圧が一行を襲った。

 

「これ、は……!」


 立っていられぬほどの重み。ずぶずぶ、体が沈んでいく感覚がする……。

 名簿を抱きしめるクナはおののいた。

 この空気はよく知っている。いつもはこんなに重くないけれど、何度も感じたことのあるものだ。

 巫女たちが。黒髪さまが。そしてあの黒の導師がおろす、力の気配――


――「その名簿を渡しなさい。それも焼いてしまうから」


 澄んだ声がクナを刺した。大好きなはずのその声はとても冷たく、研ぎ澄ました刃のよう。

 声が流れてきた方向――地下室の隙間の方を向いたクナの目に、光が飛び込んできた。

 それはかつて一度、魂を飛ばして視た川の流れのような、きらきらきらめく輝きだった。


「まさかこんな忌まわしいものがまだ残っていたとは……。ここはすっかり滅ぼした(・・・・)と思っていたのに……だが、あいつの名前は、決して渡さない……!」

 

 そのまばゆい光からしゃらんと音が聞こえてきた。導師のまとう、星黒衣の歌声が。





「大姫様、検分の結果が出ましてございます……!」


 燃える鬼火がバチバチ、廊下を転げるようにやってきて、勢いよく襖を開けてくる。

 眠りかけていた百臘の方はうっすら目を開け、伏したまま忠実なしもべを迎えた。


「どうであった? あの薬。毒で……あったかの?」

「いえ、毒ではございません。吟味役は十種の薬を使って調べたそうですが、成分的には薬効のありそうなものであるとのことです。ですが……」


 夜に沈んだ部屋の中。蒼い鬼火の顔が動揺でゆらめいた。


「中に紅蓮花の粉末が……記憶を消す……効用を及ぼすものがあるとのことでございます……この薬、少しも赤くないのでございますが、確かに入っていると……」

「なるほど……なれば……飲めばいままでのことを忘れてしまうと? 悪くすれば、生まれてからいままでのことをすべてか? 体は治るが、わらわは、わらわではなくなると?」

「紅蓮花の効用は大変強力であるそうで……お、おそらく、仰る通りになるかと……」


 ふ、と口元を歪め、伏したままの人は出来ない相談じゃと即答した。


「先帝さまのこと。流した御子のこと……なによりわが家族のことを忘れるなど、できようか。そんなことになるならば、今すぐ死んだ方がましじゃ……!」


 それでもよいと、娘たちは言うかもしれない。生きてさえいてくれればと願ってくれるかもしれない。しかし龍蝶のスミコのことを忘れてしまっては、話にならぬ。

 何もかも忘れた自分が、初対面の龍蝶に庇護してくれと頼まれても、二つ返事で了承できるであろうか? 娘との絆をもう一度、結べるであろうか? 

 絆はゆるがぬと信じたいが、現実は厳しかろう。 


「白鷹の後見人め……わらわの記憶をまっさらにして何を狙う? もしやわらわの娘を……龍蝶を手に入れようとしておるのではあるまいな? えげつないことを。金女(かねめ)はあの家で、本当に幸せになれるのか……? アオビ!」

「はいっ……」

「薬は……捨ててくりゃれ。今すぐ、墨と紙を……。久々に、呪詛を浴びせたい奴にまみえたわ」 

「ぎょ、御意! 今すぐ繊維ぼろっぼろの呪詛紙を、お持ちいたします!」

「白鷹の後見人……」


 ばちばちどたどた、慌てて動き出すアオビを目の端に入れつつ、百臘(ひゃくろう)の方はぎりりと歯ぎしりした。

 腹の底から湧いてくる、(くら)い憎しみをこめて。

 

「……許さぬ……!」




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