3話 白兎(はくと)
鋭い視線の気配が飛び去るなり、クナはおろおろうろたえた。
『何に会ってきた?』
咎めてくるようなあの口調。会ってはいけないものに会ってきたなと、その何かが「つきもの」をつけたのだと、大翁様は言いたげだった。
北五州ではあまたの人とまみえたが、妖しげな術を使う者はごく限られる。
内乱を起こしたパーヴェル卿。そして――
(黒き衣のトリオン様……あの人があたしに悪いものを……つけた?)
まさかそんな。たしかに記憶を失ったりと、不思議なこともあったけれど。あの気配りよろしい優しいお人が、禍々しいものを扱うとは思えない……。
宮処入りを止められたということは、「つきもの」は、よからぬものに違いない。自分のそばにいる人たちは大丈夫なのか。このまま衛舎を出て、須弥のお山に駆け込んで。だれからも離れた方がよいのでは。一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
肩についているのは一体何なのか。
自分ひとりだけについているものなのか。
他の娘たちは大丈夫なのか……。
クナはひどくふさぎこんだが、幸い、独りで悩む時間はごく短く済んだ。
みなに話して、ひとり別室にしてもらおう、害をなさぬよう離れよう。そう覚悟しながら、太陽の巫女たちが集う部屋に戻ると。陽家のミン姫が、みなにこそりと告げたのだった。
「大叔父様から、密書が参りました」
ミン姫は、アオビが運び入れた長持ちをあらためたところだった。
箱は四つあり、送り主の名義は帝都太陽神殿。衣や鏡、化粧道具など、箱にはさらなる長期旅行に要りそうな物が、もろもろ入っているらしい。ありがたくも百臘の方の気配りであったが、親族たる大神官がミン姫宛ての箱の中に、密書を潜ませてきたという。
「陽の家は代々、贈り物とする衣の袂に文を隠します。もしやと思い調べましたら案の定……父上は大翁様に、この文を託されたようです。内容は暗号文字にて、舞踊団において全力を尽くせと。それから、スミコさまの注連縄を決して外さぬよう、本人も周囲も注意されたしとあります」
「ぜったいに、魂を飛ばしてはいけないということですか? どうして……」
「理由は……したためてありません。ただ、〈つきものに注意されたし〉……とだけですね。たしかに、私の目には、スミコさまの肩先になにか黒いものが視えます。視え始めたのは、帰国の船に乗ったころからでしょうか」
「あらそういえば、あたくしもそれ、ちょっと気になってましたわ。黒い霞のようなものですわよね? 肩のところにモヤッとありましてよ」
リアン姫が、クナのごくごくそばでぽんと音をたてる。得心したと、手を打ったのだろう。
姫たちの見立てでは、「黒いつきもの」はクナにしかついていないらしい。
アカシが困ったようにわずか、声をひそめた。
「私は、これは黒髪さまのご加護が視えているのかと思っていました。おそらく体ではなく、魂に貼られたものでしょうか。体から魂が抜け出ますと、一緒についてくるのかもしれません。つまり〈つきもの〉を、むやみに移動させてはならぬということでしょうか」
「あの、そうだと思います。さっき大翁様が、あたしのもとにいらして……」
青ざめるクナが、大翁様に宮処入りを止められたのだと説明すると。わななくクナの口にひたりと、何かが当てられた。それはミン姫のひやりとした指で、賢き陽の姫はきっぱり断じた。
「どうか、私たちを巻き込んだと、ご自分を責めませんよう。私たちが宮処に帰れなかったのは、舞踊祭に出なければならぬからです。時期が重ならなければ、おそらくスミコさまだけ、別のところに留め置かれたと思われます。なれど……あなた様はただちに、だれからも隔離されねばならない、という状態ではないのでしょう」
その言葉を受け、リアン姫がそうだと、援護を重ねてくれた。
「このつきものは、人に及ぼす呪いではなく、場所に及ぼす呪い……なのかもしれませわね。断定はできませんけど、狙いが無差別ではないということは、確かですわ。しろが……いえ、スミコは、幽閉されるような対処をされてませんもの」
身近に接している巫女たちには、「つきもの」の害が及ばない。
そう知ったクナの心はぐっと軽くなった。しかし……
「つきものが消えるまで入都禁止とは、さて、いつまでなのでしょう?」
「自然に消えるものなのでしょうか。大叔父様におかれては、もっとくわしく説明をしていただきたかったところです」
「はぁ、仕方ありませんわ。しばらく様子を見るしかなさそうですわね」
「は、はい……」
この不安定な状況による動揺は、如実に舞の稽古に現れた。
「スミコ殿! 手の向きが違います!」
翌日も翌々日も、クナは指南役メノウから集中して責められた。
重い注連縄は枷になる。それでも他の人と遜色なく舞っているつもりだったが、メノウは回転が遅すぎると指摘してきた。
手のふりにも足さばきにも、切れがない。覇気がない。これではだれにも、見せられない――
「よくもこんな舞を、州公さまに披露したなど。すめらの恥です」
クナはぐっとこらえた。
心の不安が外に出てしまうのは、おのれの鍛錬不足以外のなにものでもない。
そう思い、一所懸命、朝夕に冷水をひっかぶって精神を砥ぐ修行をした。
「スミコ、なにをしてますの?!」
「あ、リアンさま。箒で廊下を」
「ななな、この衛舎には使用人たちが大勢いますわよ? そんなことをする必要は……」
初心に帰らねばと、クナは部屋も廊下もすみずみ、綺麗にした。
なれどどんなに心を研ぎ澄まして練習に臨んでも、メノウの厳しさは変わらなかった。
クナの舞は、基本の型からして、正確にとれていないという。
いやそもそも、太陽神殿に伝わる舞は、正統ではないというのだった。
「古代より伝わるすめらの舞を忘れて久しく。つむじや花音など、一世紀前に入ってきた外来の風の型すら、崩れております」
三色の神殿から集められた巫女は、月の巫女が一番多く、総勢ニ十五名。
星の巫女は二十名。そして太陽の巫女は、たった四名。
この舞踊団は月神殿主導の計画であるから、色の偏りは仕方のないところだ。
メノウは当初、クナたち太陽の巫女四人を中央に配し、左右を月の巫女たちで、後方を星の巫女たちで囲んだのだが。
「やはり、太陽式の舞は洗練されておりません。月式と並ぶれば、それが一目瞭然です。あなた方が中央で舞っては、我が舞踊団は勝てません」
レンディールへ発つ前日、配置換えが行われた。
中央に月の巫女たちが配され、クナたちは後方の列の最後尾へと押しやられた。
クナの胸に、ずぶりと刺さる言葉とともに。
「なぜに少々、大陸公報で話題になったぐらいで、このような者たちを……。マカリ様の、足元にも及びませぬものを。姫様が生きておれば……この誉れは姫様のものであったのに……」
その言葉は面と向かって言われたものではなく。
耳の良いクナが拾った、ほぼ息だけの囁きだった。
マカリ。透家のマカリ。
クナが身代わりになり、黒髪さまの龍の生贄となったことを知る者は、ごくわずか。
マカリ姫は今おそらく、今上陛下の後宮にいる。コハクと名を変え、陛下の御子を宿して、大きなお腹を抱えている。しかしメノウはまったく、そのことを知らないようだった。
大神官トウイは実に巧妙に、マカリ姫の「転生」を行ったのだろう。
レンディールへ向かう飛行船の中。
クナたち太陽の巫女は極力、船室で固まっていた。くつろげるロビーのある甲板に出ると、にぎやかに話し合っていた月の巫女たちが口をつぐみ、場を微妙なものにするからだった。
何か用事があって部屋の外に出れば必ず、クナは、月の巫女たちが漏らす不満を耳にした。
「マカリ様の花音は、それはそれは見事なものでしたわ。姫様は聖天明王、変転開王といった古代の舞技を、いとも簡単にご習得なさったものです」
「ほんにもったいない……皇后か、あるいは次代の巫女王か。そんな未来を手にするべき方でしたのに。ご指南役のメノウ様のご落胆といったら……」
メノウはかつて、マカリ姫の舞の師であったらしい。
自慢の弟子を奪われた師は、太陽神殿への恨みを抑えきれず、クナたちに当たったのだろうか。月の巫女たちも、名だたる姫たちが龍に捧げられたことを、決して忘れていなかった。
「巫女姫様の半分は、命ながらえて柱国将軍に娶られましたけど。正夫人になられた方は、ひとりもおられませんわ。マカリ様はじめ、高貴な月の姫たちを得そこねるなんて、すめらの帝室はひどい損を蒙りましたわね」
「輿入れなさったコハクさまは、大神官様が田舎から引き上げたご養女。本家の血が薄いのは明白……ああ、太陽神殿の横暴がなければ……」
「ええ本当に。こたびも、ごり押ししてきたのでしょう? 舞踊団結成に、太陽の巫女などいらなかったのに」
「すめら伝統の舞技を、知らぬ人たちなのにねえ……」
古代の舞技は、太陽神殿では廃れてしまった。巫女王のみ、就位後に会得する特殊な技とされている。噂によれば神霊力を多大に消費するもので、外来の風の型よりも結界などを顕現させるのが難しいそうだ。
しかし月神殿では、基礎を終えたすべての巫女に、ひと通り手ほどきするらしい。
長年月神殿にて舞を指南してきたメノウにしてみれば、太陽の巫女たちは、外来技しか覚えていない、低級者という位置づけなのだ。舞台の中央は任せられぬと思うのも、無理ないことかもしれなかった。
「まあたしかに、百臘さまは私たちの舞の指南を、星神殿ご出身の九十九さまに頼んでおりましたから。指南役に太陽の巫女を選ばなかったのは、太陽の舞が他に比べて見劣りすると、察していたのやも……」
船室で大人しく茶を飲むアカシが、そう気弱に言うと。リアン姫とミン姫はそんなことはないとひとしきり、太陽式の舞を援護した。
外来の型は、神霊力を発現させやすいが決して簡単ではない。花音はそうそう繰り出せる技ではないし、練度を高めるには、古い舞技同様、相当な修行を要するのだと。
「それに九十九さまに師事した結果、私たちの舞は太陽と星の折衷になっております。太陽式は……という括りは、正確ではありません。メノウ様は、私情が入りすぎていると感じます」
「大体にして、マカリ姫はそんなにすごい舞い手でしたの? 月の巫女たちの舞を見るかぎり、そんなに技術が高いとは感じられませんわ。あたくしも、メノウ様は身びいきしているとしか、思えませんわね」
マカリ姫――コハク姫は、舞の技で御所の火事を収めた。クナは無我夢中で覚えていないが、百臘さまによれば、「九十九の方がキレた」ほど、すさまじい技を駆使したという。
「マカリ姫は生きていると、月の人たちに教えたら……太陽神殿への怒りは、和らぐでしょうか?」
クナはおそるおそる想いを述べたけれど。アカシが返した答えに、うなだれるしかなかった。
「太陽の女の口から発せられるものを、月の女たちが信じてくれるとは思えません。もしだれかが心に止めても……真実を突き止めることはできますまい。それは隠され、守られています。公にばれることは、月神殿そのものの破滅を意味するのですから」
「どうにかして、恨みを消すことはできないんでしょうか。あたしたち、月の人たちと仲良くなることはできないんでしょうか」
「打ち解けるにはどうしたらよいか、見当もつきませぬ。私たちがいたから負けた……そのようなことにされぬとよいのですが……」
集団の舞においては、息を合わせることが不可欠だ。ひとつの生き物のように一体化せねば、躍動感も見事な風も生まれない。
色違いの巫女が仲良くなれず、ぎくしゃくしたままでは、舞の質が高まらないのではないか。
このままでは、勝てないのではないか……
我が身の「つきもの」以上に、クナは舞踊団のことが心配でならなくなった。
どうか滞りなく、舞踊祭が済んで欲しい。すめらの中枢が望む結果になって欲しい。
勝つことはきっと、九十九さまの遠征軍を助けることになる。ひいては、黒髪様を救うことにつながるのだから。
そのためなら、多少虐げられたとしても何の痛手になろうか。
クナは手を合わせ、心から祈った。
この舞踊団が、晴れて勝利を得ることを。
航行五日。北五州へ行くより二日短く、すめらの帝国舞踊団はレンディールへ至った。
巫女たちはメノウの指導のもと、船内で最終調整を行った。
演し物は、西方の人々にうけるよう、万国共通の古代神話をもとにしたもの。恋い焦がれる太陽神から逃げる、月女神の物語を披露することとなった。すめらの巫女装束をまといて舞い、観客から見れば、不思議な異国情緒を感じるようにするという。
中央で舞う月女さまの役には、当然のごとく、帝都月神殿の巫女が選ばれた。
独りで舞う見せ場にて、花音を連続で十回以上繰り出すという大役だ。
メノウが読み上げた配役表に、太陽の巫女たちはかろうじて入っていた。
四人で固まる船室に戻るや、リアン姫は不満のうめきをあげたものだ。
「舞台の後ろの波役とか! 完全にバカにされてますわよね」
「いっそ補欠で待機させてもらう方が、気が楽だったのですが……」
「アカシさま、聞いてまして? あの老巫女ときたら、月女さま役に髪を染めるよう指示してましたわよ。スミコそっくりになるよう、黒髪に!」
たしかにクナもメノウの囁きを耳にした。
メノウは元老院から、クナたちを必ず、中央で使えと命じられているのだろう。公報にとりあげられ、話題になった娘たちを。
だが彼女には、それはどうしても呑めぬことだったらしい。
「まったく姑息なことを! 私たちを使いたくなければ堂々と、使わなければいいんですわ!」
「リアン様に同感です。この舞踊団にとって、私たちは和を乱すもの。そうみなされています。アカシ様の仰る通り、いっそ出ない方がよい結果が出るかと」
「それでも端役で出すということは……負けたときの保険でしょうか」
どうやらアカシが心配したことになりそうだ。
メノウはもし認定を勝ち取れなかったら、クナたちに責任をなすりつけるつもりなのかもしれない。端役の通達は、舞台に立たなかったと訴えさせないための策のように思えてしまう。
「ああもう! むしゃくしゃしますわ! 船から降りたら、ぱーっと首都観光にでも繰り出したい気分!」
「リアン様、繰り出すなんてはしたないです。白鷹の城で、西洋の思考に毒されましたね?」
「はぁ? ミン様、すめらの女は、外に出なさすぎるんですわっ。観光するぐらい普通ですわよ。ふ・つ・う!」
リアン姫は絶対外へ出ると息巻いたのだが。船が着陸するや、皇帝舞踊団は首都フロリアーレの大使館に一直線。巫女たちは西洋風の石造りの館に入れられて、外出を一切禁じられた。
このまま祭の会期中、出番以外はずっと大使館に缶詰か。
クナたちはそんな不自由を覚悟したものの。この館に住まうすめらの大使は、実に鷹揚な人であった。長いこと西の空気に浸っているうち、すめらの古めかしい気風をほどよく忘れたらしい。
「今宵は前夜祭です。皇帝舞踊団のみなさまにおかれましては、ぜひ、中央広場にて開かれる式典に出席し、楽しんでくるがよろしい」
儀式を楽しめとはどういうことか。
支給されたそろいの千早を着込んだクナたちは、何台もの馬車で中央広場に運ばれた。
リアン姫に手を引かれ、固い石の感触のする地に降り立ったとたん。ぼぼんと盛大に花火の音が轟いた。祭りといえばの演出に、周囲から拍手があがる。
広場にはかなりの人々が集っているようだ。空に広がる火花は、ずいぶんさまざまな色形を成しているらしく、空に炸裂するたびどよめきが聞こえる。
ほどなく、とても調子の速い音楽がクナの真ん前から流れてきた。
「音楽団?」
前方には、舞台があるらしい。そこからひゅんひゅん、音の風が流れてくる。
この曲と、特徴ある艷やかな音色は、つい最近聞いたことがある。
ユーグ州の祝賀で、一番見事な演奏を披露した楽団がかもした音とそっくりだ。
「まあ、なんてことかしら。また極光楽団の演奏を聴けるなんて!」
「あ、やっぱり……!」
「スミコ、面白いものが配られてきましたわよ。これを顔につけてくださいですって」
「これって……お面?」
「そうよ。あなたはウサギ。あたくしはリス」
「お面をかぶって、どうするの?」
「こうするんですの!」
リアン姫が笑いながらクナの腕を引っ張る。あわてて動きに合わせたクナは、ハッとその足さばきが何か思い出した。
「西洋式の踊り?」
「そうですわ。ねえスミコ、またこの踊りを踊れるなんて嬉しいですわ。野外で舞踏会だなんてすてき!」
リアン姫はぐいぐい勇ましく、男性役の先導の動きをした。もしかして白鷹家の舞踏会でもこれをやったのかと、クナは半ば唖然としてその動きについていった。
一歩片足を下げて。踏み込んで。前に出て。一、ニ、三。一、ニ、三……
「ひゃ!」
突然かくんと、支えられていた背中を落とされたので、クナはリアン姫にしがみついた。
自然と片足が高く上がる。
「ちょ、リアンさま! 草履が……すっとびましたっ」
「あら、失礼。どこにいったかしら」
履き物は勢いよろしく、ずいぶん遠くへ飛んだようだ。ここにいろと広場中央の噴水の縁にクナを座らせ、リアン姫は失せ物を探しにいってくれた。
ぼぼんぼぼん、ひっきりなしに花火が鳴る。
周りの人いきれがすごい。どれだけの人がいるのだろう。踊る人々のうねりが頬を焼く。
白鷹の舞踏会よりも、笑い声や歓声が多い。とてもにぎやかだ――
「ねえウサギさん。このゾーリ、君のかな?」
りんと可愛らしい声が頭に落ちてきたので、クナは顔をあげた。歯切れのよい共通語だ。
声からすると女の子だろうか。ほのかによい香りが面前から漂ってくる。西方の、薔薇とかいう花の香りに似ているが、もっと上品だ。クナが片足をぷらぷらさせて座っているので、拾った物の持ち主がだれか、気づいてくれたらしい。
手探りで相手が差し出されたものを確かめると。相手は申し訳なさそうに声をひそめた。
「ごめん、目が見えないんだね。でも間違いなさげ?」
「はい。たしかにこれです。ありがとうございます」
「ねえ君……もしかして、こないだユーグ州公のお城で舞わなかった?」
「え……あ、はい。舞いました」
「やっぱりそうか。俺、見てたよ。すごく上手で……懐かしかった」
「なつ……?」
クナは相手の共通語に首を傾げた。懐かしいとは、どういうわけだろう。それに「俺」とは。こんなにかわいらしくて高い声なのに、男の子なのだろうか。
相手がかがむ気配がすると同時に、クナの足に草履が戻ってきた。履かせてくれたのだと気づき、慌ててまた礼を言おうとすると。耳元に、なんとも甘ったるいささやきが昇ってきた。
「ねえ……君の花音、もう一度見せて? 同じまっしろウサギのよしみでさ」
どうやら相手はクナと同じく、ウサギの面をつけているらしい。ねだってくるようにそっと腕を引っ張られたので、クナは躊躇しつつ立ち上がった。
「あの、ここは人がいっぱいなので、花音を舞うにはちょっと狭いですし、その……」
「そっか。極光の調べで君のを見たかったんだけど。じゃ、いいや。一緒に踊って」
「えっ……」
「あ、ごめん。ちゃんとお願いしないとだめだよね」
次の瞬間、クナの体はふわりと浮いた。
ただ手首をつかまれているだけなのに、なぜか魂が抜けたかのように体の重みがなくなった。
「どうか俺と踊ってください。花音を舞えるウサギさん」
たじろぐクナの体を、風が絡め取った。
それは力強くも柔らかな風で――
あっという間に、クナはその空気に引き寄せられていった。
いきなり摘まれて、香りを吸われる花のように。