11話 花売り
周りを湖に囲まれた宮殿は何十階もある高層の建物。妃や後見人の部屋は、宮殿のほぼ最上階にある。クナを引っ張るユーファンはずいぶん下の階の部屋に閉じ込められていたようで、そこから脱出してから、クナを必死に探していたらしい。
「匂いで一発だったぜ。スミちゃん、すごく甘いもんな!」
はあはあ息を切らしているユーファンの手は汗ばみ、熱かった。
まるで病にかかって熱でも出ているのかと思うほど。クナの腕をぐいぐい引っ張り急かすので、周りが見えないクナはおそろしかった。一体何度、階段から足を外しそうになったことか。体勢を崩すたび、ユーファンはクナの細腰に腕を巻きつけて支えてきた。
「その縄、重いな」
クナは西方風の束腹でぎゅうぎゅうにしめた裾広がりの連衣裙という出で立ちだが、腰には注連縄をしっかり巻いている。襲われたとき寝着はぼろぼろになったが、縄は幸い無事。切られずに済んでいた。
「スミちゃんにドレスは似合うが、その縄は全然合ってないな」
「とっちゃだめなんです」
「風呂に入る時もつけてるのかい?」
「少しの間だったら大丈夫ですけど。あのそれより、遠征軍が負けたって、ほんとですか?」
「ああ、間違いない。白鷹の衛兵たちが話してたからな。出した援軍から、突然伝信が途絶えたって」
「そんな――――ひゃっ!」
階段から完全に足を踏み外したクナの腰を、ユーファンはひょいと抱えた。
「このくびれ、ほんといい形だ。しかしスミちゃん、今回のことは、ほんとに災難だったなぁ。ああ、心配しないでくれ。あのことは、絶対記事にはしないからさ」
「あのこと?」
「スミちゃんがよってたかって、ケダモノたちに襲われたこと……だよ」
はあはあ、ユーファンの息がいやに生々しく聞こえる。甘露の匂いは消したから、おかしなことにはならないだろうとクナは思ったが。はりつき虫は突然、階段の踊り場で立ち止まった。
「俺、一部始終見てたぜ……」
「ユーファンさ……?」
「あいつら、スミちゃんのまっしろな両足かっ広げて……」
「え……きゃあっ?!」
クナは壁にどんと体を押し付けられた。肩を押してきた手には、おそろしいほど力が入っている。焼けているように熱っぽいその手が、じわと食い込んできた。
「なあ、すごかったぜ……あんときさ、甘い匂いがあたりに充満して、俺、すごくいい心地に……」
「きゃああ?! やめてくださいっ!」
クナは必死に、いきなり迫ってきたユーファンの顔を両手で押し返した。しかし相手の力はまるで熊のよう。突き出した腕は簡単にはねのけられ、レースがついた胸元がびりりと裂かれた。
ああ、じかに触っちゃだめだったと、ユーファンが自分に言い聞かせるようにつぶやく。およそ正気とは思えない。はあはあうるさい相手の吐息が鼻先に近づいてくる。
「なあ、スミちゃん。あんたの匂い、本当に甘すぎるぜ」
クナは必死に、迫ってくる相手の両肩を押した。ユーファンはだいぶ肉付きよく、がたいのよい男だった。ぐっと腕にかかってきた重さはかなりのもの。力込めても勢い削がれぬ相手の息が、鼻や頬に降りかかる。もうだめかと思った瞬間――――
「そそそ、その子を放せ!」
踊り場にだれかの声が響き渡った。
ユーファンの背後からびりっと聞こえたそれは、男か女か、よく分からない中性的な声質。えらくうろたえている感じだ。
「ちっ! なんだおまえ!?」
「そ、そういうこと、やめた方がいいですっ」
「なんだとぉ?!」
まるで酔いどれたようにユーファンは甲高い声をあげ、クナを放して声の主に矛先を向けた。
ぶんぶん、手に持つ棒のようなものがうなりをあげる。武闘の技でも駆使しているかのように、その音には切れがある。いったいどこで会得したものか、きっとこの体術を使って監視人や兵士を倒し、脱出してきたのだろう。
「スミちゃんは、俺のものだあ!」
叫びとともに、棒のうなりが相手に飛んだ。鋭い音が空を裂く。しかし――
「や、やめて、くださーいっ!」「ぐはっ!」
なさけない声とともに、ばこんと鈍い音がして。ユーファンはあっけなく、どたりと倒れた。声の主が、何かで思いきり殴り倒したのだ。
「ひっ?! た、倒れちゃった。うわわ、衛兵さん! 衛兵さーん!」
しかしまったく戦い慣れていないのだろう。声の主は人を倒したことにひどく怯えていた。
震え混じる呼び声に反応して、ほどなくガシャガシャ、鎧の音をたてる兵士たちが大勢集まってきた。宮殿内に配置されている衛兵たちで、すでにユーファン逃亡の連絡が行き渡っていたらしい。見つけたぞという怒鳴り声とともに、気絶した狼藉者はあっという間に捕縛され、ずるずるしょっぴいていかれた。
「あ、ありがとう……ございます……」
「大丈夫ですか? あのボク、とっさに対処しちゃったんですが」
嵐のごとき災禍から我に返り、クナがやっとのこと礼の言葉を口にすると、救い主はおろおろおどおど。まるで自信のない雰囲気で様子をうかがってきた。この人はまだずいぶん年若いのかもしれないと、クナは感じた。
「あの人、脳みそ出なくてよかったです。ボクの剣、馬鹿力なんで……」
「剣? 棒とかじゃ、ないんですか?」
使い方から、およそ斬るようなものを持っているようには感じられなかったのだが。
しかし、担いでいるものは剣ですと相手は答えた。
「でもボク、剣術なんて全然知らなくて。家宝だから肌身離さずもってろって、父さんがうるさいから、仕方なく背負ってるんです。今日は剣が突然、匂う匂うって騒ぎだしたから……それで指示されたとおりに階段を昇ったら、あなたが大変な目に合っていて……」
「剣が……さわぐ? 指示する?」
「ボクこれから、後見人さまの部屋に伺わなくてはならないので、失礼しないといけないんですけど。ひとりで大丈夫ですか?」
「あ、あの、あたしもそこに……トリオンさまのところに」
「そうなんですか。では一緒に行きましょう。ああ、こわがらないでください。あとずさらないで。ボクはただの花売りです。このお城に出入りしてる、商売人なんです」
「花売り、さん……」
クナは破かれた胸元を両手で隠し、相手に頼んだ。がくがく震える体に力を入れ、なんとか体裁を取り繕いつつ。剣が指示するとはどういうことかと思いながら。
「すぐ前を、ゆっくり歩いてくれませんか? あたし、気配を追っていきますから」
「あ、目が見えないんですね? 手を引きましょうか?」
「いえ! さ、さわらないでくださいっ」
とっさにクナは拒否した。ユーファンにいわれたこと。されたこと。それらにひどく応えてしまって、今はもうだれにも触れられたくなかった。
――「すめらの星! 無事か?!」
階段を昇ってしばらくすると、階上からトリオンが走り降りてきた。
はりつき虫を捕らえた衛兵から伝信を受け、急いで駆けつけてきたらしい。そばに近づいてきたその気配は、さっとクナを抱き上げてきたけれど。クナは顔を真っ青にして、その介添えを拒んだ。
「だめ! さわらないで! こ、香油、ぜんぜんきかなかったわ!」
「すまない……ユーファンは今まで君のそばに居すぎた。だから体の芯まで甘露に犯されているんだろう」
「お願い、おろして!」
後見人がたじろいで腕を広げると、クナは逃げるように庇護の囲みから逃れた。
すぐに浴室にこもり、体を洗い流したい。香油でごまかすのではなく、甘い匂いを完全に消し去りたい。だれもおかしくならないように……。
切にそう願って歯を食いしばり、こみあげてくる涙をこらえるかたわらで。花売りが声をあげた。
「トリオン様! お呼び出しありがとうございます。ですがその、ボクからもお願いがあります!」
ユーファンの情報はガセではないか。クナが抱いたかすかな希望を、その言葉は容赦なく打ち砕いた。
「すめらの遠征軍に入った叔父が、昨日から音信不通になりました。傭兵ですからたぶん前線に配置されて、それでおそらく……あの、安否を知りたいのです。どうか、お力添えを!」
こおこお、空に浮かぶ船の床が静かなうなりを上げる。
翠鉱機関で動くその音は、他国の船とは比較にならないほど穏やかだ。
髭の紳士は目を細め、透明なギヤマンの船窓の向こうを眺めやった。白雲の彼方に遠ざかる船影がある。三角錐の不格好な船――すめらの飛竜船団だ。いずれもごうごう、けたたましい機関音をたて、みるみる遠ざかっていく。
「仕掛けてきたのは、断続的な挑発の艦砲のみとは。しかしこの船の守りは鉄壁。毛ほどの傷もつけられませんでしたな」
オニウェルとキールスールの国境線。眼下にえんえん伸びる境の城壁のそこかしこから、黒い煙柱が建っている。しかし、国境を越えてなだれこんでくるものはない。
城壁を攻めてきた敵軍は今、キールスールの内地深くへと逃げ込んでいる。おそらく首都のわきをすり抜けて、北のユーグ州まで撤退することだろう。
敵が崩そうとして崩せなかった石壁に沿うように、長い肢体の屍が二体見える。
金のうろこと、蒼いうろこをもつ生き物。無敵を誇っていたすめらの龍だ。地に斃れた龍の周りには、すめらの兵の屍が山を成している。
「なんともすばらしい葡萄酒でしたな。まさに当たり年」
魔道帝国の新兵器、翠鉱弾は、いともたやすくあの神獣の子らを撃ち抜いた。国境線上空よりはるか後衛に展開した軍船からの狙い撃ち。龍たちは戦の開幕から一刻経たぬうちに墜とされた。
聞けば、かの新弾は、神帝陛下自らが発明したものだという。なんという叡智の持ち主であろうか。
少々の結界などものともしない砲弾は、丸い鋼弾ではない。船の砲塔が吐き出したのは、幾筋もの光の線。まさにあれは光の矢であった。矢はすべてのものを貫いた。すめらが虎の子のように出してきた大きな鉄の竜も、ことごとく。
盾であり、最大の攻撃力であるものを失ったすめらの士気は、みるまにがた落ち。それに加え、味方の中で造反が起きた。
キールスールの同盟軍の数個師団が、突如、すめらの軍を攻撃し始めたのである。
「同盟軍を寝返らせるとは、なんと見事な。さすがわが君」
反乱軍ともいうべきそれは、キールスール王の親戚にあたる大貴族が率いるもの。くれない燃ゆる髪の君は前々から、その貴族に魔道帝国側につくよう焚きつけていたらしい。
すめらの軍の後衛にいたその軍は、容赦なく「味方」を襲った。前方には光の矢を放つ船団。後ろには裏切り者たち。哀れなるすめらのつわものたちは、前後から挟み撃ちにされたのだ。
実際に造反した兵は、キールスール軍全体のごく一部にすぎぬ。しかしダメ押しのように、「キールスール、すめらとの同盟を破棄」という大陸公報が流された。
これは魔道帝国が、かの国の政府が出したかのように取り繕った偽の公報であったのだが。その効果はてきめんであった。
すめら全軍は恐慌をきたし、同盟はこわれた。すめらがキールスールを疑って総軍撤退をするという、十二分な効果をもたらしたのである――
「コジモ。総大将の船が去ったようだな」
背後から流れてくる声に、髭の紳士は振り向いてかしこまった。
「はい閣下。すめらの軍を逃がすべく、この半日、この船団の前にて盾となっておりましたが。ようやく離れていきました」
「我が船の前に立ちはだかりて、ただひたすら挑発砲撃を繰り返すなど。命知らずもよいところだが、わが身を犠牲にしようとするとは、なかなか見あげた将軍だ」
ごうという咆哮が、声に混じる。金のたてがみが、片膝ついて頭をたれる髭の紳士の目を焼いた。
紳士が居るのは、まるで大宮殿の玉座の間のごとき広間である。円天井を支える列柱。大理石のモザイクを敷き詰めた床。いくつも段のついた円い台座の上には赤い敷物が敷かれており、そこに黄金の獅子が悠然と寝そべっている。
きらめくたてがみを垂らす獅子のそばには、少年がひとり。真っ赤な髪の頭を獅子の腹に預けて、すうすう寝入っている。
「神帝陛下は、まだお休みであられますか」
「両手を広げてたちはだかる小娘など、俺の子がまともに相手する価値はない。容赦なく墜とせば、トリオンにつけ込まれる隙を作ってしまうだけだ。わざわざ差し出された生け贄など、獲るわけにはゆかぬ」
「なんと、総大将は生け贄……だったと?」
「くそトリオンは、どうあがいても俺の子には勝てぬことを心得ている。ゆえにいつも、負けた後の善後策で、我らをおとしめる策をかましてくるのだ。今回もまさしくそうであろうよ。州公の妃をむざむざ殺せば、ここぞと我らを非難する腹づもりであろう」
「それで我が君はひとこと、傷つけるなとご指示なさって……お眠りに?」
「そうだ。俺の子は賢いからな。相手の小娘も我が身の役割をしっかり心得ていて、果敢に身を投げ出してきたようだが。我らが決して相手にせぬと気づいて、渋々あきらめたようだ」
「ん……ジェ……」
「ああ、すまぬ。うるさくしてしまったな」
獅子がごろろと喉を鳴らす。赤毛の少年は満足げに微笑み、顔を獅子の腹にこすりつけた。むにゃむにゃ囁きながら、その金色の毛をぎゅうと握る。
「ジェニ……あったかい」
虹魚を獲りに南へきたら。姿をくらましていた金の獅子は開戦直前、余裕たっぷり、なにくわぬ顔でこの船に乗り込んできた。翠鉱弾を撃つ船団の、一番しんがりにいるましろの船に。
『ジェニ! 俺のジェニ! 会いたかった!』
大喧嘩したことなど、なかったかのよう。獅子の狙い通り、赤毛の少年は彼の不在を寂しがっていたのだろう。とても嬉しそうに獅子にすがりついて、それからずっと、片時も離さないでいる。
「ジェ二……すき……」
甘い囁きを聞いたきらめく獅子は、くくくと上機嫌に笑った。
「すめらの小娘が根負けしてよかった。俺の子が黒獅子を出さずに済んで、なによりだ」
「黒獅子……」
神帝陛下が飼っているという神獣は、それはそれはおそろしきもの。
髭の紳士は方々からそう聞いている。いともたやすく天地を裂くとか、人肉を食らいまくるとか。優しくあどけない少年が飼っているとは、およそ思えぬものらしい。
そのようなものを駆使することなく、すんなり勝ったとは。神帝陛下にとってこたびの戦は、赤子の手をひねるように簡単なものであったのだろう。開戦からほぼほぼ、こうしてのんびり、獅子を枕に眠っておられるのだから。
紳士は満足げに目を糸にして、獅子の腹に顔をうずめる少年を愛おしげに眺めた。
「お目覚めになられたら。どうか、献上せし美酒をお楽しみくださいませ。我が君――」
花売りと一緒に後見人の寝室に戻ったクナは、長いこと奥の湯殿にこもった。
そんなことをしても無駄だとわかってはいたが、肌が痛くなるほどごしごしこすって洗い、後見人が薬を流してくれた湯がぬるみきるまで、ずっと浸かっていた。召使いの老婆がおずおず声をかけてこなかったら、ずっとそこにいただろう。
新しく用意された西方風の連衣裙は、クナの気持ちを測ったかのよう。胸元がすっかり隠れ、首までぴちりとしまっているものだった。気を利かせてくれたのは、後見人かそれとも老婆か。分からぬまま袖を通し、注連縄をつけて寝台に腰かけると、居間の方から静かな会話が聞こえてきた。
「遠征軍十万のうち、損失は三万ほどという情報が来ている。大敗したが、壊滅状態ではない。叔父君はきっと無事であろうよ」
「だといいんですけど」
だいぶ時間が経っているのに、花売りだという人はまだ、後見人の部屋にいた。
(ああ、遠征軍! 九十九さまはご無事なの?)
クナは拳をぎゅっと握った。無敵の龍を駆る柱国将軍が二人もいる大軍が、まさか敗北するなんて。戦に勝てねば、休戦条約を結ぶどころではない。黒髪さまも百臘さまも救えない――
「ではトリオンさま、叔父のこと、どうぞよろしくお願いします。それでボクの役目は、北へ行かれるお姫さまの護衛だけでいいんですか? あなたのことだから、他に何か用事があるんじゃないかと……」
「純粋に護衛だけ頼む。黒竜の州公閣下のもとへは、私が直接赴く。つまり、道中一緒だ」
「あは。それだったら安心ですね。ボク、剣はしろうとですから」
「君はそうだが、君の剣は違う。その背にあるのは、この世で最強のひとふりだ」
「そうなんでしょうか? ボクにはとんと、分からないです。勝手に動くってだけでもすごく迷惑なんですけど」
(ごえい? お姫さま? 剣が、勝手に動く?)
いぶかしむクナの耳に、およそ信じたくない言葉が入ってきた。
「キールスールとの同盟が決裂した。すめらの軍はもはや、あの国を足場にすることはできない」
「いつもながら、魔道帝国はほんとに強いですね」
「くれないの髪燃ゆる子は、勝てぬ戦はしない。用意周到、確実に勝つ段取りをつけてから実戦に臨むからね」
「あの帝が、すめらの舞姫にご執心だってうわさ、ほんとですか?」
「うん、相当気に入っている。だから君に護衛を頼んだんだ、ピリカレラ・サンテクフィオン。どうかその剣を、すめらの星のそばに……」
(花売りさんが? あたしを守ってくれる?)
花売りはまるで親しい友人のごとし。その晩遅くまで、後見人の部屋にいた。クナはおずおず寝室から顔を出し、護衛についてくれるという人に改めて礼を述べた。
花売りは、北五州のどこにも属さないトオヤという自治都市の出身だそうだ。そこに住む者はみな、種類様々な花を育てているという。商品の納入先は、北五州全域。町をあげて手広く商売しているらしい。
「白鷹の州公閣下やトリオン様は、とくにトオヤの花をひいきにしてくださいます。先の第三妃さまのご婚儀のときも、花輪や花束をずいぶん購入してくださいました」
「ああ、聖堂に飾られた花輪は実に見事だったね。白と紫の薔薇で白鷹家とすめらの国を象徴していた」
「州立劇場もこのところ毎日、ご注文がすごかったですよ。すめらの星宛てに送りたいっていう方が多くて。繁盛させてもらってます」
予想通りにすめらの軍が敗れたので、トリオンは鬼の首を取ったような思いでいるかと思ったが。そんな気配は、みじんもなかった。後見人の声はいつもより昏く沈んでいて、花売りが部屋を辞すると、クナをひどく気遣ってきた。
「なんと言ってよいか。多分こうなるだろうとは思っていたが、それにしてもすめらの軍は、見事にやられたものだ」
「黒髪さまは……助けられない? 石化病で苦しんでいる百臘さまも……」
「すめらの国には無理だろう。だが私なら、なんとかできると思う」
「トリオンさまになら?」
「私は薬師だ。君がひどく気にかけている人のために、薬を作ってみることができるだろう」
「あ……あの! 天の浮島、ご存じですよね?」
クナは藁にもすがりたい気持ちで、相手の声の出どころに顔を向けた。ためらいも迷いもなく、もちろんだという答えが返ってくる。
「ああそれなら! あの島に薬の処方せんがあるかもしれないから……!」
「たしかにあそこにある記録箱には、統一王国時代のありとあらゆる情報が入っている。だが、石化病の対抗措置を記した者はあったかどうか――岩窟の寺院にすら、その処方箋はなかったからね」
「寺院?」
「浮島以上に、太古の知識が詰まっている場所だ。北の果てにあったが、今はもうない」
その場所のことは、夢で見た覚えがある。
「たしか、レヴテルニ帝が……滅ぼした?」
「うん。もう六十年以上前になるかな。あそこにあったものはみな、くれないの髪燃ゆる子が持ち去ってしまったんだ」
それが、レヴテルニ帝が無敵である理由のひとつだという。
今は失われた太古の叡智を自由に引き出せる。それゆえに、大陸諸国は魔道帝国になかなか太刀打ちできないそうだ。在位七十年を超えし帝がいまだあどけない少年の姿を保っているのも、寺院から奪った叡智の技を駆使しているから。そう信じられているらしい。
「まあともかく。北へ行く道中に浮島へ寄ってみよう。それで処方箋が見つかれば、病人のことは万々歳だ。黒髪氏のことは……」
後見人の声がくぐもる。
「金の獅子が捕らえているのなら、奪い返すのは非常に難しい。でも君が望むならなんとか、力を尽くしてみよう。だからその……対価という言葉は、あまり使いたくないのだが……」
やはりこう来るのかと、クナは我が身を固くした。
後見人は芯から優しいのか、それともすべて計算づくで、こういう態度をとっているのか。分からないけれど、降りかかってきた言葉はとても柔らかで澄んでいた。
「君の望みをかなえる代わりに。どうかすめらから出て、私のもとに来てくれぬだろうか?」