9話 黒獅子の紋
さわさわ、樹木の葉っぱがざわめく音が聞こえる。
倒れたところに、こんな立派そうな木はあっただろうかと、娘は耳をそばだてた。
鼻をくすぐるこの香りは……
(甘酸っぱい? りんご?)
ああたぶん。殴られたあと、どこか別の場所に運ばれたのだろう。
あのおいしい果物の木は、あそこにはなかったはずだ。
「大丈夫? すべってころんで、なんか派手に頭打ったみたいだけど」
誰かの手がひとひと、頬にあてられた。快活な笑い混じりの声に、違う、襲われたのだと答えようとしたけれど。娘の口から声は出ず、ただぱくぱく、唇が虚しく動いただけだった。
「父さんが怒るから、早く立って」
声はずいぶん高くて、どことなくあどけない。相手は子どものようだ。
娘はよろっと身を起こした。すると誰かは笑いながら、娘に抱きついてきた。
「よかった、たいしたことなさそうだね。ねえ、父さんってなんでもかんでも、俺のせいにするじゃん? 母さんがすっころぶのも指に縫い針刺すのも、パン焦がすのもさ。みんな俺が邪魔するからとか、いうじゃん? あれいいかげん、よしてほしいよね」
母さん。
その言葉はまっすぐ自分に向けられていたので、娘はぽかんと口を開けた。
「そりゃたしかに、母さんの視力を奪ったのは俺だけどさ。無茶な召喚やった俺をかばって、星の精霊の光を浴びたから……でもなんで、父さんが怒るんだよ。母さんはまるで、父さんだけのものだって言いたげで、ヤな感じだよな」
耳をすますと、この声はどこかで聞いたことがある気がした。大好きなあの声を、ひどく幼くしたような……
(そうよ。これは、黒髪さまの……)
いや。同じ声を持つ人は、もうひとりいる。
(どっち?)
りんごの匂いが漂うここはもしかして、天の浮島だろうか。けれど、恐ろしい襲撃者たちがここにこられるはずがない。たぶん夢の中にいるのだろうと、娘はぐらぐら痛むこめかみに手を当てた。幼い声は、すねたようにちぇっと舌打ちして娘の手を取り、ぐいと立たせた。
「賢さも魔力も俺の方が上なのに。なんで残りカスの父さんのいうこと、聞かなきゃいけないんだよ。母さんが言うから従ってるけどさ……ねえ俺、三回に二回は、父さんをチェスで負かしてたんだよ? 今や高位呪文だって楽々だしさ。こんどぶっちぎりの首席で学園を卒業するから、最長老ソムニウスさまが、転生式やろうって。俺に黒き衣を授けようって仰ってる」
娘はぐいぐい、手を引っ張られた。つられて進むたび、りんごの香りがどんどん濃くなってくる。
「でもやっぱり、導師になるのはやめといた方がいいかな?」
幼い声が地に落ちた。子どもは俯いているようだ。
「父さんと同じく、薬師になった方がいいかな。父さんはソムニウスさまのこと、すごくバカにしてるし。いかがわしい魔法学園なんか開きやがってって、文句たらたらだし」
でも俺のお師様はとても偉い人なんだと、幼い声は囁いた。
「そりゃ日がな一日、歌ばっかり歌ってるけどね。ひと目みればっていうあの求愛歌とか、ちょっと調子外れた鎮魂歌とか、剣の勲詩とか。ほんと、鼻歌が途切れたことないんだけど。でも岩窟の寺院にいた導師の、数少ない生き残りってだけですごいじゃん?」
手を引かれる娘は、つるりとした石の椅子に座らされた。すぐ前には同じ材質の卓がある。
そこに子どもは、母さん食べてと、かぐわしいりんごを置いた。
「黒の導師はほとんどレヴテルニ帝に殺されて、寺院は閉鎖されたんだもの。あの神帝の神眼から逃れるなんて、そうそうできることじゃ――ひゃっ! 父さんだっ」
熱っぽく語る子どもは、短い悲鳴を上げて娘からさっと離れた。鋭い怒鳴り声が襲ってきたからだ。
「ここには来るなと言っただろう!」
怒りを帯びてこわいけれど、その声音はとても澄んでいて。娘の胸はびりりとしびれた。
これこそ、娘が焦がれている人の声音だったからだ。
(そうよ。この声こそ、黒髪さま……)
いや。同じ声を持つ人は、もうひとりいる。
(どっち?)
娘は首を傾げた。黒髪さまとトリオンさま。チェスの対戦をしたら分かるかもしれない。どちらがどちらか。クナを妻にしたのは、だれなのか――
澄んだ美声は、なぜか怒り心頭。はがねの剣を突き立てるような、憎悪の色を帯びていた。
「レクから離れろ! 悪魔め!」
「うわ! そのぎんぎらぎんの杖、物騒だからこっちにむけんなって!」
杖?
「黙れ! ウサギだの剣のダチだの覇王だの赤毛だの。この島に来た余計な者どもは数多いたが、おまえが一番最悪だ! 去ね!」
トリオン様は、光り輝く杖を持っていらっしゃる。まるで月女さまのひかりを吸い込んだような、神々しい光を放つものを。
ということは。
(「父さん」の方が……トリオン様?)
「ひ! 魔力全開かよ!」
魔法の気配が降りるとともに、ばりばり、あたりがひび割れるような音がして。ましろの光が娘の周囲を照らした。あまりのまぶしさに、娘は両手で目を覆った。
「おまえなど消えろ! 私の伴侶を傷つけるものは、何人たりとも許さぬ!」
まぶしい。
ひかり。ひかり。
まわりでましろの輝きが溶けていく――
刹那。娘の耳に飛び込んできたのは、逃げる子どもの声ではなく。
驚きうろたえる、男たちの悲鳴だった。
「うああああ!」「なんだこれは!」
「熱い! 焼ける!」「まぶしすぎてなにも! ぐああああ!」
その叫びはえんえんと続き、次第に命ごいのあわれな泣き声となり。ついには凄まじい断末魔となった。
ぶすぶす、身も凍るような恐ろしい匂いがあたりに充満する。光に焼かれたものがどうなったのか、たちどころに察した娘は、がくがく震えた。恐ろしさに頭を抱えて縮こまっていると。収束していく光の点から、ぽうっと救いの主が現れた。
「すめらの星! 無事か!?」
あたりに降りているのはすさまじい魔力。それゆえか、娘のみえない目に、人の輪郭がくっきり視えた。
それは輝く杖をかかげた人。ゆたりとした衣がしゃんしゃん、またたく星の歌を歌っていた。
(トリオンさま……!)
娘は光る人に問うた。声なき声で。
(あなたは、どっち?)
半分まどろみの中にいる状態で見たものは、幻ではなかった。
クナが目を覚ましたところは、州公閣下の宮殿の中。ぱちぱち暖炉の火が燃えたつ部屋には、ほんのり薬臭い煙が漂っていて。部屋には、薬草を燻す白鷹の後見人がいた。
「よかった、目覚めたね。頭だけでなく胸もだいぶ打たれたようだから、肺が腫れぬよう薬気を出している。深呼吸するといい」
安堵の吐息。近寄る気配。
クナは、袋に入れられて船でこっそり運ばれているところを、救われたらしい。
なぜに後見人が危急を察知したのかというと。
「君からのぞき鏡をとったけれど、心配で劇場に精霊を置いていた。哨戒用のすばしこいやつをね。それが急を知らせてくれたんだ」
襲撃者は、後見人が杖から放った精霊の力に焼き尽くされた。彼らが使っていた船もろともに。はりつき虫のユーファン氏は少々怪我をしているが、五体満足でこの宮殿にいるという。
事件が起きて丸一日経っており、救われた二人の身柄は現在、州公家預かりになっている。これは事件の聴取と解明、そして被害者の保護のためにとられた措置であるそうだ。
「すめらの当局がぶうぶう言っているが、これはユーグ州公家所有の州立劇場で起きたこと。州公家の責任だからね。ゆえに君たちは今、州公閣下の庇護を受けている状態なんだ。それにしても……あの記者は、たいそうな疫病神だね」
後見人はクナの治療に当たる一方で、ユーファン氏から詳しく事情を聞き出したらしい。
「特別扱いで天狗になっていたところにつけこまれたようだが、無警戒もはなはだしい。君に危害が及んだから、今はえらくしゅんとしているが……またまとわりつくようだったら、この州から追放するよ」
公演はどうなるのかと青ざめるクナに、後見人は心配いらないと請け負った。
「すめらの星は降板しない。舞踊団は、君の身代わりをたてた」
実のところ、州公家は公演の中止を提案したのだが。すめらは襲撃者が政治的な集団らしいのを察して、それを断固拒否したそうだ。敵が狙っているのはおそらく、帝国舞踊団の活動を停止させること。公演を中止すれば、敵の思うつぼだというのである。
ゆえにすめらは「なにも起こらなかった」ことにして、事件の公表を控えて秘密裏に調査することと、クナの返還を州公家に求めてきたそうだ。
「州公家は、事件隠蔽には協力するが、すめらの星は治療が終わり、事件が解決するまで返せないと返答した。それで舞踊団は、君に背格好がよく似た月の巫女を、すめらの星として舞わせることにしたらしい」
レンディールでの選考会のとき。メノウは太陽神殿に咎められないよう、主役の娘の容姿をクナに似せていた。おそらくあの娘を、「すめらの星」に仕立て上げるのだろう。メノウが前々から、称賛を得るに値すると見込んでいる月の巫女を。
怪我の回復具合が心配だが、今の状態なら舞えぬことはない。飛天は花音でなんとかごまかせる。クナ自身、不調で飛天が出せないときがあったから、体調不良だと吹聴すればしのげるはずだ……
「なにもなかったようにするのは、敵にとって有効な手だ。しかし今後も帝国舞踊団の巫女全員が狙われる可能性がある。ゆえに州公家はただちに護衛や衛兵を劇場に配し、観客の入場検査を行っている。君はしばしここで、傷を癒やしつつ休養するといい」
「傷を……?」
頭はぐらぐらするが、他にどこも痛いところはない。
炎の聖印と、黒髪さまの加護は本当にありがたいものだ。おかげで、どこも傷ついたところはない……と思うのだが。
訝しむクナの鼻先に、さららと衣の音を出すものがさし出された。
「服、ですか?」
「うん。君は絶対この城に来ると私は言ったが。まさかこんな形でとは、さすがに読めなかった。肝を冷やしたよ。黒髪氏の加護が馬鹿みたいに強力でよかった。でなければ……」
クナの寝着はズタズタになっていた。襲撃者は獲物を縛って袋詰めにする前に、なんとか傷つけられまいかといろいろ試したらしい。ただ殴り、蹴るだけでなく。よってたかって辱めを与えようとしたようだ。
「おそらく……巫女を穢せば、舞の力が無くなるとでも思ったんだろう」
恥ずかしさとおそろしさで、クナは凍りついた。目尻にじわじわ、涙がたまってくる。
頭を殴られて意識がなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
手の形をした光がおぼろげに、湿る目に映った。後見人は分厚い手袋にさらに韻律をかけ、念入りに防護して加護の力をかわしながら、クナの体が傷ついていないかどうかあらためたらしい。
「いやっ!」
クナはたまらず悲鳴をあげて、近づいてきた光る手を払いのけた。
「さわらないで!」
一瞬躊躇した光る手が、クナの腰を捕らえた。しゃらんと歌う衣が、優しくクナを包んでくる。そして――
「君に獣どもを差し向けた奴を……私は決して許さない」
びっくりするほど殺気のこもった声が、クナを襲った。
「必ず殺す。くれないの髪燃ゆる、レヴテルニを」
それからしばらく、クナは白鷹の後見人の部屋で過ごすことになった。
事件にかこつけて城に連れてこられた感が否めなかったけれど、州公家の意向とされてはいたしかたない。それに、疲れがたまっていたのか、襲われた衝撃がきつかったのか、クナは数日寝込んでしまった。
優秀な薬師である後見人は、熱冷ましの薬湯やよく眠れる薬を次々と作ってくれた。時折、魔導帝国に対して、おそろしげな呪いの言葉をつぶやきながら――
今回の黒幕は魔導帝国。後見人はそう確信しているようだった。
その根拠はユーファン氏の証言で、五人いた犯人たちの手にはみな、とある教団の信徒であることを示す入れ墨がついていたという。
「魔導帝国は太陽神への信仰を国教としているが、ひとつだけ、大きな教団組織を公認している。レヴテルニ帝を太陽神の化身と崇める、聖黒の教団だ。ユーファンはその信徒が必ず入れる、黒獅子紋の入れ墨を見せられたといっている」
「黒い獅子の紋……?」
「その教団には、レヴテルニ帝に心酔する狂信者が集っている。帝がいまだひとりも妃を娶っていないのは、純潔に徹して神性を保つためだとかなんとか、信じ込んでいてね。ちまたでは親衛隊とか、帝に悪い虫がつかぬよう監視している団体だと、言われているよ」
さる情報筋では、その教団は、公認をかっさらったすめらの帝国舞踊団をあからさまに敵視しているそうだ。巫女たちを魔女と呼び、公認取得はいかさまだと、魔導帝国の各地で非難の声をあげているという。中でもレヴテルニ帝がお気に召したすめらの星は、一番の憎悪の対象になっているらしい。
「帝都スレイプニルには、教団の神殿がある。そこでは信者が対魔女の決起集会を開いて、君の幻像を焼いて呪ったそうだ」
襲われたとき。たしかに、教団という言葉をクナも耳にした。魔女という言葉も。
「でもそれは、陛下の思し召しじゃないんじゃ……教団が、勝手にしたことなんじゃ……」
クナには信じられなかった。あの清純で無垢な言葉を人々に伝えた神帝が。戦いは愚かなことなことだと訴えた人が。そんな恐ろしいものを使ってクナを襲うなんて。
大体にしてあの御方は、クナの舞を気に入ってくれたはず。もう一度見せてと願ってくれた――
その感覚は正しいようで、後見人はそうなのだがと、クナの言葉に同意した。
「おそらく、帝自身はこの件に関与していないだろう。教団が勝手にやった可能性はなきにしもあらずだが、あの教団の後見を務めているのは黄金の獅子。常に帝のそばにいる、護国卿だ。彼は……君を憎んでいる」
「えっ……?」
「あの金の獅子にとっては、帝に傷をつけた黒髪の将軍の妻というだけで、十ニ分に憎悪の対象に値する。しかもその上、国益を損ねた張本人で、レヴテルニ帝のお気に入りとなれば……」
黒幕は護国卿。後見人はそう読んでいた。銀の時計を――黒髪さまの髪をくれたあの人が、舞踊団のことを魔女だと教団に吹き込み、不安を煽ったのではないかと。
しかしなぜ後見人は、疑わしい護国卿ではなく、無実のレヴテルニ帝を殺すなどと言うのか。
クナがいぶかしむと、後見人は刃のような硬い気をまとって答えた。
「本人の命を奪うより、いちばん大事にしているものを奪った方がてきめんに効く。黄金の獅子にとってレヴテルニ帝は――」
囁くその声は、氷のように冷たかった。
「唯一人の、特別な子だ」
さざなみ立つ湖上にぽちゃり。
赤毛の少年が不機嫌そうに釣り糸を垂れるのを、髭の紳士は心配げに眺めやった。
風が冷たい。レンディール風の常套な絹の上着の上に着込んだ外套を脱ぎ、少年に着せてやろうかどうかと迷うこと、数拍。そしてため息をついてあきらめた。
「鬼のいぬ間の抜け駆けは、やめておきましょう……」
ユーグ州の州立劇場がある島の周りには、数多の船が浮かんでいる。
湖だらけのこの州で、船は一番使用頻度の高い乗り物だ。
紳士が借りたのは、まっしろでそこそこ大きな遊覧船。船員は地元の慣習どおり、劇場島の向かいの島に住む現地人を雇い、連日、観劇と舟遊びの「休暇」を楽しんでいる。
「ああもう。根がかりしちゃった」
連れの少年が舳先をげしげし蹴りながら、釣り竿をぐいぐい引っ張る。
「ジェニ手伝って! ……ってああ、今いないんだっけ。えっと――」
振り向いてこちらを伺うその真紅の視線に、髭の紳士はうなずいて。赤毛の少年のもとへ近づいた。
「水深が浅いようですな。もっと深いところへ参りましょう。虹魚が採れる地点は、ここより南の――」
「劇場から離れちゃう」
「おそれながらのべ五回、わたくしがなんとか入手させていただきました当日券にて、公演をご覧になられました。もうよろしいのでは……」
「うう、皆勤したかった……」
髭の紳士は肩を縮め、申しわけありませんと深く頭を下げた。
「なにぶん大人気ですので、夜のうちから並ばねばなりませんほどの競争率でございました。力及ばずまことに、わが身の力不足を痛感いたしましてございます」
「スミコちゃんは十三回舞ったんだ。なのに俺、半分も見られなかった……ジェニが邪魔して!」
昨晩、赤毛の少年は怒り心頭。金色の猫を船から放り出した。比喩ではなく本当に、じたばたもがく猫の首根っこをひっつかんで、思いっ切り湖に投げこんだ。
猫が、少年に任されたことをきちんとやらなかったからだ。
眼の前の劇場島で公演している帝国舞踊団の、全日程分の席。猫は私有の商会を通して、一等の箱席を確保するはずだった。しかし初日分しかとれなかったと少年に報告し、連日、紳士が借りたこの船で釣り三昧。人気がありすぎて席をとるのは非常に難しいと言い訳していたが、どうもわざと、席をとるのをさぼったらしい。
「大体さ、いいかげん黒髪をスミコちゃんに返してあげてって、俺、ジェニにお願いしたんだよ? なのに、てんで聞いてくれなくて。胸張って、『望み通り、黒髪を返してやった』ってどや顔で言うし!」
いらつき顔の少年は、釣り竿をがしがし、船の縁に叩きつけた。
猫は勘気を逃れていずこへやら。まだ戻ってきていない。ほとぼりが覚めるまで離れたままでいて、少年が恋しがるのを待っているのだろう。
「あいつ、俺からも黒髪を隠してる。砂漠全域に遮蔽膜かけちゃって、どこにあの人を突っ込んでるのか、てんで見えない……ねえコジモさん、俺が黒髪を探し出して、スミコちゃんに返してやったら……あの子、俺んちの劇場で舞ってくれるかな?」
「テシュ・ブラン、それは……」
髭の紳士が困ったような顔を見せると、赤毛の少年はハッと我に返ったように手をとめて。ごめんねと囁き微笑んだ。
「心配しないでコジモさん。オニウェルは守り切る。あなたのお母様の祖国を、俺は死守する。俺の兵士は、あなたの兵士と肩を組み、凱歌を歌うだろう。スメルニアの遠征軍に容赦などしない。天からの賜物たる舞姫を、あんなふうに使うやつらは――」
少年の赤い瞳がすうと細まる。差し上げられた右の手がみるみる白光したと思いきや、釣り竿の先端めがけて、光の玉がひゅんと飛んだ。
「――叩き潰す!」
引っかかった糸を断ち切られた釣り竿が、髭の紳士に差し出された。
紳士は微笑みを返し、うやうやしく竿を受け取ると。その場に片膝をついて、深く頭を垂れた。
「テシュ・ブラン。その白き御手が手にする勝利を共に言祝ぐため、わたくしはあなたさまを全力でお守りいたします。護国卿よりこの身に受けました、御印にかけて」
「やだ、堅苦しいのやめて。立ってよコジモさん」
苦笑しながら、少年が手を差し出してくる。髭の紳士はそっとその手をとり、おのが唇に引き寄せて口づけた。
その瞬間。紳士の手の甲にぎらと一瞬、紋様が浮かび上がった。
真っ黒な、獅子の紋がくっきりと。
「どうか悪なる国を、焼き滅ぼし給え。くれないの髪燃ゆる、我が君」