6話 仙人鏡
まどろみの中にいたクナは、ハッとまぶたを開けた。
いつのまにか眠りに落ちていた。今は朝だろうか? それとも夜?
やわらかな布の感触。ほんのりただよう樟脳の匂い。ここはおそらくはじめに転がされたところと同じところ。柱国さまのご寝所だろう。
クナは鼻をくんくん、部屋の中を探った。
澄んだ美声の人はいない。窓は閉じているのかもともと無いのか、外から入ってくるものはない。部屋の扉や壁は相当にぶ厚いようだ。風音も物音もまったくなし。
体を起こすとくしゅりとくしゃみが出た。打った頭はずきり。背中はひりひり。首筋がほのかに痛む。
わが身は一糸まとわず……?
あわてて胸元を探ってホッとする。母さんの衣の切れ端が入った形見袋は無事。ちゃんと首に下がっている。
(じゅばん、どこにいったんだっけ)
日に当てた匂いのする毛布をかき寄せながら、クナはまだ寝ぼけている頭でぼんやり思い返した。
きつく抱きしめてきた柱国さまは――
顔を涙でしとどに濡らしていた。
なぜ泣いていたのか、クナには理由がわからなかった。しかしなにやら、ひどく思いつめた雰囲気ではあった。
そこには何かがあった。言葉に出来ぬぐらい重く深く、辛そうな何かが。
「それにしても、びっくりしたわ……」
クナは胸に手をあて深く息を吐いた。
「まさか、ちゅうこくさまのなみだが、しおからいなんて……」
思い出すだに、体にふるえが走る。頬や唇にほとりほとりと落ちてきたしずく。柱国さまの涙は、実にひどい味だった。
それは――
クナにとっては、頭をかち割られたかのような衝撃だった。
『うそ……しょっぱい?! なにこれ!!』
心底恐ろしくなって、抱きしめられたクナは息を止めて固まった。
涙が甘くないなんて。この世にあんな人がいるなんて。
なんだこれは。わけがわからない……。
しかも抱擁される体はカッカと熱くなってきた。夢うつつで薬を吞まされたときと同じ。口の中が燃えたように、体が燃えた。
もう耐え切れない、焦げてしまうと思った瞬間、相手の腕がしぶしぶ離された。
逃げ腰になりつつも、クナは必死に考えた。
化け物に食べてもらうには、修行して神霊玉に力をためねばならない。その力がたまれば、瞳は赤くなるらしい。つまり体が変わるのだ。と、いうことは。
『もしかして、なみだのあじ、かわるんですか?!』
柱国将軍は太陽神殿の神官である。とすると、巫女と同じく神霊玉を吞んでいるのかもしれぬ。つまり体内の玉が成長したので、涙の味が変わったのではなかろうか。
山奥育ちのクナは、きっとそうなのだと思い込んだ。
『えらいしんかんさまやみこさまになると、こんなひどいあじのなみだになっちゃうんですね?!』
しかしその問いへの答えはなく。美声の人は、ぼつりとひとこと。
『この髪色は嫌だ……』
『はい?!』
予期せぬ言葉に混乱したクナは、抱き上げられた。部屋から出され、襦袢をはがされ、あっという間に熱い湯にどぽん。
めらめら燃えているものたちが寄ってくるも、美声の人は「近づくな」の一喝で退けた。そうしてなぜかおん自らの手で、クナの頭をお洗いになった。重いかんざしを抜き取り、頭の傷が痛まないよう、そうっと撫でるように。
(ああ、じゅばんはあのとき)
あのとき襦袢をとられたのを思い出し、クナは頬を熱くした。頭に刺さっていた重いかんざしもろとも、今はいずこへやらだ。
入れられた湯船は、大きな壷のようだった。手を広げれば楽に縁に届くぐらいのもので、なんともすがすがしい香りがした。
『浦黄 を溶け込ませている。傷によく効く。消炎効果のある檜扇 の根、それと波末波比の実の粉末も混ぜた。屍龍が壁に叩きつけてしまったから打撲が心配だが、どこか打っていても、これであまり腫れぬだろう』
湯の中のクナに説明した柱国さまは、薬術にかなりお詳しそうだった。
あのお方が、何万もの敵兵を屠る、武勇に長けた将軍さま? いや、残酷で猛々しそうで戦いが得意そうなのは、あのシーロンとかいうでかい化け物の方だ。もしかすると柱国さまは、戦場にあの化け物を放つだけで、ご自身ではあまり戦わないのかもしれない。
月神殿の巫女たちにべたべた何かを塗られ、つんと匂っていたクナの髪は、たちまち湯と同じ匂いに変わった。
『染料が落ちたな。ああ、よい色だ』
クナの頭に薬湯を注ぎながら、柱国さまはうっとりそう囁いた。
『思った通りだ。血が濃い……』
(ちゅうこくさまは、くろいかみがすきなのね)
クナの髪は黒い。母さんがそう言っていた。みんなと同じだと。
べっとりした墨。それか、ひんやりする夜。黒は、そんな色。
黒髪の柱国と呼ばれているのだから、柱国さまの髪も黒いのだろう。抱きしめられた時にさらと腕に触れた髪は、とても長かった。
(そして、めはあかいのね)
神霊玉は目の色を赤くするというのだから、柱国さまの瞳はその色なのにちがいない。クナはそう思い込んだ。そして、びりっとする「赤」を思い浮かべた。
(かまどのひ。あついほのお)
炎。めらめら燃える炎。
(ああ。ほのお……)
どうして自分の体は炎のように熱くなるのだろう?
いぶかしみながらも、クナは湯船の中で懇願した。
『あの、めがあかくなって、なみだがしおからくなれば、いいんですよね? そうしたら、たべてもらえるんですよね?』
お願いします、少しだけ時間をください――
クナは手をばちりと合わせて願った。
『これからいっしょけんめいしゅぎょうして、しんれいだまをせいちょうさせます。だからどうか、あたしをかえしたり、げっしんでんにしかえししないでください。おねがいします!』
すると柱国さまはぼそりとひとこと。
『……返すものか』
それからむっつりした様子で仰った。
『そんなに巫女の修行をしたければ、ここでじっくりやるといい』
『あ……! ありがとうございます!』
ああ、これでなんとかなる……!
ようやくのこと切望した言質を下されて、クナはホッとした。湯船の縁に額を打ちつけんばかりに、何度も何度も頭を下げた。
『ありがとうございます! ありがとうございます! しゅぎょうがんばります! ああ、よかった。よかったわ。よかっ……』
安堵したら体の力が抜けた。我ながらずいぶん気を張っていたのだろう。へなへな湯船のふちにすがるなり、クナの頭はぼんやり。
また抱き上げられ、寝所の寝台に置かれたのは感じとれたが、それから起こったことは……わけがわからなかった。
柱国さまは寝台に落としたクナの胸にそっと手を当ててきた。
すると。
ぴたり触れられているところが、みるまに熱くなった。かあっと焼けるような熱さで、その熱はじわりと体全体に広がった。まるでクナの全身は、炎に変わったよう。ごうと燃える炎がわが身を包み、本当にじりじり焼いてくるようだった。
『う……あ……!』
ばちばち何かが燃える音がした。胸元から立ちのぼる、異様な匂い。
まさか、美声の人が当てている手が燃えているのか。まさか。まさか……
『やめ……て……やかないで!』
クナはうめいた。胸が焼けつくようにじりじり痛んだ。
『おねがいやかないで! おねがい!』
なぜかとても悲しくて、見えない目に涙がにじんだ。
クナの涙を見たせいなのか。それともただの気まぐれか。突然、胸からぱっと手が離された。その瞬間、クナは体の炎が消えるのを感じた。
みるみるあっというまに。熱はなくなっていった……
『これは、だれが?』
押し殺した声で、手を焼かれた人が聞いてきた。ぶすぶすと、肉が焼ける音がまだしている中で。
『これは純潔を守らせる戒めの印。田舎娘、だれが君にこの印をつけた?』
声の調子がこわかった。とても低く、殺気立っていた。
教えてはいけない! クナはそう直感したけれど。
『おりろ音の神』
そのときなんと、あたりにあの気配が降りてきて。
びりりとしびれるような空気が、クナの身を包んだ。
まごうことなくそれは、クナの母さんが糸をふるわせて、月を視せたくれたときに感じたもの。
肌に触れる振動。細やかに鋭く肌刺す感覚。あたりは振動し続けていた。どこからも音が出ていないのに、震え続けて異様な気配を保っていた。
その不可思議な空気の中で。
『言いなさい』
澄んだ声が命じてきた――。
『いったいだれに、炎の聖印をつけられた?』
「あのけはいは……しんかんさまが、つかうわざ?」
毛布をかき寄せ、クナはぶるりと身震いした。
あの不思議な気配を降ろした人は、いずこかの神さまに呼びかけていた。太陽ではなく、別の神に。しかし美しい声で、さらっと唱えただけだ。
たったひとこと――
こわい声音で命令されたクナは、それからすぐ眠りに落ちてしまった。
『月神殿で……あたしに名前をくれた女の人が……』
勝手に動いた口から、この胸に手を当てた人のことを喋ったとたんに。
――『おのれ月の女! 殺してやろうぞ……!』
はるか遠くから、恐ろしい唸り声がかすかに聞こえたような気がしたけれど。それはやめてと言おうとしたけれど。クナの意識は深く深く、沈んでしまったのだ。
(どうしよう……ころすってそんな……)
――「お目覚めであられますか?」
「ひえっ?!」
寝台のすぐそばで声がしたので、クナは飛びあがって驚いた。反射的に毛布をひっかぶる。
涼やかな女性の声だったが、しかしあたりに気配はない。おそるおそる顔を出し、声の出たあたりをくんくん嗅ぐと。
「わたくしに匂いはございません」
その声は抑揚少なく、淡々と告げた。
「わたくしは、仙人鏡。主様より、あなた様のお世話をするよう仰せつかりましたものです」
「ち、ちゅうこくさまは……」
「主さまは、ただいま出塔なさっておられます。ご帰塔の時刻は、知らされておりません」
声を出しているのは、なんと寝台のそばの卓に置いてある円盤だった。クナの両手を合わせたぐらいの小さく薄い盤で、表はつるつる。手に取ってたしかめると、裏面には細やかな浮き彫りが施されている。その彫り模様のなんと細やかなこと。幾重もの縄目の文様がつらなり、精緻なことこの上ない。
「これ、もしかして……かがみ?」
「さようでございます」
「かがみなのに、しゃべれる?」
「さようでございます」
「すごい……!」
この塔には不思議なものばかりいる。柱国さまに寄ってくるめらめら燃えているものも、人間ではなかろう。あれはきっとあやかしの類だ。
「うらのもようのかたちが……かあさんがもってたのと、そっくり」
クナは恍惚と、鏡の裏文様を何度も指でなぞった。
クナの母さんはこんな手触りの鏡や、つややかな黄楊の櫛を持っていた。
亡くなってしまったあと、それらは母親がわりとなった姉のシズリによって形見分けされた。
鏡はシズリのものに。櫛は妹のシガのものに。そしてクナは、母さんのだという、古い衣の切れ端を押しつけられた。
『だってあんたに鏡は必要ないでしょ』
シズリにそう言われたけれど。たしかに鏡は、目が見えぬクナには無用のものだけれど。
(くしは、ほしかった……)
なぜなら母さんはよく、黄楊の櫛でクナの髪を梳いてくれた。
きれいな髪よ、黒くて、みんなとどこも変わらないわ――いつもそう言って、髪をさららになるまで、梳かしてくれた……。
「おぐしがお気になられますか?」
鏡に聞かれたクナは、無意識に髪をさわっていた手をびくりと止めた。
「あたしのこと、みえるんですか?」
「はい。この身に映るものならなんでも見えます」
「なんてふしぎ。あ、みえるってことは、あたしのかみがいまどうなってるかとか……」
「はい、見えます。おぐしは鳥の巣のようです。とくに頭頂部がもつれておられます」
「わあ……!」
クナは感嘆のためいきをついた。これはなんとすばらしい宝物だろう。
髪を梳く召使いを呼ぶというので、クナはあわてて固辞した。召使いなんてどう対処していいかわからない。髪を梳くぐらい、自分でできる。
「では櫛だけお持ちします」と鏡は淡々と処理して、他にもなにか要るものはあるか、要望はあるかと聞いてきた。
クナは迷わず、巫女の修行をするための部屋を借りたいと願った。一刻も早く目を赤くして、化け物におのが身を食べてもらいたかった。
死んだら、母さんがいる家に帰れる。魂がそこへ飛んでいく。
早く母さんに会いたい――クナの願いは切に、それ一色だった。
「でもあたし、しゅぎょうのやりかたをよくしらないんです。どうやったらいいのか……」
「では、巫女の修行をご教示なさる方も、手配いたします」
なんとありがたい! クナは鏡に頭を下げた。
鏡は、櫛を持ってくるから自分を卓に乗せろと言った。手で探るとなるほど、寝台脇の卓に、鏡がはめられそうな台座がある。そこへぴったりはめると、なんと卓は静かに縮まっていき、床の中へと沈んで消えてしまった。
手で探ればそこはつるつる、床があるだけ。あっけにとられたクナがぽかんと口を開けていると、ずず、と床の一部が左右に開き、卓がまたゆっくり昇って鏡が戻ってきた。
「お待たせいたしました。家司に、ご要望を伝えてまいりました。修行の準備が整いますまで、いましばらくお待ちください。櫛を私の上に載せております。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「おそれながら奥様、お召し物が見当たりませんので、僭越ながらこちらでご用意させていただきました。ほどなく召使がお届けにあがります」
鏡の上に乗っている櫛を手探りで取ったクナは、手をぴたり。頭に当てた体勢で固まった。
「おくさま? いえあたしは、ちゅうこくさまのおくさまじゃありません」
きょとんとするクナに、しかし鏡は淡々と、おそろしいことを告げた。
「おそれながら、あなたさまは本日未明より、主さまの奥様として、この塔にお入りになっておられます。主さまが本日出掛けに自らご記入なさいました入塔記録に、そう記載されてございます」
「うそ?! ……あっ!」
思わず腕に力が入った。もつれ髪に櫛がひっかかる。
うろたえるクナに「まちがいございません」と、鏡は入塔記録の文面と称するものを告げてきた。
「『十の月十六日丑の刻、しろがね色のイナカ・ムスメ、
第八柱国将軍たる我、辰三寶の名を陛下より賜られし、
トリ・ヴェティモント・ノアールの妻として入塔せり』
――かように、記録帳に記載されております」
「どうして?!」
クナは頭からなんとか引き抜いた櫛を、ぎゅっと胸元でにぎりしめた。手がぶるぶる震える。
柱国さまはクナを、トウのマカリ姫とみとめるつもりはないらしい。しかしなぜ勝手に妻と記したのか? しかも――
(しろがねいろ?)
おのれの一体どこがそうなのか。肌は栗皮色。髪は黒のはず……
『ああ、よい色だ』
(よいいろって……くろのことよね? そうよね? あたしのかみは、くろよ)
そう確かめるように念じた刹那。クナの耳を、あの音が撫でた気がした。
静謐の中静かに焼ける月の光。あの、しろがね色の囁きが。
ちりちり。ちりちり。
その音が、自分の髪から出ているような気がして。
「か、かがみさま。あたしのかみ……」
たちまちこわくなったクナは、すがるように鏡に訊ねた。指から血の気が失せるぐらい、強く強く、櫛を握りしめながら。
「あたしのかみ、なにいろ、ですか?」