10話 甘い夢
さわさわと風が耳をくすぐる。
鼻をつくのは甘酸っぱいリンゴの香り……
クナは口元をほころばせた。またこの夢かと、耳を澄ます。
白鷹の宮殿に来てから今夜で三日目。毎晩、「記憶の夢」が現れている。たぶん、ひどく頭を殴られたせいではないかと思うのだが……
『またパンが焦げている』
大好きな声が聴けるのは、クナにとってとても嬉しいことだった。
『無理だよレク。目が見えないのに焼き窯を使うなんて。危ないし、焼き加減もわからないだろうに』
『ううん、見えてたときだってしょっちゅう失敗してたんだから。大丈夫だよ』
『君の家事能力が壊滅的なのは、重々承知だが……』
『物の位置は大体覚えたし、鼻や耳が前より感覚よくなって補ってる感じだし。もっと慣れたきっとリンゴのパイとか焼けるよ』
『あいつのせいで君の目は……なんでかばったんだ』
『だってあなたが作った子だもの。当然――ひゃっ』
夢の中のその人は、いつもクナを抱きしめてくる。腕の中に閉じ込められると、唇をついばまれたり、耳たぶをはまれたり、それから……。
『あ、やだ……さっきしたばっかり……ふあ!』
歌う衣がしゃらと足元に落とされて、クナは愛されるのだった。
『ふあ……! とけちゃう。とけちゃうよ……!』
『君の甘露で私も溶ける』
その感覚はとても明瞭ではっきりしたもので、まるで夢ではないように思えた。気をやりながら、クナはその人にすがって何度も名前を呼んだ。
『――! ――!』
しかしその名は「トリオン」ではなかった。そして不思議なことに、自分の口から出しているはずなのに、まったく耳に入ってこなかった。
(なぜ名前が聞こえないの? なぜ思い出せないの?)
かつて自分の伴侶だった人は、白鷹の後見人ではない――そう信じたいからだろうか。
寝室から、香り良い風が入ってくる。熱っぽくとろけている体にそれがあたると、とても心地よい。まるで天国にいるようだ……
「おはよう。良い夢を見られたかな」
「は、はいトリオンさま。そのあの、すみませんっ」
寝台から身を起こしたクナはおろおろ、毛布をかき寄せた。朝になると、薬臭い部屋はひどく甘ったるい匂いに満たされている。夢の中で達したクナの体が律儀に反応して、体から出る甘露の芳香がきつくなるらしい。
「お、お風呂に入ってきますっ」
「そんなに萎縮しなくても。成長期の竜蝶は、とくに体臭が強くなる。寝具に匂いが移ることは珍しくない」
「いえこれはその……」
「甘露の香りは、竜蝶の魔人たる私の魔力を高めてくれる。大変ありがたいものだから、気にしないで――」
「いえほんとに、ごめんなさいっ」
顔を火照らせながら、手探りで奥の浴室へ。クナは連日、薬臭い石鹸で自分の体をごしごし洗った。今までほとんど気に留めたことがなかったが、これほどでなくとも、自分は常日頃から甘い匂いを醸していたのだろう。独特の香りゆえ、目や髪の色を変えるだけではごまかしきるのは難しい。メノウのように正体を見破る人がいるし、おそらく……
「そうだね。ユーファンは君の甘露にあてられているのかも」
「もしや」と思い至って相談してみると、トリオンは竜蝶の体臭を抑えるという香油をくれた。手足にすりこめば、甘露の匂いがほとんどしなくなるという。
「私にとっては活力の源となるものだから、何もしないでほしいところだが。虫を払うに必要であれば仕方ない」
「ありがとうございます! トリオンさまはどんなお薬でも作れるんですね。すごいです」
「導師になるために修行したところで専攻して、ずいぶん研究したからね」
白鷹の宮殿内にあるトリオンの住まいは、四つほどの続き部屋からなっている。
クナが眠る寝室、鉄の管からお湯が雨のように降ってくる浴室、本が大量に所蔵されている書庫、そして、干した薬草や植木鉢で満ちた居間。薬の材料はごまんとある。木の実や草やカビやコケ、動物の骨や皮、さまざまな鉱物にお香。本当にどんなものでも揃っているようだ。
トリオンは一日の半分は居間で薬を調合していて、「本当は一緒に寝たいのだが」と笑いながら言って、居間の長椅子で眠る。つまりクナは、後見人の寝台を使っている。客室か小部屋を貸してくれたらよいのにと思うのだが、トリオンはクナを保護するためと称して、別の部屋は用意してくれなかった。
州公閣下と同じ食卓につけるほどの高位の人であるのに、抱えている召使いはよぼよぼの老婆ひとりだけ。朝食を持ってきたり、ちょっと床を掃くぐらいのことしかさせていない。極力、クナとふたりきりでいたいそぶりだ。
(でも黒髪さまよりは、強引じゃないわ)
いきなり同じ部屋、同じ寝台で同衾を求めてきた黒髪さまにくらぶれば。白鷹の後見人はずいぶん分別があるように見える。
(部屋に閉じ込めたりもしない)
扉に鍵はかけられなかったけれど、宮殿内は四角四面の通路ばかりで迷路のよう。爆破された本城より規模が狭いが、それでも高層で部屋数は百を下らない。部屋から出ればたちどころに迷うのは必至だ。ゆえにクナは、部屋の外へ出るのは躊躇した。
しかし部屋にばかりいては息がつまるだろうと、トリオンはしばしば、クナをどこかへ連れ出してくれた。湖上から吹いてくる風に当たれる見晴らし場や、花の香りかぐわしい中庭などなど。ゆったり憩ってくつろげるようなところへ、手を引いていざなってくれるのだった。
(とても……親切だわ)
嬉しいことに中庭に行った時、クナはアヤメとアオビに会うことができた。
「ご無事でなによりです! トリオンさまがスミコさまを抱きかかえて戻られたときは、生きた心地がしませんでした」
「非常につつがないご様子、ほっといたしましたです!」
ふたりはクナのことをとても心配しており、舞踊団のことや、すめらの遠征軍が州公閣下に援軍を求めてきたことなどを教えてくれた。しかしそれはもうすでに、クナが知っていることだった。
(トリオンさまが説明してくださったわ)
後見人は隠さずなんでも教えてくれる。ただひとつのことを除いては。
『黒髪さまのこと、本当はご存知ですよね? お知り合い、ですよね?』
クナはおそるおそる聞いてみたのだ。どちらがかつてクナを愛してくれた人なのか、確かめたかったから。しかし返ってきた答えは、実に不可解なものだった。
『黒髪の柱国将軍の噂は、しばしば聞いていた。でもじかに会ったことはないよ』
『でもあの、子ども……いませんでしたか? あなたの言う、夫婦の間に』
『残念ながらわが伴侶レクリアルは、子どもを産めない体だった。かわいそうに羽化に失敗して……大人になれなかったんだ。だから私たちの間に子はいなかった』
(でもあの子は、銀の杖を持つ人のことを、父さんと呼んでた……夢の中のあたしは杖もつ人に、あなたが作った子だといってたわ。だれかに産ませた子か、それとも……何かの御技で作り出したとか……)
自分が見る夢は、ただの夢?
(いいえ。たぶん、遠い昔の記憶でまちがいないわ)
クナの直感は告げていた。
「父さん」と子ども。どちらがどちらかわからないけれど、あのふたりは黒髪さまとトリオンさまおふたりに間違いないと。
だからクナは、白鷹の後見人に全幅の信頼を置くことができないでいた。 クナが一番知りたいこと、一番重要なことは隠されている。そんな気がしたからだ。
そもそも、夫婦というならば思い出話などいろいろしてくれそうなのに、トリオンはクナが聞かなければ、その話は一切してこない。黒髪さまは浮島で実に熱っぽくあの子のことを語っていたが、こちらは深い愛惜を見せる様子はなく、実に淡々とした感じだった。
(「あの子」は……あたしは本当に、この人と夫婦だったのかしら?)
宮殿に来て三日目の晩、クナはトリオンに手を引かれて宮殿の最上階へ昇った。
州公閣下が直々に、庇護しているクナから事情を聴取するとのことだったが、それは単なる名目だった。
念入りに匂い消しの香水を体に振りかけ、トリオンが用意してくれた西方風の腰のきついドレスを身につけたクナは、いつ尋問が始まるのかどきどきした。なれど大きな食堂で開かれしものは、どこをどうとってもただの晩餐会。ユーグ州の臣下団の幾人かと、第二妃、それから、すめらの遠征軍がいるキールスール公国の大使という面々がその場に列席していた。
州公閣下は、クナにはつつがないかどうかなど、短く挨拶してきただけ。話題にされたのは、もっぱら遠征のことだった。
「我が妃に勝利を」
州公閣下がすめらの軍を率いる九十九の方に献杯すると、キールスールの大使は機嫌よく笑って応えていた。
「ほどなく、スメルニアとユーグ州、我らキールスールの同盟軍は、総力をあげてオニウェルの国境を攻撃いたします。このときのため、同盟軍は陣地にて念入りに作戦を練り、可能な限りの増援を加えて準備いたしました。新兵器も投入されます。オニウェルにいるすべての者どもが、震え上がりましょう」
勝利するは当然。国境の城壁を破壊することは、さほどの難事ではない。
そんな雰囲気の中、晩餐はしごく和やかに進んだ。
クナは光栄にも、第二妃の隣に席を配された。
「首がすわってきて、とても抱きやすくなったと思ったら。ぷっくり太って重たいんですの」
手元でいつくしんで育てている公女は、ずいぶん大きくなったらしい。指を差し出すとぎゅっと握ってくるとか、微笑みを返してくるとか、金の巻き毛は父親似だとか。州公閣下がキールスールの大使と、遠征軍の陣容についてうんちくをえんえん交わすかたわらで、第二妃はひそひそ。クナに赤子のことばかり話していた。
「今度、私たちの部屋にいらして。あなた、刺繍や縫い物はできるかしら? 娘のものを作るのを手伝ってほしいのだけど」
そうしてクナは、侍女になってほしいという誉れ高き要請をいただいた。
「縫い物は、簡単なものなら。糸つむぎは得意です」
「では、リボン用の絹糸のつむぎを任せますわ」
「あの、でもあたしは……」
「もちろんおつとめは、舞踊団に戻られるまでで、よろしくてよ」
本当に戻れるのだろうか。
帝国舞踊団のユーグ州での公演は、あと数日で終わってしまう。次はもっと北のセーヴル州で公演をすることになっているが、主役をすげかえた舞踊団が、クナのために予定を変えることはないだろう……。
晩餐のあと。置いていかれるのはいやだと、クナはトリオンに訴えた。
「事件はまだ、解決しないんですか?」
「臣下団にこたびの事件の調査を任せている。最終的な報告を受けて各種手続きを終えるにはまあ、最低ひと月は――」
「それは困ります!」
「私としては、もうこのまま、ずっとここにいてほしいのだが。君はいますぐにでも、舞踊団に戻りたいんだろうね」
もちろんです、どうかお願いしますとクナは何度も頭を下げた。トリオンは善処すると言ってくれたが、セーヴル州行きには、たぶん間に合わないだろうと念押しされた。
「報告団を急がせれば、一週間でなんとか目処がつく。白鷹の家が君を、北の州まで送り届けよう。しかし危機はまったく緩和されていない。また狙われる可能性が非常に高いから、護衛をつける。何かあればすぐに、保護できるようにね」
「そんなにあたしは……危険なんですか?」
「うん。君とあの舞踊団は、大陸中の人々にもてはやされている。けれど、光が強くさすところにできる影は、とても濃くなるものなんだ。その真っ黒な憎悪を煽っているものがいる。加護がなければ、君は無残に殺されていただろう」
それから連日、クナはもんもん、第二妃の部屋で糸つむぎ。からから、懐かしい音がするつむぎの機械をひたすら回して、リボンを織るための絹糸を作った。
頭の中は、早く戻りたいという想いでいっぱいだった。
たとえ危険でも。また殺されかけても。その気持ちは萎えるどころか、ますます強くなっていた。クナがいない今、代役の娘が「スミコ」になっている。敵があきらめずまた襲ってきたら、その娘が犠牲になってしまうかもしれない。そんな不安に襲われたのだ。
(だれかがあたしの代わりに、危険にさらされるなんてだめよ。あたしに向けられたものなら、あたしが受けないと……)
一刻も早くと焦るクナとは裏腹に。
「まあ、なんて細くてすばらしい出来栄えなの!」
第二妃は上機嫌。クナのつむぎの腕前を褒めそやした。その絹糸のもとである金の繭は、九十九の方の花嫁衣装に使われたのと同じもの。ユーグ州の特産、最高級品である。
第二妃の部屋は後見人の部屋の真上にあり、通いだしてすぐ、クナはその道順を覚えた。トリオンは送っていきたがったけれど、ここは湖に浮かぶ城の中。襲うものなどなく、鉄壁の庇護の中にある。クナはそう思って後見人の申し出をことわり、ひとりでふたつの部屋を行き来した。
第ニ妃の部屋は暖炉の火でぽかぽか、常に暖かかった。汗ばむぐらいに暑いのは、赤子が眠るゆりかごがあるからだろう。そこにはクナのほかに四人の侍女がいて、高貴な赤子の服にせっせと刺繍を刺していた。触れてみればびっしり、縁に紋様らしきものが施されている。侍女のひとりが誇らしげに、これはユーグ州伝統の鷹の紋だと教えてくれた。
「神獣アリョルビエールのご加護がありますようにと、願いを込めますの」
この州にもかつて、タケリさまのように国を護る神獣がいたそうだ。それは真っ白で巨大な鷹で、空の王者とも呼ばれる偉大な神であったらしい。
「神獣は昔は一国に一体、護国獣として必ずいたものですけれど。今はもうほとんど、地の底に封印されておりますわね。使われているのはごくごくわずか。州公家が保有しておりました白き鷹も、長いこと深い眠りについておりますわ」
他愛のないおしゃべりと、お茶とお菓子。部屋はよい雰囲気であったけれど、クナはそわそわ。だから気を落ち着けようと、しゃかりきになって糸をつむいだ。
舞踊団の公演最終日の夜。アヤメがクナのもとにやってきた。
「盛大な巻引きで、劇場は大いに沸き立ちました。それで、リアンさまがこれを」
アヤメはどそっと、大きな箱を何個も運び入れてきた。手紙や手鏡や櫛や宝飾品。観客からクナ宛てに送られた贈り物が、そこには大量に入っていた。リアン姫がしっかり確保して、とっておいてくれたらしい。
「全部、危険がないかどうか検品済みです。花束が一番多くありまして、それは一部楽屋に飾られておりましたが。大体のものは、メノウさまが処分なさったようです」
「代役の方の調子は、どうでしょうか? 安全なんでしょうか?」
「怪我の回復がよかったようで、無難に花音を舞われておられます。舞踊団長は彼女に護衛をつけてますし、州公家も、衛兵をたくさん配してくださっております。ですから、不埒な者が入る隙間は、まったくございません」
アヤメの言葉にクナはホッとした。代役の巫女は、厳重に護られているらしい。
「舞踊団は明日、北の州へ発ちます。みなさま、スミコさまのお帰りを心待ちにしているとのことでした」
みなさまとは、リアン姫やアカシやミン姫、太陽の巫女たちのこと。メノウは決してそうは思っていないだろうと、クナは思った。メノウはこのまま、クナが戻ってこなければよいと望んでいるかもしれない。自分が推している月の巫女を、ずっとスミコとして、使いたいのではなかろうか――
置いていかれる心細さを抱いて眠った夜。クナは甘くて不思議な夢を見た。
リンゴの香りが充満するなか、クナの口はまるでなだめられるかのように、絶えずとろけるような口づけで塞がれていた。腕の中に閉じ込めている人の名を、クナは何度も呼んでいた。
『――! ――! どうして……!』
クナはひどく怒って悲しみ、泣きじゃくっているようで。そしてやはり、叫んでいるはずの名前はまったく聞こえてこなかった。
『どうしてあの子に、星船に乗れなんて言うの? 魔人ひとりじゃ、災厄を止めるのは無理だっていったでしょ』
『いいや、そのあたりは調べ倒したが、可能だ。君が私がひとりで行くことを許さぬというのなら、代わりにあいつをひとりで行かせる』
『まさか……あの子を作ったのって……』
『そうだよ。災厄を払うためだ。こうなることは予見できたから――』
『だめそんなの。これは、ボクのつとめだ』
『君を失うわけにはいかない。私かあいつか、どちらか選んでくれ。君の魔人ふたりのうち、どちらかが、事を成せばいい』
『選べるわけないでしょ?!』
クナは口づけを落とす相手の胸を、どんどん叩いて叫んだ。
『あの子は――あなたなのに!!』
翌朝、クナはぐっしょり涙で顔を濡らして目覚めた。
いつにもまして甘露の芳香が体からきつく出ているので、香油をすりこみながら身支度して。
ぽそぽそ元気なく朝食をつまんで第二妃の部屋を訪れた。
「スミコさまがつむいだ糸で、すばらしいリボンが織れましたわ。まるで煌めく太陽の光のよう。たくさんつむいでいただいたから、娘だけでなく、わたくしたち皆の分も作れましたわ」
妃は今日も上機嫌。クナの頭に手ずから、手織りのリボンをつけてくださった。
「叶うなら、ずっとここにいらっしゃってほしいのだけど。このような糸、なかなかつむげるものではありませんわ」
そうなのだろうか。他の人がつむいだ糸に触ったことがないから、すごいといわれてもどうにも実感がわかない。しかし妃だけでなく侍女たちも、クナがつむぐ糸の細さと美しさに感心していた。
(姉さんは、文句ばっかりだったけど。あたし、役に立てたのね)
喜ばれて嬉しいが、クナの心はどんより曇り空。夢のことが気になっていた。
まだ、どちらがどちらか分からない。子どもが杖の人自身だというわけも、よく分からない。
だがクナは――前世の自分はたぶん、選べなかったのだ。おそらくどちらも犠牲にすることができずにふたりを置いていって、災厄を食い止めて死んだのだろう。
第二妃は褒美にと、クナに紅蓮花という花の匂いがする香油をひと瓶くださった。西方のお香は、油に溶かされているものが多いらしい。
あでやかで良い匂いに少しだけ、クナは気分がよくなった。昼餐をはさんで午後いっぱい、また糸をつむいだあと。クナは妃の部屋を辞し、後見人の部屋へ戻ろうとひたひた石壁に手を当てながら、階段をゆっくり降りた。
「スミちゃん!!」
階段の最後の一段を降りかけたとき。悲鳴に近い呼び声がして、クナはびくりと身をすくめた。この声は――
「ユーファンさん?!」
「ああ、スミちゃん! スミちゃんだね?! うわ、ドレスえらい似合って……いやそれより、大変だぞ!」
近づいてきた気配は、ひどい匂いがした。何日も湯浴みしていないようなすえた匂い。はりつき虫の人は、どこかから逃げてきたかのように、はあはあと肩で息をしていた。
「すめらの遠征軍が、やられちまった!」
「え……?」
「部屋に閉じ込められて、ぎゅうぎゅう絞られてる間に耳にしたんだ。遠征軍は、国境破りに失敗したらしい。こうしちゃいられない、どうにかして城から逃げ出して記事書かないと!」
「いま、なんて……」
ユーファンは呆然とするクナの腕をつかんできた。片手に何か持っている。棒か何か、武器のようなものだ。どうやらそれを使って、軟禁されていた部屋から脱出してきたらしい。
「スミちゃんも一緒に逃げよう! 俺がセーヴル州にいる舞踊団に送ってやる」
「ちょ、ちょっと待ってくださ――」
「だまされるなスミちゃん。ここの連中は鬼畜だぞっ」
クナの言葉などまったく聞くそぶりなく。はりつき虫の人はクナをぐいぐい強引に引っ張り、宮殿の下へ下へと降りていった。まるで空裂く突風のように。