18話 溶けゆく氷
夢の中で扉を開けられなかった翌朝。
食堂で朝食をとるクナは、白鷹の後見人が宿舎に来たことを知らされた。取り次ぎの使い女はそわそわしており、来訪者がひどく不機嫌な様子であることをこそりと告げていった。
急いで食事を終え、ロビーへ降りて行くと。
「すめらの星。護衛の騎士を外さないでほしい」
かつかつ杖を突いて近づいてきた気配に、クナはいきなり咎められた。
「私がつけた五人の騎士は、白鷹家のもの。白鷹の家に連なる者、または未来にそうなる者にしか、その力を使ってはいけない。他国人のためには決して使わないでくれ」
「騎士さまたちは、〈すめらの星〉を護るもの。あたしはそう解釈しました。だからホン姫の救出をお願いしたんです。それに、五人もいらっしゃいますから……」
「一人ぐらいいいだろうと思ってもらっては困る。私がずっとそばにいられたらいいが、残念ながらそうすることはできない。だから白鷹の騎士たちに任せたが、彼らの魔力は低いからね。最低五人はいないと、君を護る結界の精度が落ちてしまう。ひとり欠けてしまったおかげで、あんなことに……あいつの侵入を許す結果になってしまった……」
護りたい? 見張りたいの間違いでは? クナが何も思い出せないように邪魔したい、それが本音では?
クナはそう喰ってかかりたかった。くれないの髪燃ゆる君は、クナの扉に魔力を当てて、なんとか開けようとしてくれた。ありがたくも、黒髪さまの名前を知る手がかりもくれた。そんな人をいかがわしい侵入者扱いするなんて。
口を開きかけたクナはしかし、杖持つ人の後ろにいる気配に気づいて、ハッとそちらの方に注意を向けた。
「花売りさん……騎士さま……!」
ロビーの椅子に座っているのであろうふたりは、なんとも居心地悪げな雰囲気。慌てて立ち上がってこちらを向いたらしい。申し訳なさそうな声がふらっと飛んでくる。
「すみませんスミコさん。繁華街の酒場でトリオン様に捕まって、えらく怒られてしまいました」
「申し訳ございません。これからはあなた様から決して離れぬと、私だけでなく他の四人の騎士も、後見人様に誓いを立てました。ですのでもう、おそばを離れることはできません」
妨害の電波がまた戻ってしまった。となれば扉を開けるどころか、夢すらろくに見ることができなくなる。記憶を引き出すことは、もう叶わない。
「すまない、まだ黒竜州公との交渉が続いていてね。でも今夜の公演は観に行けるし、あと数日すれば、しばらく君のそばに付いていられるようになるから」
それではますます、名前探しは困難になる……
(万事休す? でも名前の半分は分かったのよ。あと半分、なんとかして――)
「あとそれから。石化病を直す薬を調合したよ。花売りの店から材料を調達した。高価な紅蓮花を大量に使ったものだ。まだ試作といわざるをえないものだが、先方に送って試してみていただいて大丈夫だと思う」
「あ……ありがとうございます」
後見人が出してきた条件や邪魔立ては、正直腹立たしい。クナの気持ちは相手を突っつきたいぐらい尖っていたけれど、薬の瓶を手に落とされると同時に、反発の言葉を投げるのをなんとか思いとどまるぐらい和らいだ。
キラキラのトリオンは、クナが願ったことをちゃんと叶えてくれたのだ。常人をはるかに越える知識と技をもってして。だからそれなりの見返りを求めてくるのは、当然のことかもしれない。無私の愛を捧げてくれる人など、この世にそうそういるわけがないのだから……。
後見人がこれから黒竜州公の城へ行くと言って去ったあと。複雑な思いに満たされて肩を落とすクナのもとに、花売りがこそりと近づいてきた。
「ほんとにすみません。剣にどういうわけなのかと問いただしてみましたが、ぶつぶつ滑舌が悪くて……昨晩はあなたが夢の中で大変な目にあってるようだと、ひどく心配していたんですけどね。今朝になったらしきりになぜか、センタ州のエルジへ行きたいと言っています」
「エルジ?」
「センタ州の南部にある都市ですね。どうして行きたがるのか教えてくれませんが、何度も繰り返しつぶやいていて……怪しげな呟き男になっていますよ」
剣は黒髪さまのことを詳しく知っているようだが、彼のことを嫌っていて何も教えたがらない。クナには知らぬ存ぜぬを押し通すつもりでいるらしい。しかしここにきて、どうもそわそわしているようだ。クナが神帝と後見人の間に挟まれたのを察知して、心配してくれているのかもしれない。
妨害復活のせいで彼と直接会話できないのは、かなり残念なことだ。
「舞踊団は、北五州全部をまわる予定です。センタ州にも、いずれ行くことになりますけど」
「エルジは州都ではないですが、かなり大きな都市ですね。センタ州の南部は昔、エティアという独立した王国だったそうですが、たしかその王都だったところと聞いてます」
「エティア王国の、王都……」
(もしかして剣は、あたしに何か伝えてくれようとしてる? エルジ……もしかしてそこに行けば、なにか分かるとか?)
クナの胸中になんともいえないものが満ちた。レナンという名前を知った時に感じたものとは全く違う。なぜかちくちく、針で肌を刺されるような感覚だった。
(エルジ……いったいそこに、何があるの?)
今すぐセンタ州へ行きたい――
焦る気持ちを押し込めて、クナは手に入れた薬瓶を百臘の方へと送り出し、劇場に入った。セーヴル州での公演期間はあと少し。十一の月の終わりの日まで、すなわちあと三日ほど残っている。
昨日の今日でメノウはさすがに、大使館から戻ってはくるまい。ホン姫と水いらずでいたいだろうと思ったのだが。
「さあ、ぐずぐずしないで練習を始めなさい!」
厳しい指南役は巫女たちよりも早く劇場入りしていた。
いつにもまして鋭くぱんぱん手を打ち、皆を急かし、厳しい叱責をびしばし。あわてて舞台上に整列した巫女たちは、彼女の口から、代役の星がいなくなることを聞かされた。
「ホン姫の病はかなりの重篤。よって、帝都月神殿に帰すことになりました」
(ホン姫はもう舞えない? そんなにひどい怪我を負ったの?!)
剣の実況では、陵辱は免れた感じだったけれど……公演をあきらめねばならなくなったということば、二度と動かせぬほど足を斬られたか、それとも……。
そんな……と、クナの隣でリアン姫が呆然とつぶやいた。この姫はホン姫が助かったことを誇らしげに喜んでいたから、がっかりの度合いもはんぱないのだろう。
稽古が始まってまもなく、ホン姫の身を案じるクナや太陽の巫女たちは、団長が詰める控え室に呼び出された。
「ホン姫を救った方をもてなすため、すめらの大使館が舞い手をひとり出向させてほしいと、要請してきているのです。ならば事情を知るあなたたちの中から派遣したらよろしいと、メノウどのが仰るのですよ」
「事情……?」
「あなた方は、ホン姫の救出に手を貸した。そうではないですかな? ホン姫自身が、あなたがたの風が屋敷に流れてくるのを感じたと言っておるのですよ。たしかにあれは、太陽の巫女の祝詞であったと。それがかすかに聞こえてきたと。それだけでなく姫を救った方も、間違いなくなんらかの神霊力の介助があったと仰っているのですよ」
――「帝国舞踊団は、団員を救ったあなた方をねぎらわねばなりません」
言葉とともにメノウが控え室に入ってきて、さわっと衣擦れの音を立てた。それは長い布が前に垂れ下がるような音。深々と頭を下げてきたのだと気づいて、クナは自分も思わず礼をとった。
「太陽の巫女の技をもってして月の巫女を助けたというのは、月の者たる私どもにとっては正直、面目ないこと。心中に複雑なものを覚えます。なれどあなた方の働きに、月神殿及び帝国舞踊団は感謝いたします。あなた方には、団員の俸給である反物が、より多く配られることでしょう」
「あの、ホン姫はご無事ですの? 帰ってこれないなんて、ひどい大怪我を負ったのですか?」
リアン姫の問いにメノウは答えず。ただただ鋭い針のような声で、クナたちを射ぬいた。
「ホン姫は病を患ったがために、帰国するのです。他の理由はありえません。すなわち、事情を知るあなた方には今これから、誓いの祝詞を唱えていただきます」
誓いの祝詞は、口を封じる巫女の技。一種の呪いで、禁忌とした言葉を喋ろうとすると、声が出なくなる。無理に口に出せば手足に痣が浮かび上がる。はたからみてすぐに分かるものだから、見つかれば即刻、舞踊団から退団させられ、処分されるだろう。むろん、この命令を拒否しても同じ末路が待っているに違いない。
すめらは「すめらの星」に、少しの傷もつけるわけにはいかないのだ――
拒む選択肢がない事を察した太陽の巫女たちは素直に従った。ホン姫は実は病にかかったのではなく、なにがしかの怪我を負ったのだ、ということを言わない誓いを立てると。
「よろしい。では、大使館に派遣する巫女を決めます」
パンと手を打ち、メノウは淡々とやるべきことを進めた。まるで感情のない機械のように。
すめらの星は舞台の要。公演を抜けることはできない。そのためクナは、はなから選択外とされた。
大使館にはアカシが遣わされた。第一位の従巫女という、候補の中で最も高い位にあるからだった。
アカシはその晩帰ってこず、翌朝直接、大使館から劇場にやって来た。
聞けばホン姫はすでに飛行場へ送られたあと。帰国の途についたと聞かされ、会うことは叶わなかったそうだ。アカシは夜更けまで赤毛の少年に舞を披露し、酌も少々。大使はアカシに夜伽を命じたという。
「まあ、伽を?!」
「はい、リアンさま。大使さまは慣習に則ってすめらの恩人をもてなそうと、豪華な寝室を用意しておりました。でも白馬の方は、伴侶の方としか契らぬ誓いを立てていらっしゃると仰って、代わりに夜更けまで舞をご所望になられました。舞がことのほかお好きだそうで、すめらに古代から伝わるものから西方の様式を取り入れたものまで、あれもこれもと……。大使様は立派な楽団を呼んでおられて、なんとも恐縮でした」
「白馬……ああ、スミコが剣との念話でそう聞きとってましたわね。白馬に乗ってたとか。見目よいアカシさまに手を出さないなんて、ずいぶん身持ちの堅い方なのね」
名前は? 身分は? 根掘り葉掘り聞くリアン姫に、アカシは遠慮深く答えた。
「お名前はテシュ・ブラン。トバテ公国にて、大きな商会を営む方のご子息であると聞きました」
「あら、商人なの? 貴族じゃなくて残念。じゃあ宴席の上座に座る相手に、酌をしながら舞を見せただけですのね」
「いえ、上座には別の方が……」
冷静に説明していたアカシの声がうわずった。何事かと思えば、彼女の口から出たのは、意外な名前だった。
「グリゴーリ・ポポフキン様が……いらっしゃいまして……」
「えええ?!」「まあ……」「え?! あの帥哥 が!?」
グリゴーリ・ポポフキン。彼はアカシのことを痛く気に入っていた、ユーグ州の貴族だ。九十九の方の婚儀を終えてユーグ州を離れる折、飛行場にてアカシに花束を贈った青年である。手紙を書き送りたいといっていたが、そう言っている途中から遠慮してしまうほど人の良さそうな人だった。
「グリゴーリ様は、新しく黒竜州に遣わされたユーグ州の大使さまとして、着任のご挨拶回りにいらっしゃったんです。白馬の方は快く、晩餐の席にグリゴーリ様が同席なさることにご同意なさって、上座をお譲りになったのです」
「まあ商人なら当然、貴族身分の大使さまに遠慮しますわよね。って、あたくし知ってますわよ。アカシさまったら、ユーグ州の公演のとき時々すごい花束を受け取ってましたでしょ。あれってあの帥哥 からですわよね?」
「あ、は、はい。ありがたいことに。それで、昨夜はこんなところで会うとはとびっくりされまして……大変、喜んでいただけた、かも……」
「独り舞の艶姿を観ていただけるとは、なんという僥倖」
ミン姫が珍しくも息を呑む。リアン姫が、これはもう結婚の申し込みは確定だとはしゃぎだした。クナも驚きアカシの幸運を喜んだが、これはどういうことかと心にわずかなひっかかりを覚えた。
新しいユーグ州の大使が、すめらの大使館に来た? くれないの髪燃ゆる君が居る、その日に。これは単なる偶然? それとも白鷹の後見人が、グリゴーリ卿をさし向けたのだろうか?
クナを護る護衛の騎士が助けようとした姫が、いったい誰に助けられたのか、探りを入れようとして。
(あのキラキラのトリオンさまだったら、とてもやりそう……)
「それでどうなったんですの? グリゴーリ様に逢い引きに誘われたとか、そういうことは?」
「いえまさか、そんなお約束は。今夜、この劇場に来るとは仰ってましたけれど」
「アカシさま目当てでいらっしゃるのね! ああでもあたしたち、後衛の波の役っていうのがほんとに悔しいですわね。前衛だったらよく見えるでしょうに」
「大丈夫です。私はアカシさまより三列前。後衛の一列目です。今夜は場所を交換しましょう」
「ミンさま?!」
「後衛の一列目なら、客席からちゃんと顔が見えます」
「それは……」
「ご遠慮なさらないでください。私は、あなたがどなたかに嫁がれることを望んでいますので」
ありていにいえばと、陽家の姫君はつんとすました。
「私より位の高い従巫女さまが花嫁となれば、私が次代の巫女王になる確率が高まります。ですからどうぞ、私の申し出をお受けください」
それはともすれば高慢なる発言に聞こえたかもしれないが。直後、リアン姫がからからと明るい笑い声をあげた。
「やだミンさまったら。ほんとはめちゃくちゃ頬を染めてらっしゃるアカシさまを、応援したいだけのくせに。万が一あのメノウさまに咎められたら、ミンさまはアカシさまの追い出し婚を目論んで、無理矢理換わらせたと言い訳するおつもりなのでしょ?」
「我が家と同じく、野心にあふれし尚家の者にはお見通しですか。ええ、陽家の者は普段より、野心満々の行動原理を隠さないと思われております。その定評を利用すればよいと思います。位置交換は、尊大にして傲慢、太陽の第一神官家たる陽家のお家芸だと。そうすれば後衛のことですし、メノウさまには呆れられるだけで済むでしょう」
「で、でもそれでは、ミンさまが悪者になってしまいます」
「ほほ、もうすでにお家芸をかます家の姫だってみなされてるんだから、そこは大丈夫ですわよ。お受けになって、アカシさま。あたくしもあなたさまを、幸せのどつぼに突き落としたくてよ」
リアン姫に背を押されたアカシはおずおずミン姫の申し出を受け、その日の夜公演にて、波の列の一番前で舞った。
幕が降りて楽屋へ戻ってみれば、そこにはアカシあての見事な花束が届いていた。その晩すめらの星に贈られたものよりもはるかに豪華な、数百本以上もの薔薇が束ねられているものだった。
有能なメノウは位置交換を見逃さなかった。なぜにとこわい声で問うてきたのだが、ミン姫が「自分の目論み」を淡々と説明すると、これだから陽家の者は……とぶつぶつ言いながら引き下がった。
ミン姫の読みは大当たり。しかしメノウがあっさり退いたのは、陽家の評判だけではあるまい。太陽の巫女たちがホン姫を助けたせいでもあるのではと、クナは推測した。クナたちは彼女の娘の、命の恩人なのだ。メノウは表向きにはとても事務的にクナたちをねぎらったけれど、心の内では深く感謝しているのかもしれない。
「グリゴーリ様は、二階の箱席にいましたわね。必死に波の方をちらちらご覧になってましたわよ!」
楽屋で衣装を解くリアン姫は、まるで自分のことのように若き大使の来場を喜んでいた。
「白鷹の後見人さまが隣にいらっしゃいましたわね。あの方のお目当ては誰かしら。やっぱりスミコ?」
後見人と一緒と聞いて、クナはどきりとした。
(やっぱりトリオンさまが、大使さまたちにすめらの大使館へ行くよう命じたの?)
「素晴らしかったね……!」
くだんの人は、楽屋前の廊下でクナが出てくるのを待っていた。
「これが今年いっぱいで見納めとは惜しい気もするが……でも君を護るためだから。どうだろう、今夜は大使館でともに晩餐を……」
期限を念押しされたクナは、疲れているからと招待を丁重に断った。今までならばお受けしなさいとメノウがきつく命じてくるはずなのだが。今宵の彼女は、なんとクナの意向を尊重してくれた。
「申し訳ございません。無理はさせられませんので」
やはりメノウは、クナたちに恩を感じて寛容になっているようだ。何も言葉にしてこないけれど、心なしか視線が柔らかくなっている気がする……。
それにしても、後見人の隣でそわそわしているこの気配は―――きっとグリゴーリ卿だろう。背後にいるアカシから鼓動の早そうな息づかいが聞こえてきたので、クナはとっさに願った。
「あの、今夜はあたしの代わりに、アカシさまを招待してくださいませんか?」
とたんに後見人の隣から、歓喜の吐息が漏れてきた。アカシの口からも、同じ雰囲気のものがそっと。
「君の頼みなら喜んで。でも明日は、君に来てほしいな」
後見人の頼みに、クナは体調が良かったらと答えて劇場を辞した。
かしゃりかしゃり。
宿舎の部屋の前までついてきた騎士たちの鎧の音はなんとも重たく、怪物の足音のよう。花売りのように階下の部屋で寝てくれればよいのにと思うけれど、できるだけそばに詰めろと後見人に命じられたのだろう。金属がきしむ音を聞きながら、寝床に我が身を埋めるクナは手を組んで祈った。
(アカシさまが、幸せになりますように)
それから、自分のことも切に願った。ちりちり窓からさしこんでくるしろがねの月女さまや、無数にきらめく瞬き様たち。天の神々に向かって、クナは祈りの言葉を唱えた。
(どうか道が開けますように……花売りさんと剣さんが教えてくれたエルジ……どうかそこで、何かが見つかりますように……。レナ……レナ……)
それはいつしか黒髪さまへの呼びかけとなり。窓の外の夜気の中に流れて溶けていった。
(レナ……会いたいです……お休みなさい)
窓の向こうで宵闇の空からちらちら、白いものが舞っている。ぶ厚いギヤマンで遮られているから、冬の寒気はそんなに入り込んでこない。
暖炉の火は赤々と燃えていて、宮殿の最上階近くにあるこの部屋は、汗ばむくらいの暑さだ。
「オルキスへまた行けるほどの軍の再編……やはり今年中にというのは無理やろか……龍生殿は新しい龍を出すのを渋ってはるし……現状維持が精一杯やなんて……」
重苦しいため息とともに、九十九の方は広げていた茶色い書簡を丸め、卓上に積んだ巻物の山のてっぺんに載せた。
白鷹の宮殿に帰った彼女の身を覆っているのは、いかつい鎧ではなく、透けた寝着。この州特産の黄金の絹糸で織られた紗を仕立てたものだ。ふわりとしたすそが暖炉の光を浴びてきらきら、星のまたたきのように光っている。
「具合はどうかな?」
白鷹の州公閣下が活力あふれる足音をたてて部屋に入ってきたので、九十九の方は立ち上がり、腰を落として礼をとった。
「おかげさまで、具合はよろしいです」
「本当に? 無事に戦地から帰ってきたと喜んでいたら、突然倒れてびっくりした。しかし侍医の診断がまことならば、実に喜ばしい」
「恐れながら……たぶん違うとうちは思います。婚儀をあげましたんは、たった三月前ですし、うちはそんなに若くは……」
「そなたが遠征のために出て行くまで、初夜から毎晩、種を入れた。一晩に何度も。ゆえに、なんら不思議なことではあるまい。十分にあり得ることだ」
白い寝着姿の州公はかしこまる妃の手を取り、部屋の奥にある寝台へと誘った。
「私としてはまことであってほしいが。そなたが違うと言うのならば、さらに励まねばな」
きらめく紗が剥がされる。寝台に落とされた九十九の方は、自分の体に口づけを落とす夫を受け入れた。たちまち荒くなる吐息にはしたないと眉間にしわを寄せ、必死に抑えていると、夫はもっと声をあげよと少しいらだたしげに命じてきた。
言われた通りにしようとした九十九の方はしかし、突然両手で口を塞いだ。
異変に気づいた夫が、白い体から身を離す。
「吐き気がするのか?」
手を口に当てたまま、辛そうにこくりとうなずいた妻を、夫は喜びのため息とともに抱きしめた。
「ああ、ではやはりそうなのだ。宿っているのだよ」
宿っている? この体の中に?
夫の腕の中で九十九の方は震えた。
(うちは戦で命を散らすつもりやった。覚悟通り、本当に死んでいたら……宿ったものも道連れにしていた……ということですやろか)
「トリオン殿に知らせねば。あの方のことだから、予知の力ですでにご存じかもしれぬが、いつ公にするか相談しないとな」
迷わず死んでよいと、白鷹の後見人は出陣を迷う九十九の方の背を押した。
もしこのことをすでに予見していてなお、そう言ったのなら……
(……まさか。そんなことあらしまへんやろ。いくらなんでも)
夫の胸に頭を寄せ、九十九の方は湧き上がってくる疑いを否定した。
心の内にじわりと生まれた、その闇の濃さに驚きながら。
(あん方は知らへんかった。このことはたぶん、知らへんかったんや)
黒いものはたちまち小さくなった。
しかし心の底に沈んだそれは、窓辺にこびりつく雪のように動かなくなった。
そこから、少しも。